映画『ある男』考察|Xの正体とラストの意味――城戸はなぜ「別人」になろうとしたのか?

「愛した夫が、まったくの別人だった」。

映画『ある男』は、そんなミステリーから始まる。

しかし、物語が終わるころには問いそのものが反転している。

名前や戸籍が違えば、その人は「別人」なのだろうか。

そして、もし自分の過去をすべて捨てることができるなら、人は本当に別の人間になれるのだろうか。

石川慶監督の『ある男』は、Xと呼ばれる謎の男の正体を追う物語であると同時に、彼を追っていた弁護士・城戸章良自身が「ある男」へと変わっていく物語でもある。

この記事では、Xの正体、戸籍交換の意味、マグリットの絵、そして意味深なラストまで考察していく。

※以下、映画『ある男』の結末を含むネタバレがあります。

映画『ある男』とは

『ある男』は、平野啓一郎の同名小説を石川慶監督が映画化した作品。

主人公は弁護士の城戸章良。

かつて離婚調停を担当した谷口里枝から、亡くなった夫「谷口大祐」の身元を調べてほしいと依頼される。

里枝は大祐と再婚し、子どもたちと穏やかな家庭を築いていた。

ところが大祐が事故で亡くなったあと、法要にやってきた本物の谷口大祐の兄が遺影を見て告げる。

「これは大祐じゃない」

では、里枝が愛していた男は誰だったのか。

城戸はその男を「X」と呼び、過去を追い始める。

Xの正体は誰だったのか

調査の末に明らかになるXの正体は、原誠という男だった。

誠の父・小林謙吉は死刑囚だった。

父親が重大な犯罪を犯したという事実は、誠自身が何をしたわけでもないのに、彼の人生について回る。

「死刑囚の息子」。

それは本人の人格とは何の関係もないはずなのに、社会は彼を父親の過去と切り離して見てくれない。

そこで誠は、自分の過去から逃れるため戸籍交換に手を出す。

誠は一度「曾根崎義彦」となり、さらに戸籍を交換して「谷口大祐」として生きるようになる。

つまり里枝が夫として知っていた谷口大祐は、

戸籍上は谷口大祐だが、過去をたどれば原誠だった。

ここまで見ると、彼は「偽物の大祐」に思える。

しかし『ある男』が面白いのは、ここからである。

里枝が愛した「大祐」は偽物だったのか

Xが原誠だったと判明しても、里枝と過ごした日々まで偽物になるわけではない。

里枝を愛したこと。

子どもたちを大切にしたこと。

仕事をし、家族と食卓を囲み、父親として生きたこと。

それらはすべて実際に起きたことだ。

彼の名前が谷口大祐ではなかったからといって、その時間まで嘘になるわけではない。

ここに本作最大の逆説がある。

「谷口大祐」という名前は偽物だった。しかし、里枝の夫として生きた彼は本物だった。

戸籍上の名前と、その人が実際にどんな人間だったかは必ずしも一致しない。

むしろ、出生や家系といった「自分では選べなかった過去」を捨てたあとにこそ、誠は初めて自分で選んだ人生を生きられたとも考えられる。

彼にとって里枝との生活は、偽装された人生ではない。

ようやく手に入れた「自分の人生」だったのではないだろうか。

なぜ原誠は過去を捨てなければならなかったのか

重要なのは、誠が単純に犯罪から逃げていた人物ではないということだ。

罪を犯したのは父親であって、誠ではない。

それにもかかわらず、父親の犯罪は息子の人生にまで影を落とす。

ここで映画は、

人間はどこまで自分の過去に責任を持たなければならないのか

という問いを投げかけている。

親。

国籍。

戸籍。

家系。

生まれた場所。

これらの多くは本人が選んだものではない。

それなのに社会では、それらが「その人が何者なのか」を説明する材料として使われる。

誠が捨てたかったのは名前だけではない。

他人から勝手に決められた「お前はこういう人間だ」という物語そのものだった。

だから彼は別人になろうとした。

城戸とXは実はよく似ている

物語の前半では、城戸とXは正反対に見える。

Xは素性を偽った人間。

城戸は真実を明らかにする弁護士。

しかし調査が進むにつれ、二人は少しずつ重なっていく。

城戸自身もまた、「自分は何者なのか」という問題を抱えているからだ。

城戸は在日三世であり、社会から向けられる偏見を意識して生きている。

家庭でも妻との距離が広がり、最後には妻の不倫を察する。

弁護士として社会的な立場を持ち、家庭を築き、一見すると安定した人生を送っている。

それでも城戸の内側には、

「この人生は本当に自分の人生なのか」

という感覚が芽生えていく。

だからこそ、Xの人生を単なる調査対象として処理できなくなる。

過去を捨て、別の人間として生き直したXに、城戸は次第に自分自身を重ねていくのである。

ラストで城戸はなぜ他人の人生を語ったのか

映画のラスト。

城戸はバーで見知らぬ男性と会話をする。

そこで城戸は、自分自身の人生ではなく、「谷口大祐」の人生をまるで自分の経歴であるかのように語り始める。

そして名前を尋ねられる。

城戸が何と名乗ったのかは明かされない。

その瞬間、映画は終わる。

このラストは「城戸も本当に戸籍を交換した」という意味ではないだろう。

重要なのは、城戸がほんの一瞬、別の人生を生きてみたことにある。

城戸はXの過去を調査することで、

「別人になれば過去から逃げられるかもしれない」

という感覚を知ってしまった。

さらに妻の裏切りを知ったことで、今まで自分を支えていた家庭という物語まで揺らいでしまう。

そんな城戸がバーで他人の人生を語る。

それは現実逃避であると同時に、

「城戸章良ではない自分」を試してみる小さな実験

なのではないだろうか。

城戸は最後に「谷口大祐」と名乗ったのか

映画では答えを意図的に聞かせない。

そのため、城戸が何と名乗ったかを確定する必要はないと思う。

「谷口大祐」と名乗ったかもしれない。

まったく別の名前だったかもしれない。

あるいは結局、「城戸です」と答えたのかもしれない。

重要なのは名前そのものではない。

名前を変えることができる、と城戸が知ってしまったことだ。

映画の冒頭では、城戸はXを調査する側にいる。

ところがラストでは、自分自身が「正体の分からない男」の側へ踏み出している。

つまり本作で最後に「ある男」になるのは、Xではなく城戸なのである。

マグリット『複製禁止』が意味するもの

映画の冒頭と終盤で印象的に登場するのが、ルネ・マグリットの絵画『複製禁止』である。

鏡の前に男が立っている。

本来なら鏡には男の顔が映るはずだ。

ところが鏡の中に映っているのも、こちらに背を向けた男の後ろ姿である。

顔を見ることができない。

石川慶監督自身、この絵が『ある男』という物語の主題そのものだと説明している。

これはまさに城戸やXの姿と重なる。

「自分とは誰なのか」と確認するため鏡を見ても、そこに答えは映っていない。

戸籍を見れば名前は分かる。

家系を調べれば両親も分かる。

国籍も出生地も分かる。

しかし、それらをすべて集めても、

「その人が本当は何者なのか」までは分からない。

Xの正体を徹底的に調査した城戸も、最後には自分自身の正体が分からなくなっていく。

だから『複製禁止』は、単に戸籍を交換したXだけを象徴する絵ではない。

城戸を含めた、この物語に登場するすべての「ある男」を映す鏡なのである。

タイトル『ある男』の意味

なぜタイトルは『X』でも『谷口大祐』でも『原誠』でもなく、『ある男』なのか。

それは、この物語が特定の一人だけを描いているわけではないからだろう。

最初の「ある男」は、里枝の夫だったXである。

しかし調査が進むと、本物の谷口大祐にも人生があり、戸籍を交換した曾根崎にも人生がある。

そして最後には城戸まで「ある男」になる。

名前を一つずつ取り去っていけば、誰もがただの「ある男」「ある女」になる。

肩書や戸籍や家族から与えられた物語の前に、一人の人間がいる。

だからタイトルは匿名なのだ。

そして匿名だからこそ、この物語は観客自身にも返ってくる。

あなたは、名前や肩書や過去をすべて取り除いたとき、何者なのか。

『ある男』というタイトルは、その問いそのものなのだと思う。

「本当の自分」は一つではない

原作者の平野啓一郎は、「分人」という考え方を長く作品の中で扱っている。

人間には、どこかに一つだけ絶対的な「本当の自分」が存在するのではない。

家族といる自分。

仕事をしている自分。

友人といる自分。

恋人といる自分。

相手や環境によって現れる複数の自分があり、そのすべてが本人である。

この考え方で見ると、Xの人生も違って見えてくる。

「原誠こそ本当の彼で、谷口大祐は偽物だった」と単純には言えない。

里枝と一緒にいるときに生まれた「大祐」という人格も、確かに彼自身だった。

だからこそ里枝が愛した時間は否定されない。

過去の名前を突き止めることと、その人の本質を知ることは同じではないのである。

『ある男』が最後に残すもの

『ある男』は、Xの正体を暴くミステリーとして始まる。

しかしXの正体が判明した瞬間、この映画の本当の謎が始まる。

では、人間の「正体」とは何なのか。

原誠という名前なのか。

谷口大祐という戸籍なのか。

死刑囚の息子という過去なのか。

里枝を愛した夫という現在なのか。

映画はその答えを一つに決めない。

むしろ、名前を知れば人間を理解したことになるという考えそのものを疑っている。

そして最後に城戸が他人の人生を語り始めたことで、その問いはXから城戸へ、さらに観客へと移される。

私たちは普段、名前、職業、家族、出身地などを並べて「自分」を説明している。

けれど、それらをすべて失ったとしても、自分は自分なのだろうか。

反対に、名前と過去を変えたとしても、人は本当に別人になれるのだろうか。

映画『ある男』の不穏なラストに明確な答えがないのは、それが謎解きの問題ではないからだ。

最後に正体が分からなくなる「ある男」とは、城戸であり、Xであり、そして私たち自身なのかもしれない。