三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』は、耳の聞こえないプロボクサー・ケイコの日常を描いた作品です。
しかし、本作はいわゆる「障害を乗り越えて夢を叶える物語」ではありません。
むしろ映画の終盤でケイコは試合に敗れます。
努力してきた主人公が最後に勝利する――。
ボクシング映画ならば当然のように期待してしまう展開を、本作は選びません。
では、なぜケイコは最後の試合で負けなければならなかったのでしょうか。
そして、
「目を澄ませて」
という少し不思議なタイトルには、どのような意味が込められているのでしょうか。
この記事では『ケイコ 目を澄ませて』のラストを中心に、本作が描いた「勝つこととは別の生き方」について考察します。
※以下、映画『ケイコ 目を澄ませて』のネタバレを含みます。
『ケイコ 目を澄ませて』とは
『ケイコ 目を澄ませて』は、三宅唱監督による2022年公開の日本映画です。
主人公・ケイコを岸井ゆきの、彼女が通うボクシングジムの会長を三浦友和が演じています。
原案となったのは、実際にプロボクサーとして活動した小笠原恵子の著書『負けないで!』。
ただし、映画は小笠原恵子の人生をそのまま再現した伝記映画ではありません。
公式サイトでも、実在の人物や出来事から着想を得たフィクションであることが明記されています。
ケイコは生まれつき両耳が聞こえません。
昼間は仕事をしながら、下町にある小さなボクシングジムへ通い、プロボクサーとしてトレーニングを続けています。
ところが彼女自身は、必ずしも「絶対にチャンピオンになりたい」と燃えているわけではありません。
練習へ向かう。
縄跳びをする。
ミットを打つ。
家に帰る。
日記を書く。
また朝が来る。
本作が丁寧に映し続けるのは、そんな繰り返しです。
だからこそ『ケイコ 目を澄ませて』は、ボクシング映画でありながら、実は**「人はなぜ同じことを続けるのか」についての映画**でもあるのだと思います。
ケイコはなぜボクシングを続けているのか
映画の中で印象的なのは、ケイコ自身にも「なぜボクシングを続けているのか」が、完全には説明できていないことです。
母親から、
「いつまで続けるつもりなの?」
と問われても、明確な答えは出てきません。
ここが本作の重要なポイントでしょう。
普通のスポーツ映画なら、主人公には明確な目標があります。
大会で優勝する。
ライバルを倒す。
チャンピオンになる。
過去の敗北を乗り越える。
しかし、ケイコにはそのような分かりやすいゴールがありません。
それでもジムへ行く。
つまり彼女にとってボクシングは、「夢を実現するための手段」というよりも、いつの間にか生活そのものになっているのです。
人は必ずしも、明確な理由があるから何かを続けているわけではありません。
仕事をすること。
同じ道を歩くこと。
誰かに会うこと。
趣味を続けること。
そこに壮大な目的などなくても、それを繰り返しているうちに、その行為が自分を形づくっていくことがあります。
ケイコにとって、ボクシングもそのようなものなのでしょう。
それなのに、なぜ「辞めたい」と思ったのか
一方でケイコは、会長に休会を申し出る手紙を書きます。
しかし、その手紙をなかなか渡せません。
ここには、
続けたい気持ちと、辞めたい気持ちが同時に存在している
ケイコの複雑さがあります。
本作は、「本当は続けたいのに弱気になっている」という単純な話にはしていません。
練習はつらい。
試合は怖い。
仕事との両立もある。
周囲から期待されることも負担になる。
ケイコはボクシングが好きだからといって、そのすべてを楽しいと思っているわけではありません。
むしろ、
「好きなのに辞めたい」
「嫌なのに行ってしまう」
という矛盾した感情こそ、本作が描こうとした人間の姿ではないでしょうか。
私たちの生活も似ています。
好きな仕事でも辞めたくなる。
大切な人から離れたくなる。
続けてきたことを投げ出したくなる。
人間の感情は、いつも一つの言葉で説明できるほど単純ではありません。
『ケイコ 目を澄ませて』は、その「説明できなさ」を無理に言葉へ変換しない映画なのです。
会長はケイコにとって何だったのか
ケイコを見守る会長もまた、本作を考えるうえで重要な存在です。
会長はケイコを特別扱いしません。
だからといって、突き放しているわけでもない。
黙って見守り、必要なところで支える。
ケイコにとって会長は、師匠であると同時に、
「自分を見てくれている人」
だったのでしょう。
この映画では「見る」という行為が繰り返し描かれます。
ケイコが相手を見る。
トレーナーがケイコを見る。
会長が選手を見る。
そして観客である私たちがケイコを見る。
耳が聞こえないケイコにとって、相手の表情や身体の動きを「見る」ことは、コミュニケーションの重要な一部でもあります。
だから会長がケイコを見守っているという事実そのものが、彼女にとって大きな意味を持っていたのではないでしょうか。
ジムの閉鎖が意味するもの
そんなケイコの日常に変化をもたらすのが、ジムの閉鎖です。
重要なのは、ケイコ自身が辞めるかどうかを決める前に、彼女の居場所そのものがなくなってしまうことです。
自分が決断するよりも先に、世界の方が変わってしまう。
これは人生では珍しくありません。
会社がなくなる。
街が変わる。
誰かが病気になる。
大切な人がいなくなる。
続くと思っていた生活が、ある日突然続かなくなる。
本作ではコロナ禍も背景に置かれています。
三宅唱監督自身、本作について、変化の中で人がどう生きるのかという物語を描きたかったと語っています。
つまりジム閉鎖は単なる物語上の事件ではありません。
それは、
自分ではコントロールできない変化
を象徴しているのでしょう。
なぜラストの試合でケイコは負けるのか
そして本作最大のポイントが、終盤の試合です。
普通の映画なら、ここでケイコが勝つ展開を想像してしまいます。
ジムは閉鎖する。
会長との時間も終わる。
ならば最後くらい勝たせてあげたい。
観客は自然にそう考えます。
しかし、ケイコは敗れます。
なぜでしょうか。
おそらく、ここでケイコが勝ってしまえば、この映画が、
「努力すれば報われる物語」
になってしまうからです。
耳が聞こえなくても努力した。
厳しい練習にも耐えた。
そして最後には勝利した。
それでは非常に分かりやすい。
しかし現実は、そんなふうにはできていません。
努力しても負けることはある。
続けても報われないことはある。
一生懸命生きても、状況が好転するとは限らない。
三宅監督も、ボクシングや障害を題材にした作品が「頑張ればいいことがある」という物語になりやすいことへの違和感を語っています。
だから本作では、勝利そのものをゴールにしなかったのでしょう。
「負けること」がケイコを解放する
不思議なのは、ケイコが敗北したにもかかわらず、映画が絶望的には終わらないことです。
むしろ試合が終わった後、ケイコの世界は少し広がったように見えます。
それまで彼女は、
「ボクサーである自分」
に縛られていたとも考えられます。
練習しなければならない。
試合に出なければならない。
期待に応えなければならない。
負けてはいけない。
しかし実際に負けてみると、それでも世界は終わりません。
朝は来る。
街には人がいる。
仕事へ向かう人もいる。
川は流れている。
鳥も飛んでいる。
つまりケイコは、
「負けても生活は続いていく」
という当たり前の事実に戻ってくるのです。
これは意外に大きな解放ではないでしょうか。
最後に対戦相手と再会する意味
試合の後、ケイコは偶然、先ほど自分を倒した対戦相手と再会します。
リングの上では敵だった女性が、そこでは作業着姿で日常を生きています。
この場面は非常に重要です。
リングの上では、
「勝者」と「敗者」
に分かれていた二人。
しかしリングを降りれば、どちらもこの街で生活する一人の人間です。
勝った女性にも日常がある。
負けたケイコにも日常がある。
勝敗は、その人間の人生すべてを決めるものではありません。
映画はここで、ボクシングという勝敗の世界から、もっと広い日常の世界へ戻っていきます。
そして対戦相手を見つめるケイコの表情には、単なる敗北感とは違う感情が浮かんでいるように見えます。
悔しい。
でも少しおかしい。
そして、まだ何かが続きそうでもある。
三宅監督は、このラストのケイコの感情を一語で表すなら「悔しい」と語っています。
そして、悔しいのなら「続けるだろう」と考えたことが、このラストにつながったと説明しています。
つまりこのラストは、
「もうボクシングは終わり」
という場面ではありません。
むしろ、
まだ終われないケイコの姿
なのです。
ラストでケイコが走り出す意味
そしてケイコは再び身体を動かします。
ここが本作の美しいところです。
彼女が今後ボクシングを続けるのかは、明確には示されません。
別のジムを探すのかもしれない。
しばらく休むのかもしれない。
本当に辞めてしまう可能性もあります。
しかし、それはそれほど重要ではありません。
重要なのは、
ケイコ自身が止まっていない
ということです。
ジムがなくなった。
会長との時間も変わった。
試合にも負けた。
それでも身体は動く。
人生とは、何か大きな答えを見つけてから次へ進むものではありません。
分からないまま歩く。
迷ったまま働く。
悔しいまま走る。
ケイコの姿は、そんな人間の生き方そのものに見えます。
タイトル「目を澄ませて」の意味
では、なぜタイトルは『ケイコ 目を澄ませて』なのでしょうか。
普通なら「耳を澄ませる」と言います。
しかし本作では、
「目を澄ませる」
という表現が使われています。
三宅監督によれば、撮影時はコロナ禍でスタッフもマスクを着用し、相手の目を見ながらコミュニケーションを取る機会が増えていました。
またボクシングでも手話でも、相手をよく「見る」ことが重要だったと語っています。
つまり「目を澄ませて」とは、単にケイコが耳の聞こえない人物だから付けられた言葉ではありません。
むしろこれは、
映画を見る私たちへの言葉
でもあるのでしょう。
大げさな説明はない。
感動的な音楽もない。
ケイコ自身も、自分の気持ちを長々とは説明しない。
だから観客は彼女の表情を見るしかありません。
手を見る。
身体を見る。
街を見る。
人と人の距離を見る。
そしてそこから、言葉になっていない感情を受け取る。
タイトルそのものが、この映画の「見方」を示しているのです。
なぜ劇伴がないのか
『ケイコ 目を澄ませて』では、感情を誘導するための劇伴が使われていません。
三宅監督も、本作でBGMとなる劇伴を使用していないことを語っています。
通常の映画なら、悲しい場面では悲しい音楽が流れます。
勝負の場面では盛り上がる音楽が流れます。
それによって観客は、
「ここで感動してください」
「ここで緊張してください」
と導かれます。
しかし本作には、それがありません。
聞こえてくるのは、
グローブがミットを打つ音。
縄跳びの音。
足が床を擦る音。
電車の音。
街の雑踏。
川の流れ。
つまり観客は、ケイコ本人には聞こえていない音を聞きながら、ケイコの世界を見ています。
この少し奇妙な構造によって、逆に私たちは普段どれほど音に頼って世界を理解しているのかに気づかされます。
「目を澄ませて」という映画なのに、観終わる頃には、
耳まで澄まされている。
それが本作の大きな魅力です。
16mmフィルムで撮られた理由
本作は16mmフィルムで撮影されています。
撮影を担当したのは月永雄太です。
三宅監督によれば、本編の撮影は19日間に加えて実景撮影1日という形で行われました。
16mm特有の粒子のある映像は、ケイコの生活する街を独特の質感で映し出します。
最新のデジタル映像のように、すべてが鮮明に見えるわけではありません。
少し揺らぎがある。
少し粗い。
しかし、その不完全さによって、街の空気や人間の身体が妙に生々しく感じられます。
本作が描こうとしているのも、完璧な人間ではありません。
迷う人。
疲れる人。
辞めたくなる人。
負ける人。
それでも次の日を生きる人。
16mmの映像そのものが、そんな映画の思想とよく似ています。
『ケイコ 目を澄ませて』は「障害を克服する映画」ではない
本作について最も注意したいのは、
「耳が聞こえないのにプロボクサーとして頑張る女性の感動物語」
としてだけ捉えないことです。
もちろんケイコには聴覚障害があります。
しかし映画は、それを「克服すべき欠点」として扱いません。
ケイコは最初からケイコです。
彼女には聞こえない世界があり、その世界の中で働き、弟と暮らし、ボクシングをしています。
だから物語のゴールも、
「障害を乗り越えて勝利すること」
ではありません。
むしろ本作は、障害の有無とは別のところにある、
「人は変化の中でどう生きるのか」
という問題へ向かっていきます。
「頑張れば報われる」から自由になる映画
私たちはしばしば、
「努力は報われる」
という言葉を好みます。
確かに、それは人を励ます言葉です。
しかし同時に、残酷な言葉でもあります。
報われなかった人に、
「努力が足りなかった」
と思わせてしまうからです。
『ケイコ 目を澄ませて』は、その価値観から少し離れています。
ケイコは努力します。
でも負けます。
ジムもなくなります。
人生が劇的に好転するわけでもありません。
それでも彼女の努力が無意味だったとは、まったく感じません。
ここに本作の優しさがあります。
結果が出なかったからといって、それまで過ごした時間まで無価値になるわけではない。
勝てなかったからといって、その人が敗者になるわけでもない。
続けてきた時間は、それ自体としてその人の中に残る。
だからケイコは、負けた後にも進むことができるのでしょう。
まとめ|負けても、人生は終わらない
『ケイコ 目を澄ませて』のラストには、大きな奇跡は起こりません。
ケイコは勝利しない。
ジムが復活するわけでもない。
突然人生の答えを見つけるわけでもない。
それでも彼女は生きています。
悔しさを抱えたまま。
迷いを抱えたまま。
また身体を動かしている。
だからこの映画が最後に伝えているのは、
「頑張れば勝てる」という希望ではなく、「負けても次の日はある」という希望
なのではないでしょうか。
何かを諦めるかもしれない。
大切な場所を失うかもしれない。
努力しても結果が出ないかもしれない。
それでも、人間はまた別の景色を見ることができます。
そのとき必要なのは、人生をきれいな物語にすることではありません。
自分の目の前にあるものを、もう一度よく見ること。
だから映画は私たちに静かに呼びかけます。
目を澄ませて。
そこには、勝ったか負けたかだけでは決して見えない、その人の人生が映っているのです。

