石井裕也監督の映画『茜色に焼かれる』は、一見すると「苦境の中でも懸命に生きる母親」を描いた作品に見える。
しかし、この映画が描いているのは、単純な苦労話でも感動的な母子の物語でもない。
主人公・田中良子は、理不尽な出来事に遭遇するたびに笑顔を浮かべ、
「まあ、頑張りましょう」
と口にする。
だが物語が進むほど、その言葉は前向きな励ましではなくなっていく。
それは怒りを飲み込み、悲しみを隠し、この社会で生き延びるために良子が身につけた「演技」なのではないだろうか。
そして映画の最後、良子はようやく「良い母親」を演じることをやめ、一人の人間として感情を爆発させる。
『茜色に焼かれる』という作品は、
「どれだけ理不尽な世界でも頑張って生きよう」
という映画ではない。
むしろ、
「人間は、いつまで頑張らされなければならないのか」
と問いかけている作品なのだと思う。
※以下、『茜色に焼かれる』の結末を含むネタバレがあります。
『茜色に焼かれる』のあらすじ
田中良子は、中学生の息子・純平と二人で暮らしている。
7年前、夫の陽一を交通事故で失った。
事故の加害者側から賠償金を提示されるものの、きちんとした謝罪がなかったことから良子は受け取りを拒否する。
さらに新型コロナウイルスの影響で経営していたカフェも閉店。
良子はホームセンターの花売り場で働きながら、生活費を補うため風俗店でも働いている。
施設で暮らす義父の費用も払い、息子を育てる。
決して余裕のある生活ではない。
それでも良子は、何かが起こるたびに「まあ、頑張りましょう」と笑う。
しかし彼女の周囲では、あまりにも多くの理不尽が繰り返されていく。
純平はいじめを受け、良子自身も職場で理不尽な扱いを受ける。
風俗の客からは尊厳を傷つけられ、ようやく心を許しかけた男性からも裏切られる。
そんな良子の数少ない理解者となるのが、風俗店で一緒に働くケイだった。
映画は、良子と純平の人生に次々と困難を与えていく。
しかし重要なのは、「こんなに不幸な人がいる」と見せることではない。
なぜ彼女たちは、これほどまでに我慢しなければならないのか。
その問いこそが、本作の核心にある。
「まあ、頑張りましょう」は前向きな言葉ではない
本作でもっとも印象に残るのが、良子の口癖である。
「まあ、頑張りましょう」。
字面だけを見れば、とても前向きな言葉だ。
だが映画の中では、むしろ逆の意味を持っている。
良子は本当に頑張りたいから、この言葉を使っているわけではない。
怒ったところで何も変わらないから、怒りを飲み込むために使っている。
夫を失った。
生活が苦しい。
仕事では理不尽な扱いを受ける。
息子はいじめられている。
男性から侮辱される。
それでも、そのたびに真正面から怒っていたら生きていけない。
だから良子は笑う。
そして、「まあ、頑張りましょう」と言う。
つまり、この言葉は希望というより、
良子が自分自身を壊さないための防御壁
なのである。
実際、尾野真千子へのインタビューでも、良子は本音を語らず、感情が動きそうになるたびにこの言葉で処理してしまう人物として説明されている。
良子は強い女性なのではない。
強く振る舞わなければ、生活そのものが成立しないのだ。
良子はずっと「芝居」をしていた
この映画を考えるうえで重要なのが、良子にはかつて演劇をしていた経験があるという設定だ。
これは単なる人物設定ではない。
『茜色に焼かれる』という映画そのものを読み解く鍵になっている。
良子は芝居が上手い。
そして彼女は、日常生活でもずっと芝居をしている。
息子の前では「強い母親」。
義父の前では「献身的な嫁」。
職場では「感じのいい従業員」。
風俗店では「客を受け入れる女性」。
社会が彼女に求める役割を、その場その場で演じ続けている。
だから彼女の笑顔が、ときどき妙に不自然に見える。
笑いたいから笑っているのではない。
笑うべき場面だから笑っている。
「まあ、頑張りましょう」も同じだ。
それは良子自身の言葉であると同時に、良子が社会の中で演じるためのセリフでもある。
この映画における「芝居」とは、生きるための技術なのだ。
なぜ良子は自分のためには怒れないのか
良子は何をされても我慢する。
ところが、純平が傷つけられたときには違う。
学校へ行き、教師に食ってかかる。
息子のことなら怒れる。
ケイも似ている。
自分自身が傷つけられることには耐え続けるのに、良子が傷つけられると本気で怒る。
ここには本作の大きな悲しさがある。
自分の尊厳を守るためには怒れない人間が、他人のためなら怒れる。
良子もケイも、自分自身を大切にする方法をほとんど知らない。
だから他人の痛みには敏感なのに、自分の痛みには「まあ、頑張りましょう」と蓋をしてしまう。
『茜色に焼かれる』が描く「怒り」は、単なる攻撃性ではない。
怒ることは、
「私はそんな扱いをされていい人間ではない」
と宣言することでもある。
だから良子が怒りを取り戻していく過程は、同時に自分自身の尊厳を取り戻す過程でもある。
「ルール」が弱い人間を守ってくれない世界
本作では何度も「ルール」が登場する。
学校には学校の理屈がある。
職場には職場のルールがある。
住んでいる場所にも規則がある。
社会には法律がある。
本来、ルールとは弱い人間を守るためにも存在しているはずだ。
ところが良子と純平は、そのルールによって救われない。
むしろ、立場の強い人間ほど都合よくルールを利用し、弱い側だけが「決まりですから」と我慢を要求される。
この構造を象徴しているのが、終盤の自転車の二人乗りだろう。
社会的には正しい行為ではない。
しかし、あの瞬間の母子にとっては、正しいか間違っているかという問題ではない。
二人で帰るために、それが必要だった。
石井裕也監督も、この二人乗りについて、世間的には間違った行為であっても「あの親子にとっては2人乗りをせざるを得ない」ことが重要だったと説明している。
ここで映画は、
「ルールを守ること」と「正しく生きること」は本当に同じなのか
と問いかける。
良子たちを追い詰めた人間たちは、必ずしも法律を破っているわけではない。
しかし、合法であることと、人間として正しいことは別なのだ。
ケイの死が意味するもの
物語後半、ケイは亡くなる。
表向きには転落事故として処理されるが、風俗店の店長・中村は、ケイが良子と純平のために金を残したことなどから、自ら死を選んだ可能性を考える。
映画はそこを完全には断定しない。
そして、その曖昧さこそ重要なのだと思う。
良子には純平がいる。
「母親である」ということが苦しみの原因にもなる一方で、生き続ける理由にもなっている。
しかしケイには、その最後の支えさえなかった。
ケイは弱かったから死んだのではない。
むしろ、自分が傷つきながら他人を守ろうとする優しさを持った人物だった。
だからこそ彼女の死は、本作の中でもっとも厳しい問いを突きつける。
「頑張り続ければ、誰でも生き延びられるのか?」
答えは、そうではない。
「頑張ればなんとかなる」という言葉では救えない人間が存在する。
だからこそ、『茜色に焼かれる』は安易に「頑張ること」を肯定しない。
茜色の夕焼けは「希望」なのか
ケイの死のあと、良子は純平を自転車の後ろに乗せて走る。
空は異様なほど美しい茜色に染まっている。
ここだけを切り取れば、美しい親子愛の場面にも見える。
しかし、この茜色は単純な「希望の色」ではない。
石井裕也監督は、タイトルの茜色について、良子の中にある怒り、愛、情念、美しさなどが混ざり合って炸裂するイメージを託したと説明している。
つまり茜色とは、一つの感情ではない。
赤は怒りにも見える。
炎にも見える。
血にも見える。
しかし同時に、夕日の美しさでもある。
良子と純平の人生も同じだ。
苦しい。
腹が立つ。
悲しい。
それでも、時折どうしようもなく美しい瞬間がある。
監督自身も、絶望的な世界の中で「奇跡みたいな、嘘みたいな色の空」に出会える可能性について語っている。
重要なのは、茜色の次に必ず明るい朝が来るということではない。
夕焼けの後には、まず夜が来る。
だからこの場面は、
「きっと明日は良くなる」
という希望ではない。
それでも今、この一瞬だけは美しい。
そんな、非常に弱く、それゆえに嘘のない希望なのである。
なぜラストは突然の一人芝居なのか
そして『茜色に焼かれる』は、さらに奇妙な場面で終わる。
良子が介護施設のために一人芝居を演じる。
タイトルは「神様」。
それまでリアリズムに徹していた映画だけに、この終わり方に戸惑った人も多いのではないだろうか。
しかし、実はこここそが映画全体の答えになっている。
これまで良子はずっと「芝居」をしてきた。
社会の中で強い母親を演じ、
いい従業員を演じ、
大丈夫な人間を演じていた。
つまり、これまでの芝居はすべて、
他人のための芝居
だった。
ところが最後の一人芝居では違う。
良子は自分の怒りも、愛も、夫への複雑な感情も、むき出しにする。
そこで初めて、「まあ、頑張りましょう」という仮面が外れる。
石井裕也監督は、このラストについて二つの意図を語っている。
一つは、良子を「ただのいい母ちゃん」にしたくなかったこと。
もう一つは、たとえ格好悪くても、自分で選んだ人生を信じる人間の姿を描きたかったことだ。
つまりラストの良子は、
母親という役割から、一人の人間へ戻った。
それまで彼女は「純平の母ちゃん」として生き延びてきた。
しかし最後には、
田中良子という一人の女性として、
怒り、
愛し、
叫び、
表現する。
ここに本作最大の救いがある。
「まあ、頑張りましょう」を言わなくていい人生へ
この映画の序盤で「まあ、頑張りましょう」と言う良子と、最後に一人芝居を演じる良子は、まったく違う。
前者は感情を隠している。
後者は感情をさらけ出している。
前者は社会に求められる自分を演じている。
後者は自分自身を表現している。
だから本作のラストは、
「これからも頑張って生きていこう」
という結論ではない。
むしろ、
もう何もかも我慢して、立派に頑張らなくてもいい。
というところまで良子がたどり着いた瞬間なのではないだろうか。
良子は理想的な母親である必要もない。
聖人である必要もない。
怒ってもいい。
間違ってもいい。
格好悪くてもいい。
それでも自分の人生を選んでいい。
それが、このラストに込められた小さな解放なのだと思う。
まとめ|『茜色に焼かれる』が描いたのは「頑張ること」ではなく「怒る権利」
『茜色に焼かれる』には、分かりやすい悪役だけが登場するわけではない。
無責任な人。
他人を見下す人。
ルールを盾にする人。
自分には関係ないと目をそらす人。
そんな小さな冷たさが積み重なり、良子たちを追い詰めていく。
だから怖い。
これは特殊な世界の物語ではない。
私たちが暮らしている社会の延長線上にある。
そして良子は、その理不尽をずっと「まあ、頑張りましょう」と受け流してきた。
しかし、本当は頑張る前に怒ってよかったのだ。
自分を粗末に扱う人間に、
「ふざけるな」
と言ってよかった。
そう考えると、本作が最後に描いたのは希望というより、
自分の人生を自分のものとして取り戻すこと
なのだと思う。
茜色は、夜になる直前の色だ。
良子と純平の人生が、これから明るくなる保証はない。
再び理不尽なことも起こるだろう。
それでも二人は、自転車を漕いで進んでいく。
この世界は決して優しくない。
だからこそ、怒ってもいい。
泣いてもいい。
格好悪くてもいい。
そして、それでも生きる。
『茜色に焼かれる』というタイトルの赤は、絶望に焼かれる人間の色であると同時に、まだ消えていない生命の色なのかもしれない。

