映画『友罪』考察|鈴木は更生したのか?ラストとタイトルの意味、益田が背負う「罪」を解説

映画『友罪』は、「罪を犯した人間は、その後どう生きればいいのか」という簡単には答えられない問題を突きつける作品です。

2018年公開。薬丸岳の同名小説を原作に、『64-ロクヨン-』などの瀬々敬久が監督・脚本を担当。生田斗真が益田、瑛太が鈴木を演じています。公式にも、本作は少年犯の「その後」と、過去を知っても友達でいられるのかという問いを中心に据えた作品として紹介されています。

物語の中心にいる鈴木は、かつて少年Aとして重大な殺人事件を起こした人物です。

しかし映画が問いかけるのは、

「鈴木を許せるか」

ということだけではありません。

むしろ重要なのは、

罪を犯した人間を許せなくても、その人間が生きることを認められるのか。

という、さらに厄介な問いです。

ここでは『友罪』のラストや鈴木の心理、益田が抱えている罪、そしてタイトル「友罪」の意味について考察します。

※以下、映画『友罪』の結末を含むネタバレがあります。

『友罪』のあらすじ

ジャーナリストになる夢を諦め、町工場で働き始めた益田。

そこで同じ日に働き始めたのが、無口で他人との交流を避けている鈴木でした。

最初は距離のあった二人ですが、同じ寮で暮らし、時間を過ごしていくうちに少しずつ関係を深めていきます。

そんな中、町の近くで児童殺人事件が発生。

その事件をきっかけに、17年前に起きた連続児童殺傷事件の元少年犯が再び注目されるようになります。

そして益田はネット上に残っていた少年Aの写真を見て気づきます。

少年Aは、鈴木なのではないか。

友人として接してきた男が、かつて人を殺した人物かもしれない。

ここから益田は、「友人としての鈴木」と「殺人犯としての鈴木」の間で揺れ始めます。

鈴木は本当に少年Aなのか

結論からいえば、鈴木は17年前の連続児童殺傷事件を起こした少年A本人です。

現在は「鈴木」という名前で生活していますが、少年時代には青柳健太郎という名前で事件を起こしていました。

重要なのは、映画がその事実を大きなどんでん返しとして扱っていないことです。

本作の目的は、

「鈴木は犯人なのか?」

というミステリーを解くことではありません。

本当の物語が始まるのは、むしろ鈴木が少年Aだったと分かってからです。

人を殺した過去を持つ鈴木と、それでも友人でいられるのか。

そこに『友罪』最大のテーマがあります。

鈴木は更生したのか

本作でもっとも難しいのが、この問いでしょう。

鈴木は少年院を出た後、社会の中でひっそりと暮らしています。

仕事をし、人と関わり、美代子に惹かれ、益田との友情にも喜びを感じる。

表面的に見れば、かつて事件を起こした少年とは別人のようです。

では、鈴木は完全に更生したのでしょうか。

映画は、そこに明確な答えを出しません。

むしろ瑛太の演技には、最後までどこか危ういものが残っています。

特に印象的なのが、鈴木が過去について語る場面です。

自分が犯したことの重大さを理解しながらも、彼の中には同時に「生きたい」という欲求があります。

ここが本作の非常に厳しいところです。

罪を心から反省しているなら、

「幸せになりたい」

と思ってはいけないのでしょうか。

被害者が人生を奪われた以上、加害者は一生幸福を求めるべきではないのでしょうか。

鈴木自身も、おそらくその矛盾を抱えています。

生きたい。しかし、自分には生きる資格がないのではないか。

その二つの感情の間で彼は揺れています。

「更生」と「許されること」は別

『友罪』を見るうえで区別しておきたいのが、

更生することと、許されることは同じではない

という点です。

どれだけ鈴木が反省しても、殺された人は戻ってきません。

刑期を終えたからといって、事件そのものが消えるわけでもありません。

その意味では鈴木が、

「もう罪を償ったから普通の人生を送っていい」

と単純に言うことはできないでしょう。

しかし逆に、

「一度重大犯罪を犯した人間は、一生社会から排除されなければならない」

とするなら、更生という考え方そのものが成立しなくなります。

『友罪』はこの矛盾を解決してくれません。

むしろ、

答えが出ない状態そのものを観客に背負わせる映画

なのだと思います。

益田にも「罪」がある

そして『友罪』が単なる少年犯罪映画になっていない最大の理由が、益田にも過去があることです。

中学生時代、益田には学という友人がいました。

学はいじめを受け、精神的に追い詰められていました。

しかし益田は、自分まで周囲から孤立することを恐れ、最後まで学を守ることができませんでした。

そして学は自ら命を絶ちます。

もちろん、益田が直接学を殺したわけではありません。

法的な意味で罪を犯したわけでもありません。

それでも益田の中では、

「自分が友達を見捨てたから学は死んだ」

という罪悪感が残り続けています。

ここで益田と鈴木が重なります。

鈴木には法律によって裁かれた「犯罪」がある。

益田には法律では裁けない「罪」がある。

種類も重さもまったく違います。

それでも二人とも、

過去のある瞬間から人生の時計が止まっている。

だからこそ、益田は鈴木を単なる「殺人犯」として切り捨てることができないのでしょう。

なぜ益田は鈴木を調べてしまったのか

益田は鈴木の正体に疑いを持ち、彼の過去を調べ始めます。

これは元ジャーナリストとしての好奇心だけではありません。

益田自身が、自分の過去から逃げ続けているからです。

鈴木が何者なのかを知りたい。

しかし同時に、

「人は過去から逃げられるのか」

を知りたい。

鈴木を調べる行為は、益田自身を調べる行為でもあったのでしょう。

ところがその行動は、最終的に鈴木の正体が世間に知られるきっかけになります。

つまり益田は再び、

友人を守ることができなかった。

中学生時代の学と同じです。

ここで益田は、かつて犯した過ちをもう一度繰り返してしまいます。

だからこそ鈴木の失踪後、益田は自分自身の過去とも本格的に向き合わなければならなくなります。

美代子が鈴木を拒絶した意味

鈴木と親しくなる美代子もまた、過去によって現在を縛られている人物です。

映画版では、美代子はAV出演の過去を隠しながら生きている女性として設定されています。山内をタクシードライバーにするなど、映画では原作から設定を変更して群像劇として再構成されました。

だからこそ美代子と鈴木は、一時的に理解し合えるように見えます。

二人とも、

「過去を知られたら、今の自分まで否定されるのではないか」

という恐怖を抱えているからです。

しかし鈴木が少年Aだと知った美代子は、彼を受け入れることができません。

これは美代子が冷酷だからではないでしょう。

むしろ、この反応こそが極めて自然です。

相手が重大犯罪を犯していたと突然知ったとき、

「過去は過去だから」

と簡単に割り切れる人ばかりではありません。

映画は美代子に鈴木を救わせません。

そのことで、

過去を受け入れることを他人に強制してはいけない

というもう一つの視点を残しています。

山内の物語は何を意味しているのか

一見すると益田と鈴木の物語から離れているように見えるのが、佐藤浩市演じる山内のエピソードです。

山内の息子は交通事故によって人を死なせています。

山内は息子が犯した罪を自分自身の罪のように受け止め、家族まで「解散」させています。

つまり山内が象徴しているのは、

加害者本人だけでは終わらない罪

です。

犯罪が起きれば、被害者だけでなく、加害者の家族の人生も変化します。

そして山内は、

「罪を犯した人間が幸福になっていいのか」

という問題を鈴木とは別の角度から見せています。

息子が結婚し、新しい人生を始めようとするとき、山内はそれを素直に祝えません。

被害者が死んでいるのに、加害者は家庭を持って幸福になっていいのか。

この問いは、そのまま鈴木にも向けられます。

だから山内の物語は、本筋から離れた脇道ではありません。

鈴木の問題を別の加害者家族から照らす鏡

になっています。

ラストシーンを考察

終盤、鈴木の正体は世間に知られ、彼はそれまでの生活を失います。

益田もまた、自分が鈴木を追い詰める結果を招いたことに苦しみます。

そしてラストでは、益田と鈴木がそれぞれ自分の過去と結びついた場所へ向かいます。

益田は学の死と向き合う。

鈴木は自分が犯した殺人と向き合う。

公式の制作記録でも、二人のラストは意図的に「対照的」に撮影され、最後の益田のモノローグに作品で伝えたいものを込めたことが説明されています。

つまりラストで二人がしているのは、

過去を清算することではありません。

そもそも清算などできないのです。

人は過去に戻って、死んだ人を生き返らせることはできません。

できるのは、その過去を抱えたまま生きることだけです。

なぜ益田は鈴木に「生きてほしい」と願うのか

ここが『友罪』でもっとも重要な部分です。

益田は、鈴木の殺人を許したわけではありません。

鈴木が無実だと言っているわけでもありません。

それでも、

友人として、生きていてほしい

と願います。

一見すると矛盾しています。

しかし、この矛盾こそ『友罪』なのではないでしょうか。

私たちは時として、

「許せない人間」

「死んでほしくない人間」

が同じ人物になる可能性があります。

罪を憎むことと、その人間の存在そのものを否定することは同じではありません。

益田がたどり着いたのは、

「鈴木を許す」

という答えではなく、

「許せなくても友達でいる」

という答えだったのでしょう。

ラストの鈴木の涙と表情の意味

鈴木の最後の表情は非常に曖昧です。

涙を流しながら、どこか笑っているようにも見える。

そのため、

「本当に反省しているのか」

と不安になる観客もいるでしょう。

しかし、この曖昧さは意図的だと考えられます。

もし鈴木が分かりやすく泣き崩れ、

「自分は間違っていた」

と反省するだけなら、観客は安心できます。

「彼は更生した」と判断できるからです。

しかし『友罪』は、その安心を与えません。

人間の内面を完全に確認することなどできないからです。

私たちは鈴木が本当に更生したのか、最後まで知ることができない。

益田も同じです。

それでも益田は彼を友人として扱おうとする。

相手を完全に理解できなくても関係を持つ。

そこにこの映画の苦しさがあります。

タイトル『友罪』の意味

「友罪」という言葉は非常に印象的です。

文字通り考えれば、

「友人の罪」

という意味に読めます。

しかし映画を最後まで見ると、もう一つの意味が見えてきます。

それは、

友人であることで背負ってしまう罪

です。

益田は学の友人でした。

だからこそ、学を助けられなかったことを長年後悔しています。

そして鈴木の友人になります。

だからこそ、鈴木の過去を知った後も無関係ではいられません。

もし鈴木がただの他人なら、

「殺人犯だった」

と知って距離を置けば終わります。

しかし友達になってしまった。

一緒に酒を飲み、笑い、助けられ、その人間らしい部分を知ってしまった。

だから、

「少年A」という記号だけでは鈴木を見られなくなってしまった。

これが益田にとっての「友罪」なのでしょう。

『友罪』は鈴木を擁護する映画なのか

本作を見ると、

「加害者側に寄り添いすぎている」

と感じる人もいるかもしれません。

その違和感は無視できません。

被害者にとって、加害者がどれだけ反省しているか、更生しているかは関係ない場合もあります。

奪われた命は戻らないからです。

だから本作を、

「反省したのだから鈴木を許すべきだ」

という映画として見るのは違うでしょう。

『友罪』が描こうとしているのは、

許しではなく、その後も続く人生

なのだと思います。

犯罪が起きた瞬間だけが罪ではない。

被害者遺族にも、加害者にも、加害者家族にも、友人にも、その後の時間があります。

誰も過去を消すことはできません。

それでも時間は続いてしまう。

本作が描くのは、その残酷さです。

まとめ|罪を背負って、それでも生きる

『友罪』には明快な答えがありません。

鈴木は本当に更生したのか。

鈴木には幸福になる権利があるのか。

益田は鈴木を許すべきなのか。

どれも簡単には答えられません。

しかし、作品が最後に示す一つの方向性があります。

それは、

罪を消すことと、生き続けることは別だ

ということです。

鈴木が生き続けても、過去の殺人は消えません。

益田が前に進んでも、学を見捨てた記憶は消えません。

二人にできるのは、それぞれの罪をなかったことにすることではなく、

忘れずに生き続けること

だけです。

そして益田は、鈴木の罪を許さないまま、それでも友人として彼の生を願います。

「友達だから許す」のではない。

友達だからこそ、罪を知ったうえで生きていてほしいと願う。

その矛盾した感情こそが、タイトル『友罪』に込められたもっとも重い意味なのではないでしょうか。