映画『あんのこと』を観終えたあとに残るのは、「なぜ、ここまで救われないのか」という重苦しさだ。
主人公・香川杏は、最初から生きることを諦めていたわけではない。
薬物をやめようとした。
働こうとした。
学校へ行こうとした。
誰かを信じようとした。
そして最後には、自分より小さな存在を守ろうとさえした。
それなのに、杏がつかみかけたものは一つずつ失われていく。
だから『あんのこと』を、単純に「不幸な女性の物語」として見るだけでは、この映画が突きつけているものを十分に受け取れない。
本作が描いているのは、
「人は何によって救われ、何によって社会からこぼれ落ちてしまうのか」
という問題ではないだろうか。
そして、もっと厳しい問いに言い換えるなら、
杏を追い詰めたのは、いったい誰だったのか。
ここでは『あんのこと』の実話との関係、多々羅と桐野の行動、母親・春海、隼人、手帳、ラストの意味まで考察していく。
※以下、映画『あんのこと』の重大なネタバレを含みます。
『あんのこと』は実話?モデルとなった女性について
『あんのこと』は完全なフィクションではない。
入江悠監督が、2020年に新聞に掲載された若い女性の記事に触れたことから企画が始まった作品である。
記事の女性には「ハナ」という仮名が付けられていた。
幼少期から家庭内で虐待を受け、十分に学校へ通えず、売春や薬物依存へと追い込まれていく。
しかし、その後は薬物から離れようとし、学び直し、社会との接点を作ろうとしていた。
そんな矢先に訪れたのが、新型コロナウイルスの流行だった。
映画の杏は、この女性をそのまま再現した人物ではない。
入江監督は取材を重ねながらも、本人について分からない部分を安易に埋めて「こういう人だった」と決めつけることを避けている。
そのため本作は、
「実在した人物を再現する映画」というより、「確かにそこにいた一人の女性について想像し続ける映画」
と考えた方が近い。
タイトルが『杏の人生』ではなく、『あんのこと』なのも重要だろう。
杏は最初から「壊れていた」のではない
物語序盤の杏は、他人とのコミュニケーションがうまく取れない。
質問されても反応が薄く、感情を表に出さない。
しかし、それを杏自身の性格だけで説明することはできない。
杏は幼い頃から、本来なら自分を守るはずの母親によって傷つけられてきた。
人を信用すれば利用される。
期待すれば裏切られる。
そんな環境で生きてきた杏にとって、他人に心を開かないことは弱さではなく、むしろ生き延びるための防御だったのではないか。
だからこそ、多々羅と出会ったあとの変化が大きい。
仕事をする。
学校へ行く。
手帳をつける。
少しずつ笑う。
杏は誰かに「普通の人間」にしてもらったわけではない。
もともと彼女の中にあった「生き直したい」という力が、安心できる環境を得たことで表に出てきただけなのだ。
この違いは重要だ。
杏には生きる力がなかったのではない。
その力を使える場所が、それまでなかったのである。
多々羅は善人なのか、悪人なのか
『あんのこと』でもっとも判断が難しい人物が、佐藤二朗演じる刑事・多々羅だろう。
杏にとって、多々羅は間違いなく恩人である。
薬物をやめるよう励まし、自助グループにつなぎ、社会復帰を支援する。
杏に対する彼の言葉や態度のすべてが演技だったようには見えない。
実際に杏は、多々羅との出会いによって変わっていく。
しかし同時に、多々羅には自助グループに参加する女性たちとの関係をめぐる重大な問題がある。
弱い立場にいる人を助けることと、その弱さにつけ込むこと。
多々羅の中には、その二つが同時に存在している。
だから本作は難しい。
「性加害をしたのだから、彼の支援も全部偽物だった」
と結論づければ分かりやすい。
しかし映画はそう描かない。
逆に、
「杏を救ったのだから、多々羅の行為には目をつぶるべきだった」
とも絶対に言えない。
多々羅は、誰かにとって救いでありながら、別の誰かにとっては加害者だった。
人間の善行は、その人間が行った加害を帳消しにはしない。
同時に、
加害をした人間だからといって、それ以前に誰かを救った事実まで消えるわけではない。
『あんのこと』は、この気持ち悪いほど割り切れない現実を、そのまま残している。
桐野は記事を書かない方がよかったのか
稲垣吾郎演じる記者・桐野もまた、観客を苦しませる人物だ。
桐野は、多々羅をめぐる告発を取材し、記事にする。
ジャーナリストとして考えれば当然の行動である。
支援する立場を利用した加害が存在するなら、それを黙認する理由はない。
記事によって新たな被害を防げた可能性もある。
だから、
「桐野が記事を書いたから杏は死んだ」
と責めることはできない。
入江悠監督自身も、記者に責任があるとは考えていないと語っている。
それでも映画は、正しい行動を取ればすべてが正しい結果になる、とは描かない。
桐野の記事によって多々羅は杏の前から消える。
杏は、自分を社会へつなぎ止めていた大きな支柱を突然失う。
ここで問われているのは報道の是非ではないだろう。
問題は、
「間違った支援者を排除したあと、その人に支えられていた弱者を誰が引き受けるのか」
ということだ。
不正を告発する仕組みは必要だ。
しかし、それだけでは杏の生活は守られない。
正義によって一つの問題が解決しても、その陰で別の人間が取り残されることがある。
本作の苦さはここにある。
杏の母親・春海が「ママ」と呼ぶ意味
杏の母親・春海との関係も異常だ。
本来なら母親が子どもを守らなければならない。
しかし杏の家庭では、それが完全に逆転している。
母親は杏に依存し、杏から金や労力を奪い続ける。
さらに印象的なのが、母親が杏を「ママ」と呼ぶことだ。
これは親子関係が反転していることを象徴しているように見える。
杏は娘でありながら、幼い頃から母親を支える役割を押しつけられてきた。
「ママ」と呼ばれることで、
杏は自分の人生を生きる人間ではなく、母親を世話するための存在にされてしまう。
杏が家を離れても、母親との関係を完全には断ち切れない理由もここにあるだろう。
虐待されているなら逃げればいい。
外から見ればそう思える。
しかし、長年の支配関係の中で育った人間にとって、物理的に距離を取ることと、心理的に関係を断つことは同じではない。
杏の中には、
「母親を見捨ててはいけない」
という役割が染みついてしまっている。
だから母親は、杏の人生から何度離れても戻ってくる。
コロナ禍が杏から奪ったもの
杏の人生を決定的に変えるのが、新型コロナウイルスの流行だ。
ここで重要なのは、コロナが杏から何か一つを奪ったわけではないことだ。
仕事。
学校。
自助グループ。
人との交流。
生活のリズム。
杏をかろうじて社会につなぎ止めていた複数の糸が、一斉に切れてしまう。
多くの人にとって、外出できないことや仕事が減ることは「不便」だった。
しかし杏のように、もともと非常に細い社会的つながりの上で生活を再建していた人にとっては、その不便が生存そのものに直結する。
ここに『あんのこと』の社会的な恐ろしさがある。
社会は平常時には、
「学校があります」
「仕事があります」
「相談できる場所があります」
と言える。
だが、本当に危機が起きたとき、それらをもっとも必要としている人から先に利用できなくなってしまうことがある。
杏はコロナそのものに負けたのではない。
コロナによって、彼女を支えていた社会との接続が一気に失われた。
そう考えるべきだろう。
隼人との生活が意味していたもの
そんな絶望的な状況の中で現れるのが、隣人・紗良の息子、隼人だ。
突然子どもを預けられた杏は、決して育児に慣れているわけではない。
戸惑い、失敗しながら、それでも隼人を守ろうとする。
ここで初めて杏は、
「誰かに必要とされる側」
になる。
それまでの杏は、人から何かを奪われ続けてきた。
母親には金を求められ、多々羅たちからは支援される側に置かれ、社会からは「更生しなければならない人」として扱われる。
しかし隼人の前では違う。
杏自身が食事を用意し、世話をし、考え、守ろうとする。
誰かのために生きるという役割を、今度は自分の意思で引き受ける。
一見すると母親との関係と似ているようで、決定的に違う。
母親から押しつけられた「ママ」という役割ではなく、
杏が初めて自分で選んだ、誰かを大切にするという関係
だからである。
隼人との生活によって、杏の表情が少し変わって見えるのはそのためだろう。
なぜ隼人を失ったことが決定的だったのか
しかし、その隼人も杏のもとからいなくなる。
この喪失は、単に「かわいがっていた子どもを失った」という以上に大きい。
隼人は杏にとって、
「自分にも誰かを守ることができる」
「自分にも生きている意味がある」
と思わせてくれる存在だった。
それを失うということは、杏がようやく手にした自己肯定の根拠まで失うことを意味する。
仕事もない。
学校もない。
多々羅もいない。
隼人もいない。
母親との支配関係だけが残る。
杏は再び、物語の最初にいた場所へ戻ってしまう。
ただし、一度希望を知ったあとで戻る絶望は、最初から希望を知らない状態よりも残酷だ。
『あんのこと』の後半があまりにも苦しいのは、そのためではないだろうか。
手帳を燃やした意味
杏にとって手帳は、単なるスケジュール帳ではない。
そこには、自分が少しずつ生活を作り直してきた記録が残っている。
薬物を使わなかった日。
仕事。
学校。
日々の出来事。
つまり手帳は、
「杏が生き直そうとした証拠」
そのものだ。
ラスト近くで杏がそれを燃やす行為は、自分が積み上げてきた未来を手放す行為にも見える。
しかし、すべてを消すわけではない。
隼人について書いたものを残す。
ここが重要だ。
自分自身についての記録を失おうとしている杏が、最後まで他人についての記憶を残そうとする。
つまり杏は、最後の最後まで完全に他者への関心を失ったわけではない。
むしろ、
自分を大切にすることはできなくなっても、誰かを大切にした経験だけは残っていた。
そのことが、ラストを単なる絶望だけでは終わらせていない。
ブルーインパルスは何を意味していたのか
終盤で空を飛ぶブルーインパルスも印象的だ。
2020年、ブルーインパルスは医療従事者への敬意と感謝を示す目的で東京都心上空を飛行した。
多くの人にとって、それは「みんなで困難を乗り越えよう」という希望の象徴だった。
しかし、その同じ空の下に杏がいる。
社会全体が「希望」や「連帯」を語っている瞬間にも、その連帯からこぼれ落ちている人間がいる。
テレビでは感動的な物語が流れる。
空を見上げる人々は拍手する。
しかし、杏の孤独は誰にも見えない。
この対比は非常に残酷だ。
社会が一つになったように見える瞬間ほど、その輪の外にいる人間は見えにくくなる。
ブルーインパルスは希望の象徴であると同時に、杏と社会との距離を浮かび上がらせる装置だったのではないだろうか。
タイトル『あんのこと』の意味
なぜタイトルは『杏』ではなく、『あんのこと』なのか。
「○○のこと」という言い方には、不思議な距離感がある。
「あの人のことを話す」
「あの人のことを考える」
そこには、完全には理解できない他者について、それでも考え続けようとする姿勢が含まれている。
杏の本当の気持ちは、誰にも完全には分からない。
監督にも分からない。
観客にも分からない。
それでも、
「こんな人がいた」
「どうしてこうなったのだろう」
と考えることはできる。
だから『あんのこと』なのではないか。
この映画は杏の人生に答えをつける作品ではない。
杏という人間について、観客が考え始めるための映画なのである。
結局、杏を追い詰めたのは誰だったのか
では、杏を追い詰めたのは誰だったのだろう。
母親だろうか。
多々羅だろうか。
桐野だろうか。
コロナだろうか。
社会だろうか。
おそらく、一人の犯人を決めることはできない。
母親の虐待だけでもない。
薬物依存だけでもない。
多々羅の失脚だけでもない。
コロナだけでもない。
一つひとつの問題の間には、杏が生き延びる余地があった。
実際、杏は何度も立ち直ろうとしている。
しかし、そのたびに支えが一つずつ失われていった。
家庭から逃げても、経済的な基盤が弱い。
薬物から離れても、信頼していた支援者を失う。
働き始めても、コロナで仕事を失う。
学校へ行っても、授業がなくなる。
隼人という存在を得ても、引き離される。
つまり杏を追い詰めたものとは、
一つの巨大な悪ではなく、小さな逃げ道が次々と塞がれていく構造そのもの
だったのではないか。
『あんのこと』が本当に恐ろしい理由
『あんのこと』が恐ろしいのは、杏の人生があまりにも特殊だからではない。
むしろ逆だ。
母親の虐待。
貧困。
薬物。
不安定雇用。
教育からの離脱。
支援者との関係。
社会的孤立。
どれも現実の社会に存在する問題である。
杏だけに特別な悲劇が降りかかったわけではない。
現実に存在する問題が、一人の人間の上に重なり続けただけなのだ。
だからこの映画を観て、
「かわいそうだった」
だけで終わってしまうと、杏を再び遠い存在にしてしまう。
本作が最後に観客へ突きつけるのは、
「杏のような人がいた」ではなく、「杏のような人が、今もあなたの隣にいるかもしれない」
という事実なのだと思う。
まとめ
『あんのこと』は、希望を描かなかった映画ではない。
むしろ杏は何度も希望を見つけている。
多々羅との出会い。
仕事。
学校。
自分の部屋。
隼人との暮らし。
その一つひとつが、杏にとって確かな希望だった。
だからこそ、それらが失われていく過程が苦しい。
杏に必要だったのは、奇跡的な救世主ではなかったのかもしれない。
一つの支援が壊れても、別の支援につながれること。
仕事を失っても、生活が崩壊しないこと。
家庭から逃げた人が、再びその家庭に依存しなくて済むこと。
つまり、
一人の善人に人生を預けなくても生きられる社会
だったのではないだろうか。
『あんのこと』は、杏の人生に明確な答えを与えない。
ただ、一人の女性が確かに生きていたことをこちらに差し出す。
そして映画が終わったあと、
「あんのこと」を考える役割だけが、観客の側に残されるのである。

