映画『哀れなるものたち』をネタバレありで考察。ベラの正体と急速な成長、ゴッドウィンやダンカンが象徴するもの、性描写の意味、ラストでアルフィーに施された手術、タイトルに込められた皮肉を詳しく解説します。
※本記事には映画『哀れなるものたち』の結末を含む重大なネタバレがあります。
『哀れなるものたち』は女性解放を描いた物語なのか
ヨルゴス・ランティモス監督の『哀れなるものたち』は、一人の女性が世界を知り、自分の人生を獲得していく物語です。
主人公ベラ・バクスターは、天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって生み出された女性。成人女性の身体を持ちながら、その精神は生まれたばかりの子どもに近く、言葉や倫理、社会常識をほとんど知りません。
やがてベラは、放蕩者の弁護士ダンカン・ウェダバーンと旅に出ます。
リスボン、船上、アレクサンドリア、パリ。
世界を巡る中で、ベラは食欲、性欲、貧困、思想、労働、暴力、愛情を知り、急速に成熟していきます。
このあらすじだけを見ると、本作は抑圧された女性が自由を手に入れる、分かりやすい女性解放の物語に思えるかもしれません。
しかし、ベラの自由は最初から彼女自身のものだったわけではありません。
彼女の身体は他人によって作り替えられ、成長を観察され、旅先では男たちから所有されようとします。
『哀れなるものたち』が描くのは、単なる「自由な女性」の物語ではありません。
自分の身体も人生も他人に決められていた人間が、初めて“私は何者になるのか”を自分で選ぶまでの物語なのです。
ベラ・バクスターの正体
ベラの身体は、もともとヴィクトリア・ブレシントンという女性のものでした。
ヴィクトリアは妊娠中に橋から身を投げ、ゴッドウィンのもとへ運ばれます。ゴッドウィンは彼女の身体を蘇生させ、胎児の脳を母親の頭部へ移植しました。
こうして誕生したのがベラです。
つまりベラは、成人女性の身体の中に胎児の脳を持つ存在です。
この設定は、物語上の奇抜な仕掛けであるだけではありません。
ベラは、社会の価値観を何も教え込まれていない状態で世界を見ます。
男女の役割も、上品さと下品さの区別も、結婚制度も、性的な規範も知りません。
私たちが「常識」と呼んでいるものを、ベラは一つひとつ疑問に思います。
なぜ女性は自由に外出してはいけないのか。
なぜ快楽を求めることが恥になるのか。
なぜ一人の人間が、別の人間を所有できるのか。
ベラの言動が周囲を混乱させるのは、彼女が未熟だからだけではありません。
彼女が、社会の矛盾を常識として受け入れていないからです。
ベラの急速な成長が意味するもの
物語序盤のベラは、歩き方も話し方も幼児のようです。
ところが旅に出ると、驚異的な速度で言葉を覚え、知識を吸収し、思想を形成していきます。
この成長は、単なる脳の発達ではありません。
ベラは、経験によって自分を作っています。
ゴッドウィンの屋敷では、ベラは安全に守られていました。しかし、その安全は管理と表裏一体です。
彼女は屋敷から自由に出ることができず、行動を記録され、身体や精神の変化を観察されています。
ゴッドウィンはベラを愛していますが、その愛は研究者としての好奇心と分離できません。
屋敷を出たベラは、危険や不快さに直面します。
ダンカンに束縛され、貧困を目撃し、金銭を失い、娼館で働き、自分とは異なる思想を持つ人々と出会う。
その経験は、彼女を傷つける一方で、彼女に判断する力を与えます。
知らないことから守られる状態と、傷つく可能性を含めて世界を知ること。
ベラが選ぶのは後者です。
本作における成長とは、純粋さを失うことではありません。
他人の言葉ではなく、自分の経験を通して善悪を考えられるようになることなのです。
ゴッドウィンは父親か、それとも支配者か
ベラはゴッドウィンを「ゴッド」と呼びます。
これは彼の名前の一部であると同時に、神を意味する言葉でもあります。
死んだ身体を蘇らせ、新たな生命を作ったゴッドウィンは、確かに創造主です。
しかし、創造主であることは、創造した生命を所有してよいことを意味しません。
ゴッドウィンはベラを屋敷に閉じ込め、観察対象として扱います。ベラとマックス・マッキャンドルズの結婚を計画し、彼女の将来を自分の判断で決めようとします。
それでも彼は、典型的な悪人としては描かれません。
ゴッドウィン自身も、父親による医学実験の犠牲者だったからです。
彼の身体には、父から受けた残酷な処置の痕跡が残っています。
父親から「科学のため」として苦痛を与えられたゴッドウィンは、同じ論理でベラを作り、観察します。
彼は自分が受けた支配を、そのまま次の世代へ引き継いでしまったのです。
ただしゴッドウィンは、最終的にベラを完全には支配できません。
彼女が旅に出ることを認め、成長して戻ってきたベラを受け入れます。
ゴッドウィンがベラに与えた最大の贈り物は、命そのものではないのかもしれません。
自分の作品が自分の意図を超えることを、最後に受け入れたことではないでしょうか。
ダンカン・ウェダバーンが没落した理由
ダンカンは、ベラを自由な世界へ連れ出す人物です。
屋敷に閉じ込められていたベラに旅を提案し、未知の快楽や刺激を教える。
物語の序盤では、彼がベラを解放したように見えます。
しかしダンカンが求めていたのは、自由な女性ではありません。
自分の望み通りに振る舞う、無知で奔放な女性です。
ベラが自分との性行為を楽しみ、社会常識に縛られないうちは、ダンカンは彼女を魅力的だと感じます。
ところがベラが本を読み、他人と会話し、自分の意見を持ち始めると、彼は不安になります。
ダンカンはベラを船室に閉じ込め、自由を制限し、他の男性と接触することに嫉妬します。
彼が愛していたのはベラ自身ではありません。
自分を必要とし、自分だけを見てくれる未成熟なベラだったのです。
ベラが成長するほど、ダンカンは崩壊していきます。
知識を得たベラは、彼の虚栄心や幼稚さを見抜いてしまうからです。
ダンカンは、男性が女性を解放する英雄にはなれません。
彼自身が、女性の自由を自分に都合のよい範囲でしか認められない人物だからです。
なぜ性描写が繰り返されるのか
『哀れなるものたち』では、ベラの性的な行動が繰り返し描かれます。
このため、本作を女性の性的解放を称賛する作品と見る意見がある一方、女性の身体を過剰に見せる作品だと感じる人もいるでしょう。
重要なのは、ベラが性行為そのものを神聖視していないことです。
彼女にとって性は、食事や会話と同じように、身体と他者を知る経験の一つです。
そこに社会が押しつける羞恥や純潔の概念はありません。
一方で、本作は性を完全な自由として描いているわけでもありません。
娼館で働くベラは、自分で相手を選べないことに疑問を抱きます。
快楽を得ることと、労働として身体を提供すること。
自分の意思で行動することと、金銭や制度によって選択を限定されること。
同じ性行為でも、その意味は本人の意思や環境によって変わります。
ベラが学ぶのは、性を楽しむ方法だけではありません。
自由とは欲望のままに行動することではなく、自分の意思を奪う仕組みを見抜くことだと理解していくのです。
アレクサンドリアの貧困がベラを変えた
旅の途中、ベラはホテルの高所から、深刻な貧困に苦しむ人々を目撃します。
それまで彼女にとって世界は、食事、音楽、性、旅行といった刺激に満ちた遊び場でした。
しかし、崖の下に広がる苦しみを見たことで、彼女の世界観は大きく変化します。
自分が幸福である一方、すぐ近くには飢えや死に直面している人々がいる。
ベラはこの不公平を理解しようとし、自分が持っている金を貧しい人々へ渡そうとします。
その行動は善意に基づいていますが、結果的に金は目的の人々へ届きません。
ここで本作は、純粋な善意だけでは社会問題を解決できないことを示します。
ベラは初めて、世界には個人の親切だけでは変えられない構造が存在すると知ります。
この経験を境に、彼女は単に快楽を求める旅人ではなくなります。
哲学や政治に関心を持ち、医師になることを志し、社会の仕組みに目を向け始めるのです。
ベラの成長が説得力を持つのは、彼女が自由を自分だけの幸福として完結させないからです。
他者の苦しみを知り、それに対して自分は何ができるのかを考える。
ここでベラは、子どもの無邪気さから社会的な責任を持つ大人へと踏み出します。
ヴィクトリアとベラは同じ人物なのか
終盤、ベラは自分の身体がかつてヴィクトリアという女性のものだったことを知ります。
さらに、ヴィクトリアの夫だったアルフィー・ブレシントンが現れ、ベラを自分の妻として連れ戻そうとします。
ここで問題になるのは、ベラとヴィクトリアが同一人物なのかということです。
身体は同じですが、脳と人格は異なります。
記憶を持たないベラにとって、ヴィクトリアの結婚生活は自分の経験ではありません。
アルフィーは彼女をヴィクトリアと呼び、妻として服従させようとします。
しかし彼が求めているのは、一人の人間ではなく、自分が所有していた身体です。
ベラがヴィクトリアの過去を知るためにアルフィーについていくのは、彼の妻に戻りたいからではありません。
自分の身体がどこから来たのかを知り、自分の物語を完成させるためです。
そしてベラは、ヴィクトリアがなぜ自ら命を絶とうとしたのかを理解します。
アルフィーとの生活は、支配と暴力に満ちていました。
ヴィクトリアの自殺は、絶望による死であると同時に、支配から逃れるための最後の抵抗だったと考えられます。
ヴィクトリアが死によって逃げ出した場所から、ベラは生きたまま脱出します。
この対比によって、ベラの物語は単なる再生ではなく、ヴィクトリアが果たせなかった解放の実現となるのです。
アルフィーが象徴する家父長制
アルフィーは、ベラを妻として扱い、自分の命令に従わせようとします。
彼の価値観では、妻の身体や行動を夫が管理することは当然です。
ベラが自分の意思を持っていること自体が、彼にとって許しがたい反抗となります。
アルフィーはダンカンよりも露骨な支配者です。
ダンカンは恋愛や魅力を使ってベラをつなぎ留めようとしました。
アルフィーは結婚、財産、武器、暴力を使って彼女を支配します。
両者の方法は異なりますが、根本にある考えは同じです。
女性を自分とは独立した人間としてではなく、自分の欲求を満たす存在として見ているのです。
アルフィーが女性の身体を管理し、将来の妊娠や性的自由まで奪おうとする場面は、家父長制の暴力を極端な形で表しています。
ベラが最後に対決する相手がアルフィーであるのは、彼が一人の悪人だからだけではありません。
彼が、ベラの人生を支配してきた社会的価値観そのものを象徴しているからです。
ラストでアルフィーに施された手術の意味
ベラはアルフィーを倒した後、彼を殺すのではなく、ゴッドウィンが行ってきたものと同種の手術を施します。
アルフィーの脳は動物の脳へ置き換えられ、彼は人間としての言葉や権力を失います。
この結末には、明らかな皮肉があります。
アルフィーは、ベラを意思のない所有物として扱おうとしました。
その結果、自分自身が人間としての意思を奪われ、管理される存在になります。
支配する側とされる側が逆転したのです。
ただし、この結末を完全な正義と呼ぶことはできません。
ベラが行ったこともまた、他者の身体や人格を一方的に作り替える行為だからです。
それはゴッドウィンがベラを作った方法と本質的に似ています。
ベラは支配から解放されましたが、創造主の技術と権力を受け継いでもいます。
だからこそラストには、爽快感と同時に不穏さが残ります。
ベラはゴッドウィンを超えたのでしょうか。
それとも、新たなゴッドウィンになったのでしょうか。
本作は、その答えを明確には示しません。
ベラは本当に自由になったのか
ラストのベラは、ゴッドウィンの屋敷で穏やかな時間を過ごしています。
彼女は医学を学び、自分の将来を自分で選び、マックスや仲間たちと共に生活しています。
物語冒頭と同じ屋敷にいながら、ベラの立場は完全に変わっています。
かつて彼女は観察される側でした。
ラストでは、自ら知識を学び、手術を行い、自分の生活を設計する側に立っています。
彼女は屋敷から逃げ続ける必要もありません。
一度外の世界を知り、自分の意思で戻ってきたからです。
同じ場所にいることと、同じ状態にいることは違います。
選択肢を知らずに閉じ込められていることは監禁ですが、多くの選択肢を知ったうえで居場所を選ぶことは自由になり得ます。
ベラの解放は、誰にも依存しないことではありません。
誰と関係を築き、どこで生き、何を学ぶのかを、自分で決められるようになったことです。
映像が白黒から色彩へ変化する理由
物語序盤、ゴッドウィンの屋敷を中心とした場面は、主に白黒で描かれています。
ベラが旅へ出ると、画面は鮮烈な色彩に満たされます。
この変化は、ベラの認識する世界の広がりを視覚化したものです。
屋敷の中にいたベラの世界は、安全ではあるものの、狭く限定されていました。
旅先の景色は誇張され、建物や空、海は現実離れした色と形で表現されます。
これは世界を初めて見るベラの感覚を表していると考えられます。
大人にとって見慣れた街も、ベラにとっては巨大で奇妙な未知の空間です。
ただし、色彩豊かな世界が幸福だけを意味するわけではありません。
華やかな都市には欲望や搾取があり、美しいホテルの外には貧困があります。
色を得ることは、世界の美しさだけでなく、残酷さまで見えるようになることです。
ベラは白黒の安全な箱庭から、矛盾に満ちた色彩の世界へ移動します。
それでも彼女は、知らなかった頃へ戻ろうとはしません。
タイトル「哀れなるものたち」が指すのは誰か
「哀れなるものたち」と聞くと、実験によって作られたベラや、ゴッドウィンの奇妙な動物たちを思い浮かべるかもしれません。
しかし、物語を通して最も哀れに見えるのは、むしろベラを支配しようとする男性たちです。
ダンカンは、ベラが自分なしでは生きられないと思っていました。
ところが彼女が成長すると、捨てられることへの恐怖から精神的に崩れていきます。
アルフィーは権力と暴力によって妻を支配しようとしますが、最後にはその権力を完全に失います。
ゴッドウィンもまた、父親の実験によって人生を傷つけられ、その傷を次の生命へ引き継いでしまった人物です。
彼らは社会的には強者に見えます。
しかし、自分の価値を他者への支配によってしか確認できません。
自由に成長するベラに対して、男性たちは固定された価値観から抜け出せない。
そう考えると、「哀れなるものたち」とはベラではなく、自由な人間を所有しなければ自分を保てない者たちを指しているのでしょう。
一方で、ベラも完全に無垢な存在ではありません。
自由を得た彼女は、他者を作り替える権力も手にします。
タイトルが複数形であるのは、特定の悪人だけを哀れんでいるのではなく、不完全で矛盾した人間すべてを指しているからとも考えられます。
批評|自由を美しく描くだけでは終わらない
『哀れなるものたち』の魅力は、ベラの成長を痛快に描きながら、自由を単純に理想化していないことです。
自由には失敗が伴います。
ベラは人を傷つけ、金を失い、危険な場所へ足を踏み入れます。
善意が無意味に終わることもあれば、自分自身が他人を支配する側に近づくこともあります。
それでも本作は、失敗しないように守られる人生より、自分で経験し、判断し、間違える人生を選びます。
ベラの成長とは、正しい人間になることではありません。
自分の選択に責任を持てる人間になることです。
本作が描く女性解放は、男性と同じ権力を獲得することだけではありません。
自分の欲望を認め、知識を得て、他者の苦しみに目を向け、自分が持つ力の危険性まで引き受けることです。
その意味で、『哀れなるものたち』は幸福な自立の物語であると同時に、自由を得た後にどう生きるのかを問う作品でもあります。
まとめ|ベラは世界に作られる存在から、世界を作る存在になった
『哀れなるものたち』におけるベラは、他人によって作られた生命として物語を始めます。
ゴッドウィンに身体と命を与えられ、マックスとの結婚を決められ、ダンカンに理想の恋人として扱われ、アルフィーに妻として所有されようとする。
多くの男性が、ベラの人生に自分の物語を押しつけます。
しかしベラは旅を通して、他人が与えた役割を次々と拒否します。
娘、実験対象、婚約者、恋人、娼婦、妻。
それらの立場を経験しながらも、どれか一つに自分を閉じ込めることはありません。
最終的にベラが手に入れたのは、誰にも縛られない孤独ではなく、自分の意思で人や社会と関われる自由です。
ただし、ラストで彼女がゴッドウィンの技術を受け継ぐことによって、物語は新たな疑問を残します。
支配されていた者が力を得たとき、その力をどう使うのか。
他者から自由になることと、他者の自由を尊重することは同じなのか。
ベラは人間として大きく成長しましたが、完成したわけではありません。
だからこそ彼女は医学を学び続けます。
『哀れなるものたち』とは、閉じ込められた女性が外へ逃げ出すだけの物語ではありません。
世界を知らなかった生命が、快楽と苦痛、善意と搾取、愛と所有を経験し、自分自身の倫理を作り始める物語です。
ベラは創造された存在から、自分を創造する存在へ変わりました。
そして最後に残されるのは、自由を得た人間にとって最も難しい問いです。
「私は何をしてもよいのか」ではなく、「私は自分の力を何のために使うのか」。
その問いを抱えた瞬間、ベラは初めて、本当の意味で大人になったのです。
『哀れなるものたち』に関するよくある質問
ベラの脳は誰のものですか?
ベラの脳は、ヴィクトリアが妊娠していた胎児の脳です。成人女性の身体に胎児の脳を移植したことで、身体と精神の成長速度が大きく異なる存在として生まれました。
ベラとヴィクトリアは同一人物ですか?
身体は同じですが、記憶や人格は異なります。ベラはヴィクトリアの過去を引き継いでおらず、自分自身を別の人間として形成しています。
ダンカンはなぜベラに執着したのですか?
ダンカンは、世間の常識に縛られないベラに魅力を感じました。しかしベラが成長して自分の支配を離れると、愛情ではなく所有欲を露呈します。
ラストでアルフィーはどうなりましたか?
ベラたちはアルフィーの脳を動物の脳と置き換えます。ベラを所有物として扱った男性が、最後には自ら意思を奪われ、管理される存在になるという皮肉な結末です。
『哀れなるものたち』のタイトルの意味は何ですか?
表面的にはベラや実験動物を指すように見えますが、実際には他人を支配しなければ自分を保てない男性たちや、矛盾を抱えた人間全体を指すタイトルだと解釈できます。

