※この記事には、映画『愚行録』(2017年)の結末を含む重大なネタバレがあります。映画で描かれる出来事と、人物の心理や演出についての本記事の解釈を分けて考察します。
他人の過去を調べる記者は、どこまで自分自身の過去から自由でいられるのでしょうか。
映画『愚行録』では、週刊誌記者の田中武志が、一家惨殺事件の関係者に話を聞いて回ります。しかし取材が進むにつれ、亡くなった夫婦だけでなく、証言者、そして聞き手である田中自身の秘密まで浮かび上がってきます。
本作の結末を理解するには、田向一家の事件、宮村淳子の殺害、田中兄妹の秘密を区別することが大切です。そのうえで冒頭とラストのバスを見比べると、この映画が最後まで答えを出し切らない理由が見えてきます。
『愚行録』の作品情報とあらすじ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 日本公開 | 2017年2月18日 |
| 監督 | 石川慶 |
| 脚本 | 向井康介 |
| 原作 | 貫井徳郎『愚行録』 |
| 上映時間 | 120分 |
| 主な出演 | 妻夫木聡、満島ひかり、小出恵介、臼田あさ美、市川由衣、松本若菜、中村倫也、眞島秀和 |
石川慶の長編映画監督デビュー作で、貫井徳郎の同名小説を映画化したミステリーです。映画.com
会社員の田向浩樹と妻、幼い娘が殺された事件は、犯人が分からないまま一年が過ぎていました。週刊誌記者の田中武志は、浩樹の同僚や夫婦の学生時代の知人を訪ね、取材を始めます。
一方、田中の妹・光子は、娘への育児放棄の疑いで逮捕されていました。一見別々に見える二つの出来事が、終盤でつながっていきます。gukoroku.jp
結末を整理|田向一家を殺した犯人は誰なのか
田向一家を殺したのは、田中の妹・光子です。
光子は大学時代、田向の妻である夏原友季恵と接点がありました。終盤の独白によって、光子が友季恵の家庭を見たこと、そして一家の殺害に及んだことが明かされます。
これとは別に、取材相手の宮村淳子を殺すのは兄・武志です。二人がそれぞれ異なる殺人に関わっていることを押さえると、物語を整理しやすくなります。mihocinema.com
ただし、犯人の名前が分かっても、人物の内面まで説明し尽くされたわけではありません。
なぜ光子は、友季恵本人だけでなく、その家族まで殺したのか。なぜ武志は、取材相手に突然暴力を向けたのか。本作は、その行為に至る背景を示しながら、一つの動機だけに回収することを避けています。
光子はなぜ田向一家を殺したのか
大学は人生を変える場所になるはずだった
光子には、父親から性的虐待を受けた過去があります。大学へ進んだ彼女は、それまでとは違う人生を望み、華やかな友季恵に憧れます。
しかし、友季恵を通して知り合う男性たちとの関係は、光子が望んでいたような、自分を大切にしてくれる関係にはなりませんでした。mihocinema.com
ここで重要なのは、憧れている人の近くにいられることと、その人と同じ扱いを受けられることが違う点です。
光子は華やかな世界へ近づけても、そこで一人の人間として尊重されるとは限らない。自分を変えようとする努力が、かえって他人に利用される機会を増やしてしまう。その落差が、彼女の学生時代にある痛ましさだと考えられます。
友季恵の家庭が、自分の望みを突きつける
その後、光子は子どもを産みますが、育児は彼女が思い描いていた幸福とは異なるものでした。そんななかで再会した友季恵には、夫と娘との家庭がありました。mihocinema.com
この再会は、光子にとって、昔の知人が幸せそうにしている場面以上の意味を持ったのでしょう。
自分も望んだはずの生活が、目の前には存在している。それなのに、自分はそこへたどり着けなかった。その隔たりを、友季恵の家庭が目に見える形で示してしまいます。
憧れと、自分の人生への絶望が重なったことが、犯行を読み解く一つの手がかりです。
ただし、これは光子の心理についての解釈です。彼女の経験を知ることと、一家の命を奪う行為に納得することは別に考える必要があります。幼い娘まで犠牲になった事実は、復讐という説明だけでは受け止めきれません。
武志はなぜ宮村淳子を殺したのか
宮村は再び武志に連絡し、友季恵によって人生を狂わされた人物として光子の話をします。彼女は、目の前の記者が光子の兄だとは知らずに、光子の経験や人となりを語ってしまうのです。
その話を聞いた武志は、宮村を殺害します。mihocinema.com
この場面には、少なくとも二つの読み方があります。
一つは、妹を傷つけ、見下すような語り方に怒りが生じたという読み方です。武志はそれまで聞き手の立場を保っていましたが、光子が話題になったことで、その距離を保てなくなったと考えられます。
もう一つは、宮村の証言が光子と田向一家を結びつけるため、その口を封じようとしたという読み方です。
ただし、映画は武志の動機を本人の説明によって確定していません。 怒りと秘密を守ろうとする意識が重なった可能性もあります。
同じ理由で、取材そのものを「最初から証拠隠滅のためだった」と断定するのも慎重であるべきでしょう。武志がいつ、どこまで妹の関与を把握していたかには、観客が考える余地が残されています。
むしろ、この殺害によって大きく変わるのは、武志を見る観客の立場です。人々の話を聞きながら事件を整理してくれる存在だと思っていた人物が、自分の事情のために他人の命を奪う。その瞬間、私たちは安心して物語を追うための足場を失います。
光子の子どもの父親は兄・武志なのか
終盤の情報を重ねると、父親は兄・武志だと読み取れる構成になっています。
手がかりになるのは、弁護士が兄妹の母親を訪ねる場面です。母親とのやり取りによって、父親から受けた性的虐待の話と、光子が今回の子どもを産んだ経緯を、そのまま結びつける見方が揺らぎます。
そこへ、光子が兄へ向ける特別な感情と、二人だけの秘密についての言葉が重なります。説明台詞で関係を言い切るよりも、観客に結びつけさせる形で、兄妹の秘密が示されるのです。mihocinema.com
この秘密が明らかになると、兄妹の関係も違って見えてきます。
光子にとって、武志は幼いころから自分を支えてくれた特別な存在でした。しかし、支え合ってきたことだけで、二人の関係を救いとして捉えることはできません。
外の世界で傷つくたびに、兄だけが信頼できる存在になる。その結びつきが、別の人との関係や新しい生活へ向かう可能性を狭めてしまったのではないでしょうか。
また、兄妹の秘密に注目するほど、光子の娘が一人の子どもであったことを見失いやすくなります。娘は、物語の謎を解くためだけの存在ではありません。大人たちの過去を背負わされ、十分な保護を得られなかった命です。その存在を考えると、本作を悲しい兄妹愛の物語だけで終えることはできません。
証言はどこまで信用できる?人物像が変わる理由
宮村と尾形は、同じ友季恵を違う人物として語る
宮村は友季恵について、周囲との関係を自分に有利に動かす人物として語ります。一方、宮村の元恋人・尾形は、宮村のほうが友季恵に嫉妬していたという見方を示します。
浩樹についても、同僚が惜しむ姿と、元恋人が明かす振る舞いには隔たりがあります。CinemaGene
ここで、後から聞いた証言を唯一の正解にしてしまうと、この映画の面白さを取り逃がします。
誰が話したかだけでなく、その人が相手とどのような関係だったかを考える必要があります。同じ行動でも、好意を寄せる人には魅力的に、傷つけられた人には身勝手に見えるからです。
映画が記録しているのは、亡くなった夫婦の情報と同時に、その夫婦について語ることで、自分をどう見せたいかという証言者の姿でもあります。
内部生と外部生の違いが示すもの
学生時代の場面には、系列校から進んだ内部生と、大学から入った外部生の隔たりが描かれます。
同じ大学に所属していても、家庭の経済力や人脈、それまでに身につけた振る舞いによって、集団の中での立場が変わる。入学できたことが、そのまま対等な関係の保証になるわけではありません。
石川慶監督も、作品の階級というテーマについて、日本では壁が目に見えにくいことに言及しています。CINEMA FACTORY
この構造があるからこそ、光子の憧れは切実になります。友季恵とのつながりは、友人が一人増えることだけでなく、別の人生への入口に見えたのかもしれません。
ただし、階級の違いだけですべての犯罪を説明することもできません。環境が人を追い詰める過程と、その人が他者に向けた行為の責任を、作品は同時に見せています。
冒頭のバスの意味|武志は席を譲らせたのではない
冒頭で武志は、バスの座席に座っています。他の男性客から高齢の女性に席を譲るよう促され、立ち上がりますが、その後、足が不自由であるかのように振る舞います。ところが降車後には、普通に歩き始めます。映画.com
つまり、武志は他人から席を奪ったのではありません。席を譲るよう注意された側が、相手に罪悪感を抱かせるように振る舞った場面です。
この小さな出来事は、本編の証言の構造とよく似ています。
座っている若い男性を見て、周囲は事情を知ったつもりになる。足を引きずる姿を見ると、その判断が反転する。さらに降車後の姿によって、観客の理解がもう一度変わるのです。
私たちは、見えた範囲の情報で他人を判断し、そのたびに正しい理解へ近づいたと思います。しかし、武志が見せているもの自体が演技なら、その判断の土台は簡単に崩れます。
この場面は武志の屈折を見せると同時に、他人について分かったつもりになる観客の見方も揺さぶっている、と考えられます。
ラストのバスで妊婦に席を譲った意味
終盤、武志はバスで妊婦に席を譲ります。冒頭のように他人から注意されるのではなく、自分から行動する点が違います。くらのすけの映画日記
この変化には、いくつかの読み方ができます。
まず考えられるのは、光子の出産や娘の死を経て、妊婦の存在が武志に特別な感情を呼び起こしたという解釈です。自分の身近にあった命を思い、小さな配慮として表れたのかもしれません。
一方、その親切を罪悪感の埋め合わせとして見ることもできます。目の前の相手に席を譲れても、それまでの行為を取り消すことはできません。
そして、より不穏なのは、武志が他人を殺すことも、見知らぬ人に親切にすることもできる人物として描かれている、という読み方です。親切が偽物だと決めつけなくても、その二つは一人の人間の中で共存してしまいます。
妻夫木聡はラストの表情について、観客に分かりやすく示すべきか悩み、監督と相談を重ねたと語っています。監督は、説明しすぎる表現を避けようとしていたといいます。アベマタイムズ
したがって、この場面を「改心した証拠」と言い切るのは難しいでしょう。本記事では、武志を善人か悪人かという一つの像に固定できないことを、最後にもう一度突きつける場面として捉えます。
タイトル『愚行録』が記録しているもの
「愚行録」を、愚かな行いの記録と読むと、そこには殺人だけでなく、日常の会話や人間関係で起こる行為も含まれます。
他人を自分より下に置く。相手の好意を利用する。傷つけた経験を軽い噂話として語る。そうした行為が、事件を調べる過程で次々に浮かび上がります。公式サイトも、羨望や嫉妬、見栄や駆け引きといった日常の愚行を作品の主題として紹介しています。gukoroku.jp
ただし、噂話と殺人の重さが同じになるわけではありません。異なる重さの行為を見せながら、それぞれの人物が自分のしたことをどう受け止めているかを問うところに、本作の厳しさがあります。
武志は他人の言葉を集める記者ですが、映画は、その聞き手自身の行動まで映します。記録する側だけが、記録の外に立っていられるわけではないのです。
『愚行録』を観終えたあとに残るのは、犯人が判明した安心よりも、人について語ることの難しさでしょう。
何をされたかは語れても、自分が何をしたかは語らない。他人の身勝手さには気づいても、自分の言葉が誰かを傷つけることには気づかない。その偏りを、映画は証言者にも、武志にも、そして物語を見ている私たちにも向けています。

