※この記事は映画『ドッグヴィル』の結末まで触れています。未鑑賞の方はご注意ください。
映画『ドッグヴィル』を観て、まず異様に感じるのはその「舞台」でしょう。
家には壁がない。
道路も建物も、黒い床の上に白い線で描かれているだけ。
そして約3時間にわたって描かれるのは、逃亡してきた女性グレースが小さな町に受け入れられ、やがて住民たちから徹底的に搾取されていく物語です。
ところがラストでは、被害者だったはずのグレース自身が町を滅ぼす側へ回ります。
なぜ彼女は住民を許さなかったのでしょうか。
そして最後まで生き残った犬・モーゼスには、どんな意味があったのでしょうか。
本記事では、
- なぜ家に壁がないのか
- グレースはなぜ町を皆殺しにしたのか
- トムとは何者だったのか
- 父親が指摘した「傲慢」の意味
- 犬モーゼスが生き残った理由
- 「Dogville」というタイトルの意味
を中心に、映画『ドッグヴィル』のラストを考察していきます。
『ドッグヴィル』とは
『ドッグヴィル』はラース・フォン・トリアー監督が2003年に発表した作品です。
主演はニコール・キッドマン。ポール・ベタニー、ローレン・バコール、ジェームズ・カーンらが出演しています。
2003年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門にも選出され、日本では2004年2月21日に公開されました。
舞台はロッキー山脈にある孤立した小さな町「ドッグヴィル」。
ギャングから逃げてきたグレースは、町の青年トムに助けられます。
住民たちは当初、グレースを匿うことを警戒します。しかしトムの提案によって、グレースが町の人々の仕事を手伝うことを条件に、彼女を受け入れることになります。
ところが警察がグレースを捜し始めると、
「彼女を匿う危険が大きくなった」
という理由から、住民たちはより多くの労働を要求し始めます。
やがて労働は搾取へ変わり、グレースは逃げることさえ許されない存在になっていきます。
ここから『ドッグヴィル』は、単なる「善良な村人が悪人に変わっていく物語」ではなくなります。
問われているのは、
人間は権力を与えられたとき、どこまで残酷になれるのか
という問題です。
なぜ『ドッグヴィル』には壁がないのか
本作最大の特徴が、町そのものです。
普通の映画のような家は建っていません。
黒い床に白い線が引かれ、
「ここが家」
「ここが道路」
「ここに犬がいる」
と示されているだけです。
壁がないため、観客からは町のほぼすべてが見えています。
では、なぜこんな奇妙な舞台にしたのでしょうか。
私は、この「壁がない」という演出こそが『ドッグヴィル』のテーマそのものだと考えます。
住民は「知らなかった」と言えない
普通の町なら、家の中で起きていることは外から見えません。
しかしドッグヴィルには壁がありません。
グレースが働かされていることも、逃げられなくなっていることも、住民たちが彼女を利用していることも、町全体が半ば共有している状態です。
つまり本作では、
「自分は知らなかった」
という言い訳が成立しません。
誰か一人だけが異常なのではない。
町という共同体そのものが、グレースの搾取を許しています。
壁のないセットは、その事実を視覚化しているのではないでしょうか。
観客自身も「傍観者」になる
さらに重要なのは、壁がないことで、私たち観客もすべてを見ることになる点です。
グレースが何をされているのか。
誰が彼女を助けなかったのか。
住民がどのように自分の行為を正当化したのか。
私たちはすべて知っています。
しかし映画を観ている私たちにも、それを止めることはできません。
つまり『ドッグヴィル』では、
住民だけでなく観客まで「見ているだけの人間」にされる
のです。
だからこそ、終盤の復讐は極端な爽快感と強烈な後味の悪さを同時に残します。
私たちはいつの間にか、
「この町は罰を受けても仕方がない」
と思い始めているからです。
なぜ住民たちはグレースを虐げるようになったのか
興味深いのは、ドッグヴィルの住民が最初から怪物として描かれているわけではないことです。
むしろ最初は、ごく普通の人々です。
グレースが仕事を手伝うと感謝し、少しずつ彼女を受け入れていきます。
ところが状況が変わります。
グレースを匿うことに「危険」が伴うようになると、住民たちはこう考えます。
危険が増えたのだから、グレースはもっと働くべきだ。
ここに本作の恐ろしさがあります。
彼らは突然狂ったのではありません。
すべてを、
「公平な交換条件」
として正当化しているのです。
グレースを匿ってあげている。
だからグレースは働かなければならない。
危険が増えた。
だからもっと働かなければならない。
逃げられると困る。
だから拘束する。
この小さな理屈の積み重ねによって、いつの間にか一人の人間を奴隷のように扱うところまで進んでしまいます。
つまり『ドッグヴィル』が描く悪とは、
突然現れる巨大な悪ではなく、小さな自己正当化の積み重ね
なのだと思います。
トムは善人だったのか
そして本作でもっとも厄介な人物がトムです。
トムは最初にグレースを助けます。
町の人々を説得したのも彼です。
一見すると、彼だけはグレースの味方に見えます。
しかし物語が進むにつれて、トムの本質が明らかになります。
彼が求めていたのは、
「正しいことをする自分」
だったのではないでしょうか。
トムは町の住民に道徳を説き、自分を彼らより一段高い場所に置いています。
グレースを助けることも、彼にとって一種の「実例」でした。
自分の思想が正しいことを証明するための存在として、グレースを扱っていた側面があります。
だから、グレース本人の意思よりも、
「この出来事から何を学べるか」
を優先する。
ここがトムの怖さです。
彼は他の住民のように露骨に欲望をぶつける人物ではありません。
しかしそのぶん、自分自身を善人だと信じ続けています。
トムが最後にグレースを裏切った理由
トムの本性が決定的に表れるのが終盤です。
グレースから自分自身の欲望や欺瞞を指摘されたことで、トムは彼女を危険な存在だと感じます。
そこで最終的に、彼女を追うギャングへ連絡してしまいます。
つまりトムが守りたかったのはグレースではありません。
自分自身についての「善人である」という物語
だったのです。
グレースはその幻想を壊してしまった。
だから排除する必要が生じた。
ラストでグレースがトムを自ら撃つのも象徴的です。
トムは最後まで、自分の行為すら「人間について学ぶための出来事」として語ろうとします。
彼にとって現実の人間は、思想を証明するための材料なのです。
グレースは最後に、その考えを完全に拒絶したのだと思います。
グレースの正体
やがて町にギャングたちが現れます。
ここで大きなどんでん返しがあります。
グレースはギャングに追われていた被害者ではありませんでした。
彼女は、
ギャング組織を率いる男の娘
だったのです。
父親の生き方に反発したグレースは、彼のもとから逃げていました。
つまりグレースには最初から、ドッグヴィルを圧倒できるほどの「力」がありました。
しかし彼女はその力を拒否していた。
ここで物語は、
「弱者が強者に復讐する話」
から、
「力を持つことを拒否していた人間が、その力を使うべきか決断する話」
へ変わります。
父親が語った「グレースの傲慢」とは
『ドッグヴィル』でもっとも重要なのが、グレースと父親の会話です。
父親はグレースに対して、
お前は傲慢だ
という趣旨のことを言います。
なぜならグレースは、自分自身なら許さないような行為であっても、他人が行えば、
「仕方がない」
「環境が悪かった」
「彼らにも事情がある」
と許してしまうからです。
一見すると、寛容で立派な態度に思えます。
しかし父親は逆に考えます。
他人だけ基準を下げて許すということは、
「この人たちは自分と同じ倫理基準を守れる人間ではない」
と見下していることになる。
つまりグレースの無限の赦しには、
「私は耐えられる」
「私はあなたたちより善良だから許せる」
という優越感が潜んでいる。
それを父親は「傲慢」と呼んだのです。
これは本作最大の逆説でしょう。
赦すことが、必ずしも相手を尊重することではない。
場合によっては、
「あなたには責任能力がない」
と扱うことにもなるからです。
グレースはなぜ町を皆殺しにしたのか
父親との会話の後、グレースはもう一度ドッグヴィルを見ます。
そして考えます。
もし自分が町の住民と同じことをしたら、自分自身を許せるだろうか。
答えは「許せない」。
それなら、住民だけを
「彼らには事情があった」
として免罪することは、本当に正しいのか。
そこでグレースの価値観が反転します。
これまで彼女は、
人間を愛すること=人間を許すこと
だと思っていました。
しかし最後には、
人間を人間として尊重すること=その行為の責任を負わせること
だと考えるようになります。
その結果が、ドッグヴィルの壊滅です。
もちろん、この結論が「正しい」と映画が断定しているわけではないでしょう。
むしろ観客はここで、さらに難しい問題を突きつけられます。
住民を許し続けるのは傲慢だった。
しかし町を皆殺しにすることは、本当に正義なのか。
グレースは傲慢を捨てたのか。
それとも、
今度は「誰が生きる資格を持つか」を決める、さらに巨大な傲慢へ移っただけなのか。
『ドッグヴィル』のラストが恐ろしいのは、そこに簡単な答えがないからです。
ヴェラの子どもたちまで殺した意味
特に凄惨なのが、ヴェラへの復讐です。
ヴェラはグレースが大切にしていた陶器の人形を壊しました。
ラストでグレースは、その出来事を反転させるような苛烈な命令を下します。
ここではもう、単なる「正当な裁き」とは言いにくいでしょう。
グレースは住民に責任を取らせるだけでなく、
自分が受けた痛みを相手にも理解させようとしている
からです。
ここで彼女は父親の論理を超え、復讐者になっています。
だからこそ、本作のラストには完全なカタルシスがありません。
「よくやった」と思う気持ちと、
「そこまでしていいのか」
という感覚が同時に残るように作られています。
なぜ犬モーゼスだけが生き残ったのか
町が壊滅した後、唯一生き残る存在が犬のモーゼスです。
これは非常に重要です。
父親は劇中、人間を「犬」に例えます。
しかし本物の犬であるモーゼスは、最後にグレースから命を救われます。
なぜでしょうか。
グレースは、モーゼスが自分に怒る理由を理解しています。
以前、グレースが彼の骨を取ったからです。
つまりモーゼスの敵意には、
明確な理由があります。
犬は自分を善人だと偽りません。
正義を語りながら裏切ったりもしない。
欲望を道徳で包み隠すこともありません。
骨を取られたから怒る。
ただそれだけです。
一方、ドッグヴィルの住民は違います。
自分たちの欲望を、
「公平だから」
「危険を負っているから」
「町を守るためだから」
と正当化しました。
ここに、人間と犬の逆転があります。
「Dogville=犬の町」というタイトルの意味
Dogvilleを直訳すれば、
「犬の町」
です。
しかし最後まで見ると、このタイトルの皮肉が分かります。
人間たちは犬よりも理性的で、道徳的な存在であるはずです。
ところが実際には、欲望に従いながら、その欲望を言葉で正当化します。
むしろ本物の犬モーゼスのほうが、自分の本性に正直です。
だから最後に、
犬だけが生き残る。
さらに映画の終盤では、それまで床に線として描かれていたモーゼスが「本物の犬」として姿を現します。
ここも象徴的です。
映画のほとんどは抽象化された世界でした。
しかし最後の最後、町の欺瞞がすべて焼き払われると、犬だけが現実の存在になります。
まるで、
「人間が作った道徳や建前が消えた後に残るのは、生き物としての本性だけだ」
と言っているようにも見えます。
『ドッグヴィル』はアメリカ批判なのか
本作は、フォン・トリアーが構想した「アメリカ三部作」の第1作でもあります。
映画.comでは、監督がブレヒト『三文オペラ』の挿入歌「海賊ジェニー」から着想を得て、ダシール・ハメットやカフカなども参照しながら「想像上のアメリカ」を描いた作品と紹介されています。
エンドクレジットでアメリカの貧困を捉えた写真が映し出されることからも、アメリカ社会への視線があることは明らかです。
ただし本作を単純な「アメリカ批判」とだけ捉えると、少し狭いように思います。
描かれているのは、
- よそ者を受け入れる共同体
- 善意に条件をつける人間
- 権力を持つ側の自己正当化
- 弱者への搾取
- 見て見ぬふりをする周囲
- 自分だけは善人だと思う人間
です。
これはアメリカに限った問題ではありません。
ドッグヴィルとは、
条件さえ揃えば、どこにでも生まれ得る共同体
なのではないでしょうか。
本当に恐ろしいのは「悪人」ではない
『ドッグヴィル』には、分かりやすい怪物がほとんど登場しません。
恐ろしいのは、
「自分は悪いことをしている」
と思っていない人間です。
住民たちは自分たちなりの理由を持っています。
トムにも理屈があります。
グレースにも赦す理由があります。
父親にも裁く論理があります。
そして最後には、グレースが町を滅ぼす理由すら成立してしまいます。
全員に「理由」がある。
だから怖い。
『ドッグヴィル』が描いているのは、
悪とは、悪意そのものよりも「自分は正しい」と思える理屈によって拡大する
ということなのかもしれません。
まとめ|『ドッグヴィル』のラストが残すもの
映画『ドッグヴィル』で壁が存在しないのは、町の人々の行為を隠さないためだと考えられます。
誰も「知らなかった」とは言えない。
そして観客自身もまた、すべてを見ながら傍観する存在になります。
グレースは最後、父親から「他人だけを許し続けることも傲慢ではないか」と指摘されます。
そこで彼女は、
無条件に許すことではなく、行為の責任を負わせることこそ相手を一人の人間として扱うことだ
と考えるようになる。
しかし、その先に待っていたのは大量殺戮でした。
だから『ドッグヴィル』は、
「赦しが正しい」
「復讐が正しい」
という単純な作品ではありません。
むしろ、
赦しはどこまで許されるのか。
人間はどこまで他者を裁いていいのか。
という、答えの出ない問いを観客へ投げ返して終わります。
そして町が消滅したあとに残るのは、本物の犬モーゼスだけ。
「犬の町」と呼ばれた場所で、最後まで最も正直だったのは犬だった。
そこに『ドッグヴィル』というタイトル最大の皮肉が込められているのではないでしょうか。

