映画『バビロン』考察|ラストの映画史モンタージュが示す「夢を食べる怪物」の正体

映画『バビロン』のラストやネリー、ジャック、マニーの結末をネタバレありで考察。サイレント映画からトーキーへの転換、地下世界、黒塗りの場面、映画史モンタージュに込められた意味を読み解きます。

※この記事には映画『バビロン』の結末を含む重大なネタバレがあります。

『バビロン』は映画へのラブレターなのか

『セッション』『ラ・ラ・ランド』で知られるデイミアン・チャゼル監督の『バビロン』は、サイレント映画からトーキー映画へ移行する1920年代のハリウッドを舞台にした群像劇だ。

日本では2023年2月10日に公開され、上映時間は189分。新人女優ネリー・ラロイをマーゴット・ロビー、サイレント映画の大スターであるジャック・コンラッドをブラッド・ピット、映画業界で成功することを夢見るマニー・トレスをディエゴ・カルバが演じている。

豪華な衣装、狂騒的なパーティー、鳴り続けるジャズ、飛び散る酒と汗。表面的には、映画が最も自由で猥雑だった時代を祝福する作品に見える。

しかし『バビロン』は、単純な「映画愛の物語」ではない。

本作が描いているのは、映画という芸術が人間を永遠に残す一方で、その映画を作った人間の肉体、尊厳、人生を容赦なく消費していく矛盾である。

『バビロン』は映画へのラブレターであると同時に、映画に食い殺された人々へ捧げる葬送曲なのだ。

『バビロン』のあらすじ

1920年代のハリウッド。

映画製作に携わることを夢見る青年マニーは、映画関係者が集まる巨大なパーティーで、自分はすでにスターだと信じて疑わない新人女優ネリーと出会う。

ネリーは偶然つかんだ出演機会をものにし、一夜にして注目の女優となる。一方のマニーも、人気俳優ジャックの助手となり、映画業界の階段を上り始める。

しかし、サイレント映画に音声を付けたトーキー映画が登場すると、ハリウッドのルールは一変する。

これまで称賛されていた演技、声、容姿、立ち居振る舞いは、突然「時代遅れ」と判断されるようになる。成功を手にしたはずのネリー、ジャック、マニーは、それぞれ異なる形で映画産業の変化にのみ込まれていく。

公式の作品紹介でも、本作は変化し続ける1920年代のハリウッドで、スターや製作者、音楽家たちが自らの地位を守ろうとする物語として説明されている。

冒頭の象が象徴するハリウッドの正体

『バビロン』は、象の排泄物がマニーに降りかかるという強烈な場面から始まる。

ここで重要なのは、象が豪華なパーティーを盛り上げるために運ばれている点だ。

招待客が目にするのは、巨大で華やかな見世物としての象である。しかし、その象を運ぶ人々は、重労働や悪臭、排泄物を引き受けなければならない。

これは、そのまま映画産業の構造を表している。

観客がスクリーン上で見るのは、スター、美しい衣装、壮大なセット、感動的な物語だ。その裏側では、名も残らないスタッフや出演者が危険な撮影に参加し、ときには命さえ落としている。

映画は美しい。

だが、その美しさは大量の労働と犠牲、そして隠された汚物の上に成立している。

冒頭で排泄物を浴びたマニーが、それでもパーティー会場へ象を届けようとする姿は象徴的だ。彼は屈辱を受けながらも、ハリウッドという夢の内部に入ることを諦めない。

『バビロン』において夢とは、苦痛を忘れさせるほど魅力的な麻薬なのである。

ネリーはなぜスターになり、なぜ転落したのか

ネリーは「スターになりたい」とは言わない。

彼女は最初から、自分はスターなのだと断言する。

この姿勢は単なる自信ではない。ネリーにとってスターになることは、貧困や家庭環境から逃げ出し、過去の自分を消すための自己創造だった。

サイレント映画の撮影現場で、ネリーは圧倒的な才能を見せる。

台本や技術を体系的に学んだわけではない。彼女は感情をむき出しにし、その場の空気を本能的につかむ。混乱と即興性に満ちたサイレント映画の現場は、彼女の野性的な表現力と完璧にかみ合っていた。

ところがトーキー映画では、決められた位置に立ち、マイクの方向を意識し、同じ台詞を同じ音量と発音で繰り返さなければならない。

自由だった肉体は、録音技術によって管理される。

ネリーの失敗は「声が悪かったから」だけではない。彼女が持っていた予測不能な魅力そのものが、規格化された製作システムと相性が悪かったのだ。

さらに映画会社は、彼女の服装や話し方、人間関係まで矯正しようとする。

ネリーが社交界の食事会で暴走する場面は、彼女の未熟さを示すだけのシーンではない。業界が彼女の才能を愛していたのではなく、都合よく商品化できる間だけ利用していたことが明らかになる場面でもある。

ネリーはハリウッドに拒絶されたというより、ハリウッドが求める形へ自分を作り変えることを拒んだ。

その代償として、彼女はスクリーンの外へ追放される。

ネリーの死はなぜ短い字幕だけで語られるのか

終盤、マニーとネリーは一緒に逃げようとする。

しかし、ネリーは夜の闇へ姿を消す。その後、彼女が若くして亡くなったことは、新聞記事のような短い情報として示されるだけだ。

これほど激しく生きた人物の死が、なぜ直接描かれないのか。

それは、ハリウッドが人間を忘れる速度を表すためだろう。

スクリーンの中央で輝いていた人物であっても、新しいスターが登場すれば過去へ追いやられる。本人が何を感じ、どのように死んだのかは、産業にとって重要ではない。

映画はネリーの姿を保存するが、ネリー本人を救うことはない。

彼女は永遠のスターになる。

ただし、その永遠の中に、生身の彼女が生きる場所はないのである。

ジャック・コンラッドが自ら命を絶った理由

ジャックは、トーキー時代への移行によって人気を失っていくサイレント映画のスターだ。

彼は当初、新技術の登場を歓迎している。映画は変化し続けなければならないと理解し、自分も適応できると信じていた。

しかし、ジャックの問題は演技力だけではなかった。

観客が彼を見る目そのものが変わってしまったのである。

かつて彼の台詞や表情は観客を感動させた。ところが流行が変わると、同じ演技が笑いの対象になる。作品の質とは無関係に、スターとしての神話が崩壊していく。

ゴシップ記者エリノアは、ジャックに残酷な現実を伝える。

現在の人気は消えても、フィルムに刻まれた姿は残り続ける。何十年後かに映写機が回れば、彼は再び生き返る、と。

一見すると慰めの言葉である。

しかし、ジャックにとっては死刑宣告に等しい。

フィルムの中のジャックは永遠に若く、美しく、観客から愛される。一方、現実のジャックは老い、忘れられ、過去の自分と比較され続ける。

彼は映画によって不死になったからこそ、生身の人生を続けられなくなった。

ジャックの死は、スターが人気を失った悲劇ではない。

「自分のイメージだけが生き残り、自分自身は不要になる」という、映画俳優特有の恐怖を描いた結末なのである。

マニーは夢をかなえたのになぜ敗北したのか

マニーは、主要人物の中で唯一、時代の変化に適応する。

新しい撮影技術を理解し、現場の問題を解決し、やがて映画会社の重要人物へと出世する。

それでも、彼の成功は勝利として描かれない。

物語序盤のマニーは、映画を「自分よりも大きなもの」だと語っていた。彼は芸術に参加したいと願っていたのであり、他人を支配したいわけではなかった。

しかし業界内で権力を得るにつれ、マニーは人間よりも映画会社の利益を優先するようになる。

その決定的な場面が、黒人トランペット奏者シドニーに、顔をより黒く塗って撮影するよう命じる場面だ。

照明やフィルムの都合によって、シドニーだけ肌の色が異なって映る可能性がある。その問題を解決するため、マニーは差別的な演出を受け入れるよう求める。

かつて外部からハリウッドへ入ろうとしていたマニーは、いつの間にか他者を排除する側へ回っている。

彼はシステムに適応したのではない。

システムそのものになってしまったのだ。

シドニーが演奏後にその場を去るのは、マニーとは対照的な選択である。成功のために尊厳を売るのではなく、映画産業から離れることで自分自身を守った。

マニーは映画の中で生き残ろうとして自分を失い、シドニーは映画から去ることで自分を取り戻したのである。

地下世界はハリウッドの無意識を表している

終盤、借金を抱えたネリーを救うため、マニーはジェームズ・マッケイという危険な男に近づく。

マッケイに連れられて地下へ降りる場面は、物語の雰囲気が突然ホラー映画のように変化する。

そこでは暴力や奇形、性的な見世物が、観客を刺激する商品として並べられている。

この地下空間は、単なる犯罪者のアジトではない。

ハリウッドの欲望が行き着く先を視覚化した場所である。

観客は、以前よりも新しく、強く、刺激的なものを求め続ける。映画産業も、その要求に応えるため、より過激な見世物を作ろうとする。

華やかなパーティーと不気味な地下世界は、正反対の場所ではない。

どちらも他人の肉体や苦痛を娯楽として消費する空間だ。

地上のハリウッドが欲望を美しく包装した場所なら、地下世界は包装紙を剥がした中身なのである。

『雨に唄えば』との関係

『バビロン』を読み解くうえで欠かせない作品が、1952年のミュージカル映画『雨に唄えば』だ。

両作品はサイレント映画からトーキー映画への転換を扱っており、固定されたマイクに合わせて俳優が立ち位置を調整する撮影場面など、明確に対応する描写がある。『バビロン』を「悲劇として作り直された『雨に唄えば』」と捉える批評もある。

『雨に唄えば』では、技術革新に適応した人物たちが新しい映画の可能性を切り開く。

一方、『バビロン』は、その変化によって捨てられた人々へ視線を向ける。

映画史では「サイレントからトーキーへの進歩」と説明される出来事も、当事者にとっては仕事、居場所、アイデンティティを失う破壊だった。

進歩には、必ず敗者が存在する。

『バビロン』は映画史を成功者の歴史としてではなく、消えていった人々の墓場として描き直している。

ラストでマニーが映画館に戻った理由

時が流れ、ハリウッドを離れて家庭を築いたマニーは、妻子とともにかつての街を訪れる。

彼は家族と別れ、一人で映画館へ入る。

上映されていたのは『雨に唄えば』だった。

スクリーンでは、マニーが実際に経験したようなトーキー映画黎明期の混乱が、明るいミュージカルとして再構成されている。

過去の苦痛は、映画によって楽しい物語へ変えられている。

ネリーもジャックもシドニーも、そこにはいない。

しかしマニーは、スクリーンを見ながら涙を流し、やがて笑みを浮かべる。

この涙には、複数の感情が混ざっている。

失われた仲間への悲しみ。

自分が犯した裏切りへの後悔。

かつて映画作りに参加していたことへの誇り。

そして、すべてを犠牲にしてもなお映画を愛してしまう自分への戸惑いである。

マニーはハリウッドから逃げたが、映画から完全に離れることはできなかった。

彼もまた、映画という夢に取りつかれた人間なのだ。

ラストの映画史モンタージュが意味するもの

ラストでは、初期映画から現代の大作映画まで、映画史を横断するような映像が高速で映し出される。

このモンタージュは、映画という表現が絶えず変化してきたことを示している。

サイレントからトーキーへ。

白黒からカラーへ。

フィルムからデジタルへ。

二次元の映像から、巨大な視覚効果が作る世界へ。

一つの形式が終わるたびに、別の形式が誕生してきた。

ここだけを見れば、映画の生命力を称賛する感動的な結末に思える。

しかし、その称賛には不穏さが残る。

映画が進化し続けられたのは、その過程で無数の人間を置き去りにしてきたからだ。技術や流行が変わるたび、昨日まで必要だった才能が突然不要になる。

映画は生き残る。

映画会社も生き残る。

だが、映画を作った個人は死んでいく。

マニーが最後に笑うのは、映画産業を許したからではない。自分やネリーたちの犠牲も、この巨大な歴史の一部になったと受け入れたからではないだろうか。

それは救いであると同時に、非常に危険な自己正当化でもある。

誰かの犠牲が名作を生んだとしても、その犠牲まで美化してよいとは限らないからだ。

タイトル「バビロン」の意味

「バビロン」は、古代都市バビロンを連想させる言葉であり、栄華、退廃、欲望、崩壊の象徴として使われてきた。

映画の中のハリウッドも同様だ。

世界中から夢を求める人々が集まり、莫大な富と新しい文化を生み出す。その一方で、酒、薬物、暴力、差別、搾取が広がり、成功者さえ簡単に破滅していく。

さらに本作では、サイレント映画から音声映画への移行によって、「声」が人の運命を決める。

発音、訛り、声質、話す言語が評価の対象となり、それまで活躍していた人々が排除される。

誰もが同じ夢を見ているようで、実際には異なる言葉を話し、互いを理解できない。

ネリーは感情の言葉で映画を捉え、ジャックは芸術の言葉で語り、マニーは産業の言葉を身につける。

三人は同じハリウッドにいながら、最後まで本当の意味では理解し合えない。

『バビロン』という題名には、繁栄の頂点に達した瞬間から崩壊が始まる都市としてのハリウッドが重ねられている。

『バビロン』の過剰な演出は成功しているのか

本作の弱点は、描こうとするものがあまりにも多いことだ。

ネリーやジャック、マニーに加え、シドニー、レディ・フェイ、エリノアなど、多数の人物が登場する。そのため、人種差別や性的少数者の排除といった重要な問題が、十分に掘り下げられないまま通過していく部分もある。

騒音、嘔吐、排泄物、薬物、暴力を重ねる演出も、観客によっては単なる悪趣味に感じられるだろう。

実際、本作に対しては映画人の情熱とハリウッドの自己破壊性を評価する見方がある一方、歴史や産業構造の描写が表面的だという批判もあった。

ただし、このまとまりのなさは、本作の主題と切り離せない。

『バビロン』が描くハリウッドそのものが、統制不能な欲望の集合体だからだ。

作品の過剰さは、ハリウッドの過剰さを観客に体験させる。

美しく整理された映画ではなく、観客を疲労させ、ときに不快にさせる映画だからこそ、夢の裏側にある暴力が伝わってくる。

衣装、音楽、美術の力は高く評価され、第95回アカデミー賞では衣装デザイン賞、作曲賞、美術賞にノミネートされた。

まとめ|映画は人を救うが、人の人生までは救わない

『バビロン』が描いているのは、映画の美しさと残酷さが分離できないという事実である。

ネリーは映画によって貧しい過去から抜け出し、誰にも奪えない輝きを手にした。しかし映画は、彼女が時代に合わなくなった瞬間に見捨てた。

ジャックは映画によって永遠の存在になった。しかし永遠に残る若い自分のイメージが、生身の自分を追い詰めた。

マニーは映画によって夢をかなえた。しかし成功を守るために他者を傷つけ、自分自身もハリウッドから逃げることになった。

それでも最後にマニーは、映画館で涙を流す。

映画は人間を傷つける。

現実を都合よく書き換える。

犠牲者を忘れ、美しい物語だけを残す。

だが同時に、死者の表情や声、感情を未来へ運ぶこともできる。

『バビロン』は「映画は素晴らしい」と無邪気に称賛する作品ではない。

映画という怪物が、どれほど多くの夢と人生を食べてきたかを知りながら、それでもスクリーンから目を離せない人間たちの物語なのだ。

だからこそ、ラストのマニーの笑顔は幸福にも絶望にも見える。

彼は映画を許したのではない。

映画を愛してしまった自分から、もう逃げられないことを受け入れたのである。

『バビロン』考察のよくある疑問

ネリーは最後にどうなった?

マニーとの逃亡を前に姿を消し、後に若くして亡くなったことが示される。死の詳細を描かない演出には、スターであっても業界から離れれば急速に忘れられるという意味が込められている。

ジャックが自殺したのはなぜ?

人気の低下だけでなく、フィルムの中の若い自分だけが永遠に残り、生身の自分が不要になったことに耐えられなかったためと考えられる。

マニーはなぜラストで泣いた?

ネリーやジャックへの悲しみ、自らの過去への後悔、映画作りに参加した誇り、映画への消せない愛情が同時によみがえったからだろう。

最後の映画史モンタージュの意味は?

映画が技術革新を繰り返しながら生き残ってきたことを称賛する一方、その進歩の裏で多くの人間が切り捨てられてきた事実を示している。

『バビロン』は実話なのか?

特定の一人を描いた伝記映画ではない。登場人物にはサイレント映画時代の複数の俳優や映画人を思わせる要素があるが、基本的にはチャゼル監督によるフィクションとして構成されている。