映画『ナミビアの砂漠』は、21歳のカナが恋人とぶつかり、仕事を失い、自分でも持て余す感情に振り回される姿を描いた作品です。
ただ、「問題のある女性が成長する物語」と捉えてしまうと、この映画の大切な部分を見落としてしまいます。
なぜカナはあれほど怒るのでしょうか。
不思議な隣人は実在するのでしょうか。
最後に交わされる中国語や、左右が反転した部屋には、どのような意味があるのでしょうか。
この記事では、山中瑶子監督の発言も踏まえながら、『ナミビアの砂漠』の物語と結末を読み解いていきます。
※この記事には、映画『ナミビアの砂漠』の結末に関する重大なネタバレが含まれます。
- 映画『ナミビアの砂漠』の作品情報
- 『ナミビアの砂漠』のあらすじと結末
- カナはなぜいつも怒っているのか
- 冒頭で友人の死に反応が薄いのはなぜ?
- ホンダは本当に「理想の優しい彼氏」だったのか
- ホンダの風俗の告白がカナを傷つけた理由
- ハヤシの「自由」はなぜカナを苦しめるのか
- 鼻ピアスとイルカのタトゥーが示すもの
- エコー写真は何を意味していたのか
- 赤ちゃんを題材にした脚本がカナを怒らせた理由
- ハヤシの家族とのバーベキューでカナが浮いて見える理由
- 階段から落ちる場面は何を表している?
- カナがホンダに「中絶した」と告げたのは本当?
- カナの父親とのあいだに何があったのか
- カナは双極性障害や境界性パーソナリティ障害なのか
- カウンセリングでカナに起きた変化
- 箱庭の砂に一本の木を置く意味
- 新しい同僚は「過去のカナ」を映している
- 隣人の遠山ひかりは実在する? 幻覚ではない?
- 遠山の言葉だけがカナに届く理由
- 焚き火の場面が夢のように見える意味
- ピンクの部屋とランニングマシンの意味
- かっぱえびせんが登場する理由
- タイトル『ナミビアの砂漠』は何を意味している?
- ナミビアの水場が「人工的」であることの意味
- なぜカナは遠い動物には関心を持てるのか
- 町田が舞台になっている意味
- ラストのハンバーグは誰が作ったもの?
- ラストの中国語「ティンブトン」の意味
- 中国語のルーツがカナの問題を説明しているわけではない
- ラストで部屋が左右反転している理由
- カナとハヤシは最後に別れたのか
- ラストはハッピーエンドなのか
- カナは「成長しなければいけない人」だったのか
- 『ナミビアの砂漠』とあわせて見たい映画
- 『ナミビアの砂漠』に関するよくある質問
- まとめ|「分からない」ことから人との関係が始まる
映画『ナミビアの砂漠』の作品情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 公開日 | 2024年9月6日 |
| 監督・脚本 | 山中瑶子 |
| 主演 | 河合優実 |
| 主な出演者 | 金子大地、寛一郎、新谷ゆづみ、唐田えりか、中島歩 |
| 上映時間 | 137分 |
| 映倫区分 | PG12 |
| 配給 | ハピネットファントム・スタジオ |
『ナミビアの砂漠』は、山中瑶子監督によるオリジナル作品です。原作小説を映画化した作品ではありません。
第77回カンヌ国際映画祭の監督週間に選出され、国際映画批評家連盟賞を受賞しました。海外でも注目を集めた一方、その中心にいるのは特別な能力を持った主人公ではなく、東京郊外で暮らす、ごく普通とも言い切れない一人の若い女性です。映画『ナミビアの砂漠』公式サイト/カンヌ監督週間の作品紹介
『ナミビアの砂漠』のあらすじと結末
21歳のカナは、脱毛サロンで働きながら、恋人のホンダと暮らしています。
ホンダは家事をして、生活を支えてくれる優しい恋人です。しかしカナは、その穏やかな関係に満足できません。
やがて、クリエーターとして活動するハヤシと出会ったカナは、ホンダと別れてハヤシとの生活を始めます。
最初は自由で刺激的に思えた新しい関係も、長くは続きません。生活の負担や仕事への考え方、過去の恋愛にまつわる疑惑をきっかけに、二人の衝突は激しくなっていきます。
カナは職場を離れ、医師に相談し、カウンセリングも受けます。その過程で、隣人の遠山ひかりや、職場の若い同僚との交流を通して、自分とは違う他者の存在に少しずつ触れていきます。
そしてラスト。カナとハヤシは、かつてホンダが作った冷凍ハンバーグを食べながら、中国語の通話をきっかけに笑い合います。
問題がすべて解決するわけではありません。
それでも、「分からない」と認めることで、二人のあいだに、これまでとは違う空気が生まれるのです。
カナはなぜいつも怒っているのか
カナの怒りは、単に短気だから生まれているわけではありません。
彼女が激しく反応するのは、目の前の相手が語る言葉と、実際の行動が食い違ったときです。
優しいと言いながら、相手の気持ちを決めつける。
自由だと言いながら、自分に都合のいい関係を求める。
理解していると言いながら、痛みの大きい問題から目をそらす。
カナは、そうした矛盾にうまく折り合いをつけられません。
多くの人は、多少の不一致を受け入れながら関係を維持します。しかしカナは、その不一致を見過ごすことができず、怒りとして噴き出させてしまいます。
だからといって、暴力的な振る舞いが正当化されるわけではありません。
この映画が描いているのは、「怒っているから正しい」という話でも、「暴れるからすべて間違っている」という話でもないのです。
問題なのは、カナの怒りが危険な形で表現されていることと、その怒りの背景にある違和感まで一緒に切り捨てられてしまうことです。
冒頭で友人の死に反応が薄いのはなぜ?
冒頭でカナは、友人のイチカから、かつての知人が亡くなったことを聞かされます。
ところが、一般的に期待されるような悲しみ方は見せません。周囲の会話に気を取られ、目の前の重大な話題に集中していないようにも見えます。
この場面だけを見ると、カナには共感性がないように感じるかもしれません。
しかし、そう断定するのは早すぎます。
人の死を知らされたとき、必ずその場で適切な言葉が出てくるとは限りません。衝撃が大きすぎて実感できないこともあれば、感情を言葉に変えるまで時間がかかることもあります。
この場面が示しているのは、カナが「正しい反応」を上手に演じる人物ではないということです。
同時に、自分の身近で起きた出来事にも、すぐには触れられない彼女の距離感が描かれています。
その距離感は、やがてナミビアの動物映像や、隣人との関係へとつながっていきます。
ホンダは本当に「理想の優しい彼氏」だったのか
ホンダは、カナの生活を支える献身的な恋人です。
料理をして、家のことを引き受け、カナが不安定になっても受け止めようとします。
表面的には、ハヤシよりもずっと優しく見えるかもしれません。
それでもカナは、ホンダとの関係に息苦しさを感じています。
その理由は、優しさそのものではなく、優しさのなかに含まれる「自分は君のことを分かっている」という前提にあります。
世話をする側と、世話をされる側。
助ける側と、助けられる側。
こうした役割が固定されると、支えてもらっている人は、感謝し続けることを暗黙のうちに求められます。
カナにとってホンダの優しさは、温かいものであると同時に、自分が「扱いやすい恋人」として収まることを求められる関係でもあったのかもしれません。
ただし、ホンダが悪人だという話ではありません。
善意があることと、相手を本当に対等に扱えていることは、必ずしも同じではないのです。
ホンダの風俗の告白がカナを傷つけた理由
ホンダは、約束に反して風俗店を利用したことをカナに打ち明けます。
ここで重要なのは、風俗の利用そのものを一律に善悪で裁くことではありません。
問題は、二人のあいだにあった約束と、ホンダ自身が見せていた誠実さのイメージにずれが生じたことです。
いつも自分を支えてくれる優しい恋人。
その相手にも、自分には見せていない欲望や行動がある。
本来、それ自体は人間として当然のことです。しかしカナは、「優しい人だから理解できる」「誠実な人だから裏切らない」という整理が崩れたときに、強い混乱を覚えます。
ホンダの告白は、カナにとって恋人の裏側を知る出来事であると同時に、二人の関係が思っていたほど透明ではなかったことを突きつける場面なのです。
ハヤシの「自由」はなぜカナを苦しめるのか
ホンダとの関係を離れたカナは、ハヤシのもとへ向かいます。
ハヤシはクリエーターとして働き、既存の価値観に縛られない人物のように見えます。
しかし、その自由は、必ずしもカナにも等しく与えられているわけではありません。
仕事の時間を優先するのはハヤシ。
創作の価値を決めるのもハヤシ。
二人の関係をどのような言葉で説明するかを主導するのも、しばしばハヤシです。
カナが不満を伝えると、ハヤシは関係の成長や人生経験といった言葉で受け止めようとします。
一見すると前向きな態度ですが、誰が「成長」の基準を決めているのかという問題が残ります。
ホンダの優しさから逃れたカナは、今度はハヤシの言葉のなかに閉じ込められていきます。
監督も、カナがホンダとの関係から離れ、今度はハヤシとの関係のなかで立場が反転していく構造について説明しています。山中瑶子監督インタビュー:ロケなび!
鼻ピアスとイルカのタトゥーが示すもの
カナは鼻にピアスを開け、ハヤシはカナが描いたイルカをもとにタトゥーを入れます。
この場面には、二人が関係の熱量を身体に刻もうとしているような印象があります。
言葉だけでは信じられない。
気持ちは変わってしまう。
それなら、身体に残る印をつければ、今の関係を確かなものにできるのではないか。
しかし、ピアスもタトゥーも、相手の気持ちを保証するものではありません。
むしろ、消えにくい印があるからこそ、関係が変化したときに、その過去を抱え続けることになります。
二人が求めているのは自由な関係のはずなのに、身体に印をつけることで、互いの存在を固定しようとしてしまう。
この矛盾もまた、カナとハヤシの関係を象徴しています。
エコー写真は何を意味していたのか
カナは、ハヤシの持ち物のなかからエコー写真を見つけます。
そこから、ハヤシと過去の交際相手のあいだに、妊娠や中絶をめぐる出来事があったのではないかと疑います。
ここで注意したいのは、映画のなかで過去の経緯が完全に説明されるわけではないということです。
妊娠にどのような事情があったのか。
当事者が何を考えていたのか。
ハヤシがどのような態度を取ったのか。
観客には、断片的な情報しか与えられていません。
山中瑶子監督も、この問題を、カナがハヤシについて抱いた「疑い」として説明しています。したがって、ハヤシが相手に中絶を強要したと断定することはできません。山中瑶子監督インタビュー:me and you
それでもカナが激しく動揺するのは、妊娠や中絶が女性の身体に残す負担と、それを相手の男性がどの程度引き受けるのかという問題があるからです。
ハヤシにとって過去の出来事でも、別の人にとっては終わっていない経験かもしれません。
カナは、その温度差に耐えられなくなります。
赤ちゃんを題材にした脚本がカナを怒らせた理由
エコー写真をめぐる疑念を抱いたカナは、ハヤシが赤ちゃんを題材にした脚本を書いていることにも強い反発を覚えます。
ハヤシにとって創作は、自分の経験や周囲で起きた出来事を作品へ変えていく行為なのでしょう。
しかしカナには、別の姿に見えています。
現実では十分に向き合っていないかもしれない問題を、創作の題材としては利用している。
誰かの身体や痛みに関わる出来事が、書き手の表現材料に変えられている。
その不均衡に、カナは怒っているのです。
もちろん、創作が経験を扱うこと自体は否定できません。
問題なのは、誰の視点から語られ、誰の痛みが置き去りにされるのかということです。
監督自身も、他者の人生や痛みを創作の材料にする行為について、ハヤシだけでなく、自分自身にも向けられた問いとして語っています。山中瑶子監督インタビュー:CINRA
ハヤシの家族とのバーベキューでカナが浮いて見える理由
ハヤシの家族や知人が集まる場面では、カナの居心地の悪さが際立ちます。
その場にいる人たちは、一定の文化や会話の作法を共有しているように見えます。
誰がどのように話せばいいのか。
どの程度まで冗談を言っていいのか。
どんな態度が「感じのいい人」と受け取られるのか。
カナは、その暗黙の了解にうまく入ることができません。
問題は、彼女が礼儀を知らないということだけではありません。
すでに出来上がった集団のなかでは、共有されている振る舞いに合わせられない人が、すぐに「変わった人」として処理されてしまいます。
ハヤシにとっては自然な家族や友人の空間でも、カナにとっては、自分が観察され、評価される場所になります。
この場面は、恋人同士の問題の背後に、家庭環境や人間関係の作法の違いがあることも示しています。
階段から落ちる場面は何を表している?
カナはハヤシとの衝突の末、階段から落ちてけがをします。
その後、ハヤシは彼女の生活を手助けするようになります。
皮肉なのは、身体の傷が目に見える形になったとき、二人の関係が一時的に分かりやすくなることです。
けがをした人と、世話をする人。
その役割は、感情のすれ違いよりも整理しやすく、周囲から見ても理解されやすいものです。
しかし、身体に傷がつかなければ痛みが認められないとすれば、それは健全な関係ではありません。
カナがそれまで訴えていた苦しさも、見えないだけで存在していたはずです。
この場面には、「傷ついていることを証明できるときだけ、他人のケアを受けられる」という関係の危うさが表れています。
カナがホンダに「中絶した」と告げたのは本当?
カナは、かつての恋人ホンダに、自分が中絶したかのように話します。
しかし、この発言は事実ではなく、嘘です。
映画のなかでカナ自身が妊娠し、中絶したという事実が示されるわけではありません。
監督へのインタビューでも、この場面はカナがホンダについた嘘として扱われています。山中瑶子監督インタビュー:me and you
では、なぜそんな嘘をついたのでしょうか。
考えられるのは、ハヤシの過去をめぐる疑念によって生まれた怒りや不安を、自分の出来事として言葉にし直してしまったということです。
また、ホンダがその言葉にどう反応するかを確かめたかった可能性もあります。
理解してくれるのか。
悲しんでくれるのか。
自分の痛みを、今度こそ本気で受け止めるのか。
ただし、それは相手を傷つける行為です。
カナの孤独が理解できたとしても、嘘そのものが許されるわけではありません。
この場面では、傷ついた人が必ずしも正しい振る舞いをするわけではないという、この映画の厳しさが表れています。
カナの父親とのあいだに何があったのか
カナはカウンセリングのなかで、父親に関する複雑な感情をにじませます。
そのため、家庭環境に何らかの問題があったのではないかと考える観客もいるでしょう。
しかし、映画のなかでは、父親との具体的な出来事が十分に説明されているわけではありません。
虐待や性的被害があったと断定できる描写もありません。
カナの現在の振る舞いを、過去の大きな被害だけで説明してしまうと、「理由が分かれば、この人も理解できる」という単純な図式に回収されてしまいます。
もちろん、家庭との関係が彼女の感情に影響している可能性はあります。
ただ、その可能性と、作中で確認できる事実は区別する必要があります。
この映画は、主人公のすべてを一つの過去に結びつけて説明する作品ではないのです。
カナは双極性障害や境界性パーソナリティ障害なのか
カナはオンラインで医師に相談し、双極性障害や境界性パーソナリティ障害といった言葉を示されます。
しかし、映画のなかで確定的な診断が成立しているとは言えません。
短い会話や感情の起伏だけから、特定の病名を断定することもできません。
ここで重要なのは、精神科や心療内科への相談が無意味だということではありません。
必要な支援につながるために、医療機関へ相談することには意味があります。
ただ、病名がついたとしても、恋人との力関係、仕事の不安定さ、生活環境、家庭への複雑な感情まで、それだけで説明できるわけではありません。
カナが欲しかったのは、単なる分類ではなく、「なぜ自分がこんなに苦しいのか」を理解するための言葉だったのではないでしょうか。
映画は、病気の可能性を否定しているのではなく、一人の人間を診断名だけで理解したつもりになることの危うさを描いています。
カウンセリングでカナに起きた変化
カウンセラーの葉山依とのやり取りは、恋人たちとの会話とは違った空気を持っています。
ホンダはカナを支えようとします。
ハヤシはカナを理解し、関係を整理しようとします。
しかし、どちらも少なからず、「カナはこういう人だ」という前提を持っています。
一方、カウンセリングの場では、すぐに答えを出す必要がありません。
矛盾した感情を、矛盾したまま話すことができます。
言葉にしにくい不快感や、相手に説明できない怒りも、とりあえずその場に置いておけます。
カナが必要としていたのは、「正しい人間になりなさい」という指導ではなく、自分の感情が存在してもよいと思える場所だったのかもしれません。
箱庭の砂に一本の木を置く意味
カウンセリングのなかで印象的なのが、カナが砂の上に一本の緑の木を置く場面です。
砂と木。
この組み合わせは、映画のタイトルにもなっている砂漠を連想させます。
一見すると、乾いた場所には何もありません。
しかし、そこに一本の木が置かれるだけで、見える風景が変わります。
それは、カナのなかに突然答えが生まれたという意味ではないでしょう。
むしろ、何もないように感じていた場所にも、何かを置く余地があると気づいた瞬間ではないでしょうか。
箱庭の木は、病気が治った証拠でも、立派に成長した証拠でもありません。
言葉にならない感情を、別の形で表現するための小さな足場として読むことができます。
新しい同僚は「過去のカナ」を映している
職場に現れる若い同僚の瀬尾若菜は、カナとは違う人物でありながら、どこか以前の彼女を思わせます。
無邪気さ。
軽やかさ。
他人との距離を、あまり深く考えない振る舞い。
カナは、その姿に苛立ちや戸惑いを覚えます。
それは単に、相手が苦手だからというだけではないでしょう。
かつての自分に近いものを目の前にすると、人は見たくない部分まで思い出してしまいます。
監督も、新しい同僚を、カナの過去につながる存在として捉えていることを明かしています。山中瑶子監督インタビュー:ロケなび!
他人を見ているつもりが、実は過去の自分を見ている。
その構造が、カナの視野を少しずつ外側へ広げていきます。
隣人の遠山ひかりは実在する? 幻覚ではない?
唐田えりかが演じる隣人の遠山ひかりは、どこか現実離れした雰囲気をまとっています。
とくに、焚き火を囲む場面は夢のように見えるため、「遠山はカナの想像上の人物ではないか」と考える人もいるかもしれません。
しかし、遠山ひかりは、実在する隣人です。
山中瑶子監督はインタビューで、遠山が実際に隣の部屋に住んでいる人物であることを説明しています。山中瑶子監督インタビュー:ロケなび!
ただし、現実の人物であることと、象徴的な役割を持っていることは両立します。
遠山は、カナが将来たどり着くかもしれない姿を映す存在でもあります。
職場の若い同僚が「過去のカナ」だとすれば、遠山は「未来のカナ」の可能性です。
もちろん、未来から来た同一人物という意味ではありません。
今の自分とは違う生き方が、すぐ隣に存在している。
遠山は、その可能性を示す人物なのです。
遠山の言葉だけがカナに届く理由
ホンダもハヤシも、カナにとっては近すぎる相手です。
近いからこそ、期待します。
近いからこそ、理解されないことに傷つきます。
そして、近いからこそ、相手を思い通りにしたくなってしまいます。
遠山は、そこまで深くカナの生活に入り込みません。
説教するわけでも、救う役割を引き受けるわけでもなく、適度な距離を保っています。
その距離があるからこそ、カナは彼女の言葉を受け取れるのです。
人間関係では、親密であるほど理解し合えるとは限りません。
むしろ、少し距離がある相手のほうが、相手を一人の人間として見ることができる場合もあります。
遠山の存在は、「分かり合うには近づくしかない」という思い込みを静かに揺さぶっています。
焚き火の場面が夢のように見える意味
遠山との焚き火の場面は、現実の延長でありながら、どこか幻想的に描かれます。
そのため、時間や場所の感覚が急に緩んだように感じられます。
ここで重要なのは、場面が夢か現実かを当てることではありません。
カナにとって、いつもの生活とは違う時間が生まれたということです。
恋人と争う時間。
仕事で評価される時間。
自分の問題を説明しなければならない時間。
そうした緊張から離れ、ただ誰かと同じ場所にいることが許される。
焚き火の場面は、カナが「何者かにならなければならない」という圧力から、一時的に離れられる場所として映っています。
ピンクの部屋とランニングマシンの意味
作中には、カナがピンク色の空間でランニングマシンに乗り、恋人との口論を眺めるような印象的な場面があります。
ランニングマシンでは、どれだけ足を動かしても、その場から前に進みません。
カナとハヤシの関係も同じです。
話し合い、言い争い、仲直りし、また同じ問題でぶつかる。
激しく動いているように見えて、同じ場所を回り続けています。
しかし、この場面には別の意味もあります。
カナが、自分自身の姿を少し離れた場所から見つめていることです。
それまで感情の渦中にいた彼女が、自分の繰り返しに気づき始めている。
監督も、この場面について、自分を客観的に見る感覚と結びつけて説明しています。山中瑶子監督インタビュー:ロケなび!
なお、映像が非現実的だからといって、特定の精神疾患の症状を表していると断定する必要はありません。
あくまで、カナの内面を視覚化した演出として受け止めるのが自然でしょう。
かっぱえびせんが登場する理由
ランニングマシンの場面でカナが食べているのは、かっぱえびせんです。
何気ない小道具に見えますが、この選択にも、繰り返しのイメージが重ねられています。
口論をやめられない。
相手を気にすることをやめられない。
傷つけ合う関係から、すぐには抜け出せない。
軽いスナックのイメージと、重たい人間関係の反復が重なることで、場面にはおかしさと苦さが同時に生まれています。
監督と河合優実も、インタビューで、この小道具が「止められない」感覚と結びついていることに触れています。山中瑶子監督・河合優実インタビュー:Fan’s Voice
タイトル『ナミビアの砂漠』は何を意味している?
作中でカナは、アフリカ・ナミビアの動物たちを映したライブ映像を見ています。
遠い場所にある砂漠。
そこに集まってくる動物たち。
日本にいるカナは、画面越しにその風景を眺めています。
タイトルの「砂漠」は、カナの心が完全に空っぽだという意味ではありません。
むしろ、何もないように見える場所にも、確かに命や動きが存在していることを示しています。
カナも同じです。
やる気がないように見える。
人に関心がないように見える。
感情を持て余しているように見える。
しかし実際には、彼女の内側には強い感情やエネルギーがあります。
ただ、それを安心して表現できる場所が見つかっていないだけなのです。
監督と河合優実も、カナは空っぽなのではなく、エネルギーの行き先を見つけられていない人物だと語っています。山中瑶子監督・河合優実インタビュー:Fan’s Voice
ナミビアの水場が「人工的」であることの意味
映画に登場するナミビアの映像は、現実に配信されているライブ映像をもとにしています。
監督によると、映されている動物たちの水場は、人の手によって作られたものです。山中瑶子監督インタビュー:ロケなび!
この事実は、タイトルの意味をさらに深くしています。
自然に存在しているように見えるオアシスにも、人の介入があります。
何もしなくても生命が集まるわけではありません。
水を用意し、場所を維持する人がいるからこそ、動物たちがやってきます。
人間関係も同じではないでしょうか。
相性がよければ、自然に理解し合える。
愛し合っていれば、何もしなくても関係は続く。
そう考えたくなりますが、現実には、話を聞くこと、距離を調整すること、相手を決めつけないことが必要です。
砂漠に水場が必要なように、人間関係にも、安心して存在できる場所を作る手間が必要なのです。
なぜカナは遠い動物には関心を持てるのか
カナは、目の前の恋人とうまく話せません。
友人の悲しみに対しても、期待される反応を返せません。
その一方で、遠く離れたナミビアの動物たちを眺めています。
この距離感には、現代的な問題が表れています。
画面の向こうの出来事には関心を持てる。
知らない土地の人や動物に気持ちを寄せることもできる。
しかし、すぐ隣にいる人とは、利害や感情が絡み合い、素直に向き合えない。
遠い相手は、自分を傷つけません。
自分に何かを要求することもありません。
だから、安心して眺めることができます。
一方、身近な人は、自分の期待を裏切ります。
こちらの都合だけでは理解できない存在として、目の前に立ち続けます。
『ナミビアの砂漠』が問いかけているのは、遠くの他者に向けられる関心を、近くの人にも少しずつ向けられるのかということなのです。
町田が舞台になっている意味
映画の舞台として選ばれたのは、東京の中心部ではなく、町田をはじめとする郊外の風景です。
おしゃれな都市生活でも、完全な地方生活でもない。
若い人が働き、暮らし、恋人と部屋を借りながら、毎日をやり過ごしている場所です。
この舞台設定によって、カナの問題は、特別な人の特別な人生として切り離されません。
どこにでもある駅。
どこにでもあるアパート。
どこにでもある職場。
そうした風景のなかで、人には説明しにくい息苦しさが積み重なっています。
監督も、若い人が現実的に暮らしている場所として、町田のような郊外に注目したと語っています。山中瑶子監督インタビュー:ロケなび!
ナミビアは遠い異国ですが、カナの砂漠は、私たちの身近な街にも広がっているのです。
ラストのハンバーグは誰が作ったもの?
結末でカナとハヤシが食べている冷凍ハンバーグは、以前、ホンダが作ったものです。
すでに別れた恋人が残した料理を、現在の恋人と一緒に食べる。
普通に考えると、かなり複雑な状況です。
しかし、その複雑さこそが、この場面の大切なところです。
ホンダとの関係が終わったからといって、彼がカナに向けた気持ちまで消えるわけではありません。
同時に、ホンダが世話をしてくれたからといって、カナが彼のもとに戻る義務もありません。
過去の関係は、終わったあとも何らかの形で生活に残ります。
人は、前の関係を完全に消去してから次の関係へ進むわけではないのです。
ハンバーグは、ホンダの優しさがカナを所有するための証拠ではなく、時間を越えて残った一つのケアとして食卓に置かれています。
ラストの中国語「ティンブトン」の意味
ラストでは、カナが母親や親族との通話で中国語に触れる場面があります。
そこで使われるのが、「ティンブトン」と聞こえる言葉です。
中国語では「听不懂」または「聽不懂」と表記され、「聞いても分からない」「聞き取っても理解できない」という意味になります。
監督へのインタビューでも、この言葉は「聞いても分からない」という意味だと説明されています。山中瑶子監督インタビュー:ecrit-o
ハヤシは、その言葉の意味をカナに尋ねます。
カナが伝えるのは、「分からない」という意味です。
すると、二人のあいだに笑いが生まれます。
それまでの二人は、相手を理解したつもりになりながら、実際には自分の考えを押しつけ合っていました。
しかし最後には、二人とも分からないものを前にして、同じ場所に立ちます。
ここで初めて、「分からない」という状態が、関係を壊す理由ではなく、関係を始め直す入口になるのです。
中国語のルーツがカナの問題を説明しているわけではない
ラストで中国語が登場すると、カナの生きづらさは家族のルーツによるものなのではないか、と考えたくなるかもしれません。
確かに、家庭で使われる言葉や、複数の文化との距離感は、人の生き方に影響することがあります。
ただし、監督は、この要素をカナという人物のすべてを説明する鍵として扱う必要はないと語っています。山中瑶子監督インタビュー:ecrit-o
家族のルーツがあるから怒りっぽい。
異なる文化を背景に持つから不安定だ。
そのように結びつけてしまうと、また別の決めつけが生まれます。
ラストで大切なのは、カナの背景を一つの原因にすることではありません。
彼女自身にも、完全には理解できないものがある。
その「分からなさ」を、ハヤシと共有できたことに意味があるのです。
ラストで部屋が左右反転している理由
映画の最後では、部屋の構造が、それまでと左右反転しているように見えます。
これは撮影ミスではありません。
山中瑶子監督は、左右が反転した構造の部屋を使い、終盤で空間の見え方が変わるように演出したと説明しています。山中瑶子監督インタビュー:Bunkamura
同じような部屋。
同じ二人。
同じように続く生活。
それでも、何かが以前とは違っています。
部屋の反転は、カナとハヤシの関係が完全に解決したことを意味するものではありません。
むしろ、同じ場所にいながら、世界の見え方が変わったことを表しています。
誰が理解する側で、誰が理解される側なのか。
誰が正しく、誰が間違っているのか。
そうした固定された立場が、少しだけ揺らいだのです。
カナとハヤシは最後に別れたのか
映画のラストでは、カナとハヤシが別れたことは描かれていません。
二人は同じ空間にいて、食事をし、会話を交わしています。
ただし、それは「これからも永遠に幸せに暮らす」という意味ではありません。
監督はインタビューで、二人がその後に別れる可能性も否定せず、それでも映画の終わり方としては、より前向きな着地点を選んだことを明かしています。山中瑶子監督インタビュー:ecrit-o
大切なのは、交際が続くかどうかだけではありません。
相手を変えようとする関係から、相手を完全には分からない存在として受け止める関係へ移れるのか。
その可能性が、最後の短い笑いに込められています。
ラストはハッピーエンドなのか
『ナミビアの砂漠』のラストは、分かりやすいハッピーエンドではありません。
カナが安定した仕事を見つけたわけではありません。
恋人との問題が完全に解決したわけでもありません。
自分の怒りを、きれいにコントロールできるようになったわけでもありません。
それでも監督は、あの結末を前向きなものとして捉えています。山中瑶子監督インタビュー:Bunkamura
なぜなら、カナが「理解されるべき問題のある人」という位置から、少し離れられたからです。
そしてハヤシも、「相手を説明できる人」という立場を手放し始めます。
二人が分からないものを前にして、対等になる。
その小さな変化が、この映画における希望です。
ただし、傷つけ合う関係を続けることが望ましい、と映画が勧めているわけではありません。
暴力や支配を我慢することと、他者を理解しようとすることは、まったく別の問題です。
カナは「成長しなければいけない人」だったのか
カナを見ていると、「もっと大人になればいいのに」と感じる場面があります。
感情を抑えればいい。
恋人と冷静に話し合えばいい。
仕事を続けて、生活を整えればいい。
もちろん、他人を傷つけないために、自分の行動を見直すことは大切です。
しかし、その要求がいつのまにか、「周囲にとって扱いやすい人になれ」という意味に変わってしまうことがあります。
山中瑶子監督は、一見すると何も達成していないような時間にも価値があるという考えを示しています。山中瑶子監督インタビュー:CINRA
人は常に成長し、成果を出し、社会に適応し続けなければならないのでしょうか。
迷っている時間。
動けない時間。
自分でも理由の分からない感情を抱えている時間。
そうした時間まで、すべて無価値だと決めつける必要はありません。
この映画は、カナが別人になることよりも、彼女が自分のままで少し違う景色を見られることに希望を置いています。
『ナミビアの砂漠』とあわせて見たい映画
河合優実の演技を別の角度から味わうなら、映画『あんのこと』の考察記事もおすすめです。
『あんのこと』では、困難な環境のなかで生きる女性の姿が描かれます。一方、『ナミビアの砂漠』のカナは、周囲に傷つけられるだけでなく、自分も他人を傷つけます。その違いから、河合優実が演じる人物像の幅が見えてきます。
恋愛における立場の差や、相手に振り回される感情に関心がある人は、映画『愛がなんだ』の考察記事もあわせて読んでみてください。
「相手を好きになること」と「相手の都合に合わせること」は、どこで切り離せるのか。『ナミビアの砂漠』にも通じる問いが描かれています。
また、女性が周囲から「おかしい人」として扱われる構図について考えたい場合は、映画『愛に乱暴』の考察記事も関連性の深い作品です。
他人の人生を語ることの難しさについては、映画『由宇子の天秤』の考察記事も参考になります。
『ナミビアの砂漠』に関するよくある質問
『ナミビアの砂漠』に原作はありますか?
原作小説はありません。
山中瑶子監督が脚本を手がけたオリジナル映画です。
カナは本当に中絶したのですか?
カナ自身が中絶したという事実は、作中で示されていません。
ホンダに対する「中絶した」という発言は、嘘として描かれています。
一方、ハヤシの過去の交際相手に関する出来事は断片的に示されるだけで、詳細は確定できません。
隣人の遠山ひかりは幻覚ですか?
幻覚ではありません。
監督は、遠山が実在する隣人であると説明しています。ただし、カナの未来の可能性を映す象徴的な存在としても描かれています。
ラストの中国語はどういう意味ですか?
「ティンブトン」は、「聞いても分からない」という意味です。
相手を理解し切れない状態を、カナとハヤシが一緒に受け止める場面として読むことができます。
最後に部屋の左右が変わったのはなぜですか?
意図的な演出です。
カナとハヤシの関係や、世界の見え方が以前とは変化したことを、空間の反転によって表現しています。
『ナミビアの砂漠』の結末は救いがあるのでしょうか?
すべての問題が解決する結末ではありません。
ただ、相手を分かったつもりになる関係から、分からなさを共有する関係へ、二人が少しだけ移動したという意味で、希望のある終わり方です。
まとめ|「分からない」ことから人との関係が始まる
『ナミビアの砂漠』は、怒りっぽい女性が更生する物語ではありません。
優しい恋人を選べば幸せになれる、という物語でもありません。
人は、近くにいる相手ほど、自分の分かる形に当てはめようとします。
恋人だから理解できるはずだ。
家族だから気持ちが通じるはずだ。
支えてあげているのだから、感謝してくれるはずだ。
しかし、他人はいつまでたっても、完全には分からない存在です。
カナも、ハヤシも、ホンダも、それぞれ自分の見方で相手を理解したつもりになっていました。
その思い込みが崩れたとき、彼らはようやく、別の関係を始める入口に立ちます。
砂漠には、何もないように見えます。
けれど、目を凝らせば水場があり、動物が集まり、確かに命が動いています。
カナの内側も同じです。
何もないのではありません。
まだ、どのように見ればよいのか分かっていないだけなのです。
そして、「分からない」と認めることは、理解を諦めることではありません。
そこからようやく、相手を見ることが始まるのだと思います。

