「多様性を認めよう」という言葉は、現代社会において疑いようのない正しさを帯びている。
しかし、私たちが認めようとしている多様性は、結局のところ、自分が理解できる範囲に収まるものだけではないだろうか。
映画『正欲』が描くのは、社会的少数者を優しく受け入れる物語ではない。むしろ本作は、他者を「理解できる存在」に分類しようとする私たちの態度そのものを、冷酷なまでに問い直してくる。
なぜ夏月と佳道は、水に強く惹かれるのか。タイトルの「正欲」にはどのような意味が込められているのか。そして、寺井啓喜が迎えるラストは何を示しているのか。
本記事では、映画『正欲』を「理解する側の暴力」という視点から考察する。
※ここからは映画本編のネタバレを含みます。
映画『正欲』の作品情報とあらすじ
『正欲』は、朝井リョウの同名小説を岸善幸監督が映画化した2023年公開の日本映画である。脚本は港岳彦、出演は稲垣吾郎、新垣結衣、磯村勇斗、佐藤寛太、東野絢香。上映時間は134分となっている。
原作小説は第34回柴田錬三郎賞を受賞し、2023年10月時点で発行部数50万部を突破した。映画版も第36回東京国際映画祭で、岸善幸監督が最優秀監督賞を受賞し、作品は観客賞にも選ばれている。
横浜で検事として働く寺井啓喜は、不登校になった息子の教育方針をめぐり、妻と対立していた。
一方、広島のショッピングモールで働く桐生夏月は、実家で変化のない生活を送っている。そんな彼女の前に、中学生時代の同級生・佐々木佳道が現れる。
さらに、大学のダンスサークルに所属する諸橋大也と、他人との距離感に悩む神戸八重子。無関係に見えた人々の人生は、ある事件をきっかけに交差していく。
公式には、家庭環境、性的指向、容姿など、自分では選べない背景を持つ人物たちの物語として紹介されている。岸監督も、本作について「マイノリティのなかのマイノリティ」を描いた点に衝撃を受けたと語っている。
『正欲』は「多様性を認める映画」ではない
『正欲』を単純な多様性賛歌として受け取ると、本作が持つ不穏さを見失ってしまう。
一般的に語られる多様性には、暗黙の条件がある。
「他人を傷つけない限り認める」
「本人が幸せなら尊重する」
「理解はできなくても否定しない」
どれも良識的な態度に見える。しかし、そこには「何が他人を傷つけるのか」「何が社会的に許容されるのか」を判断する側が存在する。
つまり、多様性を認めるという言葉には、認める側と認められる側の非対称な関係が潜んでいる。
理解できる側が、理解できない側を審査する。
説明できる少数者だけが受け入れられ、説明できない者は不気味な存在として排除される。
『正欲』が突きつけるのは、「あなたは多様性に寛容ですか」という質問ではない。
本当の問いは、「自分の理解や倫理観では整理できない他者が、それでも存在することを認められるか」なのである。
寺井啓喜はなぜ検事として描かれるのか
稲垣吾郎が演じる寺井啓喜は、物語の中で最も「普通」に近い人物である。
家庭を持ち、社会的地位があり、法律によって善悪を判断する仕事に就いている。息子の不登校に対しても、学校へ通い、集団に参加し、社会性を身につけることが本人のためだと信じている。
彼は悪人ではない。
むしろ、啓喜の言葉の多くは社会的には正しい。
だからこそ恐ろしい。
啓喜は、息子の内面を理解するより先に、「正しい成長の仕方」へ戻そうとする。息子が何を感じているかではなく、将来困らない人間になれるかどうかを優先する。
その姿勢は、事件を捜査する検事としての態度とも重なる。
彼は人間の感情を、合法か違法か、被害者か加害者か、正常か異常かという言葉に置き換えていく。
法律は行為を裁くことはできる。しかし、その人がなぜそのつながりを必要としたのかまでは救えない。
啓喜を検事として配置した理由は、彼が単なる一個人ではなく、社会の分類装置を体現する人物だからだろう。
夏月と佳道にとって「水」が意味するもの
映画『正欲』を象徴する最大のモチーフが、水である。
夏月と佳道は、身体そのものではなく、水が激しく噴き出し、飛び散る光景に特別な感覚を抱いている。
この設定は、観客に強い戸惑いを与える。
一般的な恋愛映画や性的表現では、人間の身体、接触、視線などが欲望の対象になる。ところが二人が惹かれるのは、特定の人間ではなく、水の運動そのものだ。
だからこそ、その感覚は既存の言葉で説明しにくい。
水には決まった形がない。
容器に入れれば形を変え、流れ続け、手でつかもうとしても指の間からこぼれていく。
これは夏月と佳道の欲望そのものを表している。
社会はあらゆる感情に名前をつけようとする。恋愛、友情、性的指向、フェティシズムと分類し、当事者にも自分を説明することを求める。
しかし、二人の感覚は簡単な名称に収まらない。
水は、固定されたカテゴリーから逃れ続ける欲望の象徴なのである。
同時に、水は生命を維持するために不可欠なものでもある。
夏月と佳道にとって、自分たちの感覚を共有できる相手とのつながりは、人生を豊かにする趣味ではない。孤独の中で生き延びるために必要な水に近い。
二人を結ぶのは、一般的な意味での恋愛や結婚願望ではなく、「この世界に自分と同じ感覚を持つ人間が存在する」という確認だ。
夏月と佳道の関係は恋愛なのか
夏月と佳道の関係を恋愛と呼ぶべきかどうかは、作品の中心的な問題ではない。
むしろ、恋愛という言葉で説明しようとすること自体が、本作の批判している態度なのだろう。
二人は互いを欲望の対象として消費するのではなく、自分の秘密を知っている唯一の存在として必要としている。
そこに愛情がないわけではない。
しかし、その愛情は、恋人、夫婦、友人といった既存の関係性では整理しきれない。
重要なのは、二人が一緒にいることで幸福になれるかではなく、離れたままでは生きる意味を失いかねないということだ。
二人の関係は「人生を共に楽しむための結びつき」ではなく、「社会から完全に切断されないための同盟」として描かれている。
だからこそ、そのつながりが事件の言葉によって一方的に解釈される場面は残酷である。
外部の人間にとっては不可解で危険に見えるものが、当人たちにとっては最後の命綱だったからだ。
大也と八重子が示す「見ること」の暴力
諸橋大也と神戸八重子の物語では、視線の問題が描かれる。
八重子は大也に惹かれていくが、その感情には「自分だけが彼の本当の姿を理解できるのではないか」という期待が混ざっている。
人を理解したいという気持ちは、必ずしも優しさではない。
相手が隠しているものを知りたい、心を開かせたい、本当の姿を見たいという願いは、相手の境界線を越える行為にもなり得る。
大也が求めているのは、必ずしも深く理解されることではない。
ただ、自分が望まない形で見られずに存在できる場所なのかもしれない。
八重子は悪意によって踏み込むのではない。むしろ善意や好意によって相手に近づこうとする。
しかし『正欲』は、善意であれば他者の内面へ入ってよいわけではないと示す。
理解することを愛情だと信じる人と、理解されること自体を恐れる人。そのすれ違いが、大也と八重子の関係には凝縮されている。
タイトル「正欲」が意味するもの
『正欲』というタイトルは、明らかに「性欲」という言葉を連想させる。
しかし、「性」ではなく「正」という字が使われている点が重要である。
社会には、正しい欲望と間違った欲望があると考えられている。
異性を好きになり、交際し、結婚し、家庭を築く欲望は「普通」とされる。そこから外れる欲望も、社会的に説明可能なカテゴリーに入れば、多様性として認められる可能性がある。
だが、名前がなく、理解されにくく、社会にとって不都合な欲望はどうなるのか。
タイトルの「正欲」は、「正しい欲望とは何か」という問いを含んでいる。
同時に、誰が欲望の正しさを決めるのかという問題も突きつける。
法律なのか。多数派なのか。被害の有無なのか。当事者の苦しみなのか。
もちろん、欲望を持つことと、それを現実の行為に移すことは同じではない。行為によって他者の権利を侵害したなら、社会的責任が発生する。
しかし本作は、行為を裁くことと、存在そのものを否定することを混同してはならないと訴えている。
人は行為について責任を問われても、欲望を抱いてしまう存在であることまで消すことはできない。
ラストで啓喜が突きつけられたもの
終盤、夏月たちのつながりは、捜査や取り調べを通して公的な言葉へと翻訳されていく。
そこでは、彼らが何を恐れ、なぜ互いを必要としていたのかよりも、行為をどのように法的に評価するかが重視される。
検事である啓喜にとって、それは当然の手続きである。
しかし、夏月と向き合うことで、啓喜の中にあった「理解できない人間は、説明を与えれば整理できる」という感覚が揺らぎ始める。
彼は夏月を完全には理解できない。
観客もまた、理解できたと言い切るべきではないだろう。
ラストが示しているのは、啓喜が突然寛容な人間へ生まれ変わったということではない。
自分の正しさだけでは届かない人間が存在すると知ったこと。それが彼の変化である。
そしてこの経験は、息子との関係にもつながっていく。
啓喜はこれまで、息子を正しい道へ戻そうとしていた。だが本当に必要だったのは、息子の状態を完全に理解することでも、将来の正解を提示することでもない。
理解できない部分を残したまま、目の前の人間を切り捨てないことだったのではないか。
新垣結衣の演技が表現する「見つからないための人生」
桐生夏月を演じる新垣結衣は、感情を大きく爆発させるのではなく、常に自分を小さく見せようとするような演技を見せる。
猫背気味の姿勢、相手と視線を合わせきらない表情、感情を押し殺した話し方。
夏月は、自分らしく生きようとしているのではない。
自分の本質が誰にも見つからないように生きている。
社会では「本当の自分を出そう」「自分らしく生きよう」という言葉が肯定的に使われる。しかし、自分らしさを表に出すことで安全を失う人もいる。
夏月にとって自己表現は解放ではなく危険である。
新垣結衣の演技は、秘密を抱える苦しみだけでなく、秘密によってかろうじて社会生活を維持している人物の緊張を表現している。
一方、磯村勇斗が演じる佳道には、夏月よりも衝動的で、現在の生活から逃げ出そうとする危うさがある。
慎重に隠れ続けようとする夏月と、同じ感覚を持つ人間とのつながりに賭けようとする佳道。
二人の温度差があるからこそ、再会の場面には喜びだけではなく、破滅の予感も漂っている。
映画『正欲』の弱点も物語の性質と結びついている
本作は非常に重要な問いを持つ一方、映画としては情報量が多く、人物によって描写の濃淡がある。
特に大也と八重子の物語は、夏月と佳道、啓喜の物語に比べると、やや駆け足に感じられる部分がある。
複数の視点を持つ原作小説を134分の映画にまとめたため、それぞれの人物の内面を完全に描き切ることは難しい。
また、終盤ではテーマを言葉として強く提示するため、観客によっては説明的だと感じるかもしれない。
しかし、その不均衡も含めて、本作は簡単に理解した気持ちになることを拒んでいる。
人物を完全に把握できないという鑑賞体験そのものが、「他者は理解し尽くせない」というテーマにつながっているとも考えられる。
まとめ|必要なのは理解ではなく、切り捨てないこと
映画『正欲』は、多様性の素晴らしさを訴える作品ではない。
多様性という言葉を使う自分自身が、どこに立っているのかを問い直す映画である。
夏月や佳道の感覚を理解できなくてもよい。
啓喜のような価値観を完全に否定する必要もない。
重要なのは、理解できないことを理由に、相手の存在そのものを間違いだと決めつけないことだ。
私たちは他者を理解したと感じた瞬間、その人を自分の知っているカテゴリーに閉じ込めてしまう。
本当の意味で他者と共に生きるとは、相手を理解可能な存在へ変えることではない。
最後まで分からない部分が残ることを受け入れながら、それでも目の前から排除しないことである。
『正欲』のラストに明確な救いはない。
それでも、理解できない人間同士が同じ社会で生きるための、わずかな可能性は残されている。
それは「あなたのことが分かった」という言葉ではなく、「分からないままでも、あなたがここにいることを否定しない」という態度なのだ。

