映画『ジェーン・ドウの解剖』をネタバレありで考察。ジェーン・ドウの正体は魔女なのか、解剖で判明した異常、セイラム魔女裁判との関係、鈴やラジオの意味、トミーとオースティンの最期、ラストで足の指が動いた理由まで詳しく解説します。
『ジェーン・ドウの解剖』は、一体の身元不明死体を解剖していくだけで、少しずつ世界の常識が崩れていく異色のホラー映画です。
外見にはほとんど傷がない。
しかし身体の中を調べれば調べるほど、あり得ないほど凄惨な痕跡が発見されていく。
そして最も恐ろしいのは、解剖台の上に横たわる女性――ジェーン・ドウが、映画のほとんどで動かないということです。
では、彼女はいったい何者だったのでしょうか。
最初から魔女だったのか。それとも、人間たちが「魔女だ」と決めつけて苦しめたことで、本当の怪物を生み出してしまったのか。
本記事では『ジェーン・ドウの解剖』の結末までネタバレしながら、ジェーンの正体、身体に残された謎、鈴やラジオの意味、そしてラストシーンについて考察します。
※以下、映画『ジェーン・ドウの解剖』の重大なネタバレを含みます。
映画『ジェーン・ドウの解剖』作品情報
『ジェーン・ドウの解剖』(原題:The Autopsy of Jane Doe)は、アンドレ・ウーヴレダル監督による2016年製作のイギリス・アメリカ合作ホラー映画です。
日本では2017年5月20日に公開されました。主人公の検死官親子トミー・ティルデンとオースティンを、ブライアン・コックスとエミール・ハーシュが演じています。日本公式情報では本編86分とされています。
物語の舞台となるのは、バージニア州にある家族経営の遺体安置所。
一家惨殺事件が起きた家の地下から、身元不明の若い女性の死体が発見されます。
奇妙なのは、周囲では凄惨な殺人が起きているにもかかわらず、その女性の身体には目立った外傷がないこと。
彼女は身元不明女性を意味する仮名として「ジェーン・ドウ」と呼ばれ、死因を調べるため、検死官のトミーと息子オースティンのもとへ運び込まれます。
ここから、二人にとって人生で最も不可解な「解剖」が始まります。
ジェーン・ドウの遺体は何がおかしかった?
最初からジェーンの遺体には矛盾があります。
外側は異様なほどきれいなのに、身体の内部は破壊されているのです。
検死を進めると、
- 手首や足首の骨が損傷している
- 舌が切断されている
- 歯が一本失われている
- 肺が黒く焼けている
- 内臓に多数の損傷がある
- 胃から植物性の物質が検出される
- 失われた歯と謎の布が体内から見つかる
- 皮膚の内側に記号が刻まれている
といった異常が次々に判明します。
しかも死後硬直などの状態と眼球の濁りが示す時間が一致せず、血液も通常の死体とは思えない状態です。
つまりジェーンは、
「外見上は何もされていないのに、内部だけが拷問された死体」
なのです。
この構造こそ、本作最大のポイントでしょう。
目に見える表面だけでは、ジェーンが受けた苦痛は分からない。
彼女の身体を切り開くことで初めて、隠されていた暴力が姿を現します。
『ジェーン・ドウの解剖』は文字どおり遺体を解剖する映画ですが、同時に、
歴史の表面から消された暴力を掘り起こしていく物語
とも考えられるのです。
ジェーン・ドウの正体は魔女なのか?
結論からいえば、本作はジェーンの正体を完全には断定していません。
しかし劇中でトミーたちがたどり着く仮説は明確です。
ジェーンは17世紀の魔女狩りによって「魔女」と疑われ、拷問された女性だった。
そして彼女を魔女として処罰しようとした行為そのものが、結果的に彼女を本物の超自然的存在へ変えてしまったのではないか――というものです。
体内から発見された布には旧約聖書「レビ記20章27節」を示すと考えられる記号と「1693」に結びつく情報があり、物語はセイラム魔女裁判を強く連想させます。レビ記20章27節は霊媒や口寄せを行う者への死刑を記した箇所です。
ここで重要なのは、
「ジェーンは本当に最初から魔女だったのか?」
という疑問です。
トミーはむしろ逆の可能性を考えます。
当時の人々は、普通の女性を魔女だと思い込み、残酷な方法で苦しめた。
ところが、その苦痛と憎悪があまりにも大きかったため、結果として人々が恐れていた存在そのものを生み出してしまった。
つまり本作には、
「魔女がいたから迫害した」のではなく、「迫害したから魔女が生まれた」
という恐ろしい逆転があるのです。
セイラム魔女裁判との関係
ただし、映画の設定と実際の歴史は分けて考える必要があります。
史実のセイラム魔女裁判は主に1692年に起きた出来事で、魔女として有罪になった人々が「火あぶり」にされたというのもよくある誤解です。
実際には、セイラムで魔女として処刑された人々は主に絞首刑にされており、1人の男性が圧死しています。セイラムで火刑にされた人物はいません。
したがってジェーンの身体に残る拷問痕を、そのまま史実のセイラムで行われた処刑方法だと考える必要はありません。
本作はセイラム魔女裁判を歴史的モチーフとして利用し、
「根拠のない確信によって人間が人間を怪物にしてしまう」
というテーマへと変換しているのでしょう。
なぜジェーンはトミーたちを襲ったのか?
ここには本作でもっとも不気味な問題があります。
トミーとオースティンは、ジェーンを迫害した17世紀の人間ではありません。
何百年も後に偶然彼女を解剖することになっただけです。
それなのになぜ、二人は死ななければならなかったのでしょうか。
一つの解釈は、ジェーンの復讐がすでに個人を対象としたものではなくなっているということです。
長期間苦痛を受け続けたことで、彼女は「自分を傷つけた犯人」だけではなく、
人間そのものを憎む存在
になってしまった。
だから直接の加害者ではないトミーとオースティンまで巻き込まれる。
ここが本作を単純な勧善懲悪にしていないところです。
ジェーンには同情できる過去がある。
しかし現在の彼女が行っていることは、明らかに無関係な人間への加害です。
つまり彼女は、
被害者であると同時に加害者でもある。
それこそが『ジェーン・ドウの解剖』の後味の悪さなのでしょう。
「解剖」そのものがジェーンへの再度の暴力になっている
さらに踏み込むなら、ジェーンがトミーたちを攻撃する理由には、もう一つ重要な意味があります。
二人は検死官です。
彼らに悪意はありません。
死因を突き止めるため、科学的な手順に従ってジェーンの身体を切開しているだけです。
しかしジェーンの側から見ればどうでしょう。
彼女は過去に身体を拘束され、傷つけられ、内部まで破壊された可能性があります。
そして数百年後、再び男たちによって身体を切り開かれている。
目的は「拷問」と「検死」で正反対ですが、
ジェーンの身体に刃物を入れる
という点では同じなのです。
だから解剖が進めば進むほど怪異が強くなる。
トミーたちは真実に近づいているつもりですが、同時にジェーンの過去の苦痛を再演してしまっているとも読めます。
この映画では「知る」という行為さえ安全ではありません。
真実を暴こうとして身体の奥へ進むほど、彼ら自身が真実に飲み込まれていくのです。
足首の「鈴」が怖い理由
本作でも特に印象的なのが、遺体につけられた鈴です。
序盤、トミーは死体の足に鈴をつけておく古い慣習について説明します。
本当に死亡していなければ、身体が動いたときに鈴が鳴る。
この説明があるため、その後暗い廊下から鈴の音が聞こえるだけで、観客は
「死体が歩いているのではないか」
と想像してしまいます。
レビューでも、この鈴を利用して直接見せずに恐怖を生み出す演出が本作の効果的な仕掛けとして指摘されています。
しかし、この鈴にはより大きな意味があります。
それは、
生者と死者の境界が信用できない
ということです。
検死官とは、本来「死」を科学的に確認する人間です。
ところがジェーンには、その分類が通用しません。
死んでいる。
しかし血は流れる。
身体は動かない。
しかし脳には活動が残っている。
最後には足の指まで動く。
つまりジェーンは最初から最後まで、
「死体なのか生きているのか」という人間の分類そのものを拒否する存在
なのです。
だから鈴は単なるジャンプスケア用の小道具ではありません。
この映画全体を象徴するアイテムでもあります。
ラジオから流れる曲の意味
もう一つ繰り返し登場するのがラジオです。
怪異が起こり始めると、ラジオが勝手に局を変え、同じ曲が流れ始めます。
使用されているのは「Open Up Your Heart (And Let the Sunshine In)」という明るい印象の楽曲で、映画の序盤から終盤まで繰り返し使われています。
ここには強烈な皮肉があります。
地下の遺体安置所は暗く、外では嵐が続き、父子は逃げ場を失っていく。
そんな状況で「光」や「太陽」を連想させる陽気な曲が流れる。
映像と音楽の意味が完全に反転しているのです。
さらに重要なのは、ジェーンが視覚だけではなく「聞こえるもの」まで支配しているように見える点でしょう。
電話。
ラジオ。
外から聞こえる声。
近づいてくる死者。
トミーとオースティンは、自分たちが何を見て、何を聞いているのかさえ信用できなくなります。
ジェーンの最大の能力は、単に死者を動かすことではありません。
人間が現実だと思っているものを操作すること
なのかもしれません。
エマの死は何を意味している?
トミーとオースティンが脱出しようとした際、暗闇の中から人影が近づいてきます。
トミーは蘇った死体だと思い込み、斧を振り下ろします。
しかし、その人物はオースティンの恋人エマでした。
少なくとも映画はその瞬間、父子にそう認識させます。一般的なプロット上も、トミーが怪異と誤認してエマを殺してしまう場面として説明されています。
ここで恐ろしいのは、ジェーン自身が直接手を下していないことです。
「敵が来る」と思わせる。
恐怖を植えつける。
そして人間自身に殺させる。
これは魔女狩りの構造とよく似ています。
魔女狩りでも、
「この人間は危険な存在だ」
という確信が先に生まれ、その恐怖によって普通の人間が攻撃対象にされました。
トミーも同じです。
目の前の存在を「怪物」と決めつけた瞬間、取り返しのつかない暴力を振るってしまう。
つまりここでも、
恐怖が人間を加害者に変える
というジェーン自身の過去が繰り返されているのです。
トミーが自分を犠牲にした理由
物語終盤、トミーとオースティンはジェーンが完全な死体ではないことを悟ります。
そしてトミーは、自分がジェーンの苦痛を引き受ける代わりに息子を助けてほしいと願います。
するとトミーの身体には、ジェーンが受けていたものと同じような傷が現れ始めます。
その一方で、ジェーンの身体は回復していきます。
ここで初めて、ジェーンの怪異の仕組みが見えてきます。
彼女は自分が受けた苦痛を、他人に追体験させている。
言い換えれば、
誰かがジェーンの苦痛を背負えば、その分だけジェーン自身は癒やされる。
だからトミーの自己犠牲によって彼女の身体が回復するのです。
しかし、ここにも救いはありません。
トミーは彼女を救おうとする。
息子も救おうとする。
それでも最後には死ぬ。
ジェーンにとって必要なのは謝罪ではない。
理解でもない。
すでに彼女は、
誰かが同じ苦しみを味わうこと
でしか満たされない存在になってしまったのでしょう。
なぜオースティンまで死んだのか?
父トミーの死後、オースティンは助けが来たと思います。
しかし、それもジェーンが見せた幻覚でした。
そして死んだ父親の姿に驚き、階段から転落して命を落とします。
トミーは自分を犠牲にすれば息子を助けてもらえると考えていました。
しかしジェーンは約束を守らない。
ここから分かるのは、これは「呪いを解くための儀式」ではなかったということです。
ジェーンには、人間と公平な契約を結ぶ理由などありません。
彼女の復讐には出口がないのです。
この点で、本作は非常に残酷です。
もしジェーンの目的が「自分の無実を理解してもらうこと」なら、トミーが真相にたどり着いた時点で終わってもよかったはずです。
しかし終わらない。
つまり何百年もの苦痛は、
理解されれば癒える段階をすでに越えてしまっている。
だから彼女は被害者でありながら、永遠に新しい被害者を作り続ける存在になってしまったのでしょう。
ラストでジェーンの足の指が動いた意味
翌朝、警察が到着します。
トミーとオースティンは死亡。
ところが解剖され、焼こうとまでされたはずのジェーンの身体は、再びほとんど無傷の状態に戻っています。
そして遺体は別の施設へ移送されることになります。
搬送中、ラジオが再び勝手に鳴り始める。
そして最後の瞬間、
ジェーンの足の指がわずかに動きます。
このラストが示していることは比較的明確でしょう。
ジェーンは終わっていない。
次の場所でも同じことが起きる可能性がある。
つまり、トミーとオースティンの死は事件の解決ではありません。
彼らはジェーンという長い歴史の中の、新たな犠牲者になっただけなのです。
さらに皮肉なのは、彼女が再び「解剖」のために運ばれていくことです。
次の施設でも当然、人々は死因を調べようとするでしょう。
身体にメスを入れる。
異常を発見する。
ジェーンが反応する。
そしてまた人が死ぬ。
映画は、
解剖→怪異→死→移送→再び解剖
という終わりのない循環を示して幕を閉じます。
ジェーンが目を開けないことこそ、この映画最大の恐怖
『ジェーン・ドウの解剖』で特に秀逸なのは、ジェーン本人がほとんど動かないことです。
普通のホラー映画なら、終盤になれば死体が起き上がり、怪物として主人公を追いかけてもおかしくありません。
しかし本作はそうしません。
ジェーンは解剖台の上に横たわったままです。
にもかかわらず、すべてを支配している。
そのため観客は常に、
「次に目を開けるのではないか」
「突然こちらを見るのではないか」
と警戒します。
ところが動かない。
この「何も起きない時間」が恐怖を増幅させています。
そして考えてみれば、ジェーンが動く必要などありません。
彼女にとってトミーたちは、すでに掌の上にいる存在だからです。
『ジェーン・ドウの解剖』が本当に描いていたもの
本作を単純化すれば、
「昔殺された魔女が復讐する映画」
とも説明できます。
しかし、それだけではこの作品の面白さを十分に説明できません。
本作でもっとも重要なのは、
人間が“真実を知っている”と思った瞬間に起こる暴力
ではないでしょうか。
17世紀の人々は、
「この女性は魔女だ」
という答えを持っていた。
その確信によって、彼女を傷つけた。
現代のトミーたちは、
「身体を調べれば死因が分かる」
と信じている。
そこで彼女の身体を切り開く。
もちろん両者の倫理的意味はまったく違います。
検死は犯罪ではありません。
しかし映画の構造として見ると、
人間がジェーンを理解しようとして、身体の奥へ奥へと侵入していく
という点では奇妙な反復が起きています。
だからこの映画では、解剖すればするほど謎が減るのではありません。
逆に増えていく。
普通のミステリーなら、
証拠を見つける
↓
真実に近づく
↓
事件が解決する
という方向へ進みます。
ところが『ジェーン・ドウの解剖』は、
証拠を見つける
↓
真実に近づく
↓
世界の常識が壊れる
という逆方向へ進む。
「知ること」が救いにならないのです。
まとめ|ジェーン・ドウは「人間が作った怪物」だったのかもしれない
『ジェーン・ドウの解剖』で最も説得力のある解釈は、ジェーンが最初から邪悪な魔女だったのではなく、
魔女だと決めつけられて苦しめられた結果、本当に超自然的な存在へ変わってしまった
というものです。
人間は存在しない悪を恐れ、それを排除しようとした。
そして皮肉にも、その行為によって本物の悪を作ってしまった。
だからジェーンは、
「魔女狩りの被害者」
であると同時に、
「魔女狩りが生み出した怪物」
でもあります。
しかし長い年月の中で彼女の復讐は加害者だけに向けられるものではなくなり、無関係な人間まで巻き込む終わりのない暴力へ変わってしまった。
だからこそ、本作には明確な勝者がいません。
トミーもオースティンも死ぬ。
ジェーンも救われない。
そして最後には、彼女の身体が新たな場所へ運ばれていく。
足の指がわずかに動くラストは、
「これは終わりではない」
という宣告なのでしょう。
『ジェーン・ドウの解剖』の本当の恐怖は、死体が生きていることではありません。
一度生まれた憎しみと暴力が、何百年経っても形を変えて次の人間へ受け継がれていくこと。
ジェーン・ドウという名も持たない女性の身体は、その終わらない連鎖そのものなのかもしれません。
