※この記事には映画『あん』の結末を含む重大なネタバレがあります。
映画『あん』を観終えたあと、徳江が作った粒あんの美しさと同時に、いくつもの疑問が残ります。
なぜ徳江は、繁盛していたどら焼き店を去らなければならなかったのでしょうか。
ハンセン病を患っていた徳江が作ったあんに、感染の危険はあったのでしょうか。
そして、徳江を失った千太郎が、ラストで大きな声を出してどら焼きを売る姿には、どのような意味が込められているのでしょうか。
先に結論を述べると、徳江が店を去ったのは、病気が悪化したからでも、彼女の作ったあんに問題があったからでもありません。
元ハンセン病患者だという噂だけで客が離れ、店の経営を心配した徳江が、自ら身を引かざるを得なくなったからです。
形式上は自分から辞めていますが、それは自由な選択ではありません。社会の偏見によって、再び居場所を奪われたのです。
しかし『あん』は、差別の残酷さだけを描いた映画ではありません。
小豆や木々の声に耳を澄ませていた徳江が、過去に縛られて声を失っていた千太郎に、生きることを手渡していく物語でもあります。
映画『あん』の作品情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 公開日 | 2015年5月30日 |
| 上映時間 | 113分 |
| 監督・脚本 | 河瀨直美 |
| 原作 | ドリアン助川『あん』 |
| 徳江 | 樹木希林 |
| 千太郎 | 永瀬正敏 |
| ワカナ | 内田伽羅 |
| 佳子 | 市原悦子 |
| 製作国 | 日本・フランス・ドイツ |
『あん』は、ドリアン助川の同名小説を河瀨直美監督が映画化した作品です。
2015年のカンヌ国際映画祭「ある視点」部門に選出されたほか、国内外の映画祭で高い評価を受けました。
物語の舞台となるのは、小さなどら焼き店「どら春」です。
雇われ店長の千太郎は、過去に傷害事件を起こして服役し、賠償金を立て替えてもらった店のオーナーに借金を返すため、どら焼きを焼き続けています。
しかし、千太郎は甘いものが好きなわけでも、どら焼き作りに情熱を持っているわけでもありません。業務用のあんを使い、同じ作業を機械的に繰り返す毎日を送っていました。
そんな店に現れたのが、手の不自由な老女・徳江です。
映画『あん』のあらすじと結末
店頭の求人広告を見た徳江は、千太郎に自分を雇ってほしいと頼みます。
千太郎は高齢で手も不自由な徳江を一度は断りますが、彼女が置いていった粒あんを食べ、そのあまりのおいしさに驚きます。
徳江は長年、療養所の中であんを作り続けてきた名人でした。
千太郎は徳江にあん作りを任せます。徳江のあんを使ったどら焼きは評判となり、それまで客の少なかった「どら春」に行列ができるようになります。
ところが、徳江がかつてハンセン病を患っていたという噂が広がると、客は急に来なくなってしまいます。
店のオーナーも徳江を辞めさせるよう千太郎に命じます。千太郎は徳江を守ることができず、状況を察した徳江は自ら店を去りました。
やがて千太郎は、店の常連だった中学生・ワカナとともに、徳江が暮らす療養所を訪ねます。
そこで二人は、徳江が幼いころに家族から引き離され、長い年月を療養所で生きてきたことを知ります。
その後、千太郎とワカナが再び徳江を訪ねると、徳江は肺炎ですでに亡くなっていました。
徳江の友人から託されたのは、あん作りの道具と、千太郎たちに宛てた録音テープです。
ラストでは、店を離れた千太郎が桜の木々に囲まれた場所で、自分の作ったどら焼きを大きな声で売っています。
徳江はなぜ「どら春」を去ったのか
徳江が店を去った直接の理由は、自分が働いていることで客足が途絶えたと気づいたからです。
ただし、「徳江が自分の意思で辞めた」とだけ考えるのは適切ではありません。
徳江が自由に選べたのは、
- 店に残って千太郎を経営難に巻き込む
- 自分が消えることで店を守る
という、どちらを選んでも傷つく二つの道だけでした。
店のオーナーは経営を守ろうとし、客は病気への不安から店を避けます。それぞれが自分の行動を「仕方がない」と考えていたのかもしれません。
しかし、その小さな「仕方がない」が積み重なった結果、何も悪いことをしていない徳江だけが、再び社会から排除されました。
徳江が店を去る場面の残酷さは、怒鳴る人や暴力を振るう人が登場しないことにあります。
誰もが露骨な悪人ではない。
それでも差別は成立してしまうのです。
徳江の作ったあんに感染の危険はあったのか
徳江の作ったあんやどら焼きを食べても、ハンセン病に感染する危険はありません。
ハンセン病は「らい菌」によって起こる感染症ですが、感染力は極めて弱く、現在では治療法も確立されています。厚生労働省も、現代の日本において感染や発病はほぼなく、適切な治療によって治る病気だと説明しています。
徳江はすでに治療を終えた回復者です。手や指に残っている変形は後遺症であり、彼女が周囲へ病気をうつす状態だったことを示すものではありません。
つまり、店から客が離れた理由は医学的な危険ではなく、病気についての誤解と偏見です。
この点を曖昧にすると、「客が不安になるのも仕方がない」という読み方になってしまいます。
しかし映画が描いているのは、危険な人物を店から遠ざけた話ではありません。
安全であるにもかかわらず、「元患者」という経歴と身体の外見だけで、一人の人間が排除された出来事なのです。
なぜハンセン病回復者への差別が続いたのか
日本では1907年からハンセン病患者を療養所へ隔離する政策が始まり、1931年には本人の意思にかかわらず隔離できる体制が強化されました。
戦後、治療薬によってハンセン病が治る病気になってからも隔離政策は続き、1953年に制定された「らい予防法」が廃止されたのは1996年です。
国立ハンセン病資料館によれば、治療後も故郷や家族のもとへ戻れず、そのまま療養所で亡くなった人が少なくありません。
長年にわたる国の隔離政策は、ハンセン病が非常に恐ろしい病気だという誤解を社会へ広げました。その結果、患者本人だけでなく、その家族まで結婚や就職などで差別を受けることになりました。
徳江が若いころに家族から引き離され、治ったあとも療養所で暮らし続けている背景には、この歴史があります。
療養所の門が開いたからといって、失われた人生や家族との関係まで元に戻るわけではありません。
制度による隔離が終わっても、人々の心の中にある壁は残り続けたのです。
徳江はなぜ働きたかったのか
徳江が「どら春」で働きたかった最大の理由は、お金ではありません。
彼女は安い時給でも構わないと言い、仕事が決まると夜明け前から店へやって来ます。
徳江にとって働くことは、療養所の外にいる人とつながり、自分が作ったものを誰かに食べてもらう行為でした。
どれほど優れた技術を持っていても、徳江が療養所の中で作ったあんは、長い間、外の社会へ届きませんでした。
「どら春」で働くことによって、徳江は初めて自分の技術を社会へ差し出すことができます。
店に客が並び、おいしいと言ってもらえる。
その経験は、徳江にとって単なるアルバイトではありません。
社会から必要とされなければ生きる意味がない、ということでもありません。
社会に参加する機会を奪われてきた人が、自分の意思で誰かと関わる喜びを取り戻したのです。
原作者のドリアン助川は、社会の役に立てなければ生きる意味がないと考える若者たちへの違和感が、物語の出発点になったと語っています。
『あん』が問いかけるのは、人間の価値を仕事や生産性だけで決めてよいのかという問題です。
徳江はあん作りの名人だから価値があるのではありません。
何者かになれなくても、世界を見て、聞いて、感じながら生きること自体に意味がある。
それが、徳江が千太郎とワカナへ残したものです。
「小豆の声を聞く」とはどういう意味か
徳江は、あんを作るときに小豆の声を聞こうとします。
もちろん、小豆が人間の言葉を話しているわけではありません。
色や匂い、音、湯気、皮の状態を注意深く観察し、小豆が今どのような状態にあるのかを感じ取ろうとしているのです。
千太郎は最初、時間と効率だけを気にしています。
一方の徳江は、小豆が畑で育ち、収穫され、この店まで運ばれてきた時間にも思いを向けます。
同じ違いが、人間を見るときにも表れています。
世間は徳江の曲がった指を見て、「元ハンセン病患者」という一つの情報だけで彼女を判断します。
しかし、その手がどれほど長い時間を生き、何を失い、何を作ってきたのかまでは見ようとしません。
小豆の声を聞くとは、目の前の存在を自分にとって都合のよい材料として扱わず、その存在が持つ時間や物語を想像することです。
河瀨直美監督も、映画では小豆の音だけでなく、風に揺れる木々、季節の変化、遠くを走る電車など、日常の音を細かく設計したと説明しています。
この映画では、何が語られているかだけでなく、誰が何の声を聞こうとしているかが重要なのです。
千太郎もまた「閉じ込められた人」だった
徳江と千太郎は、まったく違う人生を歩んできたように見えます。
徳江は病気を理由に療養所へ隔離された人です。
千太郎は自分の起こした事件によって刑務所に入り、出所後も借金を返すために店で働いています。
徳江は社会の外側へ強制的に閉じ込められました。
千太郎は刑務所から出たあとも、罪悪感と借金の中に閉じ込められています。
身体は自由でも、自分の人生を自分で選べていません。
そのため、徳江が店から排除されそうになったときも、千太郎はオーナーに抵抗できませんでした。
徳江を守れなかったことは、千太郎にとって、自分が今も過去の中に囚われていると知る出来事だったのではないでしょうか。
しかし徳江は、そんな千太郎を責めません。
千太郎の過去を聞いたあとも、彼を「犯罪者」という一語で判断しようとはしませんでした。
社会が徳江の人生を聞かなかったのに対し、徳江は千太郎の人生に耳を傾けます。
千太郎は初めて、過去を知っても自分を拒絶しない人と出会ったのです。
ワカナとカナリアが象徴するもの
中学生のワカナもまた、自分の居場所を見つけられずにいる人物です。
家庭で十分に安心できず、売り物にならないどら焼きを千太郎からもらって食べています。
ワカナが大切にしているのが、カナリアのマーヴィーです。
母親から鳥を手放すよう言われたワカナは、徳江に預かってもらおうとします。
籠の中のカナリアは、徳江、千太郎、ワカナの姿と重なります。
徳江は療養所に閉じ込められた。
千太郎は過去と借金に閉じ込められた。
ワカナは家庭環境の中で自由を失いかけている。
三人とも、それぞれ異なる籠の中で生きています。
徳江は、預かったカナリアを最終的に空へ放します。
これは無責任に鳥を捨てたということではなく、誰かを大切にすることと、自分のそばへ閉じ込めておくことは同じではないという、徳江なりの答えだったと考えられます。
徳江自身は長い間、自由に外へ出られませんでした。
だからこそ、鳥には空を飛ぶ自由を返したかったのではないでしょうか。
徳江の死因はハンセン病だったのか
徳江の直接の死因は肺炎です。
映画の中で、ハンセン病が再発したために亡くなったとは描かれていません。
この違いは重要です。
もし徳江の死をハンセン病によるものだと誤解すると、病気への恐怖を強め、映画が批判している偏見を繰り返すことになってしまいます。
また、徳江の死そのものは画面に映されません。
千太郎とワカナが療養所を訪ねたとき、二人は徳江がすでに亡くなったことを知らされます。
映画が見せるのは、徳江が苦しみながら死んでいく姿ではなく、彼女が残した声と道具です。
徳江の人生を「病気になり、隔離され、亡くなった女性の悲劇」だけで終わらせないためでしょう。
徳江は死後も、千太郎のあん作りの中に残ります。
人の命は終わっても、その人が誰かに手渡したものまで消えるわけではないのです。
ラストの録音された声が意味するもの
徳江が残した録音テープには、千太郎とワカナへの思いが吹き込まれています。
そこで徳江が伝えるのは、立派な職業に就くことや、社会で成功することだけが人間の存在価値ではないという考えです。
見ること。
聞くこと。
風や光を感じること。
誰かと出会うこと。
それだけでも、生まれてきた意味は失われない。
この言葉は、若いころから人生の多くを奪われてきた徳江が、自分の人生を無意味だったと否定しなかったことを示しています。
徳江は社会から不当に扱われました。
それでも、世界そのものまで憎むことはありませんでした。
桜を見て、小豆の声を聞き、人と出会えた自分の人生を、自分の手で肯定したのです。
録音テープである点にも意味があります。
徳江の身体はすでに存在しません。
しかし声は残り、千太郎のもとへ届きます。
社会が長い間聞こうとしなかった回復者の声を、今度は千太郎が受け取るのです。
千太郎はなぜラストで大声を出したのか
映画の序盤に登場する千太郎は、必要なこと以外ほとんど話しません。
どら焼きを作ることにも、客と関わることにも積極的ではなく、借金を返すためだけに一日を繰り返しています。
ところがラストでは、桜の木々の下で、自分の作ったどら焼きを大きな声で売っています。
この変化は、千太郎がようやく自分の人生を自分で選び始めたことを表しています。
以前の千太郎は、オーナーの店で、用意されたあんを使い、言われた通りに働いていました。
ラストの千太郎は、徳江から受け継いだ道具と作り方によって、自分のどら焼きを作っています。
どら焼きは同じでも、働く意味はまったく違います。
借金返済のために焼かされているのではありません。
徳江から受け取ったものを、自分の意思で誰かへ届けようとしているのです。
最後の大きな呼び声は、商品を売るための掛け声であると同時に、千太郎が取り戻した生の声でもあります。
徳江は小豆の声を聞きました。
千太郎は徳江の声を聞きました。
そして最後に、千太郎自身の声が世界へ向かって放たれます。
『あん』の物語は、「聞くこと」から「声を出すこと」へつながっているのです。
桜で始まり桜で終わる意味
映画は満開の桜から始まり、再び桜の季節を迎えて終わります。
一度目の桜の季節、徳江は「どら春」に現れます。
二度目の桜の季節、徳江の姿はありません。しかし、彼女からあん作りを教わった千太郎が立っています。
桜は短い期間しか咲きません。
それでも、花が散ったあとに木が死ぬわけではなく、季節を越えて再び花を咲かせます。
徳江の命も終わりました。
しかし、徳江が残したものは千太郎の中で新しい形になり、次の春へ受け継がれています。
河瀨監督は、桜について、短い時間しか咲かないからこそ感じられる、かけがえのない美しさに触れています。
ラストの桜は、死を消し去るための楽観的な演出ではありません。
限られた命であっても、誰かと出会った時間は次の人生に残る。
その静かな希望を表しているのです。
タイトル『あん』の意味
タイトルの「あん」は、どら焼きの中に入っている粒あんを指します。
しかし、あんは単なる食べ物ではありません。
徳江と千太郎を出会わせ、千太郎とワカナを療養所へ導き、徳江の死後も三人をつないでいるものです。
あんは短時間では作れません。
小豆の状態を見ながら火加減を変え、待ち、蒸らし、何度も手をかけることで完成します。
人間を理解することも同じです。
外見や経歴だけを見て、すぐに結論を出せば、その人が抱えてきた時間は見えません。
徳江の手を見て「病気の人」と判断する社会は、小豆の声を聞かず、表面だけで扱おうとする千太郎の最初の姿と重なります。
さらに、あんはどら焼きの皮に挟まれ、外からは見えません。
それでも、どら焼きのおいしさを決める中心にあります。
人間もまた、外から見える肩書や身体だけでは分かりません。その人の内側には、他者からは簡単に見えない記憶や痛み、喜びがあります。
タイトルが示しているのは、表面からは見えないものに、時間をかけて耳を澄ませることの大切さではないでしょうか。
映画『あん』は実話なのか
『あん』の登場人物や物語は、特定の実在事件をそのまま映画化したものではありません。
ドリアン助川による小説を原作としたフィクションです。
ただし、背景にあるハンセン病の隔離政策や、回復者が家族や社会へ戻れなかった歴史は現実のものです。
ドリアン助川は、1996年の「らい予防法」廃止をきっかけに物語の構想を始め、2009年から療養所で取材を重ねたと説明しています。
映画の療養所場面も、東京都東村山市にある国立療養所多磨全生園や国立ハンセン病資料館で撮影されました。
したがって『あん』は、一人の実在女性をモデルにした伝記映画ではありません。
しかし徳江の人生には、隔離によって家族や故郷との関係を奪われた、多くの回復者の現実が反映されています。
映画『あん』に関するよくある疑問
徳江が作ったどら焼きからハンセン病に感染しますか?
感染しません。ハンセン病は感染力が極めて弱く、徳江はすでに治療を終えた回復者です。徳江の作った食品に医学的な危険があったとは描かれていません。
徳江はなぜ店を辞めたのですか?
元ハンセン病患者だという噂で客が来なくなり、自分が残れば千太郎の店が立ち行かなくなると考えたためです。自発的な退職に見えますが、実際には社会の偏見によって追い出されたと考えるべきでしょう。
徳江の死因は何ですか?
肺炎です。ハンセン病の再発によって亡くなったわけではありません。
千太郎は最後にどら春へ戻ったのですか?
元の店へ戻ったのではなく、桜の下で自分のどら焼きを売り始めたと考えられます。オーナーのためではなく、自分の意思であんを作り、誰かへ届ける人生を選び直したのです。
カナリアは何を象徴していますか?
療養所、過去、家庭環境など、それぞれの場所に閉じ込められていた徳江、千太郎、ワカナの姿を象徴していると考えられます。鳥を空へ放す行為は、相手を所有することではなく、自由にすることも愛情なのだと示しています。
まとめ|徳江が千太郎へ残したもの
映画『あん』で徳江が店を去ったのは、病気やあんに問題があったからではありません。
ハンセン病への偏見によって客が離れ、彼女が再び社会から排除されたためです。
しかし徳江の人生は、排除されたままで終わりません。
徳江は小豆の声を聞きながら、自分が生きてきた時間をあんに込めました。
千太郎はそのあんを食べ、作り方を学び、徳江の声を受け取ります。
そしてラストでは、自分の声でどら焼きを売り始めます。
徳江が千太郎へ残したのは、あんの作り方だけではありません。
目の前の存在を急いで判断せず、その声に耳を澄ませること。
過去によって人生を終わらせず、自分の意思でもう一度歩き始めること。
そして、社会の役に立てるかどうかとは関係なく、生きて世界を感じること自体に意味があるという考えです。
『あん』とは、社会から声を奪われた一人の女性が、声を失っていた一人の男性へ、生きる力を手渡した物語なのではないでしょうか。
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