映画『こちらあみ子』を観終えたあと、胸に残るのは「あみ子はかわいそうだった」という単純な感情だけではありません。
あみ子は確かに周囲から理解されていません。
しかし同時に、あみ子もまた周囲の人間が抱えている悲しみや怒りを十分には理解できていない。
だからこそ、この映画は苦しいのです。
誰か一人が悪いわけではない。それでも少しずつ言葉が届かなくなり、家族が壊れ、人との距離が広がっていく。
そして、その構造を象徴しているのが、あみ子が何度も呼びかけるトランシーバーです。
「こちらあみ子」
彼女はずっと世界へ呼びかけています。
問題は、その声に返事をする人がほとんどいないことでした。
※以下、映画『こちらあみ子』の結末までのネタバレを含みます。
『こちらあみ子』とは
『こちらあみ子』は、今村夏子のデビュー作を森井勇佑監督が映画化した2022年の作品です。
主人公は、広島で暮らす小学5年生のあみ子。
父、母、兄と暮らし、同級生ののり君に恋をしながら毎日を過ごしています。
ところが、あみ子は周囲の人たちが当然のように理解している「空気」や「暗黙のルール」をうまくつかむことができません。
本人に悪意はない。
むしろ、あみ子なりに誰かを喜ばせようとすることさえあります。
それなのに、その行動はたびたび相手を傷つけてしまいます。
物語は、そんな「あみ子と世界のズレ」が次第に大きくなっていく過程を描いています。
あみ子は何が分かっていなかったのか
本作を観ていると、
「あみ子はなぜこんなことをしてしまうのだろう」
と何度も戸惑わされます。
しかし、あみ子が理解していないのは「善悪」そのものではないように思います。
彼女にも好き嫌いがあります。
うれしい、悲しい、怖い、寂しいという感情もある。
誰かを好きになる気持ちも、母親を元気にしたいという気持ちもあります。
あみ子にとって難しいのは、自分とは違う人間の感情を想像し、それに合わせて自分の行動を調整することなのでしょう。
そのため、あみ子の中では、
「自分がうれしいこと」
「相手もうれしいはずのこと」
の境界が曖昧です。
このズレがもっとも残酷な形で現れるのが、「弟の墓」の場面です。
「弟の墓」はなぜ母を壊してしまったのか
母は妊娠していた赤ちゃんを失います。
深い悲しみの中にいる母を見て、あみ子は何とか元気づけようとします。
そして庭に「弟の墓」を作る。
あみ子に悪意はありません。
むしろ彼女の論理では、それは優しさなのです。
死んでしまった存在には墓を作る。
きちんと弔えばいい。
だから母も喜ぶだろう。
あみ子の中では筋が通っています。
しかし母にとって、その墓は「失った赤ちゃん」を目の前に具体的な形で突きつけられるものでした。
忘れたわけではない。
悲しみを克服したわけでもない。
ただ、どうにか日常へ戻ろうとしていたところへ、あみ子は悪意なく傷口を開いてしまった。
ここが『こちらあみ子』の恐ろしいところです。
あみ子は母を傷つけようとしていません。
母も最初からあみ子を憎んでいたわけではない。
善意によって人を深く傷つけてしまうことがある。
しかも、傷つけた側にはなぜ相手が泣いているのか分からない。
この「理解不能」が家族の中に残り続けます。
家族を壊したのは本当にあみ子なのか
物語だけを追えば、弟の墓をきっかけに家族が急速に壊れていったようにも見えます。
母はあみ子との距離を広げ、兄も変わっていき、父も家族全体を立て直すことができません。
では、家族を壊した原因はあみ子だったのでしょうか。
私はそうではないと思います。
あみ子は確かに周囲を疲れさせます。
注意しても伝わらない。
相手が嫌がっていることにも気づかない。
同じことを何度も繰り返す。
一緒に暮らす家族に大きな負担がかかっていたことまで否定してしまえば、今度は家族側の苦しみが見えなくなります。
しかし問題なのは、いつの間にか家族全体が、
「あみ子には何を言っても仕方がない」
という状態になってしまったことです。
理解してもらえないから説明しない。
説明しても伝わらないから関わらない。
関わると傷つくから距離を置く。
その積み重ねによって、あみ子はますます世界から取り残されていきます。
つまり本作に描かれているのは、「問題のある子どもによって家族が壊れた」という単純な物語ではありません。
理解できない他者との対話を諦めたとき、人と人との関係はどうなるのか。
そこまで含めて描かれているように感じます。
あみ子は発達障害なのか?
『こちらあみ子』を観て、「あみ子は発達障害なのではないか」と考えた人もいるでしょう。
確かに、
- 他人との距離感をつかみにくい
- 相手の感情を読み取ることが難しい
- 興味を持ったものへ一直線に向かう
- 周囲が当然共有しているルールを理解しにくい
といった特徴から、何らかの特性を連想することはできます。
しかし、映画はあみ子に明確な診断名を与えていません。
ここはかなり重要だと思います。
もし「あみ子は○○だから」と診断名だけで説明してしまえば、観客は安心できます。
「だから行動が理解できなかったのか」
と分類できるからです。
しかし、この映画はその安心を与えてくれません。
最後まで、あみ子は「あみ子」のままです。
だから私たちは、
「自分ならあみ子と一緒にいられるだろうか」
「自分も周囲の人たちと同じように、あみ子から距離を取ってしまうのではないか」
と問われることになります。
あみ子に診断名がないことによって、問題が彼女一人の側に閉じられないのです。
のり君はなぜあみ子を拒絶したのか
あみ子はのり君が大好きです。
しかし、その思いはほとんど一方通行です。
ここにも本作のテーマが凝縮されています。
あみ子にとって「好き」という気持ちは極めて直接的です。
会いたいから会いに行く。
話したいから話しかける。
相手に何かしてあげたいと思えば、ためらわず実行する。
ところが、相手にも相手の事情があります。
のり君が距離を置こうとしても、あみ子はそのサインを十分に読み取れません。
やがて二人の関係は決定的に壊れてしまいます。
重要なのは、のり君を単純な「いじめる側」として描いていないことでしょう。
森井監督はインタビューで、保健室で起きた出来事について、のり君の側もそれを誰にも言えず抱えていくことになると語っています。
つまり、のり君にも苦しみがある。
あみ子だけが傷ついているわけではありません。
この映画は、誰か一人を完全な被害者、あるいは加害者として固定することを避けています。
トランシーバーが象徴するもの
タイトル『こちらあみ子』を考えるうえで、もっとも重要な小道具がトランシーバーです。
あみ子は誕生日にもらったトランシーバーに向かって呼びかけます。
しかし、その声に返事はありません。
しかも公式のあらすじでも、このトランシーバーは「電池切れ」とされています。
これ以上分かりやすい象徴はありません。
あみ子は世界へ向かって、
「私はここにいる」
と発信し続けています。
けれど、通信はつながっていない。
周囲の人たちはあみ子の言葉を聞いている。
しかし、あみ子が見ている世界まで理解しているわけではない。
一方のあみ子も、相手の言葉の奥にある感情までは受信できない。
つまりこの映画では、誰もが近くにいるのに「通信」が成立していないのです。
だからタイトルは、
「こちら、あみ子」
で終わっています。
「どうぞ」
という返答がない。
この映画そのものが、あみ子から観客へ送られてきた一本の通信なのかもしれません。
「お化け」は何を意味しているのか
映画には、お化けたちとあみ子が歩く印象的な場面があります。
現実なのか、あみ子の想像なのか。
明確な説明はありません。
しかし重要なのは、「本当に幽霊が存在するのか」ではないでしょう。
あみ子の世界では、目に見える人間と同じくらい、目に見えないものが近くに存在しています。
普通の人なら怖がったり否定したりするものを、あみ子は比較的自然に受け入れる。
考えてみれば皮肉です。
生きている人間たちとは意思疎通ができないのに、お化けとは一緒に歩くことができる。
お化けたちは、あみ子に対して、
「そんなことを言ってはいけない」
「空気を読みなさい」
「近づかないで」
とは言いません。
だからこそ、あの行進には不気味さと同時に不思議な優しさがあります。
社会の中に居場所を見つけられないあみ子にとって、名もないお化けたちの方がむしろ一緒にいられる存在なのです。
なぜ周囲はあみ子を「教える」ことをやめてしまったのか
『こちらあみ子』を観ていて最も苦しく感じるのは、あみ子が間違ったことをする場面そのものではありません。
間違ったあと、誰も十分に説明してくれないことです。
なぜ母が泣いたのか。
なぜのり君が嫌がっているのか。
なぜ周囲の人間が離れていくのか。
あみ子には、その理由がよく分からない。
私たち観客は画面の外から見ているので理解できます。
だから、
「そこでやめて」
「それを言ったら傷つく」
と思う。
ところが、あみ子にはその情報が共有されていません。
それでも周囲は「あみ子なら分かるはず」と考えたり、逆に「あみ子には分からない」と諦めたりします。
どちらの場合も、結果は同じです。
あみ子には説明されない。
そして、何も知らないまま人だけが離れていく。
この構造こそ、本作に漂う「得体の知れない寂しさ」の正体なのではないでしょうか。
ラストで父はなぜあみ子を祖母のもとへ連れていくのか
物語の終盤、あみ子は父から環境が変わることを告げられ、祖母のもとへ向かいます。
あみ子自身も、家族の状態がおかしいことには気づいています。
しかし、それがなぜ起きているのかを完全には理解できていません。
ここで父を冷酷だと断じることもできます。
一方で、父自身もすでに家族を支え続けられないところまで追い詰められていたと見ることもできます。
『こちらあみ子』が巧妙なのは、父にも母にも兄にも逃げ道を与えていないところです。
あみ子にもっと寄り添えばよかった。
そう言うのは簡単です。
しかし毎日生活を共にすることの疲労まで映画は消し去りません。
だからこそ本作には簡単な悪人がいない。
誰もが少しずつ傷つき、少しずつ諦めた結果として、最後にあみ子だけが家族の中心から外へ押し出されてしまいます。
ラストの笑顔は何を意味するのか
そして最後。
あみ子は笑います。
この笑顔を「新しい場所で幸せになれる希望」とだけ解釈すると、少し違うように思います。
森井勇佑監督自身、音声ガイド制作時のインタビューで、最後の笑顔には非常に大きな意味があることを明かしています。
では、何を意味しているのでしょうか。
私はこの笑顔を、
「それでもあみ子は、あみ子として生き続ける」
という結末だと考えます。
あみ子は最後まで、社会に合わせられる人間にはなりません。
空気を読めるようになったわけでもない。
突然すべてを理解したわけでもない。
家族との関係が元通りになるわけでもありません。
それでも世界を見るあみ子の目は失われていない。
周囲から拒絶されても、彼女の中にはまだ喜びを感じる力があります。
だから、あの笑顔は明るいだけの笑顔ではありません。
悲しさと、たくましさが同時に存在しています。
観客には「あみ子は一人になってしまった」と見える。
しかし、あみ子自身は必ずしも自分を「完全に孤独な人間」だとは思っていないのかもしれません。
ここに観客とあみ子の最後のズレがあります。
私たちはあみ子をかわいそうだと思う。
けれど、その「かわいそう」という見方さえ、あみ子が望んでいるものなのかは分からない。
最後まで、あみ子は観客の理解の外側にいるのです。
主題歌「もしもし」がラストを優しく包む理由
本作の音楽を担当した青葉市子は、エンディングで流れる「もしもし」について、あみ子を見守る母親の視点から書くことを森井監督に提案したといいます。
この事実を知ると、ラストの印象はかなり変わります。
物語の中では、母とあみ子の関係は修復されません。
だから表面的には、「母はあみ子を拒絶した」という印象が残ります。
しかし最後に流れる音楽は、そこに別の可能性を重ねます。
一緒にいられない。
理解することもできない。
それでも、完全に愛情が消えたとは限らない。
「理解できない」と「愛していない」は同じではない。
これは『こちらあみ子』という映画全体にも通じる重要なポイントでしょう。
人を愛していても、一緒には暮らせないことがある。
大切に思っていても、その人を理解できないことがある。
本作は、そんな簡単には整理できない感情を残したまま終わります。
『こちらあみ子』が本当に描いているもの
『こちらあみ子』は、一人の「変わった少女」を観察する映画ではないと思います。
むしろ、あみ子という存在を通して、
私たちは「自分とは違う人間」とどこまで一緒にいられるのか
を問いかけている映画です。
あみ子には周囲が分からない。
しかし周囲も、あみ子を分かっていない。
どちらか一方だけに問題があるわけではありません。
そして決定的なのは、分からないからこそ必要だったはずの対話が、徐々に失われていったことです。
トランシーバーに向かって、あみ子は呼びかけ続けます。
返事がなくても。
届いているか分からなくても。
「こちらあみ子」
その言葉は、単なる子どもの遊びではありません。
それは、
「私はここにいる。誰か応答して」
という、この映画そのものの声なのでしょう。
だから観客にできることは、あみ子を完全に理解したつもりになることではありません。
分からないままでも、その声を聞こうとすること。
映画『こちらあみ子』が最後に私たちへ求めているのは、たぶんその姿勢なのだと思います。

