映画『殺人の追憶』ネタバレ考察|犯人は誰?ラストの視線、「普通の顔」と実話の真相

※本記事は映画『殺人の追憶』の結末と、題材になった実際の事件について触れています。未鑑賞の方はご注意ください。

『殺人の追憶』のラストで、元刑事パク・トゥマンはカメラの正面を見つめます。

少女から、事件現場を訪れた男が「ごく普通の顔」をしていたと聞かされた直後です。

あの男は真犯人だったのでしょうか。

有力容疑者パク・ヒョンギュは、本当に犯人だったのでしょうか。

そして、パクは最後に誰の顔を見ていたのでしょう。

結論から言えば、映画の中で真犯人は特定されません。ヒョンギュを犯人と断定できる証拠もなく、ポン・ジュノ監督自身も、脚本上の第三の容疑者が真犯人なのか決めていなかったと説明しています。

一方、映画の題材となった華城連続殺人事件では、公開から16年後の2019年にイ・チュンジェがDNA鑑定によって特定されました。

それでも、『殺人の追憶』は古びていません。

本作が描いたのは「誰が殺したのか」という謎だけではないからです。

顔を見れば人間を理解できるという思い込み。

暴力によって都合のよい自白を作る捜査。

市民を守るより抑圧することを優先した国家。

そして、事件を解決できないまま日常へ戻った人々の記憶。

『殺人の追憶』とは、名探偵が犯人を暴く映画ではありません。真実を見つけるはずの人間たちが、何を見落とし、どのように真実から遠ざかっていったのかを描く映画です。

今回は、ヒョンギュ犯人説、DNA鑑定、パク刑事とソ刑事の逆転、ペク・グァンホの証言、雨・赤い服・トンネルの意味、実話の真犯人、そしてラストの視線まで詳しく考察します。

  1. まず結論|犯人とラストに関する重要ポイント
  2. 映画『殺人の追憶』の作品情報
  3. あらすじ・結末|刑事たちはなぜ犯人を捕まえられなかったのか
  4. 結論|パク・ヒョンギュは犯人なのか
  5. 現実の真犯人が判明しても、映画の犯人は確定しない
  6. パク刑事とソ刑事は、なぜ最後に逆転するのか
  7. 「顔を見れば分かる」という思い込み
  8. ラストでパク刑事がカメラを見る4つの意味
    1. 1.映画を見ているかもしれない真犯人への視線
    2. 2.実際に成立した「刑事と犯人の目の接触」
    3. 3.観客を「見る側」から「見られる側」へ変える視線
    4. 4.自分の無力さを認める視線
  9. ペク・グァンホは「捜査によって作られた犯人」
  10. 現実にも起きていた冤罪
  11. クォン巡査の役割|真相へ近づいた「見えにくい仕事」
  12. 真犯人だけでなく「時代」も事件を生んだ
  13. なぜコメディーのような場面が多いのか
  14. 雨・赤い服・ラジオの曲が意味するもの
  15. トンネルと列車が象徴するもの
  16. タイトル「殺人の追憶」とは誰の記憶なのか
  17. 犯人判明後もラストの意味は変わらないのか
  18. よくある疑問
    1. 映画『殺人の追憶』の犯人は誰ですか?
    2. パク・ヒョンギュは無実だったのですか?
    3. ラストで少女が会った男は真犯人ですか?
    4. パク刑事はなぜ警察を辞めたのですか?
    5. 実話の真犯人は誰ですか?
    6. 真犯人は『殺人の追憶』を見たのですか?
    7. なぜ犯人は逮捕・処罰されなかったのですか?
    8. なぜ映画には複数の容疑者が登場するのですか?
    9. タイトル『殺人の追憶』にはどんな意味がありますか?
  19. まとめ|恐ろしいのは、犯人が「普通の顔」をしていること
  20. 参考資料

まず結論|犯人とラストに関する重要ポイント

疑問結論
映画の真犯人は誰?特定されません。ポン・ジュノ監督も第三の容疑者が犯人かどうか決めていません。
パク・ヒョンギュが犯人?疑わしく演出されていますが、鑑定結果は一致せず、犯人と立証できません。
ラストで現場に来た男は犯人?犯人であることが強く示唆されますが、顔は映らず、客観的な証明はありません。
「普通の顔」の意味は?犯罪者には見分けられる外見がある、というパクの思い込みを完全に壊す言葉です。
パクはなぜカメラを見る?映画を見ているかもしれない現実の犯人、観客、そして見抜けなかった自分自身へ向けた視線です。
実話の真犯人は判明した?2019年にイ・チュンジェがDNAで特定され、2020年に警察が華城の10事件すべてを含む14件の殺人を確認しました。
現実の犯人は映画を見た?見ています。2020年の再審で、収監中に鑑賞したと本人が証言しました。

映画『殺人の追憶』の作品情報

『殺人の追憶』は、ポン・ジュノ監督が2003年に発表した長編第2作です。韓国では2003年に公開され、日本では2004年3月27日に劇場公開されました。

項目内容
原題살인의 추억
英題Memories of Murder
製作年・国2003年/韓国
日本公開2004年3月27日
上映時間130分
レーティングPG12
監督ポン・ジュノ
脚本ポン・ジュノ、シム・ソンボ
主演ソン・ガンホ、キム・サンギョン

本作は、1986年から1991年に韓国・華城周辺で起きた連続殺人事件と、キム・グァンリムの舞台劇『私に会いに来て』をもとにしています。

ただし、実際の事件をそのまま再現したドキュメンタリーではありません。

英国映画協会のインタビューでポン・ジュノは、新聞資料を調べ、当時の刑事や住民へ取材した一方、映画では事件の期間と被害者数を圧縮したと説明しています。パクやソをはじめとする主要人物も、映画のために作られた人物です。

したがって、映画のパク・ヒョンギュと、現実の犯人イ・チュンジェを直接同一視することはできません。

あらすじ・結末|刑事たちはなぜ犯人を捕まえられなかったのか

1986年、ソウル近郊の農村で女性の遺体が発見されます。

地元刑事のパク・トゥマンは、相手の顔を見れば犯人かどうか判断できると豪語していました。相棒のチョ・ヨングとともに、知的障害のある青年ペク・グァンホを連行し、暴力的な取り調べによって自白を作り上げます。

しかし、グァンホの供述には矛盾があり、犯行を裏づける証拠もありません。

そこへソウルからソ・テユン刑事がやってきます。

パクが勘と経験を信じるのに対し、ソは書類と物的証拠を重視します。ソはグァンホの身体的条件では犯行が難しいことを指摘し、捜査資料を読み直します。

やがて、雨の夜、赤い服を着た女性が狙われ、ラジオ番組で同じ曲が流れた日に事件が起きているという共通点が浮かび上がります。

捜査線上に現れたのが、工場で働く青年パク・ヒョンギュです。

ヒョンギュは雨の夜になるとラジオ番組へ同じ曲をリクエストしていました。端正で感情を読み取りにくい彼の顔は、刑事たちにも観客にも「怪しい」と感じさせます。

一方、以前犯人に仕立てられたグァンホは、実は事件を目撃していた可能性が浮上します。しかし刑事たちは、彼の混乱した言葉を丁寧に聞き取ることができません。追われたグァンホは線路へ飛び出し、列車にはねられて死亡します。

その後も殺人は止まりません。

ソが言葉を交わしていた女子生徒まで犠牲になったことで、冷静だった彼は理性を失います。ヒョンギュを真犯人と確信し、激しく殴り、最後には拳銃を向けます。

そこへ、犯行現場の体液を海外で鑑定した結果が届きます。

結果はヒョンギュのものと一致しないというものでした。少なくとも、彼を犯人と立証する科学的証拠は得られません。

それでも撃とうとするソを止めたのは、かつて勘と暴力に頼っていたパクでした。

ヒョンギュは暗いトンネルの中へ消え、事件は未解決のまま終わります。

年月が過ぎた2003年。

警察を辞め、家庭を持ち、セールスマンになったパクは、偶然最初の遺体発見現場を通りかかります。

用水路をのぞいていると、一人の少女が話しかけてきます。少し前にも一人の男が同じ場所を見ており、昔ここで自分がしたことを思い出していたと語ったというのです。

パクが男の顔を尋ねると、少女は特徴のない「普通の顔」だったと答えます。

パクは衝撃を受け、カメラの正面を凝視する。

その顔を最後に、映画は幕を閉じます。

結論|パク・ヒョンギュは犯人なのか

映画の中で、パク・ヒョンギュが真犯人だったとは確定しません。

ヒョンギュには多くの疑わしい点があります。

  • 犯行が起きた雨の夜に外出していた
  • 事件の日にラジオ番組へ同じ曲をリクエストしていた
  • 被害者の傷について聞いても、ほとんど感情を示さない
  • 刑事の監視中に姿を消した夜、新たな殺人が起きた

物語上、彼が最有力容疑者であることは間違いありません。

しかし、疑わしいことと、犯人であることは同じではありません。

海外から届いた鑑定結果は、現場の試料とヒョンギュが一致しないことを示します。彼を犯人と証明する目撃証言も、凶器も、自白もありません。

ポン・ジュノ自身も、2003年に収録されたインタビューで、第三の容疑者が真犯人なのか自分にも分からないと語っています。

さらに、Criterion Collectionの制作資料によれば、犯行場面では体格の似た複数の俳優が交代で犯人を演じています。パク・ヘイルもその一人ですが、特定の身体や顔を真犯人として結びつけられないよう、意図的に匿名化されているのです。

したがって、映画から導ける答えは次のようになります。

ヒョンギュは犯人かもしれない。しかし、犯人だと断定できない。断定できない人間を暴力によって犯人にすることこそ、この映画が批判している。

観客がヒョンギュの無表情を見て「こいつが犯人に違いない」と思った瞬間、私たちもまたパクやソと同じ危うい場所に立つことになります。

現実の真犯人が判明しても、映画の犯人は確定しない

映画の題材となった現実の事件では、2019年に真犯人が特定されました。

保存されていた証拠物から検出されたDNAが、別の事件で無期懲役となっていたイ・チュンジェと一致。本人も華城の事件を含む複数の殺人を認めました。

2020年、韓国警察はイ・チュンジェが華城で発生した10件すべてを含む14件の殺人を行ったと結論づけています。聯合ニュースの報道によれば、警察が証拠で確認できた性犯罪も9件ありました。

ただし、公訴時効がすでに成立していたため、華城事件について新たに処罰することはできませんでした。イ・チュンジェは義妹を殺害した別事件ですでに無期懲役となっていました。

ここで区別しなければならないのは、現実と映画です。

現実の犯人がイ・チュンジェだと分かっても、映画内のヒョンギュが犯人だったことにはなりません。ヒョンギュはイ・チュンジェをそのまま再現した人物ではなく、映画のために構成された容疑者だからです。

現実の解決は、映画の空白を埋める答えではありません。

むしろ「当時の警察は、なぜそこへ到達できなかったのか」という映画の問いを、より具体的にする事実なのです。

パク刑事とソ刑事は、なぜ最後に逆転するのか

序盤のパクとソは、正反対の刑事として登場します。

パクは直感を信じる。

ソは書類と証拠を信じる。

パクは暴力で自白を取ろうとする。

ソは物的証拠から犯人へたどり着こうとする。

一般的な刑事映画であれば、非科学的な田舎刑事が都会から来た優秀な刑事に教えられ、合理的な捜査を身につけて事件を解決するでしょう。

しかし、『殺人の追憶』では反対のことが起きます。

事件が長引くにつれ、パクは自分の目と勘に自信を失います。ヒョンギュの顔を至近距離から見ても、犯人かどうか分からないことを認めるようになります。

一方、証拠を信じていたソは、親しくしていた女子生徒が犠牲になったことで冷静さを失います。鑑定結果が一致しないと分かっても受け入れられず、ヒョンギュを射殺しようとします。

暴力を使っていたパクが、証拠を根拠にソの暴力を止める。

証拠を信じていたソが、証拠を拒絶して暴力へ向かう。

この逆転が、物語の心理的なクライマックスです。

二人が互いから学び、立派な刑事へ成長したのではありません。解決できない事件によって、それぞれが自分の捜査方法の限界まで追い詰められたのです。

「顔を見れば分かる」という思い込み

パクは、自分には相手の顔を見れば犯人かどうか分かる「特別な目」があると信じています。

彼にとって顔を見ることは、証拠を集める代わりです。

挙動が不自然だから怪しい。

知的障害があるから怪しい。

性的な行動が風変わりだから怪しい。

感情を表さないから怪しい。

パクたちは、人間を理解するためではなく、自分たちの用意した犯人像へ当てはめるために顔を見ます。

しかし、容疑者を見れば見るほど、顔から真実を読み取ることはできなくなります。

終盤、パクはヒョンギュの顔へ接近し、瞳の奥をのぞき込むように凝視します。それでも答えは出ません。

そしてラストで、少女が突きつけるのが「普通の顔」という言葉です。

異常な犯罪をする人間には、異常な外見があるはずだ。

顔を見れば、善人と悪人を区別できるはずだ。

その思い込みが完全に崩れます。

犯人は人混みの中へ溶け込み、日常生活を送り、外見からは見分けられない。

「普通の顔」が恐ろしいのは、誰もが犯人だという意味ではありません。犯罪者を安心して他者化できる、目に見える印など存在しないという意味です。

ラストでパク刑事がカメラを見る4つの意味

1.映画を見ているかもしれない真犯人への視線

本作が作られた2003年、現実の華城連続殺人事件は未解決でした。

ポン・ジュノは、正体不明の犯人が自分の事件を題材にした映画を見に来るかもしれないと想像していました。そのため、最後にパクがカメラを見つめ、スクリーン越しに犯人と目を合わせる構図を作ったと説明されています。

物語の中では犯人を捕まえられなかった刑事が、映画という装置を使って現実の犯人を見つめる。

ラストカットは、フィクションから現実へ向けた無言の取り調べなのです。

2.実際に成立した「刑事と犯人の目の接触」

この演出には、後年さらに不気味な事実が加わりました。

イ・チュンジェは2020年の再審で、収監中に『殺人の追憶』を見たと証言しています。鑑賞時の感情を尋ねられると、映画として見ただけで特別な感情はなかったという趣旨の回答をしました。

つまり、ポン・ジュノが想定したスクリーン越しの対面は、本当に起きていたのです。

2026年の京郷週刊の記事では、ポン・ジュノが映画制作時にイ・チュンジェの存在や収監を知らなかったことも、本人への確認によって示されています。監督が犯人を知ったうえで仕込んだ予言的な伏線ではなく、正体不明の犯人へ届けようとした視線が、偶然本人へ届いたのです。

しかし、その視線が犯人に反省を起こさせたとは限りません。

映画には犯人を改心させたり、失われた時間を取り戻したりする力はない。それでも、忘却に抵抗し、見られている側へ視線を返すことはできる。その限界と意志が、ラストには刻まれています。

3.観客を「見る側」から「見られる側」へ変える視線

パクの視線は、真犯人だけを正確に選んで届くわけではありません。

画面の前にいるすべての観客へ向けられます。

私たちは映画を見ながら、誰が犯人なのかを推理します。ヒョンギュの表情を読み取り、怪しい仕草を探し、次の犠牲者が誰になるのかという緊張を娯楽として経験します。

ところが最後の瞬間、パクがこちらを見る。

事件を安全な場所から眺めていた観客が、突然、刑事から顔を調べられる側へ回されます。

あなたは何を見ていたのか。

被害者の苦しみを見ていたのか。

それとも、犯人当ての刺激だけを求めていたのか。

あの視線は、犯罪を物語として消費する観客の態度にも問いを向けています。

4.自分の無力さを認める視線

パクはかつて、相手の目を見れば犯人だと分かると豪語していました。

ラストで彼は、映画館にいる無数の「普通の顔」を見ます。

しかし、その中から犯人を選び出すことはできません。

刑事としての執念は残っている。

けれども、自分の目では見抜けないことも知っている。

ソン・ガンホの表情には、犯人を見つけたいという欲望、見つけられなかった後悔、そして目の前の誰も犯人になり得るという恐怖が同時に宿っています。

パクは観客を見ていると同時に、かつて万能だと信じていた自分の目の無力さを確認しているのです。

ペク・グァンホは「捜査によって作られた犯人」

知的障害のあるペク・グァンホは、事件の初期に犯人として扱われます。

刑事たちは彼を殴り、供述内容を覚えさせ、報道陣の前で犯行を再現させます。

ここで警察が作っているのは、事件の真相ではありません。

発表しやすい「解決の物語」です。

ところが後になって、グァンホは犯人しか知らないような細部を口にします。彼は犯人ではなく、犯行を目撃していた可能性が高かったのです。

刑事たちは、彼を犯人に仕立てるためには暴力を使いました。しかし、重要な証人として理解するための時間と忍耐は持ちませんでした。

追い詰められたグァンホは列車にはねられ、真相へつながる記憶も失われます。

暴力的な捜査は人権を侵害するだけではありません。

嘘の答えを作り、本物の証拠を破壊します。

現実にも起きていた冤罪

映画のグァンホは創作上の人物ですが、現実の華城事件でも、強引な捜査による深刻な冤罪が起きていました。

事件のうち8件目では、ユン・ソンヨさんが警察に自白を強要されたと訴えながら有罪判決を受け、約20年間服役しました。

イ・チュンジェがこの事件も自分の犯行だと認めたことで再審が行われ、ユンさんは2020年に無罪となります。聯合ニュースによれば、裁判所は不適切な捜査によって誤った判決が生じたとして、司法を代表して謝罪しました。

この現実を踏まえると、グァンホへの暴行や自白の演出は、単なるブラックコメディーとして片づけられません。

犯人を早く示したい組織。

抵抗しにくい人物へ向けられる暴力。

一度作られた筋書きを事実より優先する捜査。

映画が描いた問題は、実際に一人の人生から約20年を奪っていたのです。

クォン巡査の役割|真相へ近づいた「見えにくい仕事」

事件の共通点を見つける過程では、女性警官クォン・グィオクの働きも重要です。

男性刑事たちが容疑者を追い回し、殴り、派手な捜査を続ける一方、クォンは資料とラジオ放送を丹念に確認します。雨、赤い服、決まった曲という関連が捜査の手掛かりになった背景には、彼女の地道な仕事があります。

しかし、物語の中心で捜査の主体として扱われるのは男性たちです。

女性は被害に遭う側として注目される一方、危険を理解し、手掛かりを見つける女性の労働は目立ちません。

この構図は、刑事たちの失敗を能力だけの問題ではなく、誰の声と仕事を重く扱う組織なのかという問題へ広げます。

事件の法則を発見しても、女性を安全に帰宅させる体制は作られない。

手掛かりを知ることと、命を守れることの間には、組織の大きな空白があるのです。

真犯人だけでなく「時代」も事件を生んだ

『殺人の追憶』の舞台である1980年代後半の韓国は、軍事政権から民主化へ移る不安定な時代でした。

作中ではデモと警察の取り締まりが描かれます。連続殺人の捜査に必要な人員を求めても、警察官はデモ鎮圧へ回されている。

国家は抗議する市民を抑えるためには大勢を動員できるのに、夜道を歩く女性を守ることはできません。

取り調べでは暴力が当たり前になっている。

上層部は正しさより早い結果を求める。

地方には十分な科学捜査設備がない。

防空訓練によって街の照明が消され、その暗闇を犯人が利用する。

殺人を実行した責任は、もちろん犯人個人にあります。しかし、犯人を取り逃がし、無実の人を傷つけ、被害を止められなかった背景には制度と時代の問題があります。

ポン・ジュノは英国映画協会のインタビューで、調査を進めるほど、個人の犯人と同じくらい当時の社会的・政治的状況にも責任を感じるようになったと語っています。

アラン・ムーア原作の『フロム・ヘル』からも影響を受け、犯人の心理だけでなく、殺人を許した「時代の精神」を描こうとしたのです。

だから本作には、天才的な殺人鬼と名探偵の華麗な対決がありません。

描かれるのは、暴力に慣れた警察、足りない技術、無視される声、踏み荒らされる現場です。

犯人は暗闇から突然現れた怪物ではなく、その暗闇を放置した社会の中に紛れていました。

なぜコメディーのような場面が多いのか

『殺人の追憶』には、深刻な題材とは不釣り合いに思えるほど笑える場面があります。

刑事が斜面から転げ落ちる。

容疑者へ飛び蹴りをする。

現場を子どもや記者が歩き回る。

重要な足跡を農作業車が踏みつぶす。

これらは、重苦しい物語の途中に置かれた単純な息抜きではありません。

捜査のずさんさは滑稽です。しかし、その滑稽さによって証拠が失われ、無実の人が傷つき、その間にも女性が殺されていきます。

私たちは刑事の失敗を笑った直後、その失敗が取り返しのつかない結果へつながることを理解します。

笑いと恐怖を分けないことで、ポン・ジュノは制度の機能不全を現実的に見せます。

現実の人間は、悲劇の中でも転び、勘違いし、くだらないことで争います。だからこそ、急に訪れる暴力がより恐ろしく感じられるのです。

本作のコメディーは緊張を消すのではなく、観客が安心して「立派な刑事の活躍」を見られないようにする装置だと考えられます。

雨・赤い服・ラジオの曲が意味するもの

事件には、雨の夜、赤い服、ラジオ番組に流れる同じ曲という共通点があります。

通常のミステリーであれば、法則の発見は解決への大きな前進です。

しかし本作では、刑事たちが法則を知っても犯行を止められません。

雨は証拠を洗い流し、足跡を消し、視界を奪います。

赤い服は被害者を結びつける記号になりますが、女性が赤い服を着たことに原因があるわけではありません。何を着ていても安全に帰れない環境と、女性を標的にする犯人の存在が問題です。

ラジオから流れる曲は、個人的なリクエストを公共の電波へ乗せます。声も顔も見えない誰かが、離れた場所から夜の空気を支配する。犯人が姿を現さなくても、曲が流れただけで次の事件を予感させる仕組みです。

三つの要素は犯人の輪郭を示すように見えながら、結局その顔を見せません。

『殺人の追憶』では、パターンを理解することと、人間を理解すること、事件を予測することと、被害を防ぐことが別の問題として描かれています。

トンネルと列車が象徴するもの

物語の終盤、ヒョンギュは暗い鉄道トンネルの中へ歩いていきます。

トンネルの外には刑事と鑑定結果があります。しかし、その証拠は彼を有罪にも無罪にも、観客が納得できる形では導いてくれません。

ヒョンギュが犯人なら、トンネルは犯罪者が再び匿名の闇へ消える場所です。

ヒョンギュが無実なら、警察によって殺されかけた人間が刑事の視線から逃れる場所です。

どちらにしても、刑事たちはその先へ進めません。

また、鉄道は近代化や進歩の象徴でもあります。

ところが本作の列車は、重要な証人であるグァンホの命を奪います。技術が存在しても、人の言葉を聞く制度がなければ、真実を明らかにするどころか消してしまうのです。

DNA鑑定も同じです。

映画では海外へ送らなければ検査できず、届いた結果も刑事たちの望む答えにはなりませんでした。その一方、現実の事件は、保存されていた証拠を新しい技術で調べることによって約30年後に犯人へ到達します。

科学は重要です。

しかし、技術が進歩すれば過去の損失がすべて回復するわけではありません。

犯人を特定できても、公訴時効は過ぎていました。冤罪によって奪われた約20年も、被害者の命も戻りません。

トンネルの闇は、科学が無意味だという象徴ではなく、科学だけでは埋められない時間と制度の空白を表しているのだと思います。

タイトル「殺人の追憶」とは誰の記憶なのか

「追憶」には、過去を振り返り、思い出すという意味があります。

最も不気味なのは、犯人の追憶です。

ラストで現場を訪れた男は、昔ここで自分がしたことを思い出していたと少女へ話します。犯人にとって現場は、他人の人生を奪った場所でありながら、自分の過去を振り返る場所になっている。

しかし、追憶しているのは犯人だけではありません。

警察を辞め、家庭を持ち、別の仕事に就いたパクも現場へ戻ります。

日常生活を送っていても、彼の一部は事件の起きた1986年に残されたままです。

さらに映画そのものが、韓国社会による追憶でもあります。

急速な経済成長と民主化によって風景が変わっても、その過程で見過ごされた被害、国家暴力、冤罪、捜査の失敗は消えません。

ポン・ジュノは2003年の韓国インタビューで、記憶すること自体が犯人への応答の始まりだという趣旨を語っています。

『殺人の追憶』という題名は、殺人犯の記憶、刑事の後悔、被害を忘れない社会の記憶を重ねています。

犯人を捕まえる物語が終わっても、記憶する行為は終わらない。

だから現実の犯人が判明したあとも、このタイトルは過去形にならないのです。

犯人判明後もラストの意味は変わらないのか

現実の犯人が判明したことで、「正体不明の殺人犯が今も観客の中にいるかもしれない」という公開当時の恐怖は変化しました。

しかし、ラストの力が失われたわけではありません。

むしろ、その後明らかになった事実によって「普通の顔」という言葉は重くなりました。

真犯人は超自然的な怪物ではありませんでした。

社会の中で生活し、別事件で逮捕されるまで正体を隠し、収監後には自分の犯罪を題材にした映画まで見ていた一人の人間です。

さらに、事件の真相が分かっても正義が完全に実現したわけではありません。

公訴時効によって華城事件では処罰できない。

被害者は戻らない。

冤罪で服役した時間も戻らない。

捜査機関が行った暴力も、犯人の名前が判明しただけでは消えません。

事件が解明されることと、事件によって生まれた傷が癒えることは別です。

ラストの視線が問いかけているのは、もはや「犯人は誰か」だけではありません。

なぜ見つけられなかったのか。

なぜ無実の人が犯人にされたのか。

誰の声が無視されたのか。

そして、犯人の顔が分かったあと、私たちは事件を理解したつもりになっていないか。

その問いが残る限り、『殺人の追憶』は未解決の映画であり続けます。

よくある疑問

映画『殺人の追憶』の犯人は誰ですか?

映画内では特定されません。パク・ヒョンギュが最有力容疑者として描かれますが、犯人と立証する証拠はなく、ポン・ジュノ監督も第三の容疑者が犯人かどうか決めていなかったと説明しています。

パク・ヒョンギュは無実だったのですか?

無実とも断定できません。鑑定結果は現場の試料との一致を示さず、逮捕できる証拠がなかったというのが映画内の結論です。本作はヒョンギュの有罪・無罪ではなく、証明できない人間を犯人扱いする危険を描いています。

ラストで少女が会った男は真犯人ですか?

その可能性が強く示唆されています。男は用水路を見ながら、昔そこで自分がしたことを思い出していたと語ったからです。ただし、映画は男の顔も名前も示さず、最後まで客観的な証明を与えません。

パク刑事はなぜ警察を辞めたのですか?

具体的な退職理由は説明されません。事件を解決できず、自分の勘にも刑事としての能力にも自信を失ったことが影響したと考えられます。ラストでは家庭を持ち、セールスマンとして働いています。

実話の真犯人は誰ですか?

イ・チュンジェです。2019年に保存証拠のDNAから特定され、2020年に韓国警察が華城の10件すべてを含む14件の殺人を確認しました。別の殺人事件ですでに無期懲役となっていました。

真犯人は『殺人の追憶』を見たのですか?

見ています。イ・チュンジェは2020年の再審で、収監中に映画を鑑賞したと証言しました。ただし、特別な感情はなかったという趣旨の回答をしています。

なぜ犯人は逮捕・処罰されなかったのですか?

イ・チュンジェが特定された時点で、華城事件の公訴時効が成立していたためです。ただし、彼は義妹への性暴力と殺人によって、すでに無期懲役で服役していました。

なぜ映画には複数の容疑者が登場するのですか?

捜査方法の違いと、その限界を示すためです。刑事たちは容疑者を発見するたび、証拠を集めるより先に「この男が犯人であってほしい」と願うようになります。複数の容疑者は、外見や偏見から犯罪者を見分けることの不可能性も示しています。

タイトル『殺人の追憶』にはどんな意味がありますか?

過去の犯行を振り返る犯人、解決できなかった事件へ戻るパク、被害と国家暴力を記憶する韓国社会という、複数の「追憶」が重なったタイトルだと考えられます。

まとめ|恐ろしいのは、犯人が「普通の顔」をしていること

『殺人の追憶』において、刑事たちは犯人の顔を求め続けます。

異常な犯罪を行う人間には、異常な顔があるはずだ。

見れば分かるはずだ。

どこかに、善人とは異なる印があるはずだ。

しかし、最後に少女が語るのは「普通の顔」です。

パク・ヒョンギュは疑わしい。

けれども、疑わしい顔は証拠ではありません。

現実の犯人イ・チュンジェが特定されても、映画のヒョンギュが犯人になるわけではありません。

そして、現実の犯人の名前と顔が分かっても、被害や冤罪、捜査機関の暴力が消えるわけでもありません。

だからパクの最後の視線は、犯人一人を告発するだけでは終わりません。

犯罪を外見で見分けられると思う私たち。

事件を犯人当てとして消費する観客。

分かりやすい答えを求め、証拠のない人間を犯人にしたくなる社会。

そのすべてを、パクはスクリーンの向こうから見つめています。

『殺人の追憶』は、犯人を捕まえられなかった刑事たちの敗北を描いた映画です。

同時に、人の顔を見ればすべて理解できるという傲慢さを壊し、過去を忘れようとする社会へ記憶を返す映画でもあります。

犯人が判明した現在、最後の問いは「誰が殺したのか」から、さらに先へ進みました。

なぜ、これほど長く見つけられなかったのか。

なぜ、無実の人間が傷つけられたのか。

そして私たちは、目の前にある暴力を今度こそ見落とさずにいられるのか。

パクの視線から目をそらしにくいのは、その問いにまだ答えが出ていないからなのだと思います。

参考資料

※映画内で描かれる事実、現実の事件について確認された事実、筆者による作品解釈を区別して記載しています。