※この記事には、映画『フランケンウィニー』(2012年の長編アニメーション版)の結末を含むネタバレがあります。作中の出来事と制作陣の説明を踏まえ、人物の心理や象徴については本記事の解釈として考察します。
つぎはぎの身体になっても、スパーキーは変わらず尻尾を振る。その姿には、不気味さよりも、かつて一緒に暮らしていた相棒の温かさがあります。
『フランケンウィニー』は、亡くなった愛犬をよみがえらせる少年の物語です。しかし、結末までたどると、単に「大好きだから取り戻せた」という話には収まりません。
なぜ、同じように動物をよみがえらせても、違う結果が生まれるのか。なぜ、映像は白黒なのか。そして、別れを描く物語が、再会で終わるのはなぜでしょうか。
本作を読み解く鍵は、ヴィクターの願いが、相棒を失いたくない気持ちから、相棒との別れにも向き合える愛情へと変わっていくことにあります。
『フランケンウィニー』の作品情報とあらすじ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原題 | Frankenweenie |
| 製作年 | 2012年 |
| 日本公開日 | 2012年12月15日 |
| 製作国 | アメリカ |
| 監督 | ティム・バートン |
| 脚本 | ジョン・オーガスト |
| 音楽 | ダニー・エルフマン |
| 上映時間 | 約87分 |
| 表現手法 | モノクロのストップモーション・アニメーション |
本作は、ティム・バートンが手がけた1984年の同名実写短編をもとにした長編アニメーションです。この記事では2012年版を扱います。catalog.afi.com
科学と映画作りが好きな少年ヴィクターは、事故で愛犬スパーキーを失います。悲しみの中で、授業の電気実験から着想を得た彼は、スパーキーをよみがえらせることに成功します。
ところが、その秘密を知った子どもたちも動物を復活させようとし、町は大騒動へ。少年と愛犬の再会が、科学の使い方や、人々の恐怖をめぐる物語へ広がっていきます。www.disney.co.jp
結末を先に整理|スパーキーは最後に再びよみがえる
終盤、スパーキーは燃える風車からヴィクターを救います。しかし、自身は崩壊に巻き込まれ、再び動かなくなってしまいます。
町の人々は車の電力を使い、スパーキーの蘇生に協力します。それでも反応がないため、ヴィクターは別れを受け入れようとします。その後、スパーキーは息を吹き返し、二人は再会します。johnaugust.com
ここで注目したいのは、最初の復活と最後の復活で、周囲の状況が変わっていることです。
最初は、少年がひそかに相棒を取り戻そうとする実験でした。最後には、家族や町の人々も、その命を助けようとしています。
スパーキーの復活とともに、ヴィクターが一人で抱えていた悲しみを、人々が分かち合うようになったことも描かれていると考えられます。
ヴィクターと同級生たちの実験は、何が違うのか
スパーキーは、よみがえったあともヴィクターの相棒であり続けます。一方、子どもたちの実験は、町を混乱させる怪物たちを生み出します。
この違いを考えるうえで重要なのが、何のために動物をよみがえらせようとしたのか、という動機です。
製作者のアリソン・アバッテはインタビューで、愛するペットを取り戻す行為と、科学コンテストで勝つなどの競争的な目的で行う実験との対照を、長編版で広げた要素として説明しています。screenanarchy.com
ヴィクターにとって、スパーキーは代わりのきかない存在です。対して、勝利や評価を求める実験では、動物が成果を得るための手段になりやすい。
同じ「よみがえらせる」という行動でも、相手との関係を取り戻したいのか、自分の能力を証明したいのかで、意味が変わるのです。
ただし、愛情があれば行動のすべてが正当化される、と読む必要はありません。ヴィクターの実験も、秘密を抱え込むことや、予想しなかった事態につながります。
本記事では、彼の成長を、愛情の強さを証明することに加え、自分の行動がもたらした結果に向き合うこととして捉えます。
ジクルスキ先生の言葉|科学を使う人の心が問われている
科学教師のジクルスキ先生は、実験に向かう姿勢を考えるための重要な人物です。
先生は、科学には頭だけでなく心も関わると示し、科学そのものの善悪より、使い方に注意する必要があるとヴィクターに伝えます。johnaugust.com
この場面から、本作が科学への好奇心そのものを否定しているとは考えにくいでしょう。
ヴィクターの知識や工夫は、物語を動かす力です。しかし、何かができることと、それをどのような目的で行うかは、同時に考えなければなりません。
先生の言葉は、実験の成功を決める魔法の公式というより、知識を持つ人の責任を示していると読めます。
相手を大切に思っているつもりでも、自分の願いだけを優先していないか。ヴィクターの体験は、その問いを観客にも返しているのではないでしょうか。
スパーキーは怪物なのか|町の人々の変化が示すこと
スパーキーの身体は、生前と同じではありません。しかし、ヴィクターにとって彼が大切な相棒であることは変わりません。
観客も、スパーキーの動きや少年とのやり取りを通して、つぎはぎの身体の内側にある親しさを感じます。
この見え方と、異質な存在を恐れる町の人々の反応には、隔たりがあります。
外見だけを見れば、スパーキーを危険な怪物として遠ざけることは簡単です。けれど、誰かを助けようとする行動を知れば、同じ姿をしていても受け止め方は変わります。
終盤に人々が蘇生へ協力する展開は、スパーキーの存在を、自分たちに関係のある命として認め始めた場面だと考えられます。
ヴィクターとスパーキーの関係だけを見れば、愛犬を取り戻す物語です。町の変化まで含めると、知らないものへの恐怖を越えて、その存在を理解しようとする物語にも見えてきます。
なぜ白黒なのか|監督自身の喪失と、古い怪物映画への愛情
本作が白黒であることには、ティム・バートンの個人的な体験と、映画への愛情が関わっています。
バートンはシネマトゥデイのインタビューで、子どもの頃に愛犬を失った悲しみが、古いホラー映画『フランケンシュタイン』の生命をよみがえらせる物語と結びついたと説明しています。そして、この物語には白黒映像がふさわしいと考えたことも語っています。cinematoday.jp
また、ぴあの取材では、モノクロ映画の影や奥行きを意識して撮影に取り組み、白黒によって美しさやリアリティが増すと考えたことを述べています。チケットぴあ[映画 洋画]
つまり、白黒は単に昔の映画らしく見せるための飾りではありません。監督の記憶と、作品の感情を伝えるために選ばれた表現です。
色が抑えられることで、光の当たり方や身体の輪郭、表情のわずかな変化に目が向きます。スパーキーの傷や縫い目も目立ちますが、同時に、その身体が動く喜びも強く感じられます。
不気味な姿を隠さず、そのまま愛らしく見せる。その表現が、外見を越えて相手を大切にする物語と響き合っているのでしょう。
ラストの意味|別れを受け入れたあとに、再会が訪れる
『フランケンウィニー』の結末には、疑問を抱く余地もあります。
大切な存在との別れを描くのなら、スパーキーが再び生き返ることで、死の重みが弱まってしまうのではないか。別れたまま終わる方が、ヴィクターの成長を実感できたと感じる人もいるでしょう。
ただ、この結末を考える際には、ヴィクターの変化と、スパーキーの復活が起こる順序を見ておきたいところです。
序盤のヴィクターは、思い出の中にいるだけでは足りず、スパーキーがそばにいることを求めます。終盤には、戻ってこなくても自分の心に残り続けると伝え、別れようとします。johnaugust.com
身体を取り戻せなければ関係のすべてが失われる、という思いから、会えなくなっても愛情は残る、という理解へ進んでいるのです。
アバッテも製作者インタビューで、ヴィクターがスパーキーを手放し、別れを告げられるようになることと、もう一度の復活を結びつけて説明しています。再会は、もともと物語の一部として考えられていたといいます。screenanarchy.com
この説明を踏まえると、ラストの復活は、悲しみを経験しなかったことにするための展開というより、別れにも向き合えた少年に訪れる、ファンタジーとしての喜びと捉えられます。
もちろん、別れを受け入れれば大切な存在が必ず戻る、という教訓ではありません。少年の心が変わることと、物語の中で奇跡が起こることは、分けて考えられます。
ヴィクターは、再会できたから初めてスパーキーを愛せるようになったわけではありません。戻らなくても大切に思い続けられると知ったうえで、もう一度、その身体を抱きしめます。
『フランケンウィニー』の温かさは、この順序にあるのでしょう。失いたくないという切実な願いを見つめながら、別れの先にも愛情が続くことを描き、そのあとに再会の喜びを差し出しているのです。
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