幼い少女が、銃撃を受けた車の中から電話をかける。
周囲には、すでに動かなくなった家族がいる。
少女は助けが来ると信じ、電話の向こうにいる大人たちは、彼女を安心させながら救急車を向かわせようとする。
しかし、その救急車はすぐ近くにいるにもかかわらず、自由に出発することができない。
映画『ヒンド・ラジャブの声』が描くのは、作り物の救出劇ではありません。
2024年1月29日、パレスチナ・ガザ地区で実際に起きた出来事です。
さらに本作で聞こえる少女の声は、子役が演じたものではありません。ヒンド・ラジャブ本人の通話音声が使われています。
なぜヒンドは救出されなかったのでしょうか。
なぜ映画は、銃撃された車内ではなく、遠く離れた赤新月社の緊急センターを舞台にしたのでしょうか。
そして、実在した子どもの最期の声を映画で使うことに、どのような意味があるのでしょうか。
本記事では、事件の経緯と映画の構成を分けて整理しながら、『ヒンド・ラジャブの声』というタイトルに込められた意味まで考察します。
※この記事は、実際の事件と映画の結末に触れています。子どもの死や銃撃、救助隊員の死亡に関する記述が含まれます。
- 映画『ヒンド・ラジャブの声』の作品情報
- 結論|ヒンドはなぜ救出されなかったのか
- 実話|2024年1月29日に何が起きたのか
- ヒンドはどのくらい電話をしていたのか
- 救急車はなぜすぐに出発できなかったのか
- 救助に向かった2人の救急隊員も死亡した
- 335発の銃弾は何を意味しているのか
- 国連専門家は「戦争犯罪に当たる可能性」を指摘
- 2026年8月、イスラエル軍が部隊の関与を認めた
- 映画はどこまで実話なのか
- ヒンドの声は本物なのか
- なぜ車内や銃撃を直接映さないのか
- 赤新月社のオフィスは「安全な場所」ではない
- タイトル『ヒンド・ラジャブの声』の意味
- 本物の声を使うことは正しかったのか
- 倫理的な違和感も映画の一部になる
- ラストで再現映像と現実の境界が崩れる意味
- 『関心領域』と共通する「映さない暴力」
- 映画が記憶を残すことの意味
- よくある疑問
- まとめ|ヒンドの声を「聞いたあと」が問われている
- 関連記事
- 参考資料
映画『ヒンド・ラジャブの声』の作品情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原題 | The Voice of Hind Rajab |
| 監督・脚本 | カウテール・ベン・ハニア |
| 出演 | サジャ・キラニ、モタズ・マルヒース、アメル・フレヘル、クララ・フーリ |
| 製作国 | チュニジア、フランス |
| 製作年 | 2025年 |
| 上映時間 | 89分 |
| 日本公開日 | 2026年9月4日 |
| 配給 | スターキャットアルバトロス・フィルム |
本作は第82回ヴェネチア国際映画祭で審査員大賞にあたる銀獅子賞を受賞し、複数の関連賞を含めて8冠を達成しました。
第98回アカデミー賞では、チュニジア代表として国際長編映画賞にノミネートされています。
作品情報や上映館については、映画『ヒンド・ラジャブの声』公式サイトで確認できます。
なお、ヒンドの年齢は資料によって「5歳」と「6歳」の表記が混在しています。日本版公式サイトや初期の報道では6歳とされていますが、生年月日を基準にすると事件当時は5歳だったとする報道もあります。
本記事では混乱を避けるため、基本的に「少女」または「ヒンド」と表記します。
結論|ヒンドはなぜ救出されなかったのか
結論から言えば、ヒンドを救えなかったのは、赤新月社のスタッフや救急隊員が救助を諦めたからではありません。
むしろ彼らは、ヒンドとの通話を切らないよう懸命に言葉をかけながら、救急車を向かわせるための調整を続けていました。
それでも救助できなかった理由には、
- 戦闘地域へ救急車を出すために安全の確認と許可が必要だった
- 複数の機関を通じた調整に時間がかかった
- 許可された経路を進んでも安全が保証されなかった
- 救助に向かった救急車自体が攻撃を受けた
という問題があります。
救急車は物理的にはヒンドから遠く離れていませんでした。
しかし戦闘下では、「近くにいること」と「助けに行けること」が同じ意味を持ちません。
映画が描くのは、救おうとする人々が存在しているにもかかわらず、軍事的な支配と手続きによって救助が不可能になっていく時間なのです。
実話|2024年1月29日に何が起きたのか
2024年1月29日、イスラエル軍による攻撃が続くガザ市南西部のテル・アル=ハワ地区で、ヒンドと親族は車に乗って避難しようとしていました。
その車には、ヒンドの叔父と叔母、複数のいとこが乗っていました。
ところが、車は激しい銃撃を受けます。
最初にパレスチナ赤新月社へ電話をかけたのは、当時15歳だったヒンドのいとこ、ライアン・ハマダでした。
ライアンは、車が攻撃を受けていることや、すぐ近くに戦車がいることを緊急センターへ伝えます。
しかし通話中に再び銃声が響き、ライアンの声は途絶えました。
スタッフが電話をかけ直すと、今度はヒンドが応答します。
ヒンドは銃撃された車の中で、生き残った一人として助けを待っていました。
赤新月社のスタッフはヒンドとの通話を続け、恐怖を少しでも和らげようとしながら、救急車を向かわせるための調整を始めます。
ヒンドはどのくらい電話をしていたのか
カウテール・ベン・ハニア監督へのインタビューによれば、赤新月社の緊急センターで出来事が進行したのは、現地時間の午後2時35分ごろから午後7時30分ごろまでの約5時間です。
監督が赤新月社から提供を受けた通話記録は、合計で約70分に及びました。
映画では、そのすべてが流れるわけではありません。
それでも多くの部分で、ヒンド本人の音声が使用されています。
ヒンドは、何が起きているのかを完全には理解できないまま、大人たちが迎えに来ることを待ち続けました。
電話の向こうにいるスタッフも、すぐに助けへ行くと簡単に約束することはできません。
希望を失わせないように話し続けながら、現実には救急車をすぐ出せない。
この残酷な隔たりが、映画全体の緊張を生み出しています。
救急車はなぜすぐに出発できなかったのか
赤新月社の救急車が戦闘地域へ入るためには、安全な経路を確保するための調整が必要でした。
通常の災害や事故であれば、救急隊は通報を受けて現場へ向かいます。
しかし軍事作戦が行われている地域では、救急車であっても自由に移動できません。
赤新月社は関係機関を通じ、救急車が通ってよい経路と時間を確認しなければなりませんでした。
問題は、その調整をしている間にも、ヒンドが銃撃された車の中で待ち続けていたことです。
一つの確認。
一つの連絡。
一つの返事。
平時であれば数分の遅れに見える手続きも、負傷した子どもにとっては生死を分ける時間になります。
映画では、この手続きを単なる事務作業として描きません。
スタッフが電話をかける。
返事を待つ。
別の部署へ連絡する。
許可が出たのか確認する。
何度も同じ説明を繰り返す。
こうした行為が積み重なるほど、観客は「なぜまだ出発できないのか」という焦りを共有することになります。
救助に向かった2人の救急隊員も死亡した
安全な経路についての調整を経て、赤新月社は救急車を出発させます。
救助に向かったのは、ユスフ・アル=ゼイノとアフマド・アル=マドフーンという2人の救急隊員でした。
しかし、救急車が現場へ近づいたあと、緊急センターとの連絡が途絶えます。
ヒンドとの通話も切れました。
その後、軍が周辺から撤退するまで、赤新月社や家族は現場へ近づくことができませんでした。
事件から12日後の2024年2月10日、ヒンドと同乗していた6人の親族が車内で死亡しているのが確認されます。
約50メートル離れた場所からは、破壊された救急車と2人の救急隊員の遺体も発見されました。
つまり、助けを待っていたヒンドだけでなく、ヒンドを救うために出発した2人も命を奪われたのです。
335発の銃弾は何を意味しているのか
調査団体Forensic Architectureと音響調査機関Earshotは、通話音声、現場映像、車体の損傷などを分析し、事件を再構成しています。
その調査では、ヒンドたちが乗っていた車に約335発が撃ち込まれた可能性が示されました。
また、いとこのライアンが通話していた際の銃声を音響分析した結果、発砲した車両は自動車から13~23メートルほどの近距離にいた可能性があるとされています。
これは重要な点です。
数百メートル、数キロメートル離れた場所から、車内の状況を確認できないまま攻撃したという距離ではありません。
Forensic Architectureは、この距離であれば、車内に子どもを含む民間人がいることを認識できなかったとは考えにくいと指摘しています。
ただし、これは調査団体による分析結果です。
刑事裁判によって故意性や個人の責任が確定したわけではありません。
そのため記事では、
「335発が撃ち込まれたとForensic Architectureが分析している」
「近距離から発砲された可能性が示されている」
と、確認された事実と調査上の結論を分けて扱う必要があります。
調査の詳細は、Forensic Architectureによる事件の再構成とEarshotの音響分析で確認できます。
国連専門家は「戦争犯罪に当たる可能性」を指摘
2024年7月、国連人権理事会の特別手続に関わる専門家たちは、ヒンドと家族、救急隊員の死亡について、戦争犯罪に当たる可能性があると指摘しました。
医療従事者や救急車は、国際人道法の下で保護されるべき存在です。
もちろん、戦闘地域に救急車が入れば、危険が完全になくなるわけではありません。
しかし安全な移動のための調整を行った救急車が攻撃されたのであれば、「戦場だったから仕方がない」という説明だけでは済みません。
誰が発砲を命じたのか。
救急車の移動情報は共有されていたのか。
車内の民間人を確認できたのか。
なぜ救助経路への攻撃が起きたのか。
独立した調査によって明らかにされるべき問題が残されています。
国連専門家の声明は、国連の公開ページで確認できます。
2026年8月、イスラエル軍が部隊の関与を認めた
事件直後、イスラエル軍は、ヒンドたちが死亡した場所の近くに部隊はいなかったと説明していました。
ところが2026年8月19日、イスラエル軍は内部調査の結果として、部隊がヒンドと家族の乗った車へ発砲したことを認めました。
さらに、救助に向かった赤新月社の救急車に砲弾が発射されたことも認めています。
イスラエル軍は、救急車の移動をめぐる調整に問題があった可能性があるとして、刑事捜査を開始しました。
これは非常に大きな変化です。
それまでの「現場に部隊はいなかった」という説明が覆されたからです。
一方で、刑事捜査を開始したことは、責任の所在や故意性がすでに確定したことを意味しません。
どの部隊が、どのような情報に基づいて発砲したのか。
車や救急車を何と認識していたのか。
移動許可の情報がどこで途切れたのか。
これらは今後の捜査で明らかにされるべき点です。
最新の経緯は、Reutersの2026年8月19日付報道で確認できます。
映画が日本で公開される直前に捜査が始まったことによって、『ヒンド・ラジャブの声』は過去の事件を記録した作品であると同時に、現在も結論が出ていない事件を扱う映画になりました。
映画はどこまで実話なのか
『ヒンド・ラジャブの声』は、一般的な意味でのドキュメンタリーではありません。
赤新月社のスタッフを演じているのは俳優です。
ラナをサジャ・キラニ、オマールをモタズ・マルヒース、マフディをアメル・フレヘル、ニスリーンをクララ・フーリが演じています。
彼らがいる緊急センターの場面も、実際の出来事とスタッフの証言をもとに再構成されたものです。
一方で、
- ヒンド本人の通話音声
- 実在する赤新月社スタッフの音声
- 当日に記録された映像
- 破壊された車や救急車に関する記録
には、実際の資料が使われています。
つまり本作は、
俳優による再現映像の中へ、現実の音声と記録映像が入り込んでくる映画
なのです。
監督は、現実とフィクションの境界を曖昧にしたのではありません。
むしろ両者を並べることで、「ここまでは俳優による再現だが、この声と記録は現実である」と観客へ意識させています。
ヒンドの声は本物なのか
映画で使用されているヒンドの声は、本物です。
ベン・ハニア監督はヒンドの母親と連絡を取り、映画化について説明しました。
そのうえで、赤新月社から約70分の通話記録を提供され、使用に必要な権利を得たと説明しています。
制作過程の詳細は、Filmmaker Magazineの監督インタビューで語られています。
重要なのは、監督がヒンドの声を似た声の子役で再現しなかったことです。
もし子役が演じていれば、観客は「これは映画の中の子どもだ」と距離を取ることができたでしょう。
しかし、実際に聞こえてくるのは、2024年1月29日に助けを待っていたヒンド本人の声です。
その瞬間、観客は安全なフィクションの外へ引き戻されます。
なぜ車内や銃撃を直接映さないのか
映画の大部分は、赤新月社の緊急センターという限られた空間で進みます。
ヒンドがいる車内を俳優で再現し、銃撃場面を映像化することもできたはずです。
しかし監督は、暴力を基本的に画面の外へ置きました。
その理由は、悲惨な映像をさらに一つ追加することが目的ではなかったからでしょう。
現在では、戦争や災害の映像がSNSを通じて大量に流れてきます。
最初は衝撃を受けても、次の映像へ進むうちに感覚が麻痺していく。
映像を見たという事実だけで、出来事を理解したような気持ちになることもあります。
『ヒンド・ラジャブの声』は、暴力を直接見せる代わりに、見えない場所で何が起きているのかを想像させます。
車内が映らないからこそ、観客はヒンドの声、スタッフの表情、突然生まれる沈黙から、画面の外側を考えなければなりません。
赤新月社のオフィスは「安全な場所」ではない
映画の画面に映るのは、机、電話、パソコン、ガラスで区切られた部屋です。
銃弾が飛んでくる場所ではありません。
しかしスタッフたちは、電話を通じて暴力のただ中に置かれます。
相手の声は聞こえる。
居場所も分かっている。
救急車もある。
それでも助けに行けない。
この状況では、距離が人を守ってくれません。
ヒンドの声を聞き続けるスタッフたちは、身体的には安全な場所にいながら、精神的には車内へ引き込まれていきます。
同じことは、映画を観ている私たちにも起こります。
観客は映画館の座席にいます。
画面の中へ入ることも、過去を変えることもできません。
それでも声を聞いてしまった以上、「知らなかった」という場所へは戻れない。
赤新月社のスタッフと観客は、異なる場所にいながら、助けを求める声を聞くという一点で重ねられているのです。
タイトル『ヒンド・ラジャブの声』の意味
タイトルが『ヒンド・ラジャブの死』ではなく、『ヒンド・ラジャブの声』であることは重要です。
「死」という言葉は、出来事を過去形にします。
一人の少女が亡くなった。
事件は終わった。
そう整理することができます。
しかし「声」は、再生されるたびに現在形になります。
録音の中で、ヒンドはまだ助けを待っています。
映画を観る人は、その声を今、この瞬間に聞くことになります。
同時に、声は証拠でもあります。
ヒンドの声だけでなく、いとこのライアンが伝えた状況、背景の銃声、赤新月社スタッフとのやり取りが、その場所で何が起きていたのかを記録しています。
タイトルの「声」には、
- 生きていた一人の少女の存在
- 助けを求めた事実の記録
- 暴力によって消されなかった証言
- その声を聞いた人へ託される記憶
という複数の意味が込められているのでしょう。
本物の声を使うことは正しかったのか
本作を考えるうえで避けられないのが、実在した子どもの最期の声を映画で使用することの倫理です。
ヒンドの声は非常に強い感情を観客へ与えます。
だからこそ、
亡くなった子どもの恐怖を、映画の緊張感を高めるために使っていないか。
観客の涙を誘うため、実際の苦痛を利用していないか。
政治的な主張を強める道具として、一人の少女を象徴化していないか。
という疑問が生まれます。
英国映画協会の『Sight and Sound』も、本物の声を劇映画的な構成の中で使用することについて、抵抗の表現と苦痛の見世物化との境界が曖昧になる危険を指摘しています。
詳しくは、Sight and Soundの映画評で読むことができます。
この批判を、「大切な映画だから」という理由だけで退けるべきではないでしょう。
作品の目的が正しくても、表現方法が自動的に正当化されるわけではありません。
倫理的な違和感も映画の一部になる
一方で、監督はヒンドの母親へ連絡し、赤新月社から音声の使用権を得たうえで制作しています。
母親は、娘の存在を忘れないでほしいという思いを監督へ伝えました。
また監督は、銃撃場面を視覚的な見世物にすることを避けています。
ヒンド役の子役を用意して、傷ついた姿や死の瞬間を再現することもしていません。
それでもなお、本物の声を聞くことへの居心地の悪さは残ります。
しかし、その居心地の悪さを消す必要はないのかもしれません。
なぜ自分は、この声を聞くことに苦しさを感じるのか。
なぜニュースの文章では読み流せた出来事が、声になった途端に耐え難くなるのか。
なぜ一人の子どもの声を聞かなければ、大勢の死を具体的に想像できなかったのか。
本作は、事件そのものだけでなく、苦痛を知るために映画を必要としてしまう観客の側も問いかけています。
ラストで再現映像と現実の境界が崩れる意味
映画では、俳優たちが実在する赤新月社スタッフを演じています。
ところが物語が進むと、俳優の演技だけで構成されていた画面へ、実際のスタッフの声や当日の記録映像が入り込んできます。
破壊された救急車や車に関する記録が示されたとき、観客は「これは事件をもとにした映画だ」という距離を保てなくなります。
再現映像であれば、撮影が終われば俳優は立ち上がれます。
セットを片づけることもできます。
しかし記録映像の中にある車や救急車は、撮影のために壊されたものではありません。
映画のラストが与えるのは、救出劇としての解放感ではありません。
むしろ、
これまで見ていた物語は、すでに起きてしまった現実だった
という確認です。
結末を知っていても、観客は「もしかしたら間に合うのではないか」と願います。
映画はその願いを生み出しながら、過去を変える奇跡を用意しません。
だからこそ、残された問いは「ヒンドは助かるのか」ではなくなります。
ヒンドを助けられなかった現実を、これからどう記憶するのか。
映画の結末は、その問いを観客へ渡して終わるのです。
『関心領域』と共通する「映さない暴力」
本作のプロデューサーの一人であるジェームズ・ウィルソンは、『関心領域』にも参加しています。
『関心領域』では、アウシュヴィッツ収容所の内部を直接映さず、壁の向こうから聞こえる音によって大量殺人を想像させました。
『ヒンド・ラジャブの声』も、銃撃された車内を基本的に映しません。
ただし、二つの作品における「映さない」の意味は少し異なります。
『関心領域』では、加害者側の日常の外から、犠牲者たちの声や銃声が聞こえてきます。
一方、『ヒンド・ラジャブの声』では、犠牲者であるヒンド本人の声が映画の中心に置かれます。
見えないから存在しないのではない。
画面の外側にも、人間の生活と恐怖が存在している。
両作品は、映像で直接見せないことによって、観客が暴力を安全な見世物として消費することを拒んでいるのではないでしょうか。
関連記事:‘関心領域’考察・ネタバレ解説|壁の向こうを映さない映画が暴く「無関心」という暴力
映画が記憶を残すことの意味
映画は、2024年1月29日に戻ってヒンドを救うことはできません。
壊された車を元に戻すことも、死亡した救急隊員を生き返らせることもできません。
それでも映画には、出来事を「過ぎ去ったニュース」にしない力があります。
事件が起きた直後は、多くの人がヒンドの名前を知りました。
しかしニュースは更新されます。
別の攻撃。
別の死者数。
別の映像。
情報が増えるほど、一人ひとりの名前や人生は数字の中へ埋もれていきます。
『ヒンド・ラジャブの声』は、その流れに逆らいます。
大勢の犠牲者を一度に説明するのではなく、一人の少女が助けを待った数時間へ立ち止まる。
それはヒンドだけが特別な犠牲者だったという意味ではありません。
むしろ一人の声を具体的に聞くことで、数字として処理されてきた一人ひとりにも、同じように声や家族や未来があったことを想像させるのです。
よくある疑問
『ヒンド・ラジャブの声』はドキュメンタリーですか?
完全なドキュメンタリーではありません。
実在する赤新月社スタッフを俳優が演じ、証言をもとに当日の緊急センターを再構成したドキュドラマです。
一方で、ヒンド本人の音声や実際の記録映像も使われています。
映画で聞こえるヒンドの声は本物ですか?
本物です。
監督はヒンドの母親へ映画化の意図を説明し、赤新月社から約70分の通話記録の提供と使用権を得ています。
ヒンドは5歳ですか、6歳ですか?
資料によって表記が異なります。
日本版映画公式サイトや初期の報道では6歳ですが、生年月日を基準に5歳とするReutersや国連資料もあります。
この違いによって、事件の内容が変わるわけではありません。
イスラエル軍は関与を認めていますか?
2026年8月、イスラエル軍は部隊が家族の車へ発砲し、救急車にも砲弾が発射されたことを認め、刑事捜査を開始しました。
ただし、発砲の故意性や個人の刑事責任については、現時点で確定していません。
まとめ|ヒンドの声を「聞いたあと」が問われている
『ヒンド・ラジャブの声』は、結末を知らずに楽しむタイプの映画ではありません。
ヒンドが救出されなかったこと。
家族が死亡したこと。
救助に向かった2人の救急隊員も戻らなかったこと。
観客は、その結末を知ったうえで映画を観ることになります。
それでも映画が緊張感を失わないのは、私たちが最後まで「今回は違う結末になるかもしれない」と願ってしまうからです。
しかし映画は、現実には起きなかった救いを作りません。
代わりに残すのが、ヒンドの声です。
声は助けを求めるもの。
声は生きていた証拠。
声は事件の記録。
そして声は、それを聞いた側へ応答を求めるものでもあります。
映画を観たことだけで、何かを成し遂げたことにはなりません。
涙を流したことだけで、過去が変わるわけでもありません。
それでも、名前を記憶すること。
何が起きたのかを確認すること。
曖昧な表現で出来事を覆い隠さないこと。
責任を明らかにする調査を求め続けること。
そうした行為の出発点に、映画はなり得ます。
『ヒンド・ラジャブの声』というタイトルが観客へ残すのは、単なる悲しみではありません。
助けを求める声を聞いた自分は、そのあと何をするのか。
その問いなのではないでしょうか。
