映画『彼女がその名を知らない鳥たち』は、登場人物のほとんどに好感を持てないという異色のラブストーリーです。
身勝手で他人に依存して生きる十和子。下品で不潔で、十和子につきまとうように尽くす陣冶。女性を利用する黒崎。そして妻子がいながら十和子と関係を持つ水島。
ところが物語の最後まで見ると、それまで「気持ち悪い」と思っていたものの意味が大きく反転します。
なぜ陣冶は十和子をあそこまで愛したのでしょうか。
そして、なぜ最後に自ら死を選んだのでしょうか。
さらに印象的なのが、陣冶の死の直後に空へ飛び立つ鳥たちです。
本記事では、十和子が忘れていた真実、陣冶の愛、ラストの鳥、そして『彼女がその名を知らない鳥たち』というタイトルの意味を考察します。
※ここからは結末を含むネタバレがあります。
『彼女がその名を知らない鳥たち』とは
『彼女がその名を知らない鳥たち』は、沼田まほかるの同名小説を白石和彌監督が映画化した作品です。
2017年10月28日に公開され、北原十和子を蒼井優、佐野陣冶を阿部サダヲ、水島真を松坂桃李、黒崎俊一を竹野内豊が演じています。脚本は浅野妙子。上映時間は123分です。
十和子は15歳年上の陣冶と暮らしながら、働くこともなく彼の収入に依存しています。
しかし十和子は陣冶を嫌悪しており、8年前に別れた黒崎を忘れることができません。
そんな十和子の前に黒崎とどこか似た雰囲気を持つ水島が現れ、二人は不倫関係になります。
その一方で、かつての恋人・黒崎が失踪していることが判明。
異常なほど十和子に執着する陣冶が黒崎を殺したのではないか。
映画は観客をその疑惑へ誘導していきます。
しかし真実はまったく違いました。
黒崎を殺したのは誰だったのか
結論から言えば、黒崎を殺したのは陣冶ではなく十和子です。
十和子自身がその記憶を封じ込めていたため、観客も十和子と同じ視点から真実を見ることができません。
黒崎は十和子にとって「忘れられない恋人」でした。
ところが実際の黒崎は、十和子を愛していたとは到底言えない人物です。
自分の都合のために十和子を利用し、最後には激しい暴力まで振るいます。
追い詰められた十和子は黒崎を刺してしまいます。
その後始末をしたのが陣冶でした。
つまり陣冶は殺人犯ではありません。
十和子が犯した罪を隠し、その罪まで引き受けて生きてきた人間だったのです。
この事実が明らかになった瞬間、それまでの映画の風景が一変します。
なぜ十和子は黒崎を殺したことを忘れていたのか
十和子は意図的に嘘をついていたわけではありません。
あまりにも大きな出来事だったため、その記憶そのものを心の奥へ押し込めていたと考えられます。
だからこそ十和子の中では、
「黒崎は自分を傷つけた男」
ではなく、
「今でも忘れられない男」
として美化され続けていました。
ここが本作の残酷なところです。
十和子が恋い焦がれていた黒崎は、現実の黒崎というよりも、記憶の中で作り直された黒崎だったのではないでしょうか。
一方、本当に十和子を守っていた陣冶はすぐ隣にいます。
しかし十和子は、その存在を愛とは認識できません。
彼女は「自分を傷つける男」を愛だと思い、「自分を守ってくれる男」を嫌悪していたのです。
水島は黒崎の代わりだった
松坂桃李演じる水島も重要です。
十和子が水島に惹かれた理由の一つは、彼に黒崎と似たものを感じたからでしょう。
表面的にはスマートで優しい。
女性が欲しがる言葉を理解している。
しかし、相手を本当に大切にしているわけではありません。
水島にとって十和子は、自分の欲望を満たすための相手にすぎません。
ここで映画は、黒崎と水島を意図的に重ねています。
十和子は黒崎から逃げ出したはずなのに、再び同じ種類の男へ向かってしまう。
これは偶然ではありません。
十和子にとって「愛される」という感覚そのものが歪んでいたからです。
だからこそ、無条件に自分を受け入れる陣冶の愛を理解できなかったのだと思います。
陣冶はなぜ十和子を愛したのか
本作でもっとも説明しきれない部分が、陣冶の愛です。
十和子は陣冶に優しくありません。
感謝もしません。
むしろ日常的に彼を罵倒し、邪険に扱います。
それでも陣冶は十和子のために働き、料理をし、生活を支え続けます。
普通の恋愛関係として考えれば、明らかに異常です。
しかし陣冶が求めているのは、十和子から同じ量の愛を返してもらうことではありません。
陣冶にとって重要なのは、
十和子が自分を愛してくれることではなく、十和子が生きていること
なのではないでしょうか。
白石和彌監督も、本作の大きなテーマの一つとして陣冶の愛と「大切なものはすぐ隣にある」という考えを語っています。
陣冶の愛は恋愛というより、親が子どもを守る感情にも近く見えます。
だから彼は見返りを要求しません。
十和子が他の男を好きでも、最後には十和子自身が生き残ればいい。
そこまで徹底しているからこそ、美しいと同時に恐ろしい愛でもあります。
陣冶はなぜ最後に死んだのか
そして最大の疑問が、陣冶の最後です。
十和子が失われた記憶を取り戻したあと、陣冶は自ら命を絶ちます。
なぜそこまでする必要があったのでしょうか。
私は、陣冶の死には大きく二つの意味があると考えます。
十和子の罪を最後まで背負うため
一つ目は、十和子を殺人の罪から守るためです。
陣冶はそれまでずっと黒崎の死を隠してきました。
しかし十和子が記憶を取り戻せば、このまま何事もなかったように生活を続けることは難しくなります。
陣冶は最後まで、十和子を守る側に立とうとします。
自分がいなくなることで、自分自身を事件と結びつけ、十和子の罪を引き受けようとした。
その意味では、陣冶の死はこれまで続けてきた行為の最終地点です。
十和子を自分から解放するため
しかし、もう一つの意味の方が重要です。
それは、十和子を陣冶自身から解放することです。
陣冶は十和子を愛しています。
しかし、その愛ゆえに十和子を自分のそばへ縛りつけてもいました。
十和子がこれから別の人生を歩むためには、陣冶からも離れなければならない。
だから陣冶は自分自身を消す。
自分が十和子の未来になるのではなく、十和子に未来そのものを残すのです。
白石監督自身、陣冶の最後について、それが十和子に幸福を与えたのか、それとも残酷さを与えたのかという問題が残ると語っています。
したがって、この結末を単純な「自己犠牲の美談」と受け取るべきではないでしょう。
陣冶の愛は本当に「純愛」なのか
本作を見て、
「陣冶こそ本当の愛だった」
と感じる人は少なくないでしょう。
実際、映画は終盤でそれまで醜く見えていた陣冶の行動を大きく反転させます。
しかし私は、陣冶の愛をそのまま「理想の愛」と考えるのは少し危険だと思います。
陣冶は十和子のためにすべてを捨てます。
それは確かに無償の愛です。
同時に、自分自身の人生を完全に失ってしまう愛でもあります。
愛する相手の罪を隠し、最後には命まで差し出す。
現実の関係として考えれば健全とは言えません。
だからこそ本作は、
「これこそ愛だ」
とは断言していないのではないでしょうか。
むしろ観客へ突きつけているのは、
「それでもあなたは、これを愛と呼べるか」
という問いです。
公開時にラストがハッピーエンドなのかバッドエンドなのかを問われた際も、阿部サダヲはハッピーエンド寄りの解釈を示す一方、蒼井優は日によって受け止め方が変わると語っています。
答えを一つに決められないこと自体が、この映画の魅力なのでしょう。
ラストで飛び立つ鳥の意味
陣冶が落下した直後、鳥たちが一斉に空へ飛び立ちます。
そしてタイトルが、
『彼女がその名を知らない鳥たち』
です。
当然、この鳥には大きな意味があると考えたくなります。
ただし、「鳥=○○」という公式の一つの答えが示されているわけではありません。
ここからは作品から読み取れる解釈です。
私は、鳥が象徴しているものは十和子が知らなかった愛、幸福、そして未来だと考えます。
十和子はそれまで愛を知らなかったわけではありません。
むしろ愛を求め続けていました。
しかし、彼女が愛だと思っていたものは黒崎や水島との関係でした。
美しい言葉。
性的な魅力。
手に入らない男への執着。
そうしたものには名前をつけることができた。
一方、毎日食事を作り、生活費を稼ぎ、傷ついた自分を守り、罪まで背負ってくれていた陣冶の存在には名前をつけられなかった。
つまり、十和子はずっと「鳥」を見ていたのです。
ただ、その鳥の名前が愛であることを知らなかった。
だから、
「彼女がその名を知らない鳥たち」
なのではないでしょうか。
なぜ鳥は一羽ではなく「鳥たち」なのか
タイトルが「鳥」ではなく「鳥たち」と複数形になっているのも印象的です。
陣冶の愛は、一つの大きな出来事として存在していたわけではありません。
食事を用意する。
働いて生活費を稼ぐ。
電話をする。
十和子の身を案じる。
過去の罪を隠す。
嫌われてもそばにいる。
一つ一つを見ると、あまりに日常的で、時には鬱陶しくさえ見えます。
しかし最後に真実を知った瞬間、それら無数の小さな行為が、すべて違う意味へ変わります。
だから空へ飛び立つのは、一羽ではなく無数の鳥なのではないでしょうか。
十和子が名前を知らないまま受け取っていた、無数の愛の形。
それが「鳥たち」なのだと思います。
なお撮影美術について、蒼井優は十和子と陣冶の部屋にもタイトルの「鳥」を意識した細かな美術的イメージが入れられていたと明かしています。
十和子は最後に鳥の名前を知ったのか
ではラストで、十和子はようやくその鳥の名前を知ったのでしょうか。
私は、知ったのだと思います。
ただし遅すぎました。
十和子が陣冶の愛に気づいた瞬間、陣冶はもう手の届かない場所へ行ってしまう。
そこにこの作品最大の残酷さがあります。
愛されている最中には愛だとわからない。
失った瞬間に初めて、それがどれほど大きなものだったかを知る。
この構造は、私たちの日常にも重なります。
人は派手なものには名前をつけやすい。
恋。
情熱。
運命。
しかし、毎日繰り返される小さな優しさには、なかなか名前をつけません。
だから「鳥」として目の前を飛んでいても、その名前を知らないのです。
黒崎・水島・陣冶は三つの「愛」を表している
三人の男性を並べると、本作の構造がさらに明確になります。
黒崎は、十和子が執着する過去の愛。
水島は、十和子が手に入れようとする欲望としての愛。
そして陣冶は、十和子が最後まで気づかなかった与える愛です。
皮肉なのは、外見的な魅力と愛の深さが逆転していることです。
黒崎と水島は魅力的に見える。
陣冶は不潔で格好悪い。
ところが物語が進むほど、前者の内面は醜くなり、後者の内面にあったものが明らかになります。
白石監督は、人間には良い部分と「クズ」な部分の両方があるという考えを作品づくりで意識していると語っています。
だから本作の人物は、単純な善人と悪人には分けられません。
十和子も最低な部分を持っている。
陣冶の愛にも異常さがある。
それでも、その醜さの奥にある何かを映画は見つめ続けます。
『彼女がその名を知らない鳥たち』が描いたもの
この映画は「本当の愛とは何か」をきれいに説明してくれる作品ではありません。
むしろ、
愛という言葉では説明しきれないものを描いた作品
なのだと思います。
十和子は愛を探し続けます。
しかし、彼女が探している愛はいつも遠くにあります。
過去の黒崎。
新しく現れた水島。
その一方で、本当に自分を守ってくれる陣冶はすぐ隣にいる。
それなのに見えない。
この構図こそ、本作の核心ではないでしょうか。
人は「特別な何か」を探して遠くばかりを見る。
しかし、本当に大切だったものは最初から隣にあった。
気づいたときには、もう戻れない。
ラストで空へ舞い上がる鳥たちは、そんな名前をつけられないまま過ぎ去っていった愛を象徴しているように見えます。
まとめ|彼女が知らなかった鳥の名は「愛」
『彼女がその名を知らない鳥たち』のラストで明らかになるのは、黒崎殺害の犯人だけではありません。
本当のどんでん返しは、陣冶という人間の見え方そのものが反転することです。
不潔で、しつこくて、恐ろしい男だと思っていた陣冶。
しかし実際には、十和子が犯した罪を背負い、彼女を守り続けていました。
そして最後には、自分自身まで十和子の未来から消してしまいます。
それを美しい愛と呼ぶのか。
歪んだ執着と呼ぶのか。
おそらく簡単な答えはありません。
ただ、十和子が最後まで名前を知らなかった「鳥」の正体を一つ挙げるなら、それはやはり愛なのだと思います。
ずっと目の前にいた。
ずっと与えられていた。
しかし、それが何なのかを知ったときには、もうそこにはいない。
だからこそ『彼女がその名を知らない鳥たち』というタイトルは、映画を最後まで見たあと、最初とはまったく違う響きを持つのです。

