映画『朝が来る』考察|ひかりはなぜ朝斗を手放した?ラストとタイトルの意味を解説【ネタバレ】

「子どもを返してほしいんです。それが駄目なら、お金をください」

この言葉だけを聞けば、片倉ひかりは一度手放した子どもを利用しようとする身勝手な母親に見える。

しかし映画『朝が来る』が描いているのは、そんな単純な物語ではない。

なぜ14歳の少女は我が子を手放さなければならなかったのか。

なぜ数年後、佐都子の前に現れたひかりは、かつての面影を失っていたのか。

そしてタイトルの「朝が来る」とは、誰にとっての朝なのだろうか。

本作を読み解く鍵は、**「子どもを産んだことを、なかったことにされた少女」**というひかりの人生にある。

ここでは映画『朝が来る』について、ラストまでのネタバレを含めて考察する。

※以下、映画の結末に触れています。

『朝が来る』作品概要

『朝が来る』は、辻村深月の同名小説を河瀨直美監督が映画化した2020年公開の作品。

栗原佐都子を永作博美、夫の清和を井浦新、朝斗の産みの母である片倉ひかりを蒔田彩珠が演じている。

不妊治療の末に実子を持つことを断念した佐都子と清和は、特別養子縁組によって男の子を迎える。その子が朝斗だった。

朝斗を産んだのは、当時14歳だった片倉ひかり。

それから6年後、栗原家に「片倉ひかり」を名乗る女性から電話がかかってくる。

「子どもを返してほしい。無理ならお金が欲しい」

かつて会った少女とはあまりにも印象の違う女性を前に、佐都子は疑念を抱く。

そこから物語は、現在の栗原家と、朝斗を産んでから人生を大きく変えていったひかりの過去を交差させていく。

映画は第73回カンヌ国際映画祭「オフィシャルセレクション2020」に選出され、第93回アカデミー賞国際長編映画賞部門の日本代表作品にも選ばれた。

ひかりはなぜ朝斗を手放したのか

まず重要なのは、ひかりが「子どもをいらないと思ったから」朝斗を手放したわけではないことだ。

ひかりは中学生で妊娠する。

周囲の大人たちから見れば、14歳の少女が子どもを育てることは現実的ではない。

学校はどうするのか。

将来はどうするのか。

経済的にどうやって子どもを育てるのか。

ひかりの両親が出産を公にせず、養子縁組という方法を選んだことには、大人の判断として理解できる部分がある。

河瀨直美監督自身も、ひかりの母親について、娘の将来を考え、全国から養子縁組の仕組みを調べたという意味では「親としては完璧な対応」とも捉えられると語っている。

だからこそ、この映画は苦しい。

明確な悪人がいないからだ。

ひかりの両親も、娘を不幸にしようとしていたわけではない。

佐都子と清和も、誰かから子どもを奪ったわけではない。

養子縁組を支援する人々も、子どもと母親を救おうとしている。

それでも、ひかりだけが深い傷を負っていく。

問題は、周囲の大人たちが「正しい処理」を終えたあとも、ひかりの人生だけは終わらなかったことにある。

「なかったこと」にされた出産

ひかりの悲劇を考えるうえで最も重要なのは、出産後の扱いだろう。

子どもを産んだ。

抱いた。

愛情が生まれた。

そして手放した。

ひかりにとって、それは人生を根底から変える出来事だった。

ところが家に戻ると、周囲は彼女に以前と同じ中学生へ戻ることを求める。

受験をして、高校へ進んで、普通の少女として生活する。

つまり大人たちは善意から、ひかりの人生を「元に戻そう」とする。

しかし、もう元には戻れない。

彼女は出産前のひかりではないからだ。

ここに本作の残酷さがある。

周囲にとって養子縁組は一つの問題の解決だったが、ひかりにとっては喪失の始まりだった。

自分のお腹の中にいた子どもが、この世界のどこかで生きている。

それなのに会うことはできない。

母親として名乗ることもできない。

しかも、自分が母親だったことさえ日常生活では表に出せない。

ひかりは子どもだけではなく、「母親になった自分自身」まで失ってしまったのである。

ひかりは「母親失格」だったのか

数年後に現れるひかりを見ると、観客は戸惑う。

かつて赤ん坊を愛おしそうに抱いていた少女と、金を要求する女性が同じ人物には思えない。

佐都子も同じ感覚を抱く。

しかし映画は、その間に何があったのかをひかり側から描いていく。

家族との断絶。

居場所の喪失。

経済的な困窮。

他人から利用される生活。

一つの不幸が次の不幸を呼び、ひかりは社会の端へ追いやられていく。

ここで重要なのは、ひかりを「転落した女性」とだけ考えないことだろう。

彼女はある日突然変わったのではない。

助けを求める場所を少しずつ失った結果、あの姿になった。

ひかりが朝斗を利用して金を得ようとした行為まで肯定する必要はない。

しかし、

「なぜこんな人間になったのか」

ではなく、

「この人がここまで追い詰められる前に、誰かが止められなかったのか」

と考えさせるのが『朝が来る』という映画なのだと思う。

佐都子とひかり、どちらが「本当の母親」なのか

本作を見ると、「産みの母と育ての母、どちらが本当の母親なのか」という問いを想像してしまう。

しかし映画の答えは、おそらく「どちらかを選ぶ必要はない」だ。

佐都子は間違いなく朝斗の母親である。

毎日食事を作り、幼稚園へ送り出し、泣けば心配し、成長を見守ってきた。

血のつながりがなくても、その時間を否定することはできない。

一方で、ひかりが朝斗を産んだ事実も消えない。

朝斗の命が始まった場所には、ひかりがいる。

つまり二人の女性は、朝斗をめぐって母親の座を奪い合うライバルではない。

朝斗という一人の人間の人生を、それぞれ違う場所から形作った二人の母親なのだ。

原作者の辻村深月は、特別養子縁組について「血がつながっていないからこそ語り合う」関係にも言及している。また河瀨監督は映画化に際し、「二人の母」だけではなく、二人をつなぐ子ども・朝斗のまなざしが不可欠だと考えていた。

ここが映画版『朝が来る』の重要なポイントである。

なぜ「朝斗」の視点が重要なのか

もし物語が佐都子とひかりだけを描いていたら、本作は「子どもをめぐる二人の女性」の物語になっていただろう。

しかし朝斗は「所有される存在」ではない。

彼自身にも、出生を知り、自分がどこから来たのかを理解していく人生がある。

河瀨監督は原作を読んだ段階から、この朝斗の視点を映画に残すことを重視していたという。

それによって映画の問いは、

「朝斗はどちらの母親の子なのか」

から、

「朝斗は自分の人生をどう受け入れていくのか」

へ変わる。

佐都子が朝斗の出生を隠すのではなく、ひかりの存在も含めて彼の人生として受け止めようとすることには大きな意味がある。

血のつながりを否定する必要もなければ、血のつながりだけを絶対視する必要もない。

朝斗はその両方を持って生きていくことができる。

「広島のお母ちゃん」が意味するもの

終盤で印象に残るのが、ひかりを「広島のお母ちゃん」として朝斗へつなげていく発想だ。

ここには佐都子の大きな変化が表れている。

もし佐都子がひかりを「朝斗を取り返しに来る人物」としか考えていなければ、その存在は朝斗から遠ざけるべき脅威になる。

しかし真実を知った佐都子は違う。

ひかりを消そうとはしない。

なぜなら、ひかりを否定することは朝斗の出生の一部を否定することにもなるからだ。

佐都子は「自分だけがお母さんでなければならない」という不安を越えていく。

それは彼女が朝斗を本当の意味で一人の人間として受け入れた瞬間でもある。

愛することと所有することは違う。

『朝が来る』は、その違いを非常に静かな形で示している。

ラストの意味|救われるのは朝斗だけではない

本作のラストは、すべての問題が解決するような分かりやすいハッピーエンドではない。

ひかりが失った時間は戻らない。

朝斗と一緒に暮らせるようになるわけでもない。

彼女の人生に起きた出来事が帳消しになるわけでもない。

それでも物語の最後には、わずかな光が残される。

ひかりにとって最も苦しかったのは、朝斗と離れていることだけではなかったのではないか。

自分が朝斗を愛していたという事実まで、この世界から消えてしまうこと。

それが彼女の恐怖だったように思える。

しかし佐都子がひかりの存在を認め、朝斗へとつないでいくことで、ひかりの出産も愛情も「なかったこと」ではなくなる。

ひかりは朝斗を育てる母にはなれなかった。

それでも、朝斗を産み、愛した人間として存在することはできる。

この小さな承認こそが、ラストに差し込む光なのだろう。

タイトル『朝が来る』の意味

タイトルの「朝」は、もちろん主人公の一人である「朝斗」という名前にも重なる。

しかし、それだけではない。

夜とは、先の見えない時間だ。

ひかりは長い夜の中を生きてきた。

子どもを手放したあと、家族から理解されず、社会からもこぼれ落ち、自分自身の人生さえ見失っていく。

何度朝を迎えても、彼女の中では夜が終わっていなかった。

だからタイトルは「朝が来た」ではなく、**『朝が来る』**なのではないだろうか。

すでに救われた人の言葉ではない。

これから救われるかもしれない人へ向けられた言葉なのだ。

朝斗が成長する。

いつか自分の出生についてさらに深く知ろうとするかもしれない。

そしてその先には、ひかりの存在がある。

現在がどれほど暗くても、未来まで同じ暗闇であるとは限らない。

「朝が来る」というタイトルには、そんな可能性が込められているように思える。

『朝が来る』は実話なのか

非常に現実味のある作品だが、『朝が来る』は特定の事件をそのまま映画化した実話作品ではない。

辻村深月による小説を原作としたフィクションである。

一方で、特別養子縁組、不妊治療、若年妊娠、家族からの孤立など、物語を構成している問題そのものは現実社会に存在する。

河瀨監督も本作について、フィクションでありながらドキュメンタリー的な視点を両立させようとしたと説明している。

そのため本作は、作り話でありながらどこか「実際にあった出来事」を見ているような痛みを持っている。

原作と映画の違い

映画は辻村深月の原作を基本としているが、単に小説をそのまま映像へ置き換えた作品ではない。

河瀨監督は、原作に書かれている出来事を多少変えてでも「作者が本当に伝えようとしていること」を映像で届けることを目指したと語っている。

特に映画で強くなっているのが、朝斗の存在感と、風景や生活そのものから登場人物の感情を伝える部分だろう。

原作では文章によって人物の内面を深く知ることができる。

一方、映画では表情、沈黙、海、光、街の風景などが登場人物の感情を代弁する。

また、清和が特別養子縁組について考える場面で語る言葉の中には、原作にも脚本にもなく、撮影の中で井浦新から自然に生まれたものもあったという。

原作と映画のどちらが正解というより、同じ物語を別の方法で掘り下げた作品と考えた方がよいだろう。

まとめ|『朝が来る』が描いたのは「母親」ではなく「消してはいけない人生」

『朝が来る』を「産みの母と育ての母の物語」と説明することはできる。

しかし、それだけではこの映画の痛みを十分に表せない。

ひかりは朝斗を愛していた。

佐都子も朝斗を愛している。

二人の愛情は矛盾しない。

本当に残酷だったのは、ひかりが子どもを手放したことそのもの以上に、出産したことも、母親になったことも、そのとき抱いた感情も「なかったこと」にされそうになったことだったのではないだろうか。

人は過去を消して人生をやり直すことはできない。

だが、過去を抱えたまま新しい人生を始めることはできる。

佐都子がひかりの存在を認めることで、朝斗の人生からも、ひかりの人生からも、失われていた一本の線がつながる。

それは劇的な救済ではない。

失ったものも戻らない。

それでも、自分の人生が誰かに認められるだけで、人はもう一度歩き出せることがある。

長い夜を過ごしてきた人にも、いつか朝は来る。

『朝が来る』というタイトルは、その保証ではなく、それでも朝が来ることを信じたいという願いなのだと思う。