映画『ザ・ロブスター』は、「独身であること」が許されない奇妙な社会を描いたヨルゴス・ランティモス監督の作品です。
パートナーを見つけられなければ動物に変えられる。
そんな突拍子もない設定ですが、観終わってみると不思議なことに、描かれているのは私たちの社会とそれほど遠くないようにも感じられます。
なぜ人は恋人を求めるのか。
恋愛には「共通点」が必要なのか。
孤独でいることは本当に不幸なのか。
そして何より気になるのが、最後の場面です。
デヴィッドは本当に自分の目を潰したのでしょうか。
この記事では『ザ・ロブスター』のストーリーを整理しながら、ホテルと森の意味、動物に変えられる理由、近視という共通点、タイトルになっている「ロブスター」、そして曖昧なラストについて考察します。
※この記事には映画『ザ・ロブスター』の結末を含む重大なネタバレがあります。
『ザ・ロブスター』とは
『ザ・ロブスター』はヨルゴス・ランティモス監督による2015年の映画です。
コリン・ファレルが主人公デヴィッドを演じ、レイチェル・ワイズ、レア・セドゥ、オリヴィア・コールマン、ベン・ウィショー、ジョン・C・ライリーらが出演しています。
舞台は近未来。
独身者はホテルへ送られ、45日以内にパートナーを見つけなければ、自分で選んだ動物へ変えられてしまいます。
一方、ホテルから逃げた「独身者」たちは森で集団生活をしており、こちらでは反対に恋愛そのものが禁止されています。
つまり、
「必ず誰かと恋愛しなければならない社会」
と、
「絶対に誰とも恋愛してはいけない社会」
という二つの極端な世界が描かれているのです。
本作は2015年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞し、第89回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされています。
あらすじを簡単に整理
妻に別の男性ができたことで独身になったデヴィッドは、ホテルへ送られます。
そこで告げられたのは、45日以内に自分と相性のいいパートナーを見つけなければ動物に変えられるというルールでした。
デヴィッドが動物になる場合に希望したのが「ロブスター」です。
ホテルでは、男女が「自分と同じ特徴」を持つ相手を探しています。
鼻血が出る女性なら、鼻血が出る男性。
足の悪い男性なら、同じような特徴を持つ女性。
性格さえも相手選びの条件になります。
デヴィッドも生き残るために「冷酷な女性」と交際しますが、自分が本当は冷酷ではないことを知られてしまいます。
やがてホテルから逃亡したデヴィッドは、森で暮らす「独身者たち」の集団へ参加します。
ところがそこにはホテルとは正反対のルールがありました。
恋愛は禁止。
キスも禁止。
性的な接触も禁止。
そこでデヴィッドは、自分と同じ「近視」という特徴を持つ女性と出会います。
二人は惹かれ合いますが、その関係を知った独身者たちのリーダーによって女性は失明させられてしまいます。
その後、二人は森を脱出。
街へ戻りレストランへ入ります。
そしてデヴィッドは、自分も彼女と同じ「盲目」になるため、ナイフを持ってトイレへ向かうのでした。
しかし――。
映画はデヴィッドが実際に目を傷つけたのかを見せないまま終わります。
ラストでデヴィッドは本当に目を潰したのか
『ザ・ロブスター』最大の謎が、このラストです。
結論から言えば、
デヴィッドが目を潰したかどうかは明確にされていません。
むしろ、答えを映さないこと自体がこの作品の重要なポイントでしょう。
コリン・ファレル自身も公開当時、ラストについて複数の異なる読み方ができる趣旨の発言をしており、作品は一つの答えに限定されていません。
では、どのような可能性が考えられるのでしょうか。
解釈① 本当に目を潰した
最もストレートなのはこちらです。
デヴィッドは女性との関係を維持するため、自分自身を失明させた。
二人が恋に落ちた最大の理由は「二人とも近視だった」という共通点でした。
しかし女性が失明したことで、その共通点は失われます。
そこでデヴィッドは新しい共通点として、
「二人とも目が見えない」
という状態を作ろうとします。
この解釈なら、デヴィッドの行動は愛の証明にも見えます。
しかし同時に、本作が批判してきた「恋愛には同じ特徴が必要」という価値観から、最後まで逃げられなかったとも考えられます。
解釈② デヴィッドは目を潰せなかった
もう一つ有力なのが、
結局デヴィッドは自分の目を傷つけることができなかった
という解釈です。
トイレでナイフを目の前まで持っていくデヴィッド。
しかし映画は、その瞬間を映しません。
その後映されるのは、レストランで一人待つ女性です。
時間だけが過ぎていきます。
この映像からは、
「デヴィッドは逃げたのではないか」
という想像もできます。
もしそうなら、ラストはかなり残酷です。
愛していると言っていたとしても、自分の身体を犠牲にするところまで追い込まれれば、人は逃げてしまう。
本作が繰り返し描いてきた「恋愛のために自分を偽る」というテーマの最終地点とも考えられます。
解釈③ 重要なのは「目を潰したか」ではない
そして、本作らしい読み方はこちらでしょう。
重要なのは、
デヴィッドが目を潰したかどうかではなく、なぜ目を潰さなければならないと思ってしまったのか
という点です。
本来、二人が愛し合っているのであれば、同じ特徴など必要ありません。
近視であろうと盲目であろうと、関係を続ければいい。
ところがデヴィッドは、
「カップルには共通点が必要だ」
というホテルの価値観を捨てられていません。
ホテルから逃げても、森から逃げても、デヴィッドの頭の中には社会が植え付けた恋愛観が残っているのです。
だから彼は自分の目を潰そうとする。
この場面には、社会のルールから物理的に逃げても、その価値観から簡単には逃げられない人間の姿が表れているように思えます。
なぜ「共通点」がそれほど重要なのか
『ザ・ロブスター』では、恋愛相手を選ぶ際に「共通点」が異常なほど重要視されています。
しかしその共通点は、かなりくだらないものです。
鼻血が出る。
足が悪い。
近視である。
それだけでカップルになれる。
逆に言えば、共通点がなければ愛し合う資格すらないかのようです。
これは現実社会の恋愛を極端に誇張したものではないでしょうか。
私たちも恋愛について、
「趣味が合う」
「価値観が同じ」
「性格が合う」
といった条件を求めます。
もちろん相性は大切です。
しかし条件ばかりを追い求めると、いつの間にか、
「人を好きになったから一緒にいる」
のではなく、
「条件が一致したから好きになる」
という逆転が起こります。
ホテルの住人たちは、まさにその状態です。
鼻血を偽装する男が示しているもの
象徴的なのが、鼻血の女性と交際するため、自分も鼻血が出るふりをする男です。
彼はわざと鼻を傷つけ、自分にも同じ特徴があるように見せます。
一見すると滑稽ですが、この人物は本作のテーマを非常にわかりやすく表しています。
彼は「恋人を得るために自分を変えた」のです。
現実でも、
相手に嫌われたくない。
一人になりたくない。
結婚したい。
そうした理由から、本当の自分とは違う人物を演じることがあります。
この映画は、その行為を「自分で鼻を殴って血を出す」という極端な行動に置き換えて見せているのでしょう。
ホテルは何を象徴している?
ホテルが象徴しているのは、
恋愛や結婚を強制する社会
だと考えられます。
ホテルでは独身者に対し、「一人でいること」がどれほど危険で不幸なのかを繰り返し教育します。
カップルであることが正しい。
独身であることは間違っている。
そうした価値観が徹底されています。
しかし本当に怖いのは、誰もそのルールを疑わなくなっていることです。
「結婚している=幸せ」
「独身=寂しい」
という単純な価値観を極端にした世界がホテルなのです。
森の独身者たちは自由なのか
ホテルを逃げ出したデヴィッドは、森へ向かいます。
一見すると、森は自由な場所です。
誰とも結婚する必要がありません。
恋人を作る必要もありません。
ところが、ここには正反対のルールがあります。
「恋愛してはいけない」
のです。
つまり森もまた自由ではありません。
ホテルでは恋愛を強制される。
森では恋愛を禁止される。
方法は逆ですが、
どちらも個人に生き方を強制している
という点では同じなのです。
本作は、
「恋愛すべき」
という価値観だけでなく、
「誰にも依存せず一人で生きるべき」
という価値観も同じように極端な思想として描いています。
大切なのは、恋愛するかしないかではありません。
本人が自分で選べることなのでしょう。
なぜ女性は失明させられたのか
デヴィッドと近視の女性は、森のルールを破って恋愛します。
そこでリーダーは女性を病院へ連れて行き、失明させます。
非常に残酷な場面ですが、ここにも皮肉があります。
二人を結びつけていた特徴は「近視」でした。
その特徴そのものが奪われるのです。
つまりリーダーは、単に女性を罰しただけではありません。
二人が恋愛するための根拠を破壊した
とも解釈できます。
それによってデヴィッドは試されます。
「共通点がなくなっても彼女を愛せるのか」
という問いです。
しかしデヴィッドは、新しい共通点を作ろうとします。
だから自分も盲目になろうとする。
ここに本作最大の皮肉があります。
ホテルを否定して逃げたはずのデヴィッドが、最後にはホテルと同じ「共通点がなければカップルになれない」という論理に戻ってしまうのです。
なぜデヴィッドは「ロブスター」を選んだのか
タイトルにもなっているロブスター。
ホテルに入ったデヴィッドは、動物にされるならロブスターを希望します。
作中では、長く生きることや繁殖能力を長期間維持すること、海が好きであることなどが、その理由として語られます。
一方、ランティモス監督はインタビューで、ロブスターについて後から語られる象徴的解釈ほど複雑な由来ではなく、脚本開発初期の物語から生まれたアイデアだったことを説明しています。
そのため、
「ロブスターには絶対にこの意味がある」
と一つに決める必要はないでしょう。
それでも劇中でロブスターが象徴的に機能していることは確かです。
デヴィッドは、人間としてパートナーを見つけられなければロブスターになります。
つまりロブスターは、
社会の求める恋愛に適応できなかったデヴィッドのもう一つの未来
でもあります。
映画では最終的にデヴィッドが動物になることはありません。
しかし彼は最後まで、
「社会が決めた恋愛の条件」
から完全に自由になることもできませんでした。
その意味では、ロブスターにならなくても、彼は最後までホテルの世界に捕らわれているとも言えます。
45日という期限が意味するもの
ホテルでは45日以内に恋人を作らなければなりません。
なぜ45日なのかについて、映画では明確な理由が語られません。
重要なのは数字そのものよりも、
恋愛に期限が設定されていること
でしょう。
本来、人を好きになるタイミングはコントロールできません。
しかしホテルでは、
「期限までに好きな相手を作れ」
と命令されます。
すると恋愛は感情ではなく「課題」になります。
婚活や恋愛市場における年齢への焦り、周囲からの結婚への圧力など、現実社会にも似た感覚があります。
「早く相手を見つけなければ」
という焦りが、本来の感情よりも先に来てしまうのです。
45日という期限は、そうした圧力を極端な形で表現したものと考えられます。
動物に変えるという設定の意味
では、なぜ独身者は殺されるのではなく「動物」に変えられるのでしょうか。
ここにも本作らしい皮肉があります。
人間社会では、
恋愛し、
結婚し、
家庭を作ることが「普通の人間」の条件になっています。
それができなければ人間ではない。
その価値観を文字通り映像化すると、
「恋愛できなかった人間は、人間ではなく動物になる」
という設定になるわけです。
つまり動物への変身は、
社会が独身者を人間として不完全な存在とみなすこと
の誇張表現とも読めます。
デヴィッドの兄が犬になっている意味
デヴィッドがホテルへ連れてくる犬は、かつて人間だった彼の兄です。
この設定はさらりと説明されますが、かなり重要です。
兄もまたホテルのシステムに適応できず、期限までにパートナーを見つけることができなかったのでしょう。
つまりデヴィッドはホテルに入った瞬間から、
「失敗すれば自分もこうなる」
という未来を目の前に見せられています。
犬はペットであると同時に、デヴィッドにとって恐怖の象徴でもあります。
だからこそ犬が殺される場面は大きな意味を持ちます。
そこでデヴィッドは初めて、自分が本当に「冷酷な人間」ではないことを隠せなくなるからです。
『ザ・ロブスター』が描いているのは恋愛批判ではない
本作を見ると、
「恋愛や結婚を否定している映画」
のようにも感じられます。
しかし実際には、それほど単純ではないでしょう。
なぜならホテルだけでなく、恋愛を完全禁止する森の集団も同じように異常な世界として描かれているからです。
本作が批判しているのは恋愛ではなく、
恋愛のあり方を他人が決めること
なのではないでしょうか。
恋人がいるから正しい。
結婚しているから幸せ。
一人だから不幸。
反対に、
一人で生きられるから強い。
恋愛に依存する人間は弱い。
そのどちらも、誰かに押し付けた瞬間にホテルや森と変わらなくなります。
原題「THE LOBSTER」が示しているもの
本作のタイトルは主人公でもヒロインでもなく、「ロブスター」です。
映画の中でデヴィッドが実際にロブスターになることはありません。
だからこそ、このタイトルは印象に残ります。
ロブスターとは、
デヴィッドが「誰かとカップルになれなかった場合の姿」です。
言い換えれば、
恋愛に失敗した自分
の象徴です。
デヴィッドは映画の最初から最後まで、その恐怖から逃げ続けています。
ホテルを脱出したあとも、完全に自由になったわけではありません。
最後には「彼女と同じ特徴を持たなければならない」と考え、自分の目を傷つけようとする。
そう考えるとタイトルの『ザ・ロブスター』とは、実際の動物そのもの以上に、
「社会の基準から外れることへの恐怖」
を象徴しているようにも見えてきます。
ラストで女性だけが映される意味
最後のカットも重要です。
映画はトイレにいるデヴィッドではなく、レストランで待っている女性を映して終わります。
彼女は目が見えません。
だからデヴィッドが戻ってくるのかどうか確認することもできません。
ただ待つしかありません。
観客も同じです。
デヴィッドがどうしたのか、見ることができない。
つまりラストでは、観客自身が女性と同じ立場に置かれています。
デヴィッドを信じるしかない。
戻ってくると思うのか。
逃げたと思うのか。
それとも目を潰して戻ってくると思うのか。
答えは観客に委ねられています。
そして、その答えには観客自身の「愛」に対する価値観が反映されるのかもしれません。
まとめ|『ザ・ロブスター』のラストが問いかけるもの
『ザ・ロブスター』のラストで、デヴィッドが本当に目を潰したのかは明かされません。
しかし本作において重要なのは、
「潰したか、潰していないか」
という答えそのものではないのでしょう。
なぜ彼は、愛する人と一緒にいるために自分の目まで潰す必要があると思ったのか。
そこにこの映画の核心があります。
ホテルでは恋愛を強制される。
森では恋愛を禁止される。
デヴィッドは両方から逃げます。
しかし最後まで逃げられなかったものがあります。
それは、
「恋人同士には共通点が必要だ」という、自分の中に植え付けられた価値観です。
社会から逃げることはできても、自分の中にある社会の常識から逃げることは難しい。
だからこそ『ザ・ロブスター』は、奇妙なディストピア映画でありながら、観客にとって妙に現実的に感じられるのでしょう。
恋人がいること。
結婚していること。
一人でいること。
そのどれが正解なのかを映画は教えてくれません。
むしろ本作が最後に残すのは、
「あなたは誰かを愛するとき、本当に自分自身の意思でその人を選んでいるのか?」
という問いなのではないでしょうか。
デヴィッドがナイフを握ったまま終わるラストは、その答えを観客自身に考えさせるための結末なのです。
