妻が突然死んだ。
しかし、夫は泣けなかった。
映画『永い言い訳』が描くのは、大切な人を失った悲しみというよりも、**「失ってから初めて、その人との関係を考え始めた男」**の物語です。
主人公の衣笠幸夫は決して好感を持ちやすい人物ではありません。
妻が旅行に出ている間に不倫し、妻の訃報を聞いても涙を流せず、世間の前では「妻を失った悲劇の作家」を演じる。
ところが、同じ事故で母親を失った子どもたちと暮らすようになったことで、幸夫の中に少しずつ変化が生まれていきます。
なぜ幸夫は妻・夏子の死を悲しめなかったのでしょうか。
なぜ他人の子どもたちとの生活が、彼を変えたのでしょうか。
そしてタイトルは、なぜ「長い言い訳」ではなく**『永い言い訳』**なのでしょうか。
この記事では、ラストまでのネタバレを含めて考察します。
『永い言い訳』作品情報
『永い言い訳』は、西川美和が自身の同名小説を脚本・監督して映画化した2016年の作品です。
主人公・衣笠幸夫を本木雅弘、妻の夏子を深津絵里、同じ事故で妻を失う大宮陽一を竹原ピストルが演じています。映画は2016年10月14日に公開されました。
人気作家「津村啓」として活動する衣笠幸夫は、美容師の妻・夏子と長年暮らしていました。
しかし夫婦関係はすでに冷え切っています。
そんなある日、夏子は親友と旅行に出かけ、その途中でバス事故に遭い死亡します。
しかも事故が起きたとき、幸夫は自宅で不倫相手と過ごしていました。
妻を失ったにもかかわらず、幸夫には悲しみが湧いてきません。
一方、同じ事故で妻を亡くした大宮陽一は激しく悲しみます。
やがて幸夫は、陽一の息子・真平と幼い娘・灯の世話をするようになっていきます。
幸夫はなぜ妻の死を悲しめなかったのか
本作で最も印象に残るのは、幸夫が妻の死に涙を流せないことです。
普通なら、
「実は妻を愛していなかったから」
と考えたくなります。
しかし『永い言い訳』は、それほど単純な物語ではありません。
幸夫が悲しめない最大の理由は、夏子を愛していなかったことではなく、夏子との関係を考えることそのものを長い間やめていたからではないでしょうか。
結婚生活が長くなるうちに、夏子は幸夫にとって「愛する相手」ではなく、「そこにいるのが当然の人」になっていました。
愛しているのか。
もう愛していないのか。
自分は妻に何を望んでいるのか。
そんなことすら考えない。
つまり幸夫が失ったのは、愛していると自覚していた妻ではありません。
失う可能性を一度も真剣に考えていなかった日常そのものなのです。
だから、事故直後の幸夫は何を悲しめばいいのか分からない。
悲しみより先に空白がやってきます。
「泣けない=愛していない」ではない
本作のおもしろさは、幸夫と大宮陽一を対照的に描いているところにもあります。
陽一は妻を失って激しく取り乱します。
泣き、怒り、残された子どもたちを抱えながら必死に生きていく。
対して幸夫は、ほとんど泣きません。
一見すれば、
陽一=妻を愛していた夫
幸夫=妻を愛していなかった夫
という構図に見えます。
しかし西川美和監督は、そんな単純な優劣を描こうとしているわけではないでしょう。
人間の悲しみ方は一つではありません。
幸夫の場合、夏子の死そのものよりも遅れて、
「あのとき自分は何をしていたのか」
「なぜもっと彼女を見なかったのか」
という後悔が襲ってきます。
つまり彼の悲しみは、事故と同時には始まりません。
他人との生活を経験し、自分が失ったものの大きさを理解したところから、ようやく始まるのです。
『永い言い訳』は、「妻を失った男が立ち直る映画」というより、
妻を失ってしばらく経ってから、ようやく妻を失ったことに気づく男の映画
といったほうが近いのかもしれません。
幸夫はなぜ大宮家の子どもたちを世話したのか
幸夫は、陽一の息子・真平と娘・灯の世話を買って出ます。
しかし最初から純粋な善意だけだったとは言い切れません。
むしろ幸夫には、
「誰かに必要とされたい」
という欲望があったように見えます。
妻を失っても泣けない。
作家として成功していても、満たされない。
テレビの前では悲劇の夫を演じている。
幸夫の生活には、どこか現実感がありません。
そんな男にとって、子どもたちは初めて「具体的に自分を必要とする存在」になります。
食事を作る。
保育園へ迎えに行く。
勉強を見る。
一緒に遊ぶ。
これまで自分のことばかり考えていた幸夫が、否応なく誰かのために時間を使うようになります。
文藝春秋の西川美和へのインタビューでも、幸夫が真平や灯の世話をし、料理や保育園の送迎をしながら新しい関係を築いていくことが、本作の重要な部分として語られています。
重要なのは、子どもたちが幸夫を「立派な人間」に変えたわけではないことです。
ただ幸夫は初めて、
自分の外側にいる誰かの生活に責任を持つ
という経験をしたのです。
子どもたちは幸夫の「贖罪」だったのか
幸夫が大宮家を手伝う姿を見ていると、夏子への罪悪感を埋め合わせているようにも見えます。
妻が死んだとき自分は不倫していた。
妻には何もしてやれなかった。
だから別の家族を助ける。
そう考えると、子どもたちとの生活は一種の贖罪にも見えます。
ただし、ここにも幸夫の自己中心性があります。
誰かの役に立つことで、
「自分はそれほど悪い人間ではない」
と思いたい。
子どもたちに慕われることで、
「自分には価値がある」
と確認したい。
つまり幸夫は、他人を愛することを覚えながら、同時に他人を自分のためにも利用しています。
しかし、そこがこの映画の人間観のおもしろいところです。
人間の善意は、必ずしも100%純粋ではありません。
誰かを助けたい。
同時に、自分も救われたい。
その二つは矛盾せず、同時に存在することがあります。
『永い言い訳』は、「純粋な善人にならなければ他人を愛せない」というきれいごとを描きません。
自分勝手な人間でも、誰かと関わることで少しずつ変わることはできる。
幸夫の変化は、その程度の小さなものなのです。
幸夫はなぜ再び子どもたちを傷つけるのか
ところが幸夫は、そのまま理想的な父親代わりになるわけではありません。
子どもたちとの生活が安定してくるにつれ、幸夫の中には別の感情が生まれます。
それは、
「自分が必要とされなくなることへの恐怖」
です。
ここで彼の善意に隠れていたものが見えてきます。
幸夫は子どもたちを救っているつもりでした。
しかし実際には、子どもたちに救われてもいた。
必要とされることで、彼は自分の存在価値を感じられていたのです。
だからその関係が終わりそうになると、素直に喜べない。
そこで再び自己中心的な幸夫が顔を出します。
この展開があるからこそ、『永い言い訳』は安易な更生物語になっていません。
人間は、一度何かに気づいたからといって突然人格者になるわけではありません。
変わったと思った翌日に、また同じ失敗をする。
誰かを大事にしたいと思いながら、その人を傷つける。
幸夫の姿には、そんな人間の不格好さがあります。
夏子の残した言葉が幸夫に突きつけたもの
夏子が亡くなったあと、幸夫は彼女が生前に抱えていた感情と向き合うことになります。
そこで重要なのは、夏子が幸夫の知らないところで、彼との関係について考えていたという事実です。
幸夫にとって夏子は「いつもそこにいる妻」でした。
しかし当然ながら、夏子にも幸夫とは別の人生があり、別の感情があります。
幸夫の最大の罪は、不倫そのものだけではないのかもしれません。
長い間、夏子を一人の「他者」として見ていなかったこと。
それこそが、本作の核心ではないでしょうか。
夫婦だから分かっている。
何年も一緒にいるから分かっている。
言わなくても分かっている。
幸夫はそう思っていたのかもしれません。
しかし人間は、どれだけ長く一緒にいても完全には理解できません。
だからこそ、相手を理解しようとし続ける必要があります。
幸夫は、その努力をやめていました。
そして夏子が死んだあとになってから、ようやく彼女を知ろうとし始めるのです。
「人生は、他者だ」の意味
物語の終盤で示される、
「人生は、他者だ。」
という言葉は、『永い言い訳』全体を象徴しています。
西川美和監督自身も、本作を書いていく過程で「他者」を強く意識したと語っています。
一人で作品を書く孤独の中でも、自分という人間そのものが、これまで出会った誰かとの関係によって作られている。その実感が作品につながっていったと説明しています。
幸夫は物語の冒頭では、自分だけで完結している人間です。
自分の仕事。
自分の評価。
自分の恋愛。
自分の不満。
世界の中心には常に自分がいます。
しかし真平や灯、陽一と関わることで、自分一人では手に入らない感情を知っていきます。
面倒くさい。
傷つけられる。
思い通りにならない。
それでも、誰かがいるから嬉しい。
西川美和監督は別のインタビューでも、他人との関係には良いことも悪いこともあるが、それ自体が人生なのだという趣旨を語っています。
つまり「人生は、他者だ」とは、
人生を豊かにしてくれるのは素敵な人間関係だ
という単純な意味ではありません。
むしろ、
人間は他者によって喜び、他者によって傷つき、それでも他者なしには自分自身を知ることすらできない
という意味なのでしょう。
ラストで幸夫が夏子のハサミを手に取る意味
『永い言い訳』の冒頭では、美容師である夏子が幸夫の髪を切っています。
そこには、長年連れ添った夫婦の日常があります。
しかし幸夫は、その日常の価値に気づいていません。
そして映画の最後、幸夫は夏子が使っていたハサミを手に取ります。冒頭とラストを「ハサミ」で結ぶ構成になっているのです。
この場面は、夏子がいないことを幸夫がようやく現実として受け入れた瞬間と考えられます。
かつて夏子が髪を切ってくれることは、幸夫にとって何でもない日常でした。
しかしもう、その日常は二度と戻りません。
失ったものは取り戻せない。
謝ることもできない。
「今までありがとう」と伝えることさえできない。
だから幸夫にできるのは、夏子の不在を抱えたまま生きていくことだけです。
この映画は、死者との関係が死によって完全に終わるとは考えていません。
むしろ死んだあとも、
「あのとき、なぜあんなことを言ったのだろう」
「もっと大切にすればよかった」
という問いは残り続けます。
夏子のハサミは、幸夫にとってもう答えてくれない相手との関係を抱えて生きていくための象徴なのではないでしょうか。
なぜタイトルは「長い」ではなく『永い言い訳』なのか
そして最も重要なのがタイトルです。
普通なら「長い言い訳」と書くところを、本作は『永い言い訳』としています。
「長い」が時間や距離の長さを表す言葉だとすれば、「永い」にはどこか終わりの見えなさが感じられます。
幸夫の言い訳には、明確な終着点がありません。
妻を大切にできなかった理由。
不倫していた理由。
死んだ妻を悲しめなかった理由。
子どもたちに近づいた理由。
そして、子どもたちを傷つけてしまった理由。
どれだけ説明しても、過去は変わりません。
しかも本当に言葉を伝えたい夏子は、もうこの世にいません。
だから幸夫の言い訳は、終わることができない。
夏子に答えてもらうことも、許してもらうこともできないからです。
『永い言い訳』とは、単に幸夫が言い訳ばかりする男だから付けられたタイトルではないでしょう。
人は、大切な誰かを失ったあと、その人に言えなかった言葉を心の中で何度も繰り返しながら生きていく。
その終わりのない時間そのものが、「永い」という一文字に込められているように思えます。
『永い言い訳』は「改心する男」の物語ではない
映画を最後まで観ても、幸夫が立派な人間になったとは言えません。
おそらくこれからも失敗するでしょう。
誰かを傷つけるかもしれません。
また自分のことばかり考える日もあるでしょう。
しかし、それでいいのだと思います。
西川美和監督は、幸夫を善人に変えることを物語のゴールにはしていません。
彼が手に入れたのは、
「自分一人で生きているわけではない」と知ること
だけです。
しかし幸夫にとって、その気づきは決定的でした。
夏子との結婚生活では、それを理解できませんでした。
夏子を失い、真平や灯と出会い、彼らを大切に思い、そしてまた傷つける。
その繰り返しの中で、ようやく幸夫は「他者と生きる」ということを知ります。
だから本作の再生は、劇的ではありません。
完全に立ち直るわけでもない。
許されるわけでもない。
ただ、昨日より少しだけ他人を見られる人間になる。
『永い言い訳』が描いているのは、その程度の、しかし人間にとってはとても大きな変化なのだと思います。
まとめ|人は失ってから、その人を愛し始めることがある
『永い言い訳』で最も残酷なのは、幸夫が夏子の死後になって初めて、彼女について真剣に考え始めることです。
生きている間には向き合わなかった。
いなくなってから、知りたくなる。
大切にしなかった。
失ってから、大切だったと気づく。
しかし現実でも、そういうことは珍しくないのではないでしょうか。
人はいつでも「次」があると思っています。
明日話せばいい。
今度謝ればいい。
いつか感謝を伝えればいい。
けれど、『永い言い訳』では、その「いつか」が突然失われます。
だからこの作品が突きつけているのは、死についての教訓というより、
「まだ隣にいる人を、今きちんと見ているか」
という問いなのでしょう。
幸夫は夏子が死んだ瞬間には泣けませんでした。
それでも、他者と生きる時間を通して、遅すぎる形で夏子との関係を取り戻していきます。
失ってから始まった愛には、相手からの答えがありません。
だから終わらない。
だから忘れられない。
そして、おそらくその後悔を抱えて生き続けることこそが、
幸夫に残された「永い言い訳」なのです。

