映画『歩いても 歩いても』考察|黄色い蝶と母の残酷さ、ラストの意味

家族が久しぶりに集まり、食卓を囲む。

母親は料理を作り、父親は相変わらず不機嫌で、孫たちは家の中を走り回る。

是枝裕和監督の映画『歩いても 歩いても』で描かれるのは、どこにでもありそうな家族の一日です。

しかし、何気ない会話を聞いているうちに、この家族が多くの後悔や怒りを抱えていることが分かってきます。

なぜ母・とし子は、亡くなった長男に助けられた青年を毎年家へ呼ぶのでしょうか。

家に入ってきた黄色い蝶は、本当に長男・純平だったのでしょうか。

そして良多は、なぜ両親が亡くなったあと、母と同じ言葉を自分の子どもへ語ったのでしょう。

この記事では、『歩いても 歩いても』の結末までを整理しながら、母の残酷さ、黄色い蝶、父と良多の確執、タイトルとラストの意味を考察します。

※以下、映画『歩いても 歩いても』の結末を含む重大なネタバレがあります。


映画『歩いても 歩いても』作品情報

項目内容
公開日2008年6月28日
上映時間114分
監督・脚本・編集是枝裕和
出演阿部寛、夏川結衣、YOU、原田芳雄、樹木希林ほか
音楽ゴンチチ
ジャンル家族ドラマ

作品情報は日本映画データベースおよび株式会社分福の作品ページを参照しています。

本作は是枝裕和監督のオリジナル脚本です。

是枝監督は、母親が亡くなったあと、十分なことをしてあげられなかったという後悔から本作を書き始めたと説明しています。

そのため、『歩いても 歩いても』は架空の家族を描いたフィクションでありながら、監督自身の記憶や後悔が強く反映された作品でもあります。


『歩いても 歩いても』のあらすじをネタバレ解説

絵画修復の仕事をしている横山良多は、妻のゆかりと、その連れ子であるあつしを連れて実家へ帰ります。

この日は、15年前に亡くなった良多の兄・純平の命日でした。

実家では、元開業医の父・恭平と母・とし子が暮らしています。姉のちなみも夫や子どもたちを連れて訪れ、久しぶりに家族がそろいます。

しかし良多にとって、実家は安らげる場所ではありません。

父は、医者にならなかった良多を認めていない。

母も何かにつけて、優秀だった純平の思い出を持ち出す。

再婚したゆかりとあつしも、横山家の中では完全な家族として受け入れられているとは言い切れません。

表面上は穏やかな食事が続きますが、何気ない一言によって、それぞれが抱えてきた不満や傷が少しずつ見えてきます。


純平はなぜ亡くなったのか

長男の純平は、海で溺れていた少年を助けようとして亡くなりました。

少年は助かりましたが、純平は帰ってきませんでした。

両親にとって純平は、ただの長男ではありません。

父の医院を継ぐことを期待された、優秀で将来のある息子でした。

そのため父は、助けられた少年が成長した姿を見るたびに、純平が生きていればどれほど立派な人生を送っただろうかと考えてしまいます。

しかし、ここには残酷な比較があります。

純平は若くして亡くなったため、失敗することも、両親の期待を裏切ることもありません。

死者は年を取らず、記憶の中で理想的な存在になっていきます。

一方、生きている良多は、仕事を失い、父の期待とは違う職業を選び、子どものいる女性と再婚しました。

良多がどれほど努力しても、記憶の中で美化され続ける兄を超えることはできません。

『歩いても 歩いても』における純平は、亡くなった人物でありながら、家族の誰よりも大きな存在として食卓に座り続けているのです。


母はなぜ助けられた青年を毎年呼ぶのか

純平に助けられた少年は成長し、命日になると横山家へ線香をあげに来ます。

家族は彼を迎え入れ、食事を勧め、表面上は丁寧に接します。

しかし彼が帰ったあと、母・とし子の本心が明らかになります。

とし子は青年を許していません。

もちろん、海で溺れた少年に法的・道徳的な責任があるわけではありません。純平が助けに向かったのも、自分の意思によるものです。

それでも母親の感情は、理屈では整理できません。

純平の死を事故として受け入れてしまえば、怒りを向ける相手がいなくなります。

海を責めることもできない。

亡くなった純平に「なぜ助けに行ったのか」と怒ることもできない。

その結果、とし子は生き残った青年を、悲しみの行き先にしてしまったのでしょう。


青年に罪悪感を背負わせる母の残酷さ

とし子が青年を毎年呼ぶのは、純平のことを忘れさせないためです。

青年は横山家を訪れるたびに、自分が生きている代わりに純平が亡くなったという事実を突きつけられます。

母は彼を殴ったり、直接罵倒したりはしません。

笑顔で迎え、食事を出し、帰り際にはまた来るように声をかけます。

だからこそ残酷です。

家族の礼儀や親切の形を使って、青年に罪悪感を持ち続けさせているからです。

良多は、もう彼を呼ばなくてもよいのではないかと母へ訴えます。

良多自身も、出来のよい純平と比べられ続けてきました。兄より劣っていると見られる苦しさを知っているからこそ、青年の居心地の悪さを理解できたのでしょう。

しかし母はやめません。

是枝監督は映画.comのインタビューで、とし子について「失ったものの埋め方を間違った」人物だと説明しています。

彼女の残酷さは、生まれつきの冷酷さではありません。

大切な息子を失った悲しみを処理できず、誰かを苦しめることでしか自分を支えられなくなった結果なのです。


母は本当に青年を憎んでいたのか

とし子の感情は、単純な憎しみだけではないでしょう。

青年が生きていることは、純平が命を懸けて誰かを救った証拠でもあります。

もし青年が横山家との関係を断ち、純平のことを忘れてしまえば、息子の死が何も残さなかったように感じられるのかもしれません。

青年を毎年見ることで、とし子は純平の死を繰り返し確認しています。

純平は無駄に死んだのではない。

目の前にいる人間を生かした。

そう思いたい気持ちと、「なぜこの人の代わりに純平が死ななければならなかったのか」という怒りが、母の中で共存しているのでしょう。

だから、とし子は青年を完全に追い払うことも、心から許すこともできません。


母・とし子は悪い人なのか

とし子を「怖い母親」として切り捨てることは簡単です。

しかし彼女には、確かな愛情もあります。

家族が帰ってくれば、たくさんの料理を用意する。

良多の好みを覚えている。

嫁のゆかりに料理を教え、着物を譲ろうとする。

孫たちの成長を喜ぶ。

その一方で、ゆかりに対して、良多との間に子どもを作らない方がよいと口にします。再婚生活がうまくいかず離婚する可能性を、最初から考えているからです。

親切と無神経さ。

愛情と支配。

優しさと残酷さ。

それらが同じ人間の中に存在しているところに、とし子という人物の現実味があります。

家族を愛しているからといって、家族を傷つけないとは限りません。

むしろ相手の過去や弱点を知っている家族だからこそ、何気ない一言が深く刺さってしまうことがあります。


とうもろこしのかき揚げが示す「奪われた記憶」

食卓に並ぶ、とうもろこしのかき揚げも重要な料理です。

両親は、とうもろこしにまつわる昔の出来事を純平の思い出として語ります。

しかし良多は、それは兄ではなく自分の思い出だと気づいています。

生きている良多の記憶まで、亡くなった純平のものへ置き換えられているのです。

家族の記憶は、必ずしも正確ではありません。

何度も語られるうちに都合よく形を変え、家族の中で共有される「物語」になっていきます。

純平は優秀だった。

純平は優しかった。

純平なら医院を継いだ。

そうした記憶が強くなるほど、良多がその家で生きていた痕跡は薄くなります。

良多が兄へ抱いているのは嫉妬というより、

「自分もこの家の子どもだったことを覚えていてほしい」

という切実な願いなのではないでしょうか。


黄色い蝶は純平だったのか

夜、黄色い蝶が家の中へ迷い込み、純平の遺影のそばへ飛んでいきます。

それを見た母は、純平が帰ってきたのだと考えます。

結論からいえば、蝶が本当に純平の生まれ変わりだったと証明する描写はありません。

この映画は超自然的な出来事の真偽を明らかにする作品ではないからです。

重要なのは、

「蝶の正体は何か」

ではなく、

「なぜ母には純平に見えたのか」

ということです。

とし子の中では、純平は15年前に完全に亡くなっていません。

好物だった料理。

遺影。

命日に訪れる青年。

家の中に残された思い出。

それらを通して、今も暮らしの中に存在しています。

黄色い蝶は、母の強い願いによって純平の姿を与えられたのでしょう。


ラストで良多が蝶の話を子どもに伝えた理由

蝶の話を聞いたとき、良多は母の言葉を信じていませんでした。

ところが両親が亡くなったあとのラストで、良多は自分の子どもたちへ、母から聞いた蝶の話を語ります。

良多が突然、生まれ変わりを信じるようになったとは限りません。

むしろ彼は、母の死後になって初めて、母が黄色い蝶に純平を重ねた気持ちを理解したのではないでしょうか。

目の前にいない人を、身近な景色の中に見つけようとする。

その人が残した言葉を、意味も分からないまま次の世代へ伝える。

それもまた、人が亡くなった人と生き続ける方法です。

良多が受け継いだのは、蝶に関する知識ではありません。

失った人を完全には失わないための、母なりの物語だったのです。


父・恭平はなぜ良多を認めなかったのか

父の恭平は、開業医として生きてきた人物です。

彼は長男の純平に医院を継いでほしいと考えていました。

しかし純平は亡くなり、次男の良多は医者ではなく絵画修復の道を選びました。

恭平にとって、それは息子が自分の人生を否定したようにも感じられたのでしょう。

ただし恭平の厳しさの裏側には、老いへの恐怖もあります。

近所の女性が体調を崩した夜、恭平は医師として十分な処置をすることができず、救急車を呼ぶよう伝えるだけでした。

かつて地域で頼られていた医師が、自分の無力さを認めなければならない。

医院は閉じられ、家長としての権威も少しずつ失われていく。

恭平が過去の肩書きや純平に執着するのは、現在の自分を支えるものが少なくなっているからでもあります。


良多とあつしは「本当の親子」になったのか

良多は、ゆかりの連れ子であるあつしから「お父さん」ではなく「良ちゃん」と呼ばれています。

あつしの心には、亡くなった実の父親が今も存在しています。

良多はその人の代わりにはなれません。

しかし、代わりになる必要もないのでしょう。

横山家では、父が亡くなった純平の代わりを良多に求め続けたため、二人の関係が壊れました。

同じことを、良多があつしに繰り返してはいけません。

あつしが亡き父を大切に思ったままでも、良多との関係は作っていけます。

家族になることは、過去の家族を消すことではありません。

一緒に過ごす時間の中へ、少しずつ新しい人が加わっていくことなのです。


ラストで父と母はどうなった?

実家を出た良多たちは、正月には帰らないつもりでいることを話します。

父や母との間に少し変化は生まれましたが、家族の問題がすべて解決したわけではありません。

良多は両親といくつかの約束をします。

しかし数年後、父は亡くなります。

その後、母も亡くなりました。

良多は、約束したことを実現できませんでした。

ラストでは、良多がゆかり、成長したあつし、新しく生まれた娘と一緒に、両親と純平が眠る墓を訪れています。

かつて父母と歩いた道を、今度は自分の家族と歩いているのです。


なぜ約束を果たせなかったのか

良多が両親を嫌っていたから、約束を無視したわけではありません。

いつかできると思っていたのでしょう。

次の正月。

仕事が落ち着いたあと。

時間に余裕ができたとき。

もう少し気持ちの整理がついてから。

しかし人は、大切な相手に残された時間を正確には知りません。

相撲取りの名前を思い出すのも、両親へ優しくしようと思うのも、いつもほんの少し遅い。

だから本作のラストは、家族が和解する感動的な場面では終わりません。

完全には分かり合えないまま、それでも時間だけが過ぎていく。

その取り返せなさを残して物語は終わります。


タイトル『歩いても 歩いても』の意味

タイトルの『歩いても 歩いても』は、劇中で流れる、いしだあゆみの楽曲『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌詞から取られています。

是枝監督はFilmmaker Magazineのインタビューで、この曲が実際に自身の母親の好きな曲だったことを明かしています。

しかし映画の中で、この曲は幸福な夫婦の思い出として使われていません。

とし子は、若いころに夫が別の女性の部屋でこの曲を歌っているのを聞きました。

それ以来、彼女にとって『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、夫の裏切りを記憶する曲になっています。

夫婦として何十年も一緒に歩いてきた。

それでも理解し合えないことがある。

許していないこともある。

言わないまま抱えている怒りもある。

「歩いても 歩いても」というタイトルには、家族と長い時間を過ごしても、必ずしも相手の心へたどり着けるわけではないという意味が込められているのでしょう。


英題「Still Walking」が示すもの

本作の英題は『Still Walking』です。

直訳すれば、「今も歩き続けている」という意味になります。

父と母は亡くなりました。

純平も帰ってきません。

良多は多くの約束を果たせませんでした。

それでも残された人間の生活は続きます。

良多は家庭を作り、子どもを育て、両親の墓を訪れる。

母から聞いた蝶の話を、自分の子どもへ伝える。

失った人の言葉や癖を受け継ぎながら、人は歩き続けていきます。

『歩いても 歩いても』とは、どこかへ到着するための題名ではありません。

理解できないこと。

許せないこと。

間に合わなかったこと。

それらを抱えたまま、それでも生きていく人間の姿を表した題名なのです。


『歩いても 歩いても』が描く家族とは

本作に登場する家族は、理想的ではありません。

父は息子を比べる。

母は悲しみを他人へ背負わせる。

姉は両親の家での同居を自分たちに都合よく進めようとする。

良多も、正月には帰らないつもりでいます。

誰もが少しずつ身勝手で、誰かを傷つけています。

それでも家族の時間がすべて偽物だったわけではありません。

母の料理は本当においしい。

父と孫が歩いた時間も確かに存在する。

ゆかりとあつしも、横山家の記憶を少しずつ受け取っていく。

家族とは、すべてを分かり合える関係ではないのでしょう。

傷つけられた記憶と、愛された記憶の両方が残る関係です。

その矛盾を消せないまま、次の世代まで一緒に歩いていく。

それが本作の描いた家族の姿なのだと思います。


映画『歩いても 歩いても』に関するよくある疑問

『歩いても 歩いても』は実話ですか?

特定の家族に起きた実話を映画化した作品ではありません。

ただし、是枝裕和監督が亡くなった母親との記憶や、十分なことをしてあげられなかったという後悔をもとに書いたオリジナル脚本です。

黄色い蝶は純平の生まれ変わりですか?

映画の中では断定されていません。

母にとっては純平が戻ってきたように見えましたが、物語上は、亡くなった人を日常の中に見つけようとする心の象徴と考えられます。

純平に助けられた青年は悪いのですか?

青年に責任はありません。

母は純平の死を受け入れるための怒りの行き先として、青年へ罪悪感を背負わせ続けています。

ラストで父と母は亡くなったのですか?

良多の語りによって、描かれた帰省から数年後に父が亡くなり、その後、母も亡くなったことが明かされます。

タイトルは何の曲から取られていますか?

いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』です。是枝監督自身の母親も好きだった曲で、劇中では父の過去の浮気と結びつく苦い記憶として使われています。


映画『歩いても 歩いても』考察まとめ

映画『歩いても 歩いても』について考察しました。

本作のポイントを整理すると、

  • 母は悲しみの行き先を必要とし、純平に助けられた青年へ罪悪感を背負わせた
  • 是枝監督は、とし子を「失ったものの埋め方を間違った」人物と説明している
  • 黄色い蝶が純平の生まれ変わりだと断定する描写はない
  • 良多が母の蝶の話を子どもへ伝えることで、亡くなった人の記憶が継承されている
  • 死んだ純平が理想化されたため、良多は兄を超えることができなかった
  • 父の厳しさには、医師としての役割を失っていく不安も隠されている
  • 良多は両親との約束を果たせないまま、二人を失った
  • タイトルは『ブルー・ライト・ヨコハマ』の歌詞に由来する
  • 英題『Still Walking』は、後悔を抱えたまま続いていく人生を表している

『歩いても 歩いても』は、家族の絆を美しく描くだけの作品ではありません。

家族は愛し合っていても、理解し合えるとは限らない。

優しさの中に残酷さがあり、憎しみの中にも愛情がある。

そして、大切なことに気づいたときには、ほんの少し遅いことがある。

それでも残された人間は、亡くなった人の言葉や記憶を抱えて歩き続けます。

本作が描いているのは、完全な和解ではありません。

間に合わなかったことを抱えたまま、それでも続いていく家族の時間なのです。


あわせて読みたい映画考察

参考資料