映画『愛しのアイリーン』は、かなり厄介な作品です。
暴力、性欲、差別、親子の執着、国際結婚、貧困。登場人物たちは感情をむき出しにし、誰もが誰かを求めながら、その求め方を間違え続けます。
だからこそ、見終わったあとに残るのは「これは本当に愛の物語だったのか」という疑問ではないでしょうか。
しかし本作を最後まで見ると、題名が『愛しのアイリーン』である理由も見えてきます。
これは「美しい愛」を描いた映画ではありません。
むしろ、
愛し方を知らない人間たちが、欲望や執着や暴力の果てに、それでも誰かを愛してしまう物語
なのだと思います。
※以下、映画『愛しのアイリーン』の結末までネタバレを含みます。
『愛しのアイリーン』とはどんな映画なのか
2018年公開の『愛しのアイリーン』は、新井英樹の同名漫画を吉田恵輔監督が映画化した作品です。
主人公は、地方の山村で両親と暮らす42歳の宍戸岩男。
恋愛経験に乏しい岩男は、失恋をきっかけにフィリピンへ向かい、300万円を用意して花嫁探しに参加します。そこで出会ったのが、若いフィリピン人女性アイリーンでした。
岩男を演じるのは安田顕、アイリーン役はナッツ・シトイ。そして岩男の母・ツルを木野花が演じています。監督・脚本は『ヒメアノ~ル』『犬猿』の吉田恵輔です。
物語の入り口だけを見ると、「外国人花嫁を連れて帰ってきた中年男性と、その結婚を認めない母親」というホームドラマにも見えます。
ところが、この三角関係は次第に常軌を逸していきます。
そして重要なのは、岩男、アイリーン、ツルの誰ひとりとして、純粋な意味で「悪人」ではないことです。
三人ともただ、誰かに愛されたかった。
問題は、その愛し方を知らなかったことでした。
岩男はなぜ300万円を払ってまで結婚したのか
岩男の最大の特徴は、女性との関係を「交換」でしか考えられないことです。
自分に魅力がない。
恋愛経験もない。
女性から自然に選ばれる自信もない。
だから岩男は、お金を払えば結婚できる仕組みに飛び込みます。
ここには岩男の弱さがあります。
「自分自身を好きになってもらう」という恋愛の不確実性に耐えられないから、金銭という確実なものに置き換えようとするのです。
しかし、結婚相手を手に入れても岩男の不安は消えません。
むしろ、
「アイリーンは俺を愛しているのか。それとも金でここにいるだけなのか」
という疑問が、彼をさらに苦しめます。
自分から金銭で始まる関係を選んでおきながら、その関係が金銭で始まったことに傷ついている。
ここに岩男のどうしようもない矛盾があります。
アイリーンは岩男を愛していたのか
最初から恋愛だったとは言いにくいでしょう。
アイリーンにとって日本人との結婚には、自分だけでなくフィリピンにいる家族の生活も関係しています。
だから序盤の二人には、どうしても「夫婦」というより契約関係のような空気があります。
岩男もそれを感じています。
だからこそ体を拒絶されれば怒り、嫉妬し、金を持ち出す。
彼は妻の体だけでなく、「自分を愛している証拠」を求め続けているのです。
ところが物語の途中、大きな転換点が訪れます。
アイリーンをめぐる事件で岩男は塩崎を殺してしまいます。
もちろん殺人は正当化できません。
しかしアイリーンから見れば、この瞬間に初めて岩男は「金を払った男」ではなくなります。
自分のために取り返しのつかない一線を越えた人間になってしまった。
岩男がアイリーンを逃がそうとしても、彼女は残ります。
ここから二人の関係は変わっていきます。
アイリーン役のナッツ・シトイも、役として岩男に恋をしたと語っています。
つまり、始まりは打算だったとしても、その後まで偽物だったとは限りません。
むしろ本作の残酷さは、
偽物のように始まった関係の中に、本物の感情が生まれてしまうこと
にあります。
岩男がアイリーンを愛しているのに傷つける理由
では岩男はアイリーンを愛していたのでしょうか。
私は、愛していたと思います。
ただし、非常に幼い愛し方です。
岩男にとって、
愛することと所有することが分離していません。
アイリーンが他の男性と話せば嫉妬する。
自分だけを見てほしい。
自分を欲しがってほしい。
体を求めることも、自分が愛されていることを確認する手段になっています。
安田顕は岩男について、恋愛経験が乏しいため、自分がアイリーンをどれほど愛しているのか本人にもよく分かっていない人物だと説明しています。
岩男は「愛している」と感じれば感じるほど不安になるのです。
なぜなら、生まれて初めて失いたくないものを手にしてしまったからです。
だから束縛する。
だから疑う。
だから傷つける。
愛しているから優しくなるのではなく、
愛しているから怖くなる。
これが岩男という人物の悲劇なのでしょう。
母・ツルはなぜアイリーンをあれほど憎んだのか
本作でもっとも恐ろしい人物は、木野花演じるツルかもしれません。
しかしツルを単なる「意地悪な姑」として見ると、終盤の雪山が理解できなくなります。
ツルもまた岩男を愛しています。
むしろ愛しすぎています。
夫は老い、山村での生活も変化していくなかで、一人息子の岩男はツルにとって人生そのものになっていたのでしょう。
そこへ突然アイリーンが現れます。
しかも外国人で、言葉も文化も違う。
ツルにとってアイリーンは「息子の妻」以前に、
自分から岩男を奪っていく存在
なのです。
だから猟銃まで持ち出す。
アイリーンそのものを見ようとせず、「岩男を奪った女」としてしか見られません。
ところが皮肉なのは、ツルと岩男が非常によく似ていることです。
岩男はアイリーンを独占しようとする。
ツルは岩男を独占しようとする。
二人とも愛する相手を一人の人間として自由にするのではなく、自分のそばに縛ろうとしてしまいます。
つまりツルの異常な母性愛と岩男の異常な夫婦愛は、同じ根から生まれているのです。
ツル自身も「嫁」として傷つけられた女性だった
終盤、雪山へ向かう場面で重要になるのが、若いころのツルの記憶です。
ツル自身もかつてこの家へ「嫁」として入り、子どもを産む女性として扱われました。
苦しい出産の最中でさえ、姑から傷つけられる。
つまりツルは、自分が若いころ受けた暴力を、今度はアイリーンへ繰り返していたのです。
この構造が非常に残酷です。
被害者だった人間が、時間が経てば自動的に優しい人間になるわけではない。
自分がされたことを「嫁とはそういうものだ」と受け入れてしまえば、次の世代へ同じ暴力を渡してしまう。
ツルがアイリーンへ向ける差別や敵意の背景には、
家、血筋、嫁、出産という価値観に本人自身も閉じ込められてきた歴史
があります。
だからといって彼女の行為が許されるわけではありません。
ただ、彼女もまた最初から怪物だったのではないことが分かります。
岩男はなぜ雪山で死んだのか
塩崎を殺したあと、岩男の人生は崩れていきます。
愛するアイリーンを手に入れたはずなのに、殺人の罪から逃れることはできない。
周囲からの圧力も強くなり、自分の中の恐怖や嫉妬も抑えられなくなる。
そして岩男は姿を消し、雪山で死体となって発見されます。
ここで印象的なのが、岩男が木に自分の感情を刻みつけていることです。
最後になってようやく、彼は金でも性でも暴力でもなく、
「愛している」
という感情そのものを残そうとする。
しかし、それを直接アイリーンへ伝えることはできません。
岩男という人物を象徴するような最期です。
ずっと愛を求め続けた男なのに、
最後まで真正面から愛を伝えることができなかった。
なぜラストでアイリーンがツルを背負うのか
岩男の死を知ったツルは生きる意味を失います。
そしてアイリーンに、自分を雪山へ連れていくよう求めます。
ここで映画の主役は事実上、岩男からアイリーンとツルへ移ります。
吉田監督自身も、夏のパートでは岩男が物語を引っ張り、最後の冬ではツルが本性をさらけ出す構造であること、そしてツルとアイリーンがつながった場所に岩男の存在が感じられるようにしたと説明しています。
この場面でアイリーンは、あれほど自分を嫌っていたツルを背負います。
非常に重要な構図です。
前半ではツルがアイリーンを排除しようとしていました。
しかし最後には、そのアイリーンに命を預けている。
血のつながりはない。
国籍も違う。
言葉も完全には通じない。
それでもアイリーンはツルを背負う。
ここで初めてこの映画に、
所有ではない愛
が現れるのです。
岩男はアイリーンを所有しようとした。
ツルは岩男を所有しようとした。
しかしアイリーンは、ツルから何かを得ようとして彼女を背負うわけではありません。
ただ「死なせたくない」という気持ちで背負っている。
本作でもっとも暴力的な人物関係の最後に置かれているのが、実はもっとも静かな愛情なのです。
アイリーンが「子どもがいるかもしれない」と伝えた意味
雪山で死のうとするツルに対し、アイリーンは岩男との子どもがいるかもしれないと訴えます。
映画の段階では妊娠が明確に確定したというより、その可能性を伝える場面として見るのが自然でしょう。
しかしツルにとって重要なのは医学的な確定ではありません。
岩男が完全に消えたわけではない。
自分が愛してきた息子の何かが、この世界に残るかもしれない。
その可能性によって、ツルの中でアイリーンの意味が変わります。
「岩男を奪った女」だったアイリーンが、
「岩男を未来へつないでいるかもしれない人」
になる。
ここでようやく二人の女は、岩男を取り合う関係から抜け出します。
そしてその瞬間、岩男はもう二人の間にはいません。
だからこそ悲しいのです。
ラストの雪は希望なのか、絶望なのか
『愛しのアイリーン』のラストは、簡単に「救い」とは言えません。
岩男は死んだ。
ツルも死へ向かう。
アイリーンは異国の雪の中に残される。
彼女の未来が安泰になったわけでもありません。
それでも、完全な絶望とも言い切れません。
なぜならアイリーンの中には、岩男との時間が残っているからです。
吉田監督は原作に惹かれた理由について、「愛」が欲しかった場所とは別のところから舞い込んでくる物語だからだと語っています。
岩男は女から愛されたかった。
しかし彼を最も強烈に愛していたのは母・ツルでした。
ツルは息子を失いたくなかった。
しかし最後に彼女の命を抱えたのは、ずっと憎んでいたアイリーンでした。
アイリーンは家族を助けるため日本へ来た。
しかしそこで、本当に家族と呼べるような奇妙な関係を作ってしまった。
誰も、自分が欲しかった形では愛を手に入れていません。
それでも確かに愛は存在した。
そこが本作の核心なのだと思います。
タイトル『愛しのアイリーン』の意味
では、誰がアイリーンを「愛しい」と思っているのでしょうか。
もっとも分かりやすい答えは岩男です。
しかし、それだけではないでしょう。
このタイトルには、作品そのものがアイリーンへ向けている眼差しも感じられます。
アイリーンは当初、「フィリピン人の花嫁」として日本へやって来ます。
周囲からは国籍や立場で見られ、岩男からさえ一人の女性ではなく「自分の嫁」として扱われることがあります。
ところが物語が進むほど、最も生命力にあふれているのはアイリーンだと分かってきます。
怒る。
笑う。
泣く。
人を愛する。
そして最後には、ツルまで背負う。
原作者の新井英樹は、この作品について、さまざまなものを否定し尽くしたあとに残ったものを、仮に「愛」と呼ぼうとして描いた趣旨のコメントを残しています。
だから『愛しのアイリーン』という題名は、甘い恋愛映画のタイトルではありません。
欲望も金も差別も暴力もすべてさらけ出したあとに、
「それでも、この感情を愛と呼んでいいのではないか」
と問いかけるタイトルなのではないでしょうか。
まとめ|『愛しのアイリーン』は愛を美化しないからこそ、愛を描いている
『愛しのアイリーン』には、理想的な恋人も理想的な家族も登場しません。
岩男はアイリーンを愛しながら傷つける。
ツルは岩男を愛しすぎた結果、彼の人生を支配しようとする。
アイリーンもまた、最初から純粋な恋愛感情だけで日本へ来たわけではありません。
しかし、この映画はそれを理由に「だから愛ではなかった」と切り捨てません。
人間の感情はもっと汚く、矛盾している。
打算から始まった関係にも愛は生まれる。
憎んでいた相手を最後には背負うこともある。
自分が欲しかった人からは愛されず、思いもしなかった場所から愛が届くこともある。
だから本作が描いているのは、
「正しい愛とは何か」ではなく、「こんなものまで愛と呼べるのか」という問い
なのでしょう。
暴力と欲望でぐちゃぐちゃになった物語の最後に残るのは、雪の中のアイリーンです。
岩男もツルもいなくなる。
それでも彼らが誰かを求めた痕跡だけは消えない。
そう考えると『愛しのアイリーン』という優しい題名は、この凄惨な物語につけられた最大の皮肉であり、同時に最大の救いなのだと思います。

