映画『死刑にいたる病』考察|ラストの灯里、榛村の目的、タイトルの意味を徹底解説【ネタバレ】

※本記事は映画『死刑にいたる病』の結末を含むネタバレ考察です。

はじめに――本当に恐ろしいのは、殺人鬼の残酷さではない

映画『死刑にいたる病』を観終えたあと、多くの人が気になるのは次のような点ではないでしょうか。

  • 根津かおるを殺した真犯人は誰なのか
  • 金山一輝は事件にどう関わっていたのか
  • 榛村大和はなぜ雅也に手紙を送ったのか
  • 雅也は本当に榛村の息子なのか
  • ラストに登場する加納灯里は何者なのか
  • 「死刑にいたる病」というタイトルにはどのような意味があるのか

しかし、本作の核心は単なる犯人当てではありません。

『死刑にいたる病』が描いているのは、自分の人生に確信を持てない人間が、他人から与えられた物語に支配されていく恐怖です。

榛村が人間から奪うのは、命だけではありません。相手が自分で考え、自分で選び、自分自身として生きる力を奪うのです。

映画『死刑にいたる病』作品情報

『死刑にいたる病』は、櫛木理宇の同名小説を白石和彌監督、高田亮脚本で映画化したサイコサスペンスです。2022年5月6日に公開され、阿部サダヲが連続殺人鬼・榛村大和、当時は岡田健史名義だった水上恒司が大学生・筧井雅也を演じました。上映時間は129分です。

中規模の公開規模ながら興行収入は約11億円に達し、週末興行ランキングでも6週連続トップ10入りを記録しました。刺激の強い犯罪映画でありながら、多くの観客を引きつけた作品です。

あらすじ

希望していた大学への進学に失敗し、鬱屈した日々を送る筧井雅也のもとに、一通の手紙が届きます。

差出人は、24件の殺人容疑で逮捕され、そのうち9件で立件・起訴されて死刑判決を受けた榛村大和。かつて榛村は雅也の地元でパン屋を営んでおり、中学生だった雅也も店に通っていました。

榛村は大部分の犯行を認める一方、最後の根津かおる殺害事件だけは自分の犯行ではないと主張します。

「本当の犯人を見つけてほしい」

榛村からそう依頼された雅也は、独自に事件を調べ始めます。しかし、それは真相を突き止めるための捜査ではなく、榛村が用意した巨大な心理ゲームの始まりでした。

結論:根津かおるを殺した真犯人は榛村大和

最初に事件の結論を整理すると、根津かおるを直接殺害した犯人も榛村大和です。

榛村の「最後の一件だけは冤罪」という主張は虚偽でした。

雅也が追っていた金山一輝は、根津かおるを直接殺した人物ではありません。幼少期から榛村に支配されていた金山は、榛村から「誰と痛い遊びをすればいいのか」と迫られ、通りかかった根津かおるを指さしてしまいます。

榛村は、その“選択”に従う形で根津かおるを拉致し、殺害しました。金山は自分が彼女を選んだことで事件が起きたと思い込み、深刻な罪悪感を抱え続けていたのです。

したがって、法律上、実行犯は榛村です。

しかし榛村は、金山自身に「自分が殺した」と思わせることに成功しています。ここに榛村の支配方法が端的に表れています。

榛村は命令しません。

相手に選ばせるのです。

金山の「僕が殺した」の本当の意味

金山の発言は、事実を告白したものではありません。

彼の「僕が殺した」は、榛村によって植えつけられた罪悪感の言葉です。

榛村は金山に直接、「根津かおるを殺せ」と命じたわけではありません。ただ選択肢を差し出し、誰を犠牲にするのかを選ばせました。

この方法が恐ろしいのは、責任の所在が曖昧になることです。

榛村は実際に殺人を行いながら、心理的な責任を金山に背負わせる。一方の金山は、被害者でありながら自分を加害者だと感じてしまう。

榛村にとって人間を壊すとは、肉体を傷つけることだけではありません。自分自身を許せない人間に作り替えることなのです。

根津かおる殺害事件は、榛村が一人の女性を殺すと同時に、金山の人生まで破壊した二重の殺人だったといえるでしょう。

榛村はなぜ雅也に手紙を送ったのか

榛村の目的は、冤罪を晴らすことでも、真相を世間に伝えることでもありません。

彼が求めていたのは、拘置所の外にいる人間を自由に動かし、自分の影響力がまだ失われていないことを確認することでした。

榛村は逮捕され、自由を奪われています。しかし雅也が調査を始めれば、榛村は雅也の目を通じて街を見ることができます。

雅也が被害者遺族を訪ねる。

金山を追う。

母親の過去を疑う。

自分が榛村の息子かもしれないと思い込む。

暴力衝動に目覚める。

これらはすべて、榛村が面会室の中から起こした出来事です。

つまり榛村は、雅也を探偵として選んだのではありません。

自分の代わりに外の世界を歩く身体として選んだのです。

榛村にとって雅也は協力者ではなく、遠隔操作するための端末に近い存在でした。

雅也はなぜ榛村に支配されたのか

雅也が特別に愚かだったから、榛村に騙されたわけではありません。

むしろ榛村は、雅也の中にある「自分は本来もっと価値のある人間だったはずだ」という感情を正確に見抜いていました。

雅也はかつて優等生でした。しかし受験に失敗し、望んでいなかった大学に通っています。家庭では父親から抑圧され、自信を失い、自分が何者なのか分からなくなっていました。

そこへ榛村が現れます。

榛村は雅也を認め、能力を評価し、事件の真相を託します。さらに自分が実の父親かもしれないという可能性まで匂わせます。

雅也にとって、それは魅力的な物語です。

「自分がうまくいかないのには理由がある」

「自分の中に普通ではない血が流れている」

「自分は殺人鬼から選ばれた特別な存在である」

そう考えれば、現在の惨めさを受け入れずに済みます。

榛村が雅也に与えたのは答えではありません。傷ついた自尊心を守るための、都合のよい自己物語でした。

榛村は雅也の父親なのか

映画の描写を見る限り、榛村と雅也の血縁関係は事実として確定しません。

榛村は雅也の母・衿子との過去を利用し、自分が父親である可能性を信じ込ませます。しかし終盤では、その関係を否定し、雅也もかつて自分の標的候補だったことを明かします。

重要なのは、遺伝的な事実ではありません。

榛村が「父親かもしれない」という可能性を利用したことです。

雅也は実父との関係に苦しんでいます。そこへ理解者のように振る舞う榛村が現れ、もう一人の父親として入り込む。

榛村は血縁ではなく、言葉によって父親になります。

そして雅也は、一時的に榛村の暴力性を自分の本性だと思い込みます。通行人に暴力を振るい、殺しかける場面は、「殺人鬼の血を受け継いでいる」という物語を自ら演じ始めた瞬間です。

榛村の最大の能力は、人に暗示をかけることではありません。

相手が自発的に暗示を完成させるよう仕向けることなのです。

パンと爪が象徴するもの

本作では、パンと爪という対照的なモチーフが繰り返し登場します。

パンは、人を養うものです。

温かく、柔らかく、日常的であり、他人に分け与えることができます。パン屋を営む榛村は、地域の人々から親切で信頼できる人物として認識されていました。

一方、爪は身体の一部でありながら、切り離すことのできる部分です。

榛村は被害者の爪に執着し、それを暴力的に剥がします。そこには、相手を一人の人格として愛するのではなく、所有可能な部品へ変えようとする欲望があります。

榛村にとって親切と残酷さは矛盾していません。

パンを与えることも、爪を奪うことも、相手の内側に入り込むための行為だからです。

彼の親切には、相手の幸福を願う気持ちがありません。信頼を得て、弱点を知り、やがて支配することが目的です。

そのため榛村のパン屋は、安心できる場所であると同時に、犠牲者を選別する場所でもありました。

ラストの加納灯里は何者なのか

榛村との最後の面会を終えた雅也は、彼の支配から抜け出したように見えます。

ところがラストでは、恋人となった加納灯里も榛村と手紙を交わしていたことが明らかになります。灯里は爪や「好きな人の一部を持っていたい」という感情について語り、雅也に理解を求めます。

映画版では、灯里と榛村の結びつきが原作以上に不穏な形で強調されています。

ただし、映画の中で灯里が実際に人を殺したとは明言されていません。

灯里がすでに殺人鬼なのか、榛村に思想を植えつけられた段階なのか、あるいは雅也を試しているのかは断定できません。

重要なのは、榛村の支配が雅也一人に向けられたものではなかったことです。

雅也は、自分だけが榛村に選ばれたと思っていました。しかし実際には、榛村は複数の人間に手紙を送り、それぞれの孤独や欲望に応じた言葉を与えていました。

雅也が榛村から離れたとしても、別の誰かが榛村の言葉を受け継ぐ。

榛村本人が死刑になっても、その思想は他者の中で生き続ける。

灯里は榛村の後継者というより、榛村という病がすでに社会へ広がっている証拠なのです。

ラストで雅也はどうなるのか

雅也の未来について、映画は明確な答えを示しません。

灯里の言葉を拒絶し、彼女を榛村から引き離そうとする可能性もあります。反対に、灯里の感覚を理解し、再び榛村の世界へ引き戻される可能性もあります。

この曖昧さは、単なる続編を思わせる演出ではありません。

雅也が本当に榛村から自由になれたかどうかは、面会をやめたことでは決まらないからです。

自由になるとは、榛村を拒絶することだけではありません。

誰かから与えられた「お前はこういう人間だ」という定義を退け、自分の選択に責任を持つことです。

ラストで雅也に突きつけられるのは、最後の選択です。

灯里の言葉を受け入れるのか。

それとも自分自身の言葉で否定するのか。

榛村のゲームは終わったように見えて、雅也の人生における本当の決断は、そこから始まります。

タイトル「死刑にいたる病」の意味

本作のタイトルは、哲学者セーレン・キェルケゴールの著書『死に至る病』を意識したものです。キェルケゴールが論じた「死に至る病」とは肉体的な病ではなく、自己を見失う「絶望」を意味します。映画でも序盤の大学講義を通じて、この思想が示されています。

タイトルでは、「死」に「刑」という一文字が加えられています。

では、本作における病とは殺人衝動なのでしょうか。

もちろん、それも一つの意味です。しかし、より根源的な病は、自分自身であることに耐えられず、他人に自分の正体を決めてもらおうとする絶望ではないでしょうか。

雅也は、失敗した自分を受け入れられません。

金山は、榛村から植えつけられた罪悪感によって自分を裁き続けます。

衿子は過去の関係に縛られます。

灯里もまた、榛村の言葉に自分の欲望を説明してもらおうとしています。

彼らの中にある空白へ、榛村が入り込むのです。

榛村の病が死刑に至るのは、彼が殺人を繰り返したからです。しかし、その病に感染したすべての人が死刑になるわけではありません。

ある者は罪悪感に支配され、ある者は暴力を振るい、ある者は他人を支配する側へ回る。

だからこそ本作のタイトルは、榛村一人の末路を表しているだけではありません。

誰かに自分の人生を委ね続けた先にある、精神的な破滅を指しているのです。

阿部サダヲの榛村が恐ろしい理由

榛村は、典型的な凶悪犯のように怒鳴ったり、威圧したりしません。

穏やかに話し、相手の言葉を丁寧に聞き、優しく微笑みます。その姿は、かつて親切なパン屋として人々から好かれていた頃と大きく変わりません。

阿部サダヲの演技が秀逸なのは、榛村を「異常者らしく」見せすぎない点です。

露骨な狂気を見せれば、観客は彼を自分たちとは別の怪物として処理できます。しかし榛村は、日常の中に存在できる人物として描かれます。

人の話をよく聞く。

相手が欲しがっている言葉を差し出す。

自信を失った人を褒める。

孤独な人に特別扱いをする。

これらは一見、優しさに見える行為です。

榛村の恐ろしさは、優しさの形式だけを完璧に再現しながら、その中心に他者への愛情がまったく存在しないことにあります。

映画としての評価――強烈なラストは必要だったのか

『死刑にいたる病』の最大の長所は、殺人鬼の謎を追うミステリーが、いつの間にか主人公自身のアイデンティティーをめぐる物語へ変わっていく構成です。

雅也は犯人を探しているつもりで、自分が何者なのかを探しています。そして、その問いに榛村が答えようとした瞬間、彼は支配されてしまいます。

一方、灯里を使ったラストについては、やや説明的で、ジャンル映画らしい驚きを優先しすぎていると感じる観客もいるでしょう。

雅也が榛村に別れを告げた場面で終われば、一人の青年が支配から脱出する物語として、より静かな余韻を残せたはずです。

しかし本作は、あえて救いを確定させません。

その選択によって、榛村を一人の特殊な怪物ではなく、人間関係を通じて増殖する「病」として描くことに成功しています。

ラストの衝撃は多少強引です。

それでも、観客に「榛村を処刑すれば事件は終わる」という安心を与えない点で、作品の主題には忠実だったと評価できます。

まとめ――榛村が奪ったのは、人間の「選ぶ力」だった

映画『死刑にいたる病』は、連続殺人事件の真相を描いたサイコサスペンスです。

しかし、その本質は殺人鬼の残虐性ではありません。

榛村は、人間の心にある空白を見つけます。

承認されたい。

特別な人間だと思いたい。

過去の罪から逃れたい。

自分が何者なのか教えてほしい。

そうした欲望に言葉を与え、相手が自ら従うように仕向けます。

金山は被害者を選ばされ、雅也は自分の本性を決められ、灯里は愛情の形を教え込まれました。

榛村の支配とは、命令することではありません。

相手から「自分で選んだ」という感覚を奪わずに、その選択を操ることです。

だからこそ、雅也が榛村から本当に自由になるためには、面会室を出るだけでは足りません。

自分の失敗も、弱さも、平凡さも引き受けたうえで、自分の人生を自分で選ばなければならない。

『死刑にいたる病』は、殺人鬼を捕まえて終わる映画ではありません。

怪物から与えられた物語を捨て、一人の人間が自分自身を取り戻せるのかを問う映画なのです。