黒沢清監督の映画『CURE キュア』は、猟奇的な連続殺人事件を追う刑事と、記憶を失ったように振る舞う謎の男との対峙を描いた心理サスペンスです。
1997年の作品でありながら、現在観てもまったく古びていません。
むしろ、説明を極端に減らし、
「間宮とは何者だったのか」
「なぜ被害者にはX印が刻まれるのか」
「高部は最後にどうなったのか」
という疑問を観客の中に残したまま終わるため、鑑賞後の方が怖くなる映画ともいえるでしょう。
主演は役所広司。謎の男・間宮を萩原聖人が演じています。黒沢清監督自身が脚本も担当しました。
この記事では、『CURE』の結末までネタバレしながら、間宮の催眠、高部の変化、文江の死、そしてラストのウェイトレスが意味するものについて考察します。
※以下、映画『CURE』の重大なネタバレを含みます。
- 『CURE キュア』のあらすじ
- 間宮は何者だったのか?
- 間宮の催眠は本当に超能力なのか?
- 殺人犯たちはなぜ人を殺したのか?
- 「X」の傷にはどんな意味がある?
- 高部はなぜ間宮に強く反応したのか?
- 間宮は高部を「治療」していた?
- 高部はなぜ間宮を殺したのか?
- 蓄音機の音声は何だったのか?
- 文江を殺したのは誰?
- ラストの高部はなぜ穏やかなのか?
- ラストでウェイトレスが包丁を取る意味
- 高部は間宮の後継者になった?
- なぜ間宮は高部を後継者に選んだのか?
- 間宮は悪人だったのか?
- 本当に怖いのは「催眠」ではない
- 『CURE』というタイトルの本当の意味
- 『CURE』のラストを考察|高部の中に間宮は生き続ける
- まとめ|『CURE』が描いたのは「人間の中に最初から存在する怖さ」
『CURE キュア』のあらすじ
東京で奇妙な殺人事件が相次ぎます。
犯人はすぐに判明します。
しかし不可解なのは、犯人たちに明確な殺人動機がないことでした。
さらに、犠牲者の首元には共通して大きな「X」の傷が刻まれています。
事件を担当する刑事・高部賢一は、犯人たちが事件直前にある男と接触していたことに気付きます。
その男が、間宮邦彦です。
間宮は自分が誰なのか、どこから来たのかすら分からないような態度を取り、
「ここ、どこ?」
「あなた、誰?」
と同じような質問を繰り返します。
ところが彼と話した人間は、やがて自分の心の奥に隠していた感情を露わにし、殺人へと向かっていきます。
Criterion Collectionも、本作を「それぞれ異なる人物による、一見動機のない殺人」と、それを追う高部と謎の記憶喪失者との対決を描く作品として紹介しています。
そして高部自身もまた、間宮との対話によって少しずつ変化していきます。
間宮は何者だったのか?
間宮は本当に記憶喪失だった?
まず大きな疑問が、
間宮は本当に記憶喪失だったのか
という点です。
おそらく、完全な記憶喪失ではありません。
彼は元心理学を学んでいた人物であり、催眠に関する知識を持っています。
つまり、
「自分が誰なのか分からない」
という態度そのものが、相手の心理状態を崩すための技術だった可能性があります。
普通の会話では、
質問する人=主導権を握る人
質問される人=答える人
という関係ができます。
しかし間宮はこれを逆転させます。
高部が質問しても答えず、逆に、
「あなたは誰?」
「奥さんは?」
と質問を返す。
いつの間にか刑事である高部の方が、自分について語らされる側になっています。
間宮が操っているのは、人間の身体というより、
会話の主導権
なのです。
間宮の催眠は本当に超能力なのか?
作中では、水の動きや炎などを利用しながら、間宮が相手を催眠状態へ導いていきます。
しかし『CURE』が面白いのは、
「間宮には超能力がある」
とは最後まで明言しないところです。
批評家Chris Fujiwaraも、間宮の能力には合理的な説明が存在する可能性を残しながら、作品そのものが日常と超自然の境界を進んでいると論じています。
つまり、本当に恐ろしいのは催眠術そのものではありません。
間宮は、人間の中に存在しなかった殺意を新しく植え付けているのではない。
むしろ、
もともと存在していた感情を表面へ引きずり出している
と考えた方が、『CURE』という映画には合っています。
殺人犯たちはなぜ人を殺したのか?
被害者を殺した人々は、一見すると普通の人です。
教師。
警察官。
医師。
社会的にはきちんと生活しているように見える人物たちです。
しかし、その内側には不満や抑圧が存在しています。
Criterionの論考でも、本作の少なくとも複数の殺人の背景には、長期間蓄積された恨みや不満が示唆されていると指摘されています。
間宮はその感情を見つけ、
「本当はそうしたかったんじゃないのか」
とでも言うように解放する。
だから犯人たちは殺人後、
「なぜ殺したのか分からない」
という状態になります。
理性では説明できない。
けれど、心のどこかには存在していた。
ここに『CURE』最大の恐怖があります。
「X」の傷にはどんな意味がある?
『CURE』でもっとも印象的なモチーフが、
X
です。
殺害された人々には、首から胸付近にかけて大きなX型の傷が付けられています。
Xは単なる犯人のサインではありません。
私は、このXには大きく二つの意味があると考えます。
①人間としての「人格」を消す印
Xには一般的に、
「否定」
「削除」
「消去」
というイメージがあります。
つまり被害者にXを付ける行為とは、
その人物の存在を消す行為
とも解釈できます。
Criterionの論考でも、このXは個人性の消去を示すものとして分析されています。
間宮による催眠も同じです。
教師。
医師。
警察官。
夫。
妻。
そうした社会的な肩書きを剥がしていく。
そして最後に残る、
「その人間の欲望」
だけを露出させる。
Xは、その人格が消されたことを示す印なのではないでしょうか。
②心の奥にある殺意を表す印
もう一つは、
抑圧された感情の表面化
です。
普段、人間はさまざまな感情を抑えながら生きています。
腹が立っても殴らない。
嫌いな相手がいても殺さない。
家族に不満があっても生活を続ける。
それによって社会は成り立っています。
間宮は、その蓋を外します。
その結果として現れるものがXです。
だからXとは、間宮のマークというより、
人間の中に存在する破壊衝動の印
なのかもしれません。
高部はなぜ間宮に強く反応したのか?
高部には妻・文江がいます。
文江は精神的に不安定な状態にあり、高部は仕事だけでなく家庭でも大きな負担を抱えています。
もちろん高部は妻を大切にしています。
しかし同時に、
「もう疲れた」
という感情もある。
ここが重要です。
間宮は、高部自身も認めたくない感情を見抜きます。
Criterionの論考でも、高部は妻の病状が悪化していくことによる負担から、間宮の影響を受ける危険性が高まっていく人物として分析されています。
つまり、高部が間宮を憎む理由は、
間宮が犯罪者だからだけではありません。
自分の中の見たくない部分を見抜かれてしまったからです。
間宮は高部を「治療」していた?
ここでタイトル、
CURE
の意味が重要になります。
Cureには、
「治療する」
「治す」
「癒やす」
といった意味があります。
普通に考えれば、殺人を誘発する間宮は人間を壊している人物です。
ところが間宮自身の視点から見ると逆です。
人間は社会の中で、
「こうあるべきだ」
という役割を演じています。
医師なら医師らしく。
教師なら教師らしく。
刑事なら刑事らしく。
夫なら夫らしく。
その結果、本当の感情を押し殺す。
間宮は、その抑圧から人々を解放している。
だから彼にとっては、
催眠=治療
なのです。
殺人を犯した人間は社会的には壊れます。
しかし間宮からすれば、
「ようやく本当の自分になった」
ことになります。
非常に皮肉なタイトルです。
高部はなぜ間宮を殺したのか?
終盤、高部は間宮を追って廃墟へ向かい、最終的に彼を撃ちます。
一見すれば、
「刑事が犯人を追い詰めた」
場面です。
しかし実際には、ここで事件が解決したようには見えません。
むしろ逆です。
間宮が死んだ瞬間、高部の変化が完成した
ように見えます。
高部は間宮という「先生」をもう必要としなくなった。
だから殺した。
そう考えると、間宮の死は敗北ではありません。
自分の役割を高部へ引き継いだという意味では、
間宮の勝利だった可能性さえあります。
蓄音機の音声は何だったのか?
間宮を追った高部は、古い建物の中で古い録音を聞きます。
それは催眠術と関係していると思われる音声です。
作中には、明治時代の催眠術師にまつわる映像や資料も登場します。Criterionの論考でも、古い映像に登場する催眠術師とXのジェスチャーが、本作の重要なモチーフとして取り上げられています。
この場面を、
「高部が最後の催眠を受けた」
と解釈することもできます。
しかし個人的には、
高部はすでにその前から変わり始めていた
と考えます。
録音は高部を突然別人にしたのではない。
高部の中ですでに始まっていた変化を、最後に完成させただけなのではないでしょうか。
文江を殺したのは誰?
終盤、妻・文江の死が示されます。
ここについて映画は、犯人を明確には説明しません。
そのため複数の解釈が可能です。
もっとも重要なのは、
高部自身が文江の死に関係している可能性
でしょう。
高部は妻を愛しています。
しかし同時に、妻との生活に疲弊していました。
間宮は、その感情を徹底的に刺激しています。
つまり高部の中には、
「妻から解放されたい」
という、本人が認めることのできない感情が存在していた可能性があります。
間宮の「治療」によって、その感情が解放された。
そう考えると、文江の死はラストの高部の変化と強く結びつきます。
ただし映画は、高部が直接殺した瞬間を描いていません。
Criterionの論考でも、高部が最終的に妻を殺した可能性は示されつつ、明確にはされていないとされています。
したがって、
「高部が文江を殺した」と断定するより、「そう考えさせるように映画が作られている」
と考えるべきでしょう。
ラストの高部はなぜ穏やかなのか?
そして『CURE』最大の謎が、最後のレストランです。
高部は一人で食事をしています。
ここで注目したいのは、
高部が妙に落ち着いていること
です。
以前の高部は常に疲れ、苛立ち、追い詰められていました。
ところが最後の高部には、それがありません。
CriterionのChris Fujiwaraも、最後の高部が以前とは異なり落ち着いて食事を終えていることを重要な変化として捉えています。
高部は、
妻。
事件。
間宮。
自分自身。
あらゆるものに苦しんでいました。
ところが最後には、その苦しみから解放されたように見える。
つまり、
高部は「CURE=治療」されてしまった。
だから穏やかなのです。
しかし、その治療とは一般的な意味での幸福ではありません。
人間として守っていた倫理や抑制そのものを失った結果の平穏です。
ここが恐ろしいところです。
ラストでウェイトレスが包丁を取る意味
映画の最後。
高部に料理を運んだウェイトレスが厨房へ戻ったあと、包丁へ手を伸ばすような動きを見せます。
ここで映画は終わります。
なぜ彼女は包丁を取ったのでしょうか。
もっとも有力なのは、
高部が間宮と同じ能力を持つようになった
という解釈です。
高部とウェイトレスの間に、間宮が行っていたような長い催眠シーンはありません。
それでも彼女は殺人へ向かっているように見える。
もしそうなら、高部は間宮以上の存在になっています。
高部は間宮の後継者になった?
私は、ラストはかなり強く、
高部が間宮の役割を引き継いだ
ことを示唆していると考えます。
ただし「超能力が高部へ移った」という単純な話ではありません。
重要なのは、思想です。
間宮が行っていたのは、
「人間の本音を解放すること」
でした。
そして最後の高部は、その原理を完全に理解した。
もはや水も炎も長い会話も必要ありません。
相手の中にあるものを少し刺激するだけでいい。
それがラストのウェイトレスへとつながっているのではないでしょうか。
なぜ間宮は高部を後継者に選んだのか?
では、なぜ高部だったのでしょう。
それは高部が、
もっとも強く自分を抑圧していた人物だったから
ではないでしょうか。
刑事として犯罪者を捕まえる。
夫として妻を支える。
社会人として冷静に振る舞う。
高部は「正しい人間」であり続けようとしています。
だからこそ、その内部には強烈なストレスが蓄積しています。
間宮にとって、高部は理想的な対象だった。
社会的には非常にまともなのに、心の中には巨大な空洞がある。
間宮はそこに入り込んだのです。
間宮は悪人だったのか?
もちろん、一般的な倫理から考えれば間宮は明らかに危険な人物です。
しかし映画は、間宮を典型的な殺人鬼として描いていません。
彼自身が直接殺すことより、
他人の中にある殺意を引き出す
ことの方が重要です。
つまり間宮は、
悪を生み出す人物ではありません。
すでに存在している悪を見せる人物
なのです。
だからこそ怖い。
もし間宮だけが異常なのであれば、間宮を殺せば事件は終わります。
しかし、
「誰の中にも間宮が引き出せる何かが存在する」
のであれば、事件は終わりません。
本当に怖いのは「催眠」ではない
『CURE』を超能力映画として考えると、
「どうやって催眠をかけたのか」
が重要になります。
しかし、本作の恐怖はそこではありません。
普通の人間が、
普通に働き、
普通に会話し、
普通の生活を送っている。
その裏側で、
怒り。
嫉妬。
憎悪。
疲労。
殺意。
さまざまなものを抱えている。
間宮はそれを表に出しただけです。
だから本当に怖いのは、
間宮ではなく、間宮によって暴かれる人間の内側
なのです。
『CURE』というタイトルの本当の意味
タイトルを改めて考えてみましょう。
CURE=治療。
誰が治療されたのでしょうか。
私は、
最後にもっとも完全に「治療」された人物は高部だった
と考えます。
妻への責任。
刑事としての責任。
社会のルール。
善悪。
それらから解放された高部は、最後のレストランで驚くほど穏やかです。
彼は自由になった。
しかしその自由は、
人間社会の倫理からの自由でもあります。
だから『CURE』というタイトルは恐ろしい。
治ることが、
必ずしも良いことではない。
むしろ、
治ってはいけないものまで治してしまう。
それが間宮の「CURE」だったのです。
『CURE』のラストを考察|高部の中に間宮は生き続ける
『CURE』の結末では、間宮は死にます。
普通のサスペンス映画なら、
「犯人死亡、事件解決」
です。
しかし本作では、そこから本当の恐怖が始まります。
間宮という人間は死んだ。
けれど、間宮が行っていたことは高部へ受け継がれたかもしれない。
そして最後のウェイトレスへ。
さらにその次の誰かへ。
そう考えると、『CURE』には明確な終わりがありません。
間宮は一人の殺人鬼だったのではなく、
人間の中に隠れているものを表面化させる「きっかけ」
だったからです。
まとめ|『CURE』が描いたのは「人間の中に最初から存在する怖さ」
『CURE』は、連続殺人事件を描いたサスペンスでありながら、最後まで犯人の能力や事件の仕組みを明快には説明しません。
しかし、それこそがこの映画の魅力です。
間宮が人々を狂わせたのか。
それとも、人々はもともと狂気を抱えていたのか。
高部は催眠を受けたのか。
それとも、自分自身の欲望を受け入れただけなのか。
文江を殺したのは高部なのか。
ウェイトレスは本当に誰かを殺そうとしていたのか。
映画は答えを確定させません。
だからこそ、鑑賞後も恐怖が残ります。
私がもっとも重要だと思うのは、
「間宮によって人間が別人になる」のではなく、「間宮によって本来隠していた自分が現れる」
という点です。
そう考えると、ラストの高部の穏やかな表情もまったく違って見えてきます。
彼は壊れたのではありません。
間宮の価値観からすれば、
ようやく「治った」のです。
そして、その治療が次の人間へ広がっていくことを示して、『CURE』は終わります。
間宮という怪物を倒しても、人間の内側にあるものまでは倒せない。
そこにこそ、公開から長い年月が経っても色褪せない『CURE』最大の恐怖があるのではないでしょうか。

