映画『前科者』考察|佳代はなぜ保護司になった?工藤誠とラスト、タイトルの意味を解説

映画『前科者』は、犯罪を犯した人の更生を支える「保護司」を主人公にした社会派ヒューマンドラマです。

しかし、本作が描いているのは単純な「犯罪者にも事情がある」という物語ではありません。

むしろ突きつけられるのは、

罪を償った人間を、社会は本当にもう一度受け入れられるのか。

という問いです。

そして同時に、

犯罪が起きてから人を裁くことと、犯罪が起きる前に人を救うことのどちらが重要なのか

という問題も描かれています。

本記事では、阿川佳代が保護司になった理由、工藤誠と弟・実の関係、ラストで佳代が本を返した意味、そしてタイトル『前科者』が意味するものについて考察します。

※ここから映画『前科者』の結末を含むネタバレがあります。

映画『前科者』とは

『前科者』は、香川まさひと原作、月島冬二作画の同名漫画を原作とした映画です。

監督・脚本・編集は岸善幸。主演を有村架純が務め、工藤誠役を森田剛、滝本真司役を磯村勇斗、工藤実役を若葉竜也が演じています。

2022年1月28日に劇場公開されました。

主人公の阿川佳代は、コンビニで働きながら保護司をしています。

保護司は、罪を犯した人の更生や社会復帰を支える非常勤の国家公務員です。しかし基本的に給与を受け取る仕事ではなく、佳代も生活のために別の仕事を続けています。

そんな佳代が担当しているのが、殺人罪で服役していた工藤誠です。

真面目に働き、社会復帰へ向けて歩んでいた誠。

ところが保護観察期間の終了を目前にして、彼は突然姿を消してしまいます。

同じ頃、街では連続殺傷事件が発生。

やがて事件は、誠の壮絶な過去と弟・実、そして佳代自身の過去へとつながっていきます。

工藤誠はなぜ犯罪者になったのか

工藤誠は、単純に「暴力的な人間」として描かれてはいません。

幼い頃、誠と弟の実は家庭内暴力のある環境で育ちます。

母親は助けを求めますが十分に救われず、最終的には兄弟の目の前で命を奪われてしまう。

その後も誠たちは社会から十分な保護を受けられたとは言い難い人生を送ります。

そして大人になった誠もまた、職場で激しいいじめを受けた末に同僚を殺害してしまいました。

もちろん、どれほど悲惨な過去があっても殺人が正当化されるわけではありません。

本作もそこを曖昧にはしていません。

重要なのは、

「なぜその人は犯罪を犯すところまで追い詰められたのか」

を見ることです。

犯罪者を「悪い人間」として切り離してしまえば話は簡単です。

しかし『前科者』は、犯罪に至るまでには家庭、貧困、虐待、孤立、職場環境、行政など、さまざまな要因が重なっている場合があることを描きます。

誠は罪を犯した。

しかし、もっと早い段階で誰かが彼に手を差し伸べていたら、その罪は起きなかったのではないか。

それこそが本作の根底にある問いです。

弟・実が復讐したかったのは「社会」そのもの

弟の工藤実は、兄の誠以上に過去に囚われています。

実が狙っていくのは、自分たち兄弟や母親を助けてくれなかった人々です。

DV被害を十分に受け止めなかった人。

母親たちの居場所を守れなかった人。

施設で自分を傷つけた人。

そして母親を殺した父親や、その父親を弁護した者。

つまり実が憎んでいるのは、特定の一人だけではありません。

「助けを求めたのに誰も助けてくれなかった社会」そのものです。

ただし、ここには大きな矛盾があります。

社会から傷つけられた実は、復讐することで新たな被害者を生み出してしまう。

被害者だった人間が加害者になり、その加害によって別の被害者が生まれる。

『前科者』が描いているのは、この連鎖です。

誰かが途中で止めなければ、

被害者と加害者は永遠に増え続けてしまう。

佳代が保護司として行っている仕事は、その連鎖を断ち切ろうとする行為でもあります。

佳代はなぜ保護司になったのか

佳代にもまた、大きな過去があります。

中学生だった佳代は男に襲われ、その際、佳代を助けようとした滝本真司の父親が命を落としました。

佳代自身は被害者です。

本来ならば、犯人を憎んでも不思議ではありません。

ところが佳代は、まったく別の方向へ進みました。

彼女が考えたのは、

自分を襲った犯人にも、事件を起こす前に話を聞いてくれる誰かがいたなら、あの事件は起きなかったのではないか

ということでした。

だから佳代は保護司になった。

ここが『前科者』という映画の最も重要な部分でしょう。

佳代は犯罪者を無条件に許しているわけではありません。

「かわいそうだから仕方がない」と考えているわけでもない。

彼女が望んでいるのは、

次の被害者を生まないこと。
そして次の加害者を生まないこと。

なのです。

佳代と滝本は「同じ事件」から正反対の道を選んだ

興味深いのが佳代と滝本の対比です。

二人の人生を決定的に変えたのは、同じ事件でした。

佳代はその事件から、

「犯罪を起こす前に誰かが支えなければならない」

と考え、保護司になります。

一方、父親を失った滝本は、

「犯罪者を捕まえ、被害者を増やしてはいけない」

と考え、刑事になる。

どちらが正しいという話ではありません。

むしろ映画は、二人の考えを対立させながら、どちらも必要なのだと示しているように見えます。

犯罪を捜査し、犯人を捕まえる刑事。

犯罪を犯した人間が再び罪を犯さないよう支える保護司。

滝本は「犯罪のあと」を処理する立場であり、佳代は「次の犯罪」を防ごうとする立場です。

二人は別々の道を歩いていますが、目的は同じです。

もう誰にも、自分たちと同じ思いをさせたくない。

その一点では、二人はずっとつながっています。

「法律や福祉だけでは救えない」の意味

本作を象徴する考えの一つが、

制度だけでは人間を救いきれない

ということです。

岸善幸監督は、本作について、制度やシステムが機能しなければ救えない人が出てくるという問題意識から、このテーマを描いたと語っています。

もちろん法律も福祉も必要です。

しかし制度には必ず境界があります。

書類上では問題が解決していても、その人自身が孤独なら再び崩れてしまうかもしれない。

社会復帰の場所が用意されても、周囲から「犯罪者」として拒絶され続ければ、そこを居場所とは思えないかもしれない。

だから佳代は「話を聞く」。

保護司には犯罪者を逮捕する力も、判決を下す力もありません。

岸監督自身も、保護司について、基本的には対象者と向き合い話を聞くことが主な役割だと説明しています。

一見すると、とても小さなことです。

しかし『前科者』は、

誰か一人でも自分の話を聞いてくれる人間がいることが、犯罪を防ぐ最後の防波堤になる場合がある

と描いているのだと思います。

なぜ誠は再び罪を犯そうとしたのか

物語終盤、弟・実を失った誠は、宮口エマへの復讐へ向かいます。

ここは非常に重要です。

社会復帰へ向け順調に進んでいた誠が、再び過去へ引き戻されてしまうからです。

人間の更生は、

「刑務所を出たから完了」

ではありません。

仕事に就けば終わりでもありません。

過去の記憶、家族との関係、社会からの偏見。

それらによって、人は何度でも過去へ戻される。

誠は更生できなかったのではなく、

更生の途中にいた

と考えたほうがいいでしょう。

だからこそ佳代は、誠を見捨てません。

罪を犯しそうになった瞬間に、

「やっぱり犯罪者だった」

と切り捨てるのではない。

もう一度戻ってくる道を残そうとします。

岸監督は「更生」という言葉について、「やり直し」だけでなく「人間に返る、戻る」という意味を意識して本作を作ったと語っています。

その意味を考えると、終盤の佳代の行動は本作のテーマそのものです。

ラストで佳代が本を返した意味

ラストで佳代は、中学生時代から持ち続けていた本を学校の図書室へ返します。

その本には、父親を殺された滝本が当時書き残した激しい感情がありました。

佳代はそれを消し、本を元の場所へ戻します。

これは単に「借りた本を返した」という場面ではありません。

佳代が長年抱えていた過去を、ようやくあるべき場所へ戻したことを意味しています。

佳代はずっと事件に囚われていました。

自分が襲われなければ滝本の父親は死ななかったのではないか。

自分のせいなのではないか。

そんな罪悪感を抱え続けてきたのでしょう。

しかし、本来佳代は事件の加害者ではありません。

彼女もまた被害者です。

本を返すという行動は、

「私はもう、あの日の罪悪感だけで生きなくていい」

と自分自身に許可を出した瞬間とも解釈できます。

そしてそれは、「過去を消す」こととも少し違います。

書かれていた文字を消しても、本そのものはなくならない。

過去はなかったことにはできない。

それでも過去を抱えたまま、元の場所へ戻し、人生を先へ進めることはできる。

これは誠たち「前科者」の更生とも重なっています。

タイトル『前科者』が本当に意味するもの

タイトルだけを見ると、「前科者」は工藤誠など罪を犯した人物を指しているように思えます。

しかし映画を最後まで見ると、この言葉に違和感が生まれます。

人は一度犯罪を犯した瞬間から、いつまで「前科者」なのでしょうか。

刑期を終えても前科者。

仕事を始めても前科者。

反省しても前科者。

何十年罪を犯さなくても前科者。

もし社会が永遠にその人物を過去の罪だけで判断するなら、

更生とはいったい何のためにあるのか。

という矛盾が生まれます。

『前科者』というタイトルは人物を分類する言葉であると同時に、その分類を使っている私たち自身に向けられた問いなのではないでしょうか。

目の前にいる「現在の人間」ではなく、

「過去に犯罪を犯した人間」

としてしか見ない。

その視線こそが、社会復帰を難しくしている可能性があります。

『前科者』が伝えたかったこと

本作の答えは、非常に素朴です。

人は一人では更生できない。

ということではないでしょうか。

罪を犯した本人が反省することは当然必要です。

しかし本人の努力だけではどうにもならないこともあります。

住む場所。

働く場所。

周囲からの信頼。

そして、失敗したときにもう一度話を聞いてくれる人。

そうしたものがあって初めて、人は社会へ戻ることができます。

佳代は完璧な人間ではありません。

感情的にもなるし、傷つきもする。

だからこそ意味があります。

強い人間が弱い人間を救う話ではなく、

傷を持つ人間が、別の傷を持つ人間の隣に立つ話

だからです。

まとめ|「罪を償う」とは社会へ戻ること

『前科者』は、犯罪者を許すべきだと単純に主張する映画ではありません。

被害者の痛みも消えません。

犯した罪も消えません。

過去そのものを書き換えることもできない。

それでも人間は、その後の人生を生きていかなければなりません。

だから必要なのは、

罪を忘れることではなく、罪を犯した人が再び罪を犯さずに生きられる場所を作ること。

なのだと思います。

佳代が工藤誠に寄り添うことは、誠一人を救うためだけではありません。

新しい加害者を生み出さないためであり、新しい被害者を生み出さないためでもあります。

一度罪を犯した人間を永遠に「前科者」と呼び続ける社会と、もう一度人間として迎え入れる社会。

映画『前科者』は、そのどちらを選ぶのかを観客に問いかけています。

そしてラストで佳代が本を元の場所へ返したように、

過去は消せなくても、人は過去をあるべき場所に置き直し、もう一度歩き始めることができる。

それこそが、この映画の描く「更生」なのではないでしょうか。