映画『正欲』を徹底考察|ラスト「いなくならない」の意味、水の正体と“普通”の怖さ【ネタバレ】

**ネタバレ注意:**この記事では映画『正欲』の結末、夏月と佳道の秘密、大也が抱える欲望、逮捕に至る経緯、ラストシーンまで詳しく解説・考察しています。

映画『正欲』で最も恐ろしいものは、登場人物たちの特殊な欲望ではない。

むしろ恐ろしいのは、

「自分は普通であり、他人を理解する側の人間だ」

と疑わなくなることなのではないだろうか。

桐生夏月と佐々木佳道は、水や、水が噴き出す光景に特別な性的感覚を抱いている。

諸橋大也もまた、同じような感覚を抱えている。

対して検事・寺井啓喜は、社会の常識や法律の側にいる。

そして神戸八重子は「多様性」を肯定し、自分は少数者の気持ちを理解できる側だと考えている。

一見すると、誰が正しくて誰が間違っているのか分かりやすい。

ところが物語が進むほど、その境界は崩れていく。

『正欲』が最後に突きつけるのは、

「他人を理解すること」よりも、「自分には理解できない人間が存在すると認めること」の方が難しい

という事実なのである。

そして、ラストで夏月が残す「私はいなくならない」という言葉には、この映画の答えがほとんどすべて詰まっている。

まず結論|映画『正欲』の疑問を整理

疑問結論・考察
「正欲」というタイトルの意味「性欲」と同じ読みを持つ「正欲」。誰が欲望の“正しさ”を決めるのかを問い返すタイトル
夏月・佳道・大也は何に惹かれている?人間ではなく、水や水が噴き出す光景に強い性的感覚を抱いている
なぜ「水」なのか?劇中では欲望の対象そのもの。同時に映画では、形を固定できないもの、生命、暴力、つながりを表現するモチーフとしても機能する
夏月と佳道は恋愛関係なの?一般的な恋愛とは異なる。互いの存在を「この世界を生き延びるための支え」として選んだ関係
なぜ二人は結婚した?“普通の夫婦”になるためというより、互いが消えないための共同体をつくる意味が大きい
大也はなぜ八重子を拒絶する?八重子が善意から「あなたを理解できる」と近づくこと自体が、大也には新たな分類・決めつけに感じられるから
佳道と大也はなぜ逮捕される?児童買春などに関係する矢田部と、動画・ネット上のつながりを持っていたため。映画はその後の有罪・無罪までは描かない
寺井は悪役なの?単純な悪役ではない。監督自身、観客が最初に寺井を基準として世界を見るよう設計したと説明している
ラストの「私はいなくならない」の意味「あなたを完全に理解する」ではなく「それでも私はあなたとの関係を切らない」という生存の約束
原作と映画の大きな違い原作が序盤で事件の結果を示すのに対し、映画はそれを終盤まで伏せ、群像劇をサスペンスとして再構成している

映画『正欲』とは

『正欲』は、朝井リョウの同名小説を岸善幸監督が映画化した2023年の日本映画。

脚本は港岳彦。

主な出演者は、

  • 寺井啓喜:稲垣吾郎
  • 桐生夏月:新垣結衣
  • 佐々木佳道:磯村勇斗
  • 諸橋大也:佐藤寛太
  • 神戸八重子:東野絢香

上映時間は134分。

主題歌にはVaundyの「呼吸のように」が使用されている。映画『正欲』公式サイト

第36回東京国際映画祭では、岸善幸監督が最優秀監督賞を受賞し、作品自体も観客賞を受賞した。東京国際映画祭・受賞結果

原作小説は朝井リョウの作家生活10周年記念作品として2021年に刊行され、第34回柴田錬三郎賞を受賞している。新潮社『正欲』

『正欲』のあらすじ【ネタバレあり】

物語は、一見すると何の関係もない人々を並行して描くところから始まる。

横浜で暮らす検事・寺井啓喜。

息子・泰希は学校へ行かなくなり、YouTubeで動画を配信するようになる。

啓喜は、学校や社会から外れていく息子を心配するが、その態度は次第に、

「普通の道から外れることは間違っている」

という強い価値観として現れていく。

一方、広島で暮らす桐生夏月は、ショッピングモールで働きながら実家で生活している。

結婚、出産、家族。

周囲ではごく自然に語られる未来を、夏月は自分の人生として想像できない。

彼女には誰にも話せない秘密があった。

夏月が強い性的感覚を抱くのは、人間ではない。

水だった。

そして夏月は、中学生時代に自分と同じ感覚を持っているらしい同級生・佐々木佳道と出会っていた。

大人になった二人は再会する。

互いに社会へ溶け込むように生きてきたものの、心の奥では「自分はこの世界で生きられない」と感じ続けていた。

やがて二人は、恋愛というより、

この世界から消えないための同盟

を結ぶ。

そして結婚する。

別の場所では、大学生の神戸八重子が「ダイバーシティ」をテーマにした学園祭イベントを企画している。

男性への恐怖を持つ八重子は、女性へ性的な関心を示さないように見える諸橋大也なら安心できるのではないかと考え、彼へ近づいていく。

だが、大也にも誰にも話せない秘密があった。

大也もまた、水へ特別な性的感覚を抱く一人だったのである。

こうして、一見無関係だった人物たちが「水」を介してつながり始める。

しかし、そのつながりが悲劇を引き起こす。

「正欲」というタイトルの本当の意味

タイトルを理解するうえで非常に重要なのが、原作者・朝井リョウ本人の説明である。

朝井はインタビューで、「性欲」というどこか私的で秘密めいた響きに、公的なイメージを持つ「正」という漢字を組み合わせるところからタイトルの発想が生まれたと説明している。

また、本作の根底には「生きることを選ぶきっかけになるものは何か」という問いがあったとも語っている。TOKION・朝井リョウインタビュー

ここが重要だ。

タイトルは、

「どんな性欲も正しい」

という意味ではない。

むしろ、

「そもそも“正しい欲望”とは何なのか?」

という疑問なのである。

異性を好きになる。

恋愛する。

結婚する。

子どもをつくる。

そうした欲望は、社会の仕組みと非常に相性がいい。

恋愛映画にもなる。

結婚式にもなる。

家族にもなる。

広告にも商品にもなる。

しかし夏月たちの欲望は、そのどこにも接続できない。

同じ「本人には選べない欲望」でありながら、一方は人生の王道として祝福され、もう一方は説明しただけで奇異な目を向けられる。

では、そこにある「正しさ」は誰が決めたのか。

タイトルの「正」は、その不安定さを暴く一文字なのである。

『正欲』は「多様性を否定する映画」ではない

ここは本作で最も誤解されやすい。

『正欲』は多様性そのものを否定しているわけではない。

朝井リョウ自身も、問題にしているのは「多様性」という概念そのものではなく、その言葉が使われるときの「自分は理解する側だ」という姿勢であることを説明している。

私たちは多様性を外から眺め、

「受け入れてあげる」

側なのではない。

自分自身も、最初から多様性の内側にいる。

そして人間には、どう想像しても理解できない他人が存在する。

岸善幸監督も東京国際映画祭のインタビューで、言葉だけでは捉えられない「マイノリティの中のマイノリティ」が存在するなら、多様性を掲げながら結局は多数派の価値を優先する社会になりかねないという趣旨を語っている。東京国際映画祭公式・岸善幸監督インタビュー

だから『正欲』が求めるのは、

「全部理解しよう」

ではない。

むしろ、

「自分には理解できない」という場所から逃げないこと

なのだ。

寺井啓喜はなぜ必要なのか?

稲垣吾郎演じる寺井啓喜は、本作における観客の入口である。

不登校の息子には学校へ戻ってほしい。

犯罪には法律で対処する。

家庭を守りたい。

これだけを見れば、彼の考え方はそれほど異常ではない。

むしろ、多くの観客にとって最も理解しやすい人物だろう。

これは意図的だ。

岸監督は寺井について、「普通」の側にいる人物として配置し、観客が彼を基準に映画を見たあと、次第に自分自身の価値観を疑うような役割を想定したことを明かしている。ぴあ・岸善幸監督Q&A

つまり寺井は「悪い多数派」なのではない。

私たち自身に一番近い人物なのである。

だから怖い。

「普通」という言葉はなぜ暴力になるのか

寺井が息子に望んでいることも、最初は善意である。

学校へ行ってほしい。

社会から脱落してほしくない。

将来困ってほしくない。

しかし善意はいつの間にか、

「普通に生きることができないなら、本人の側に問題がある」

という発想へ変わっていく。

ここで『正欲』は「普通」という言葉の奇妙さを露出させる。

普通とは平均なのか。

多数決なのか。

法律なのか。

倫理なのか。

単なる慣習なのか。

誰も明確には答えられない。

それでも「普通」という言葉は、人間を分類するときには恐ろしく強い。

夏月や佳道たちが恐れているのも、自分の欲望そのもの以上に、

それを他人へ説明した瞬間、自分という人間すべてが“異常”に分類されること

なのではないだろうか。

なぜ「水」なのか?

本作最大のモチーフが水である。

ネット上ではしばしば「水フェチ」と表現されるが、映画を考える場合、その名称を付けただけで分かった気にならない方がいい。

重要なのは、水が彼らにとって単なる象徴ではなく、まず本当に欲望の対象であることだ。

そのうえで岸善幸監督は、映画として水をかなり意識的に演出している。

監督によれば、水には美しさと同時に暴力的な側面があり、水音についても生命の源を思わせる側面と暴力的な側面の両方を考えながら作ったという。ぴあ・岸善幸監督Q&A

この制作意図を踏まえると、水にはいくつもの意味が重なって見えてくる。

1.水には決まった形がない

水は入れられた器によって形を変える。

丸い器なら丸くなる。

四角い器なら四角くなる。

しかし水そのものが丸や四角なのではない。

これは『正欲』に登場する人間とも似ている。

異性愛者。

同性愛者。

無性愛者。

性的マイノリティ。

普通。

異常。

私たちは理解するために名前をつける。

しかし名前をつけた途端、

その人自身よりも「分類」の方を見始めてしまうことがある。

水は、その分類からこぼれ続けるものとして読むことができる。

2.水は生きるために必要だが、ときに人を傷つける

水がなければ人間は生きられない。

しかし大量の水は人を殺すこともある。

岸監督が「美しさ」と「暴力性」の両面に言及しているのは興味深い。

『正欲』における欲望も同じだ。

欲望は生きる力になる。

夏月と佳道は、同じ感覚を共有する人間を見つけたことで、もう少し生きてみようと思える。

ところが同じ「水」をきっかけとしたつながりが、最後には彼らを事件へ巻き込んでしまう。

生かしたものと、破壊したものが同じなのである。

3.水は離れた人間をつなぐ

夏月。

佳道。

大也。

三人は、普通に暮らしていたら出会わなかったかもしれない。

しかし水が彼らをつなぐ。

これは単なる同じ趣味のコミュニティではない。

自分だけだと思っていた感覚を、世界のどこかにいる誰かも持っている。

その発見によって、

「自分は世界で一人ではない」

と知る。

だから水は本作において、

欲望であると同時に、生きるための地下水脈

のようなものなのである。

夏月と佳道はなぜ結婚したのか?

夏月と佳道の関係を単なる恋愛として捉えると、『正欲』の重要な部分を見落とす。

二人は一般的な意味で恋に落ち、性愛を経て結婚したわけではない。

二人を強烈に結びつけているのは、

「自分と同じ種類の孤独を知っている人間が、この世界にもう一人いる」

という事実だ。

朝井リョウは『正欲』執筆時の主題について、「生きる」を選ぶためのエンジンは何なのかを考えていたと語っている。

そして現代社会では「家族」や「子ども」が生きる原動力として語られやすい一方、その家族制度へ入る入口には、しばしば人間を恋愛・性愛の対象にすることが前提として存在すると指摘している。TOKION

この視点から見ると、夏月と佳道の結婚は非常に面白い。

二人は社会が用意した「結婚」という器を使う。

しかし、その中身は社会が想定した夫婦とは違う。

二人にとって結婚は、

恋愛のゴールではなく、生存のための共同体

なのである。

大也と八重子|善意でも人は他人を傷つける

神戸八重子は重要な人物である。

なぜなら彼女は差別主義者ではないからだ。

むしろ反対だ。

彼女はダイバーシティを肯定する。

自分自身にも傷がある。

少数者の苦しみを理解しようとする。

だから大也にも近づく。

しかし、ここに本作の最も痛烈な罠がある。

八重子は知らず知らずのうちに、

「私はあなたを理解できる」

という場所に立ってしまう。

ところが大也の内側にあるものは、八重子が想像していた「少数者」のカテゴリーからさえ外れていた。

大也にとって、

「あなたも私と同じように傷ついているんでしょう」

という接近は、救いとは限らない。

それもまた、他人から自分を定義されることだからだ。

悪意のある差別だけが人を傷つけるのではない。

善意の理解も、ときには暴力になる。

八重子と大也の関係は、この映画の「多様性」批判を最も鋭く表現している。

『正欲』は「どんな欲望でも認めろ」と言っているわけではない

ここも非常に重要だ。

本作は、

「本人の欲望なら何をしても許される」

とは描いていない。

欲望が存在することと、その欲望によって他者を傷つけることは別問題である。

だから終盤には矢田部という人物が登場する。

彼を通して、児童買春や児童ポルノをめぐる実際の加害と、夏月・佳道・大也たちの欲望が同じ事件の中へ入り込んでしまう。

佳道と大也も捜査対象となり、逮捕される。

ここで社会から見れば、

「子どもが映った動画」

「性的な目的」

「同じネットワークにいた人間」

という情報が結びついていく。

しかし佳道たちが見ていたものは、捜査側が想像するものとは違う。

もちろん映画は、その後の裁判や最終的な法的判断まで描かない。

したがって「完全な冤罪だった」とまで断定するのも適切ではないだろう。

重要なのは、

人間の内側にある欲望を、外側から見える行動だけで完全に説明することはできるのか

という問題である。

ラスト|夏月の「私はいなくならない」は何を意味するのか

そして物語は、寺井と夏月の対面へたどり着く。

ここで二人の立場は対照的だ。

寺井は検事。

夏月は逮捕された佳道の妻。

制度上、寺井には夏月たちを理解する必要がある。

しかし、夏月と佳道が語る水への感覚は、寺井にとってあまりに想像しにくい。

それでも夏月は、そのような人間が本当に存在するのだと訴える。

そして佳道への伝言として告げる。

「私はいなくならないから」

この言葉こそ、『正欲』の核心ではないだろうか。

夏月は、

「あなたのすべてが分かる」

とは言っていない。

「社会が理解してくれる」

とも言わない。

「裁判で必ず助かる」

とも言わない。

ただ、

私はいなくならない。

それだけである。

「理解する」より「いなくならない」

ここには本作がたどり着いた、一つの答えがあるように思える。

私たちは他人について、

理解したい。

説明したい。

名前をつけたい。

カテゴリーへ入れたい。

そうすることで安心する。

しかし本当に他人を100%理解することなどできない。

それなら人間関係に必要なのは、完全な理解ではなく、

「分からない部分を残したまま、その人との関係を切らないこと」

なのかもしれない。

夏月と佳道は同じ感覚を共有している。

それでも二人が完全に同じ人間になるわけではない。

それでも隣にいる。

「理解」より先に「存在」がある。

ここに『正欲』の希望がある。

寺井の家族と夏月たちが逆転するラスト

ラストをさらに残酷にしているのが、寺井自身の家庭である。

映画の途中で妻と息子は寺井から離れていく。

寺井は「普通の家族」を守ろうとしていた。

ところが、その普通を強く要求した結果、家族との距離は広がってしまう。

対して夏月と佳道は、社会から見れば非常に理解しづらい夫婦である。

恋愛を前提とした結婚ですらない。

それでも夏月は、

「いなくならない」

と宣言する。

つまり終盤では、

寺井夏月・佳道
社会的には“普通”の家族一般的な夫婦像から外れる
正しい家庭を求める自分たちなりの関係をつくる
理解させようとする完全な理解を要求しない
家族が離れていく「いなくならない」と約束する

という逆転が起きている。

『正欲』は、

普通だからつながれるわけではない。

という事実をラストで示すのである。

だから、このラストはハッピーエンドではない

もちろん「いなくならない」という言葉ですべてが解決するわけではない。

佳道は拘束されている。

大也の未来も分からない。

世間の偏見も消えない。

社会制度も変わらない。

だからこれは、華々しい救済ではない。

しかし『正欲』が最初から扱っていたのは、世界を変える方法ではなく、

「明日も生きてみようと思うためには何が必要なのか」

という問題だった。

世界全体に理解されなくてもいい。

たった一人、

「いなくならない」

と言ってくれる人がいる。

それだけで、今日から明日へ進む理由になり得る。

だから本作の救いは、とても小さい。

しかし小さいからこそ現実的なのである。

なぜ主題歌がVaundy「呼吸のように」なのか

主題歌のタイトルも、本作を見た後では意味深く響く。

呼吸は特別な行為ではない。

賞賛もされない。

社会的な成功でもない。

ただ、生きている限り続ける。

『正欲』公式サイトも、この曲を「かけがえのない人とのつながり」を歌う楽曲として紹介している。映画『正欲』公式サイト

夏月と佳道の関係もよく似ている。

大げさな「運命の恋」ではない。

世界を変えない。

ただ相手がいる。

そして明日もいる。

その存在が、

呼吸のように人を生かしていく。

タイトルまで含めて非常に美しいエンディングである。

原作小説と映画の違い

映画版は原作を単純に短くした作品ではない。

かなり意識的に物語の配置を組み替えている。

最大の違いは「事件をいつ見せるか」

原作小説では、後に起こる事件についての情報がかなり早い段階で読者へ提示される。

一方、映画はそれを終盤まで隠す。

そのため初見の観客は、

「このバラバラの人たちはどうつながるのか」

というサスペンスとして物語を見ることになる。

映画版が原作とは異なり、衝撃的な事件を終盤へ配置している点は公開時の評でも指摘されている。「スクリーンとともに」映画評

これは非常に効果的だ。

観客は最初、

寺井。

夏月。

佳道。

八重子。

大也。

を別々の人間として見る。

そして最後に一本の線につながった瞬間、

自分がそれまで彼らをどう分類して見ていたのかまで突きつけられる。

映画は5人へ焦点を絞っている

原作文庫は500ページを超える長編。

134分の映画では当然、多くの要素が削られている。

映画版は特に主要5人へ焦点を絞り、佳道についても原作より早く、映画冒頭から存在を強く打ち出している。nippon.com『映画「正欲」が描く、孤独な魂の漂流と出会い』

したがって、

映画版と原作版は同じ結論へ向かいながら、そこへ至る体験が違う。

原作は文章によって人物の内面へ深く潜る。

映画は表情、沈黙、音、水の映像によって「説明できない感覚」を体験させる。

この違いは大きい。

映画だからこそ「水」を説明しすぎなかった

岸監督は『正欲』の人物たちについて、自分自身も完全には分からない状態から想像力を頼りに撮影し、完成後も表現が多数派側の感覚になっていないか自問していると語っている。東京国際映画祭公式インタビュー

これは作品そのものと一致している。

もし映画が、

「水を好きになる人とはこういう人です」

「つまりこういう心理なのです」

と完璧に説明してしまったら、『正欲』のテーマを自ら裏切ってしまう。

理解できない部分を理解できないまま残す。

観客にもその不快感を抱かせる。

だから水の映像は、説明ではなく「体験」として置かれている。

分からなさを消さないこと自体が、この映画の演出なのである。

『正欲』が本当に批判しているもの

『正欲』は、

多数派を批判する映画でも、

少数派を無条件に肯定する映画でも、

「多様性なんて意味がない」と主張する映画でもない。

もっと厄介だ。

本作が疑っているのは、

「自分は分かっている」という安心感

なのである。

寺井は「普通」を知っていると思っている。

八重子は「多様性」を知っていると思っている。

そして観客も映画を見る途中まで、

「この人はこういう人」

と登場人物を整理しながら見ている。

ところが作品は、その分類を次々と壊す。

普通に見える人にも分からない部分がある。

異常に見える欲望が誰も傷つけていない場合もある。

逆に「普通」の欲望が誰かを傷つけることもある。

善意で理解しようとする行為さえ、相手を苦しめることがある。

だから最終的に必要なのは、

「全部理解できます」

という宣言ではない。

「あなたについて、自分には分からないことがある」

と認めることなのである。

まとめ|『正欲』は「理解し合う物語」ではなく「分からないまま共にいる物語」

『正欲』を、

「多様性について考えさせられる映画」

と説明することはできる。

しかし、それだけでは少しきれいすぎる。

この映画が見せる多様性は、心地よいものばかりではない。

自分には想像できない。

共感できない。

場合によっては嫌悪してしまう。

そんな人間まで、本当に同じ世界にいると認められるのか。

そこまで含めて初めて多様性なのだ、と作品は迫ってくる。

だからラストで夏月が言うのは、

「分かっている」

ではない。

「受け入れている」

でもない。

「いなくならない」

なのである。

この違いは大きい。

人間は他人を完全には理解できない。

自分自身のことさえ完全には分からない。

それでも人は、誰かの隣にいることを選べる。

世界中から理解されなくても、

たった一人とのつながりが、明日まで命を運んでくれることがある。

そう考えると、『正欲』という映画が最後に描いたのは性欲そのものではない。

欲望によって世界から孤立した人間が、それでも「生きる側」へ戻ってくるための物語

だったのではないだろうか。

「正しい欲望とは何か」。

映画は最後まで答えを出さない。

しかし別のことなら教えてくれる。

誰かを完全に理解できなくてもいい。

ただ、

分からないからといって、その人が存在しないことにはならない。

そして誰かが「いなくならない」と言ってくれることは、ときに生きる理由そのものになるのである。

参考資料