2021年公開の映画『護られなかった者たちへ』。
中山七里の同名小説を原作に、瀬々敬久監督が東日本大震災と生活保護をめぐる問題を、一つの連続殺人事件を通して描いた作品です。
主演は佐藤健。彼を追う刑事を阿部寛、福祉保健事務所で働くケースワーカー・円山幹子を清原果耶が演じています。
物語だけを追えば、
「連続殺人事件の真犯人は誰なのか」
を探るミステリーです。
しかし、本作が本当に問いかけているのは犯人の正体ではありません。
人間は、いったい誰に護られるのか。
そして、
制度が存在しているのに、なぜそこからこぼれ落ちる人がいるのか。
という問題です。
ここでは真犯人の正体、遠島けいが亡くなった理由、タイトル「護られなかった者たちへ」の意味、そしてラストシーンまで考察します。
※以下、映画の重大なネタバレを含みます。
『護られなかった者たちへ』のあらすじ
東日本大震災から年月が経った宮城県。
福祉保健事務所の職員だった三雲が、身体を拘束された状態で発見されます。
死因は餓死。
やがて、かつて同じ福祉行政に関わっていた城之内も、同じような方法で殺害されます。
宮城県警の刑事・笘篠誠一郎は捜査を進める中で、一人の男にたどり着きます。
利根泰久。
利根は過去に福祉保健事務所で放火事件を起こし、服役していました。
しかも、三雲や城之内に強い恨みを抱く理由もあった。
あまりにも条件がそろっているため、警察は利根を連続殺人事件の犯人として追い始めます。
しかし、事件の背後には、東日本大震災後に利根が出会った二人の人物がいました。
遠島けいと、幼い少女「カンちゃん」です。
遠島けいは、なぜ死ななければならなかったのか
本作で最も重要な人物は、倍賞美津子演じる遠島けいでしょう。
震災によって居場所を失った利根とカンちゃんを、けいは家族のように受け入れます。
血のつながりはありません。
それでも三人は、一時期、本当の家族以上に家族らしい時間を過ごしていました。
ところが年月が経ち、けいの生活は困窮していきます。
利根たちは生活保護を利用するよう勧め、けいを福祉事務所へ連れていきます。
しかし最終的に、けいは生活保護を受けないまま餓死します。
ここで重要なのは、彼女が単純に「制度の対象外だった」のではないことです。
制度は存在していた。
窓口も存在していた。
職員も存在していた。
それなのに、けいを救うことはできなかった。
ここに本作の恐ろしさがあります。
巨大な悪人が一人いて、その人物がけいを殺したのであれば話は単純です。
しかし実際には、
「家族に頼れないのか」
「本当に生活保護が必要なのか」
「本人はどうしたいのか」
といった一つ一つの判断の積み重ねの中で、けいは支援からこぼれ落ちていきます。
だから利根の怒りには、明確な行き先がありません。
誰がけいを殺したのか分からない。
しかし、
確かにけいは死んでいる。
この答えのない怒りこそが、『護られなかった者たちへ』という映画の出発点なのだと思います。
真犯人は利根ではない
映画は徹底的に、佐藤健演じる利根を犯人のように見せます。
過去に放火事件を起こしている。
被害者たちに恨みがある。
出所した時期と殺人事件の発生時期も重なっている。
そして何より、利根自身が社会に対して激しい怒りを抱いている。
ところが真犯人は利根ではありません。
真犯人は、清原果耶演じる円山幹子です。
現在、ケースワーカーとして働いている円山こそ、震災後に利根やけいと暮らしていた「カンちゃん」でした。
この事実が明らかになることで、それまでの物語の意味が大きく反転します。
円山幹子は、なぜ殺人を犯したのか
円山の犯行動機も、利根と同じです。
けいを救えなかったことへの怒りです。
しかし、円山には利根とは異なる苦しみがあります。
彼女は成長し、かつてけいを救えなかった側と同じ「福祉行政の人間」になっています。
おそらく円山は、
今度こそ誰かを救いたい
と考えてケースワーカーになったのでしょう。
ところが現実は簡単ではありません。
困窮している人がいる。
助けを求める人がいる。
それでも制度には条件があり、職員一人の善意だけですべてを解決することはできない。
円山は、かつて自分が憎んだ世界の内部に入って初めて、その複雑さを知ることになります。
それでも、けいの死を受け入れることはできなかった。
だから彼女は復讐を始めます。
なぜ被害者を「餓死」させたのか
円山の殺人方法が餓死であることには、明確な意味があります。
けいが味わった苦しみを、当時の関係者にも味わわせるためです。
食べ物がない。
助けを求められない。
誰も来ない。
そして少しずつ死に近づいていく。
円山にとっては、
「あなたたちが見捨てた人間が、どのように死んでいったのか」
を身体そのもので理解させる復讐だったのでしょう。
だからこそ、この犯行は非常に残酷です。
同時に映画は、円山の行動を正義として描いてはいません。
彼女には同情できる。
怒りも理解できる。
それでも、人を殺していいわけではない。
ここが本作の重要な部分です。
「被害者だった者」が、別の誰かの加害者になってしまう。
護られなかった人間が、やがて誰かを傷つける側へ回ってしまう。
その連鎖まで含めて、本作は社会からこぼれ落ちることの恐ろしさを描いています。
三雲たちは本当に「悪人」だったのか
本作を考えるうえで忘れてはいけないのが、殺害された三雲や城之内たちが、分かりやすい悪人として描かれていないことです。
周囲から見れば、むしろ真面目な人物です。
だからこそ問題は複雑になります。
もし彼らが極端な悪人なら、
「悪い職員が弱者を見捨てた」
という話で終わります。
しかし、本作が描いているのはもっと不気味な構造です。
一人一人は普通に生活している。
仕事もしている。
家族もいる。
社会的には立派な人間と評価されている。
それでも、その人たちが運用する制度の先で、一人の人間が死んでしまう。
つまり本作が問うているのは、
「悪人は誰か」ではなく「責任はどこにあるのか」
なのです。
「制度が悪かった」で終わらせれば、個人の判断は消えてしまう。
一方で「担当者が悪かった」と片付ければ、制度そのものの問題は見えなくなる。
どちらか一方だけを犯人にできないところに、本作の重さがあります。
タイトル「護られなかった者たちへ」の意味
では、「護られなかった者たち」とは誰なのでしょうか。
最も分かりやすいのは遠島けいです。
しかしタイトルは、
「護られなかった者へ」
ではありません。
「者たち」
と複数形になっています。
ここが重要です。
護られなかったのは、けいだけではありません。
震災によって居場所を失った利根。
母親を失ったカンちゃん。
家族を失い、その痛みを抱え続ける笘篠。
そして、助けを求めても声が届かない多くの人々。
それぞれが異なる形で「護られなかった者」です。
瀬々敬久監督は本作について、「社会制度の不条理」と「人間が立ち向かうことのできない天災・震災」という二つの不条理を描こうとしたと語っています。
つまり「護られなかった」とは、福祉制度だけを意味しているのではありません。
人は自然災害から完全には護られない。
制度からも完全には護られない。
家族がいても、社会があっても、それでも救えない人がいる。
本作のタイトルには、その現実そのものが込められているのでしょう。
なぜ円山は「声を上げて」と訴えたのか
円山が発信する「声を上げてほしい」というメッセージも、本作を理解するうえで重要です。
けいは声を上げ続けることができませんでした。
迷惑をかけたくない。
家族に知られたくない。
自分より大変な人がいる。
そんな思いが、支援を求めることをためらわせてしまう。
しかし支援する側は、声が届かなければ動けないことがあります。
ここに残酷な矛盾があります。
本当に困窮している人ほど、大きな声を出せるとは限らない。
だから円山は、「助けて」と言うことそのものを肯定しようとします。
これは犯罪者である円山の言葉であると同時に、映画そのものから観客へ向けられたメッセージでもあるのでしょう。
笘篠もまた「護られなかった者」だった
阿部寛演じる刑事・笘篠にも、震災による深い傷があります。
笘篠は妻を亡くし、息子も行方不明になっています。
そのため、本作は単純な
「刑事VS犯人」
という構図になっていません。
利根も失った。
円山も失った。
笘篠も失った。
立場は違っていても、三人とも震災によって人生を変えられた人間です。
だから捜査が進むほど、追う側と追われる側の境界が曖昧になっていきます。
これは本作が「犯罪」そのものより、「喪失した後に人間はどう生きるのか」を描いているからでしょう。
ラストの海が意味するもの
ラストで特に重要なのが、利根と笘篠が海を見る場面です。
利根は震災当時、自分の目の前で流されていった黄色いジャンパーの少年を救えなかった記憶を抱えていました。
そして、その少年が笘篠の行方不明になった息子だった可能性が強く示唆されます。
ここで映画は、あえて二人を海の前に立たせます。
海は彼らから多くのものを奪った存在です。
本来であれば、見たくない場所かもしれません。
しかし瀬々敬久監督はラストについて、海を「憎しみの海」ではなく、その向こうに愛する人がいるような海として描きたかったという趣旨の説明をしています。
だからこのラストは、悲しみが消えた場面ではありません。
過去を忘れたわけでもない。
失ったものを抱えたまま、それでも未来へ向かうための場面です。
笘篠の「ありがとう」は許しではない
ラストの「ありがとう」という言葉も印象的です。
これは、
「あなたは悪くない」
という単純な赦しではないでしょう。
利根が長い間抱えてきた罪悪感を、初めて言葉にした。
そして笘篠は、その言葉を受け取った。
だからこその「ありがとう」なのだと思います。
本作では何度も、
声を上げること
が重要なモチーフになります。
けいは声を上げられなかった。
円山は声を上げろと訴えた。
そして最後に、利根も自分の苦しみを言葉にする。
声に出したからといって過去は変わりません。
それでも誰かに届くことで、人間は少しだけ前へ進める。
ラストの「ありがとう」は、その小さな救いを示しているのではないでしょうか。
『護られなかった者たちへ』が本当に描いたもの
本作には殺人事件があり、真犯人をめぐるどんでん返しがあります。
しかし物語の核心は、
「円山幹子が犯人だった」
という事実ではありません。
より重要なのは、
なぜ円山がそこまで追い詰められたのか
という部分です。
けいを殺したのは誰だったのか。
三雲なのか。
城之内なのか。
制度なのか。
社会なのか。
それとも、助けを必要とする人の声を聞こうとしなかった私たち全体なのか。
映画は最後まで、一つの答えを提示しません。
だからこそ『護られなかった者たちへ』というタイトルなのでしょう。
これは亡くなった人だけに向けられた言葉ではありません。
今この瞬間にも、どこかで声を上げられずにいる人へ。
そして、その声を聞く側にいる私たちへ。
「護られなかった人がいた」という事実を忘れないでほしい。
そんなメッセージが、このタイトルには込められているように思います。
『護られなかった者たちへ』は、犯人を見つけて終わるミステリーではありません。
犯人が判明した後から、本当の問いが始まる映画なのです。

