『死刑にいたる病』は、連続殺人犯から届いた手紙をきっかけに、大学生が事件の真相を調べるサスペンスです。
調査が進むほど、疑わしくなるのは事件の証言だけではありません。主人公の筧井雅也が、なぜ榛村大和を信じたいのか。その気持ち自体が、物語を危うい方向へ動かしていきます。
榛村はなぜ雅也に手紙を送ったのか。金山の告白は何を意味するのか。そして、最後の灯里の言葉は、どこまでの事実を示しているのか。
この記事では、映画で明かされる出来事を整理しながら、榛村が他人の人生に入り込む仕組みと、ラストに残る不安を考察します。
※以下、結末までのネタバレを含みます。
『死刑にいたる病』の作品情報とあらすじ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 公開日 | 2022年5月6日 |
| 監督 | 白石和彌 |
| 脚本 | 高田亮 |
| 原作 | 櫛木理宇『死刑にいたる病』(ハヤカワ文庫) |
| 上映時間 | 129分 |
| 主な出演 | 阿部サダヲ、岡田健史、岩田剛典、中山美穂、宮﨑優 |
※岡田健史は、本作公開時のクレジット表記です。siy-movie.com
希望していた大学に進めず、鬱屈した毎日を送る雅也のもとに、榛村から手紙が届きます。榛村は24件の殺人容疑で逮捕され、うち9件で立件・起訴され、死刑判決を受けた人物です。
ただ、雅也にとっては、中学生の頃に通っていたパン屋の親切な店主でもありました。
榛村は、最後の事件だけは自分の犯行ではないと主張し、真犯人を調べてほしいと頼みます。雅也は面会を重ねながら調査を始めますが、事件を追ううちに、自分の母親と榛村の過去のつながりまで知ることになります。THE KLOCKWORX
結末の要点――真犯人と、最後に残る謎
物語の結末で明らかになることを、先に整理しておきます。
| 疑問 | 映画で明らかになること |
|---|---|
| 根津かおるを殺したのは誰か | 榛村大和 |
| 金山が罪悪感を抱えている理由は | 榛村に追い詰められ、かおるを標的として指し示してしまったから |
| 榛村は雅也の実の父親なのか | 実の父親ではない |
| 灯里は榛村と関わっていたのか | 手紙と最後の会話から、つながりが明かされる |
冤罪の調査として始まった物語は、榛村が雅也の信頼を利用していたことを明らかにします。そして、雅也が日常へ戻ったところで、灯里との関係にも榛村の影が差します。FILMAGA(フィルマガ)
ただし、映画はその先の二人の行動までは描いていません。ラストを読むうえでは、ここに残された余白も大切です。
根津かおるの真犯人は榛村。金山の告白が意味すること
最後の事件で根津かおるを殺したのも、榛村です。普段と異なる手口は、別の犯人がいるという主張をもっともらしくする材料になっていました。FILMAGA(フィルマガ)
一方、金山一輝は、かおるの死を自分の責任だと感じています。幼い頃から榛村に傷つけられてきた金山は、再び恐怖を与えられた場面で、代わりの標的としてかおるを指し示してしまいました。FILMAGA(フィルマガ)
金山の告白は、自分が殺害を実行したという説明と、そのまま同じ意味には受け取れません。彼が抱えているのは、自分の選択が他人の死につながったという罪悪感です。
ここで目を向けたいのは、選択を迫る状況そのものを榛村が作っていることです。
金山は、落ち着いて自由に判断できる立場には置かれていません。それでも榛村は、相手に選ばせることで、結果の重さまで背負わせる。
この場面には、榛村が人を支配する残酷さが凝縮されています。身体を傷つけるだけでなく、その後も本人の中に残り続ける後悔を作っているのです。
榛村が雅也に手紙を送った目的は何か
榛村の依頼は、他の犯行を認めたうえで、最後の一件だけを否定するものです。雅也には、罪をすべて逃れようとする言い訳よりも、信用できそうな主張に見えたのでしょう。
しかも、頼んでくるのは、かつて自分に優しく接してくれた人です。事件の報道と、パン屋で過ごした時間。その食い違いを確かめたくなることにも、雅也なりの理由があります。
しかし、最後の事件も榛村の犯行だったと分かることで、依頼の意味は変わります。冤罪の証明という課題が、雅也を自分のもとへ通わせ、その考えや感情を揺さぶる入口になっていたのです。
榛村は、雅也が調査で見つけたことを評価し、認めてくれる。雅也にとって面会は、事件について話す時間であると同時に、自分の能力を肯定してもらえる時間にもなっていきます。
阿部サダヲはインタビューで、榛村を、相手に物事を決めさせながら自分の本心は明かさない人物として捉えたと語っています。book.asahi.com
この捉え方は、金山にも雅也にも重なります。本人が決めたと思える形を残しながら、判断するための状況や情報を榛村が用意している。
拘置所の外で動いているのは雅也ですが、彼が解こうとしている問題の出発点は、榛村が置いたものです。手紙の目的は、雅也を事件の調査に引き込み、自分との関係を深めさせることにあったと読めます。
榛村は雅也の父親なのか。血縁を信じたくなる理由
榛村は、雅也の実の父親ではありません。
母・衿子が過去に身ごもったのは別の男性の子で、その子は死産でした。榛村は、その出来事に関わっていた人物です。衿子と榛村の接点は、雅也が榛村の子どもであることを意味しません。FILMAGA(フィルマガ)
それでも雅也は、榛村が自分の父親なのではないかと考え始めます。
父親の期待に応えられず、自分の居場所を見つけられない雅也にとって、榛村との血縁は、自分を見る目を変える物語になり得ます。今の家族の中で感じてきた息苦しさから距離を取り、自分には特別な背景があると思えるからです。
もちろん、連続殺人犯の子であることが、何かの能力を保証するわけではありません。しかし雅也は、榛村への恐怖と同時に、その存在に自分を重ねる誘惑も抱えていく。
白石和彌監督も、雅也がある勘違いをした瞬間、全能感を得たように顔つきを変えることを指摘しています。daily.co.jp
榛村が巧妙なのは、雅也の父親だと明言しないまま、そう思わせる余地を残すことです。FILMAGA(フィルマガ) 雅也は、情報を確かめているつもりで、自分が信じたい筋書きへ近づいてしまう。
この展開によって、事件の真相を追うはずの調査が、雅也自身の願望を試すものへと変わっていきます。
パン屋の優しさと、阿部サダヲの演技が作る怖さ
榛村の怖さは、穏やかな言葉や表情が、残虐な行為と同じ人物の中に収まっていることです。
雅也の記憶にあるパン屋は、気を張らずにいられる場所でした。だからこそ、殺人犯としての榛村を知っても、その記憶を簡単に捨てられない。過去に感じた安心が、目の前の相手を信じる理由として残っています。
阿部サダヲも、親切な店主として相手に近づく行動を、榛村の演技として受け取れると語っています。一方で、殺人の本心を理解できたとは語っていません。book.asahi.com
この二つは、本作の人物造形を考えるうえで重要です。榛村がどう信頼を得るかは見えても、なぜそこまで残虐なことを求めるのかは、すっきり説明されない。
優しい声に安心してしまう感覚と、その声の主が何をしたかという事実が並んで残るため、観客も雅也の迷いを追うことになります。
また、榛村の過去から、すべての犯行を説明できる答えを探すのも難しい。映画では原作にある母親のエピソードが大幅に省かれており、白石監督も、その説明を増やす選択をしていません。daily.co.jp
背景を知れば相手を理解できるという期待が、ここでも揺さぶられます。
面会室のガラスは、なぜ二人を隔てきれないのか
面会室では、榛村と雅也の間に透明な仕切りがあります。それでも画面には、反射によって二人の顔が重なる瞬間が生まれます。
白石監督は、仕切りに使う素材を繰り返し試し、ガラスの透明度や映り込みも検討したと語っています。daily.co.jp
この映像は、榛村の言葉が雅也の内面に入り込み、二人の境界が曖昧になっていくように見えます。
身体の距離は保たれていても、会話のたびに雅也は榛村を判断の基準にしていく。仕切り越しの近さは、そうした関係の変化を、説明の台詞に頼らず伝えています。
事件を調べる雅也にとって、安全なはずの面会室が、考え方を変えられる場所になる。その反転が、映画の中盤から終盤の緊張を支えています。
ラストの灯里の言葉と、榛村からの手紙の意味
最後に雅也が爪を褒めると、灯里は、爪を剥がしたくなる気持ちを理解するような言葉を返します。さらに、雅也なら分かってくれると榛村から言われていたことを示します。Kazuログ
灯里にも榛村から手紙が届いていたと分かり、二人のつながりが明らかになります。Cinemarche
この会話が不穏なのは、榛村の暴力を思い出させる発想が、恋人同士の親密な時間に入り込むからです。爪は美しさを褒める対象であると同時に、榛村の犯行を連想させるものにもなっています。
灯里は、自分を怖がらずに理解してもらえるという期待を雅也に向けているように見えます。その期待を後押ししていたのが榛村だと分かることで、雅也は、自分が戻ってきた日常をもう一度疑うことになる。
ここから、灯里との関係にも榛村の働きかけが及んでいたと読めます。ただし、手紙の指示の全容や、榛村が二人の関係をどこまで計画していたかまで、確定するわけではありません。
雅也がこのあとどう答えるのか、灯里がどんな行動を取るのかも、映画は示していません。
ラストが明かすのは、榛村との接点を、雅也が自分の生活から切り離せていなかったという不安です。
なお、この最後の仕掛けは、原作小説とは異なる映画のラストです。Cinemarche 映画の結末を考える際は、小説の出来事をそのまま補って断定しない方が、映像に残された余白を受け取れます。
タイトル『死刑にいたる病』は、誰の何を指すのか
本作のタイトルは、キルケゴールの『死に至る病』を踏まえたものです。映画でも大学の講義にその名前が登場します。daily.co.jp
まず思い浮かぶのは、榛村を死刑判決へ至らせた殺人衝動です。ただ、雅也の変化を追うと、タイトルは、榛村の周囲にいる人々の苦しさにも重なって見えます。
雅也は、期待通りに生きられない自分に不満を抱えています。そこへ榛村が、認められる喜びや、自分を特別だと思える物語を差し出す。
認めてほしいという願い自体は、自然なものです。本作で怖いのは、その願いを満たしてくれる相手に近づくほど、雅也が事件や自分自身を見る基準を失っていくことです。
自分の人生を立て直すための支えを求めた先で、他人の意図に動かされる。その危うさまで含めて、タイトルの「病」を読むことができます。
傷を癒やすように近づきながら、さらに深く傷を残していく。金山と雅也の姿から見えてくるのは、榛村の暴力が、殺害した相手の外側にまで及ぶことです。金山の罪悪感と雅也の迷いには、榛村が他人の人生に残す影響が表れています。
事件の答えを知ったあとにも、雅也の問題は終わりません。誰の言葉を信じ、何を根拠に自分の人生を選ぶのか。最後の灯里との会話は、その判断を再び雅也に突きつけたところで終わります。

