映画『MOTHER マザー』考察|周平はなぜ祖父母を殺した?母・秋子を庇う理由とラストの意味

映画『MOTHER マザー』をネタバレ考察。周平はなぜ祖父母を殺したのか、なぜ母・秋子を庇ったのか。モデルとなった実際の事件との関係、共依存だけでは説明できない母子関係、ラストとタイトル「MOTHER」の意味まで解説します。

※この記事には映画『MOTHER マザー』の結末を含むネタバレがあります。

『MOTHER マザー』は「毒親の映画」だけではない

2020年公開の映画『MOTHER マザー』。

長澤まさみ演じるシングルマザー・秋子と、その息子・周平の関係を描いた作品です。

秋子は働こうとせず、男や親族に金を頼りながら、その日暮らしの生活を続けています。

そして、そのしわ寄せを最も強く受けるのが息子の周平です。

学校へ満足に通えず、大人の都合に振り回され、母親の代わりに金を無心しに行かされる。

それでも周平は、秋子のもとから離れません。

この映画を観ている側からすれば、

「なぜ逃げないのか」

という疑問が何度も浮かびます。

しかし、おそらく本作が本当に描きたかったのは、その「なぜ逃げないのか」という部分なのでしょう。

『MOTHER マザー』は単なる毒親の物語ではありません。

自分を傷つける人間を、それでも愛してしまうことはあるのか。

そして、

子どもにとって「母親」とは、どれほど絶対的な存在になり得るのか。

その恐ろしさを描いた映画です。

映画『MOTHER マザー』基本情報

『MOTHER マザー』は2020年7月3日に公開された日本映画です。

監督は『日日是好日』などの大森立嗣。脚本は大森立嗣と港岳彦が担当しました。

秋子を長澤まさみ、息子・周平を本作が映画デビューとなった奥平大兼、秋子と関係を持つ遼を阿部サダヲが演じています。

上映時間は126分、PG12指定です。

物語は実際に起きた少年による祖父母殺害事件から着想を得ていますが、事件をそのまま再現した作品ではありません。

企画・製作を担当した河村光庸が事件から着想を得て、大森立嗣監督とともに新たな物語として作り上げたフィクションです。

『MOTHER マザー』のあらすじ

シングルマザーの秋子は、息子の周平と暮らしていました。

しかし生活は安定していません。

秋子は働いて生活を立て直すよりも、親族から金を借りたり、男性に依存したりする道を選び続けます。

その過程で、まだ幼い周平は秋子の代わりに親族へ金を無心する役割まで背負わされていきます。

周平にとって秋子は、自分を守ってくれる母親ではありません。

むしろ自分を苦しめる最大の原因です。

それでも、社会とのつながりをほとんど持たない周平には、秋子以外に頼れる人間がほとんどいませんでした。

やがて成長した周平は、妹の冬華を守りながら、自分なりに人生を立て直そうとします。

ところが秋子との関係は切れません。

そして17歳になった周平は、祖父母を殺害するという取り返しのつかない事件を起こします。

周平はなぜ祖父母を殺したのか

最も大きな疑問は、

「周平はなぜ祖父母を殺したのか」

でしょう。

金が欲しかったから。

母親に言われたから。

表面的には、そう説明することができます。

しかし、それだけでは周平の行動は理解できません。

重要なのは、周平が長い時間をかけて、

「母親の要求に応えることが、自分の存在価値である」

という状態へ追い込まれていたことです。

幼いころから周平は、秋子の問題を解決する役割を担わされています。

金がなければ、周平が親族のところへ行く。

秋子が困れば、周平が動く。

生活が破綻しても、周平が母についていく。

普通なら親が子どもを守るはずなのに、この親子ではその役割が逆転しています。

周平は「子ども」であることを許されず、母親を支える存在にされてしまったのです。

だから最後の犯罪も、突然起きた異常行動ではありません。

幼いころから続いてきた、

「母親のために自分が何とかしなければならない」

という関係の延長線上にあります。

祖父母が優しかったからこそ、あの場面は残酷

祖父母殺害の場面が苦しいのは、祖父母が周平を拒絶する悪人として描かれていないことです。

久しぶりにやって来た周平を迎え、妹の存在にも関心を示す。

そこには、周平が別の人生へ進めたかもしれない可能性があります。

だからこそ残酷なのです。

目の前には、自分を受け入れてくれる人がいる。

それでも周平は秋子のもとへ戻るために犯罪を犯す。

これは周平が祖父母より秋子を「選んだ」という単純な話ではないでしょう。

そもそも周平には、

秋子のいない人生を選択する能力そのものが十分に育っていなかった

と考えたほうが自然です。

人は選択肢を見せられれば、必ず自由に選べるわけではありません。

長い時間をかけて作られた親子関係は、ときに選択肢そのものを見えなくしてしまいます。

なぜ周平は母・秋子を庇ったのか

さらに不可解なのが、事件後の周平です。

周平は秋子から犯行を促されたことを明確に訴えず、自分自身が大きな責任を背負うことになります。

なぜ、自分をここまで追い込んだ母親を庇うのでしょうか。

映画の終盤、周平はその理由を「母親が好きだから」という趣旨で語ります。

ここが『MOTHER マザー』という映画の核心です。

周平にとって秋子は「母親」ではなく「世界」だった

第三者から見れば秋子は、周平を支配し、利用する母親です。

しかし周平から見える景色は違います。

幼いころから学校や社会との接点を奪われ、親族とも距離を置き、各地を転々としてきた周平にとって、最も長く一緒にいた存在は秋子でした。

つまり周平は、

「秋子が好きだから離れられない」

というより、

「秋子のいない自分を知らないから離れられない」

のです。

母親を捨てることは、一人の人間と別れることではありません。

周平にとっては、自分がこれまで生きてきた世界そのものを捨てることになってしまう。

そのため、観客から見れば明らかに間違った選択でも、周平にとっては唯一可能な選択だったのかもしれません。

秋子と周平は「共依存」なのか

劇中では二人の関係を「共依存」と捉える視点も示されます。

確かに秋子は周平を必要としています。

周平もまた秋子から離れられません。

しかし「共依存」という言葉だけで片づけると、この映画の恐ろしさを見落としてしまいます。

なぜなら、この親子の力関係は対等ではないからです。

秋子は大人であり、周平は幼いころから秋子に育てられた子どもです。

周平が自ら進んでこの関係を選んだわけではありません。

逃げるために必要な教育も、人間関係も、経済力も十分に与えられないまま成長しています。

だから、

「なぜ周平は秋子と縁を切らなかったのか」

と考えるより、

「周平が秋子以外の世界を持てるようになるまで、なぜ誰も彼を救い出せなかったのか」

と考える必要があります。

ここで映画は、親子だけではなく社会そのものへ視線を広げています。

実話なのか?モデルとなった事件との関係

『MOTHER マザー』は完全な実話映画ではありません。

モチーフとなったのは、2014年に埼玉県川口市で発生した祖父母殺害事件です。

当時17歳だった少年が祖父母を殺害した事件で、その後の裁判などを通して、少年が幼いころから非常に厳しい養育環境に置かれていたことや、長期間十分な教育を受けられていなかったことなどが明らかになっていきました。埼玉新聞も、元少年が小学生のころから学校へ十分に通えず、行政が居場所を把握できない「居所不明児童」だったと報じています。

映画では、この事件を題材にしながら、秋子と周平という架空の人物を通して「母と子」の関係が再構築されています。

そのため、

映画の秋子=実際の事件の母親

映画の周平=実際の少年

と完全に一致させて考えるべきではありません。

映画は事件を再現するドキュメンタリーではなく、実際の事件から生まれた問いをフィクションによって描いた作品だからです。

秋子は周平を愛していたのか

難しいのが、

「秋子は周平を愛していたのか」

という問題です。

愛していなかった、と言い切れば簡単です。

しかし映画は、あえてそこを単純化していません。

大森立嗣監督はインタビューで、秋子が周平を自分の「分身」のように捉えていることに触れています。

ここに秋子の異常さがあります。

秋子は周平を独立した一人の人間として見ることができない。

周平には周平の人生があり、意思があり、未来がある。

その当たり前の境界線が秋子には希薄です。

だから秋子にとって、

「自分の子どもなのだから自分が決めていい」

という感覚が生まれてしまう。

これは愛情というより、

所有に近い愛

です。

秋子なりに周平への感情が存在していたとしても、それは周平を自由にする愛ではありません。

むしろ周平を自分の世界へ閉じ込める愛です。

「毒親」という言葉だけでは秋子を説明できない

秋子を「毒親」と呼ぶことはできます。

しかし大森監督は、単純な悪役として秋子を描いてはいません。

監督は、社会から「NO」を突きつけられ、弾き出された人間を映画でもう一度見つめたいという趣旨を語っています。

ここが重要です。

秋子の行為を擁護する必要はありません。

周平を追い込んだ責任も消えません。

しかし、

「秋子は最低の人間だった。終わり」

としてしまえば、この物語から考えるべきものも消えてしまいます。

秋子自身もまた、家族や社会とうまく関係を築くことができない人間として描かれています。

救われなかった人間が、さらに弱い存在を巻き込み、次の悲劇を生む。

『MOTHER マザー』が怖いのは、明確な怪物が一人いる物語ではなく、孤立が次の孤立を生み出していく構造を描いているからなのでしょう。

ラストで周平が語る「母が好き」の意味

終盤、収監された周平を亜矢が訪ねます。

そこで周平は、自分を苦しめ続けた秋子を、それでも好きだという思いを明かします。

普通なら、

「もう母親のことなど忘れて、新しい人生を歩けばいい」

と思うところです。

しかし周平にとって「母親が好き」という感情は、正しいか間違っているかで判断できるものではありません。

親を好きになることは、子どもにとってほとんど本能に近い感情です。

周平自身、自分の人生が間違いだらけだったことは理解し始めています。

それでも、

母を好きだった気持ちまで否定されたら、自分の人生には何が残るのか。

そこまで考えると、ラストの告白は非常に重く響きます。

周平が守ろうとしたのは秋子だけではありません。

もしかすると、

「母親を好きだった自分自身」

だったのではないでしょうか。

母への愛まで間違いだったと認めてしまえば、周平は自分の人生そのものを否定しなければならなくなる。

だから最後まで手放せなかった。

そう考えると、この映画は単純な共依存の物語を越えてきます。

ラストの秋子の表情は何を意味する?

そして最後、亜矢は秋子に周平の気持ちを伝えます。

周平は今も母親を思っている。

それを聞いた秋子の表情をどう受け取るかは、観客に委ねられています。

反省したようにも見えない。

かといって、明確に喜んでいるとも言い切れない。

ここで映画が秋子に涙を流させたり、後悔を口にさせたりしないことが重要でしょう。

もし秋子が分かりやすく改心してしまえば、この物語は「母親が自分の過ちに気づく物語」になります。

しかし『MOTHER マザー』は、そのような救いを用意しません。

周平は人生を失いかけても母を愛している。

一方の秋子が、その愛の重さを理解したのかどうかさえ分からない。

最後まで二人の愛情は対称にならないのです。

そこにこのラストの残酷さがあります。

タイトル『MOTHER』の意味

タイトルが「秋子」でも「周平」でもなく、

『MOTHER』

であることにも意味があります。

この映画が描いているのは、単に一人の異常な母親ではありません。

「母親なら子どもを愛するもの」

「子どもなら母親を愛するもの」

「親子の絆は美しいもの」

という、私たちが無意識に持っている「母親」という存在へのイメージそのものを問い直しています。

母親だから愛してくれるとは限らない。

しかし、愛してくれない母親でも、子どもは愛してしまうことがある。

その矛盾こそが本作の中心にあります。

だからタイトルは固有名詞ではなく、普遍的な言葉である「MOTHER」なのでしょう。

この映画を観終わったあとに残るのは、

「母とは何なのか」

という答えの出ない問いです。

本当に怖いのは、周平が何度も救われかけていたこと

個人的に『MOTHER マザー』で最も苦しいのは、周平が完全に誰からも見放されていたわけではないことです。

彼を気にかける大人も現れます。

働く機会もあります。

勉強することの楽しさにも触れます。

妹の存在も、周平にとって生きる理由になっていきます。

つまり映画は、

「誰一人として助けようとしなかったから事件が起きた」

という単純な構図にはしていません。

何度も外の世界への扉は開きかけています。

それでも周平は秋子のもとへ戻る。

そこに、長期間にわたる支配や孤立の恐ろしさがあります。

一度優しくしただけでは救えない。

仕事を与えただけでも救えない。

「母親から離れればいい」と言うだけでも救えない。

子どもが自分の人生を選べるようになるためには、長い時間をかけて別の世界とのつながりを作る必要がある。

『MOTHER マザー』は、その難しさまで描いた作品なのだと思います。

まとめ|周平が最後まで守ったもの

『MOTHER マザー』を観ると、

「なぜ周平は逃げなかったのか」

「なぜ祖父母を殺したのか」

「なぜ秋子を庇ったのか」

と考えてしまいます。

しかし映画を最後まで観ると、問いそのものが少し変わります。

なぜ逃げなかったのかではなく、なぜ逃げられる人生を周平は持てなかったのか。

秋子は周平を傷つけました。

利用しました。

人生を大きく狂わせました。

それでも周平にとって秋子は「母親」でした。

自分を苦しめる存在であると同時に、自分を世界につなぎ止めていた唯一の存在でもあったのです。

だからこそ、周平は最後まで母親を捨てることができなかった。

『MOTHER マザー』の恐ろしさは、母の支配そのものよりも、

どれほど傷つけられても、子どもは親を愛してしまうことがある

という事実を突きつけてくるところにあります。

そして、その愛を「間違っている」と外側から簡単に否定できないからこそ、この映画は苦しい。

『MOTHER マザー』は犯罪を描いた映画であり、毒親を描いた映画でもあります。

しかし最後に残るのは、もっと根源的な問いです。

愛してはいけない人を、それでも愛してしまったとき、その愛は間違いなのか。

周平が最後に抱え続けた感情こそが、この映画のタイトルが『MOTHER』である理由なのかもしれません。