映画『わたし達はおとな』ネタバレ考察|優実と直哉はなぜ別れた?妊娠・ラスト・タイトルの意味

恋人同士なら、話し合えば分かり合える。

相手を好きなら、多少の違いは乗り越えられる。

映画『わたし達はおとな』は、そんな恋愛に対する幻想を静かに壊していく作品です。

大きな事件が連続するわけではありません。

優実と直哉が食事をする。話す。黙る。言い争う。一緒に暮らす。

映し出されるのは、どこにでもありそうな若い男女の日常です。

しかし、その「普通の日常」を見ているうちに、二人の間には決して埋められない距離が存在していることが分かってきます。

そして優実の妊娠によって、それまで曖昧にできていた二人の問題が一気に表面化します。

なぜ優実と直哉は別れることになったのでしょうか。

直哉は本当に無責任な男なのでしょうか。

そして、最後に一人残された優実が食事をするラストには、どんな意味が込められているのでしょうか。

この記事では映画『わたし達はおとな』について、物語の結末まで含めて考察します。

※以下、映画『わたし達はおとな』の重大なネタバレを含みます。


『わたし達はおとな』作品情報

『わたし達はおとな』は2022年6月10日に公開された日本映画です。

監督・脚本は加藤拓也。

本作が長編映画監督デビュー作となりました。

主人公の優実を木竜麻生、恋人の直哉を藤原季節が演じています。主題歌はthe engy「Sugar & Cigarettes」です。公式サイトでは、本作を「圧倒的にリアリティのある日常」を描く作品として紹介しています。

  • 監督・脚本:加藤拓也
  • 出演:木竜麻生、藤原季節、菅野莉央、清水くるみ、森田想、桜田通、山崎紘菜ほか
  • 公開:2022年6月10日
  • 主題歌:the engy「Sugar & Cigarettes」
  • 配給:ラビットハウス
  • 「(not) HEROINE movies」第1弾作品

物語の中心にいるのは、デザインを学ぶ大学生・優実です。

優実には、演劇サークルに所属し、将来自分の劇団を持つことを夢見る直哉という恋人がいます。

ところがある日、優実の妊娠が判明します。

さらに問題なのは、優実自身にも、胎児の父親が直哉であるという確信がないことでした。

映画は現在と過去を行き来しながら、二人がどのように出会い、愛し合い、すれ違い、現在の状況へたどり着いたのかを描いていきます。


優実と直哉はなぜ別れたのか

二人が別れた直接的なきっかけは妊娠です。

しかし、妊娠そのものが二人を壊したわけではありません。

妊娠によって、それまで二人が見ないようにしていた問題が可視化されたのです。

優実と直哉の関係には、以前から小さなズレが積み重なっています。

直哉は一見すると優しい。

優実の話を聞こうともします。

しかし会話を注意深く見ていると、直哉は相手を理解するために話しているというより、自分が悪者にならない形へ会話を着地させようとしていることが分かります。

藤原季節もインタビューで、直哉について、本音をそのまま話すのではなく、一度相手を肯定したうえで自分の意見を通そうとする人物だと説明しています。

つまり直哉は、会話ができない人ではありません。

むしろ会話が上手い。

だからこそ厄介なのです。


直哉は「優しい男」なのか

優実から「お腹の子が直哉の子ではない可能性がある」と聞かされたとき、直哉は最終的に、子どもを育てようという姿勢を示します。

一見すると非常に寛大です。

普通なら怒ってもおかしくない状況で、自分の子ではないかもしれない子どもまで受け入れようとしている。

しかし物語が進むにつれて、その覚悟は揺れていきます。

直哉はDNA検査を気にするようになります。

「誰の子でもいい」と言いながら、本当に自分の子なのかを知りたくなる。

もちろん、この感情そのものを責めることはできません。

父親が誰なのか知りたいと思うのは自然です。

問題なのは、直哉が自分の矛盾を十分に認めないことです。

優実を受け入れたい。

寛大な人間でいたい。

しかし自分の子ではなかったら怖い。

将来や夢も諦めたくない。

その全部が直哉の本音なのでしょう。

直哉は嘘をついているというより、自分自身の中にある矛盾を処理できていません。

そして処理できない感情を、理屈によって優実へ返してしまいます。

だから二人の話し合いは、続ければ続けるほど苦しくなっていくのです。


優実にも問題はあるのか

この映画がおもしろいのは、単純に「最低な彼氏から女性が解放される物語」にはしていないところです。

優実も完璧ではありません。

直哉と別れていた時期、優実は別の男性と関係を持っています。

その結果、妊娠した子どもが直哉の子なのか、その男性の子なのか分からなくなってしまいます。

しかし重要なのは、

「どちらが悪いか」を判定することが、この映画の目的ではない

ということです。

優実にも未熟な部分がある。

直哉にも未熟な部分がある。

二人とも自分の感情を完全には理解できず、相手にも正確に伝えられません。

そして実際の恋愛も、多くの場合そうなのではないでしょうか。

加藤拓也監督はインタビューで、他人のことは完全には分からず、その「分からなさ」を理解することが重要なのではないかという趣旨の発言をしています。

これは『わたし達はおとな』という映画を理解するうえで非常に重要な言葉です。


なぜ二人の喧嘩はこんなにリアルなのか

本作を見ていて居心地が悪くなる最大の理由は、二人の喧嘩に「映画らしい正解」が存在しないからでしょう。

普通の映画なら、

「本当はあなたのことが好きなの!」

「俺もだ!」

というように、本音をぶつけることで物語が前進します。

ところが『わたし達はおとな』では逆です。

話せば話すほどズレていきます。

優実が言ってほしいことと、直哉が言うことが違う。

直哉が説明しようとすればするほど、優実は傷つく。

優実が感情をぶつければ、直哉は自分まで責められていると感じる。

二人とも会話しているのに、二人とも別の話をしているのです。

この感覚が恐ろしくリアルです。

恋人同士の喧嘩は、必ずしも「問題」を解決するために行われているわけではありません。

ときには、

「自分が傷ついたことを分かってほしい」

「自分だけを悪者にしないでほしい」

「自分の苦しさも認めてほしい」

という感情がぶつかっているだけです。

だから正論を言っても解決しません。


妊娠は二人の関係を壊したのではない

妊娠は本作最大の出来事ですが、物語上の意味としては少し違った見方もできます。

妊娠は二人を壊した「原因」ではありません。

二人が抱えていた問題から逃げられなくする装置です。

恋愛だけなら、「今は考えたくない」で済ませられます。

結婚も将来も先送りできます。

喧嘩しても仲直りすればいい。

別れても復縁できる。

ところが妊娠は違います。

産むのか。

産まないのか。

誰が父親なのか。

二人はこれからどうするのか。

時間の経過そのものが決断を迫ってきます。

それまで曖昧なまま成立していた二人の恋愛に、突然「責任」が入り込んでくるわけです。

その瞬間、恋人だった二人は、大人として決断することを要求されます。

しかし二人は、その準備ができていません。


直哉だけが「子ども」なのではない

直哉の言動には苛立ちを覚える人も多いでしょう。

実際、映画を紹介する際にも直哉の「無責任さ」はたびたび指摘されています。公開時の舞台挨拶記事でも、直哉は一見優しそうでありながら無責任な面を持つ人物として紹介されています。

しかし本作のタイトルは、

『直哉は子ども』

ではありません。

『わたし達はおとな』です。

そこには優実も含まれています。

さらに言えば、この「わたし達」には観客まで含まれているのではないでしょうか。

大人だから冷静に判断できる。

大人だから責任を取れる。

大人だから相手を思いやれる。

そんなことはありません。

年齢だけなら大人でも、嫉妬する。

逃げる。

嘘をつく。

自分を守ろうとする。

好きな人を傷つける。

そして後になって、自分が何をしていたのか気づく。

それが人間です。


タイトル『わたし達はおとな』の意味

タイトルは一見すると皮肉に見えます。

これだけ未熟で、話し合いもまともにできない二人が、

「わたし達はおとな」

と言っている。

たしかに皮肉でしょう。

しかし、このタイトルを単なる皮肉として読むだけでは少し足りません。

加藤拓也監督は別のインタビューで、「大人になろう」という言葉には我慢することの意味が含まれることがあり、そういう意味では大人になれたり、なれなかったりすると語っています。

つまり本作における「おとな」とは、完成した状態ではないのでしょう。

ある年齢になった瞬間、人間が突然成熟するわけではありません。

失敗しながら、傷つきながら、ときには誰かを傷つけながら生きていく。

それでも生活を続ける。

その途中にいる人間を指して、

「わたし達はおとな」

と言っているのではないでしょうか。

そのため、タイトルには皮肉と肯定の両方があると考えられます。


ラストで優実が一人で食事をする意味

本作を象徴するのがラストです。

直哉との関係が崩れ、一人になった優実。

映画はそこで劇的な答えを提示しません。

優実は泣き叫ぶわけでも、新しい人生へ力強く踏み出すわけでもありません。

食事を作り、食べる。

それだけです。

しかし、この「食べる」という行為こそ重要です。

映画.comで行われた木竜麻生と松井玲奈の対談でも、このラストについて、一人になった優実が料理を作り食べる姿が取り上げられています。松井は、悲しさや苦しさを抱えていても、人間は食べて「飲み込んでいく」存在なのではないかという解釈を語っています。

人生では、大きな出来事があっても世界が止まってくれるわけではありません。

恋人と別れても腹は減る。

絶望しても朝になる。

答えが出ていなくても生活は続きます。

そして優実のお腹には、さらに大きな問題が残されています。

映画は、彼女が子どもを産むのか、産まないのかという明確な答えを示しません。

それでも優実は食べる。

ここには、

「人生には答えが出ないまま生きていかなければならない瞬間がある」

という本作の核心が表れているのではないでしょうか。


ラストは「成長」を描いているのか

ラストを、優実が直哉から解放されて大人になった瞬間と解釈することもできます。

しかし個人的には、それほど単純ではないと思います。

優実は何かを克服したわけではありません。

問題も解決していません。

将来も決まっていません。

ただ、一人でそこにいる。

それまで優実の日常には常に直哉がいました。

食事も会話も喧嘩も、「二人」の問題でした。

しかし最後には、一人で食べています。

重要なのは、

「正しい答えを見つけた」ことではなく、「自分の人生を自分で引き受ける時間が始まった」こと

なのではないでしょうか。

藤原季節は本作について、「優実の物語」であり、ラストでは最終的に優実一人が立つことになると語っています。

だから映画は直哉ではなく、優実を残して終わります。


優実と直哉は本当に分かり合えていなかったのか

ここでもう一度、二人の関係を考えてみます。

最終的に別れるのだから、

「最初から相性が悪かった」

と結論づけたくなります。

しかし、それも違うでしょう。

藤原季節は、優実と直哉には分かり合えていなかった部分だけでなく、確かに心を通わせていた幸せな時間もあったと語っています。

ここが本作の悲しいところです。

全部が嘘だったわけではありません。

二人は好きだった。

楽しい時間もあった。

一緒にいることが自然だった瞬間もあった。

しかし、

「愛していたこと」と「一緒に生きられること」は同じではない。

好きでも別れる人はいます。

分かり合えている瞬間があっても、分かり合えない部分は残ります。

だから二人が別れたからといって、それまでの幸福まで否定されるわけではありません。


『わたし達はおとな』が描いた本当の怖さ

本作には悪人らしい悪人が登場しません。

だから怖いのです。

誰か一人が極端に悪いのなら、

「あんな人とは付き合わなければいい」

で終わります。

しかし優実と直哉は、私たちの日常の延長線上にいます。

少し自分勝手。

少し臆病。

少し嘘をつく。

少し相手に甘える。

少し自分を守る。

その「少し」が積み重なった結果、人間関係が壊れていきます。

監督自身も、普通と異常を単純に分けるのではなく、それらは非常に近いところに存在するという考えをインタビューで示しています。

特別な人たちの恋愛ではありません。

だから観客は、優実や直哉を見ながら、

「こういうことを言ったことがある」

「自分も相手をこんなふうに追い詰めたかもしれない」

と思わされます。

それこそが本作の生々しさです。


まとめ|「大人」とは正しい人になることではない

『わたし達はおとな』は、恋愛の成功や失敗を描いた映画ではありません。

描いているのは、

人間はどれだけ近くにいても、完全には分かり合えない

という事実です。

優実と直哉はお互いを好きでした。

しかし好きだからといって、本音をすべて言えるわけではありません。

好きだからといって、相手の気持ちが分かるわけでもありません。

そして妊娠という逃げられない現実によって、二人がこれまで曖昧にしてきたズレが露出していきます。

直哉が完全な悪人なのでもない。

優実が完全な被害者なのでもない。

二人とも未熟です。

それでも二人は、年齢としてはもう「おとな」です。

だからこそタイトルは『わたし達はおとな』なのでしょう。

大人とは、すべての答えを知っている人ではありません。

失敗しない人でもありません。

答えの出ない出来事を抱えながら、それでも翌日を生きる人なのかもしれません。

直哉がいなくなった部屋で、優実は一人、食事をします。

問題は何ひとつ解決していません。

それでも食べる。

そして生活は続いていく。

あまりにも普通で、だからこそ残酷なラストです。

『わたし達はおとな』というタイトルが最も重く響くのは、おそらくこの最後の瞬間なのだと思います。