『君たちはどう生きるか』が問いかけているのは、「正しく生きるにはどうすればよいか」ではない。
自分の中にも嘘や怒りや悪意があると知ったうえで、それでも誰かと生きていけるか。
母を亡くした少年・眞人は、異世界で美しく秩序ある世界の後継者になるよう求められる。しかし彼が選んだのは、戦争も喪失も人間同士の衝突も存在する、不完全な現実だった。
なぜ眞人は大伯父の誘いを断ったのか。青サギの正体とは何なのか。ヒミはなぜ死ぬ未来へ戻ったのか。夏子が向かった産屋、ワラワラを食べるペリカン、13個の積み木には、どのような意味があるのか。
本記事では『君たちはどう生きるか』の物語とラストを整理しながら、本作が描いた「悪意をなくすのではなく、悪意を抱えたまま他者と生きる」という選択を考察する。
※ここからは映画『君たちはどう生きるか』の結末を含む重大なネタバレがあります。
- 映画『君たちはどう生きるか』の作品情報
- あらすじ|母を失った眞人が塔の世界へ向かうまで
- 結論|眞人が選んだのは「正しい世界」ではなく「他者のいる世界」
- 吉野源三郎の小説は「原作」ではない
- 眞人はなぜ自分の頭を石で傷つけたのか
- 大伯父と13個の積み木が象徴するもの
- 大伯父の理想世界は、すでに失敗していた
- インコ大王はなぜ積み木を壊したのか
- 青サギの正体|なぜ嘘つきが眞人の友人になるのか
- ヒミの正体|眞人は母を救えなかったのか
- 「火」は母を奪うものから、命を守るものへ変わる
- 夏子はなぜ塔と産屋へ向かったのか
- キリコは「世界を作る人」ではなく「命を支える人」
- ラストで眞人が大伯父の後継者を拒否した理由
- ラストで眞人が持ち帰った石の意味
- ラストは夢だったのか
- 宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫の物語として読む
- タイトル「君たちはどう生きるか」の意味
- 『君たちはどう生きるか』の弱点と批評
- 『君たちはどう生きるか』に関するよくある疑問
- まとめ|「どう生きるか」とは、誰と生きるかを選ぶこと
映画『君たちはどう生きるか』の作品情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 公開日 | 2023年7月14日 |
| 上映時間 | 約124分 |
| 原作・脚本・監督 | 宮﨑駿 |
| プロデューサー | 鈴木敏夫 |
| 制作 | スタジオジブリ |
| 音楽 | 久石譲 |
| 主題歌 | 米津玄師「地球儀」 |
| 主な声の出演 | 山時聡真、菅田将暉、柴咲コウ、あいみょん、木村佳乃、木村拓哉、火野正平ほか |
| 配給 | 東宝 |
作品情報はスタジオジブリ公式サイトで確認できる。
本作は第96回アカデミー賞で長編アニメーション映画賞を受賞。日本アカデミー賞でも最優秀アニメーション作品賞を受賞した。スタジオジブリの公式発表でも、両賞の受賞が報告されている。
スタジオジブリは本作を、宮﨑駿自身の少年時代の記憶が色濃く反映された「自伝的ファンタジー」と紹介している。引退宣言の撤回後、完成までには7年余りが費やされた。スタジオジブリ出版部の紹介からも、本作が宮﨑駿の個人的な記憶と創作者としての人生を強く反映した映画であることが分かる。
あらすじ|母を失った眞人が塔の世界へ向かうまで
戦時下の日本。
少年・眞人は、火災によって入院中の母ヒサコを失う。父・勝一はヒサコの妹である夏子と再婚し、身重の夏子が暮らす郊外の屋敷へ眞人を連れていく。
しかし眞人は、母の死を受け入れられない。
新しい学校にも、父と夏子が作ろうとしている家庭にもなじめず、同級生と争った後には石を使って自分の頭を傷つけてしまう。
そんな眞人の前に、人間の言葉を話す青サギが現れる。
青サギは、死んだはずの母が生きていると告げ、屋敷の近くにある謎の塔へ眞人を誘う。当初はその言葉を拒んでいた眞人だったが、夏子が森の中へ姿を消したことで、彼女を捜すため塔へ入る。
塔の中に広がっていたのは、生者と死者、過去と未来、現実と物語が混ざり合う世界だった。
結論|眞人が選んだのは「正しい世界」ではなく「他者のいる世界」
先に結論を述べると、眞人が大伯父の後継者になることを拒否したのは、自分には完全な世界を作る資格がないと諦めたからではない。
完全な世界を一人で作ることより、不完全な人々と同じ現実を生きることを選んだからである。
大伯父は、悪意に汚されていない石を積み、争いのない世界を作るよう眞人に求める。
しかし眞人は、自分で作った頭の傷を示し、自分にも悪意があると認める。
眞人は善良で無垢な少年ではない。
学校で起きたことについて嘘をつき、父親の怒りや周囲の同情を利用した。夏子に対しても、亡き母の居場所を奪う存在のように感じ、反発や嫌悪を抱いていた。
それでも眞人は夏子を助けようとし、嘘つきの青サギと友人になろうとする。
本作が肯定するのは、悪意を完全に消した人間ではない。
自分の悪意を認めたうえで、他者を傷つけないよう選び直す人間なのである。
吉野源三郎の小説は「原作」ではない
映画と吉野源三郎の同名小説は、題名こそ同じだが、物語はまったく異なる。
スタジオジブリの公式クレジットでは、原作・脚本・監督はいずれも宮﨑駿とされている。したがって、本作は吉野源三郎の小説を物語として映像化した作品ではない。
重要なのは、小説『君たちはどう生きるか』そのものが劇中に登場することだ。
眞人は、亡き母が自分へ残した本を見つけ、ページを読みながら涙を流す。
岩波書店の「#君たちはどう読むか」企画でも、この読書場面が取り上げられている。小説のコペル君は、友人を裏切ってしまった自分の卑怯さと向き合い、他者との関係を作り直そうとする少年である。
眞人もまた、自分の中にある卑怯さや悪意から逃げることができない。
つまり映画は小説の筋書きを借りたのではなく、「自分の弱さを知った人間は、その後をどう生きるのか」という問いを受け継いでいる。
本作は小説の映画化ではなく、小説を読んだ少年が、その問いに行動で答える物語なのである。
眞人はなぜ自分の頭を石で傷つけたのか
眞人の自傷は、単に学校を休むための嘘ではない。
母を失った眞人は、自分の悲しみを誰にも伝えられずにいる。父はすでに夏子との新しい生活へ進み、夏子も新しい母親として接しようとする。
周囲の大人たちは眞人を心配しているが、母を炎の中で失った経験を共有することはできない。
そこで眞人は、目に見えない心の傷を、目に見える身体の傷へ変える。
母の死は、自分では原因も結果も変えられない。しかし自分で作った傷であれば、痛みの場所も、周囲へ説明する物語も、自分で決められる。
これは、制御できない喪失に対して、眞人がかろうじて取り戻そうとした支配権だったのだろう。
同時に、その傷は嘘の証拠でもある。
眞人は自分を傷つけることで被害者の立場を作り、父や学校を動かした。そのため終盤で彼は、この傷を自分の「悪意」の印として大伯父へ示す。
眞人が成長したのは、傷が消えたからではない。
その傷を他人のせいにせず、自分が選んだ行為の痕跡として認められるようになったからである。
大伯父と13個の積み木が象徴するもの
大伯父は、石の積み木を組み合わせることで塔の世界の均衡を保っている。
この姿は、映像や物語を一つずつ積み上げ、一つの世界を作る創作者の姿と重なる。
大伯父は眞人に、悪意に染まっていない13個の石を渡し、自分の世界を継ぐよう求める。しかし、ここで重要なのは「13」という数字の暗号を解くことではない。
13個の石を宮﨑駿の監督作品に対応させる説もあるが、各石が特定の作品を意味するという公式な説明は確認できない。
確実に読み取れるのは、大伯父が先人の理想を、血縁者である眞人へ継承させようとしていることだ。
制作ドキュメンタリーを踏まえた岩波書店の連載では、眞人には宮﨑駿、大伯父には高畑勲、青サギには鈴木敏夫との関係が反映されていると紹介されている。鈴木敏夫と田家秀樹の対談連載を踏まえると、大伯父と眞人の場面は、単なる親族間の継承ではなく、創作者から次世代への継承問題としても読める。
ただし、眞人は先人の世界を壊したいわけではない。
その美しさを認めながらも、自分が同じ世界を維持することは拒否する。
真の継承とは、先人の作品を同じ形で保存することではない。
受け取ったものを抱えながら、自分は別の世界を生きることなのだ。
大伯父の理想世界は、すでに失敗していた
大伯父は悪意のない石を使えば、穏やかで美しい世界を作れると信じている。
しかし塔の世界には、すでに暴力と犠牲が存在している。
ワラワラは上の世界で人間として生まれるため、空へ昇ろうとする。そのワラワラを、ペリカンたちが食べる。
一見すると、ペリカンは罪のない命を奪う悪の存在に見える。
ところが瀕死の老ペリカンは、自分たちもこの世界へ連れてこられ、魚のいない海で生きるためにワラワラを食べるしかなかったことを伝える。
ペリカンは邪悪だからワラワラを襲ったのではない。
そのように生きなければならない環境を作られたのである。
ここに大伯父の世界の矛盾がある。
材料から悪意を取り除いても、限られた食料や立場の違いがあれば、争いと犠牲は生まれる。創造者が善意で作った世界でも、そこに生きる者すべてを幸福にはできない。
大伯父が石の均衡ばかりを見つめる一方、キリコは魚をさばき、ワラワラへ食べ物を与え、死んだペリカンを葬る。
世界を美しく設計することより、目の前の命を食べさせ、死者を悼むこと。
本作は大伯父の壮大な創造よりも、キリコの地道な世話を信頼しているように見える。
インコ大王はなぜ積み木を壊したのか
インコ大王は、塔の世界を破壊する単純な悪役ではない。
彼は大勢のインコを率いる王であり、自分たちが生き続けられる世界を守ろうとしている。大伯父が眞人だけを後継者に選べば、眞人の判断によってインコたちの運命が左右される。
そのためインコ大王は、自ら積み木を積み、世界を維持しようとする。
しかし彼は、複雑で不安定な均衡に耐えられない。
石が思うように積み上がらないと、剣によって一気に解決しようとし、結果として世界全体を崩壊させる。
軍隊のように行進するインコ、旗、王への熱狂は、戦時下の全体主義や軍国主義を連想させる。ただし、インコたちを特定の国家や民族の象徴と断定する必要はない。
重要なのは、インコ大王が「自分なら正しい秩序を即座に作れる」と信じていることだ。
大伯父が理想によって世界を管理し、インコ大王が力によって世界を統一しようとする。
方法は違っても、どちらも一人の意思によって世界全体を完成させようとしている。
眞人だけが、世界を自分の思いどおりに作る立場そのものを拒否したのである。
青サギの正体|なぜ嘘つきが眞人の友人になるのか
青サギが具体的に何という生物や霊なのかは、映画の中で説明されない。
青サギの中には「サギ男」と呼ばれる人間のような存在がいる。しかし、彼の出自や塔との契約関係は明かされていない。
したがって、青サギの正体を死神、母の化身、眞人の分身などの一つに限定する根拠はない。
物語上の役割から考えるなら、青サギは現実と異世界、生と死、真実と嘘の境界を行き来する「トリックスター」である。
彼は母が生きていると嘘をつき、眞人を塔へ誘う。水で作った偽の母親まで見せるため、信頼できる案内役とは言い難い。
それでも、旅を通して眞人と青サギは助け合うようになる。
青サギは最後まで立派な存在にはならない。悪態をつき、都合が悪くなると逃げようとする。
眞人もまた、嘘をつき、怒りや嫉妬を抱える少年である。
二人が友人になれたのは、互いの欠点が消えたからではない。
相手が信用できない部分まで知りながら、必要なときには助け合うことを選んだからだ。
日本語題が観客へ「どう生きるか」と問いかける一方、英語題は『The Boy and the Heron』である。
英語題が強調するのは思想的な問いではなく、少年と青サギの関係だ。
一人で正しい答えへ到達することより、信用しきれない相手と関係を作ること。本作の答えは、タイトルの違いにも表れている。
ヒミの正体|眞人は母を救えなかったのか
ヒミは、若い頃のヒサコ、つまり眞人の実母である。
しかしヒミは「眞人の母親」としてだけ描かれてはいない。
火を操り、豪快にパンを食べ、危険な場所へ自分の意思で飛び込む一人の少女として登場する。
子どもにとって、母親は初めから母親として存在しているように見える。
だが、母親にも子どもだった時代があり、親になる前の人生がある。眞人はヒミとの旅を通じて、母を自分のためだけに存在する人ではなく、一人の他者として知る。
物語の終盤、眞人はヒミが元の時間へ戻れば、やがて火災で命を落とすことを伝える。
それでもヒミは、自分の未来へ帰ることを選ぶ。
ヒミが死を恐れていないのは、母の死が悲劇ではなかったという意味ではない。
その未来には眞人が生まれるからだ。
眞人は母を火災から救えなかったことに苦しみ続けてきた。しかし若き母から、自分の存在を含む未来を選びたいと告げられる。
眞人が受け取ったのは、母を生き返らせる奇跡ではない。
自分は母の人生を奪った存在ではなく、母が未来へ進む理由の一つだったという肯定である。
「火」は母を奪うものから、命を守るものへ変わる
映画の冒頭で、火は眞人から母を奪う。
燃え上がる病院へ向かって走っても、眞人は母を助けられない。この記憶の中で、火は死、恐怖、無力感の象徴である。
ところが異世界で出会うヒミは、火を自在に操る。
ヒミの火は敵を焼くだけでなく、眞人を守り、ワラワラが空へ昇る道を開く。眞人が恐れていた火を、母自身が自分の力として使っているのである。
これは、母の死がなかったことになったという意味ではない。
同じ火の記憶を、死だけに結びつけず、母の強さや生命力とも結び直したのだ。
眞人の傷は消えない。
しかし、その傷を構成する記憶の意味は変えることができる。
ヒミとの出会いは、母を取り戻す物語ではなく、母の記憶を悲劇だけから解放する物語なのである。
夏子はなぜ塔と産屋へ向かったのか
夏子が自ら塔の世界へ向かった理由は、映画の中で明確に説明されない。
そのため「大伯父の血を継ぐ子どもを産むため塔に呼ばれた」「姉の代わりとして生きる重圧から逃げた」「眞人に拒絶された苦しみを抱えていた」など、複数の解釈が成り立つ。
ただし、夏子の妊娠が塔の継承問題と無関係ではない。
大伯父が血縁者へ世界を継がせようとしている以上、夏子のお腹にいる子どももまた、塔の未来と結びつく存在である。
産屋は、新しい命が誕生する場所であると同時に、外部からの侵入を拒む閉ざされた空間として描かれる。
そこで夏子は、眞人へ拒絶の言葉をぶつける。
この言葉を額面どおり「夏子は眞人を憎んでいた」と受け取るだけでは不十分だろう。
夏子は、亡き姉の息子を愛さなければならない。新しい母にならなければならない。自分を受け入れない眞人にも、優しく接しなければならない。
その重圧の下で、愛情だけでなく疲労や怒りが生まれるのは自然なことである。
産屋では、普段は押し込められていた夏子の感情が露出する。
眞人もまた、その怒りを聞いたうえで夏子を母と呼ぶ。
これはヒサコを忘れ、夏子へ置き換えたという意味ではない。
理想的な母親だから受け入れたのでもない。
自分を拒絶する感情まで持つ一人の人間と、それでも家族になろうとしたのである。
眞人は死んだ母を取り戻すため塔へ入ったように見えて、最後には生きている夏子を連れ戻す。
その変化こそ、眞人が喪失の中から現実へ戻り始めた証しである。
キリコは「世界を作る人」ではなく「命を支える人」
若いキリコは、大伯父と対照的な存在として描かれている。
大伯父は、世界全体の均衡を考え、石を積み上げる。
キリコは魚を捕り、解体し、ワラワラを食べさせ、死んだペリカンの墓を作る。
大伯父が扱うのは「世界」という大きな概念だが、キリコが扱うのは、食べなければ死んでしまう具体的な命である。
本作が描く生は、美しいものだけではない。
魚の内臓、ペリカンの死骸、空腹、出産、排泄といった、生き物の身体から切り離せないものが何度も映される。
悪意のない石だけで作られた世界より、食べ、産み、死んでいく身体のある世界。
眞人が戻るのは、後者の世界である。
「どう生きるか」という問いへの答えは、壮大な理想を掲げることだけではない。
目の前の誰かを食べさせ、傷ついた者を世話し、死者を悼むこと。その積み重ねもまた、一つの生き方なのである。
ラストで眞人が大伯父の後継者を拒否した理由
大伯父の提案を受け入れれば、眞人は戦争も学校の暴力も母の死もない世界を作れるかもしれない。
それでも眞人は断る。
その理由は、現実のほうが安全で正しいからではない。
現実には、自分の思いどおりにならない他者がいるからだ。
父・勝一は、眞人の悲しみを十分に理解できない。
夏子は、愛情だけでなく怒りも抱えている。
青サギは嘘をつく。
眞人自身にも悪意がある。
しかし、人間関係は相手の欠点を取り除いてから始まるものではない。
互いに不完全なまま、傷つけた後で、関係を作り直すことができる。
大伯父の世界では、眞人が創造者として全体を支配できる。
現実では、眞人は世界を構成する一人にすぎない。
眞人が選んだのは、世界を上から完成させる立場ではなく、他者と同じ地面に立って生きる立場なのである。
ラストで眞人が持ち帰った石の意味
塔の世界が崩壊した後、眞人は小さな石を持ち帰る。
青サギは、その石に力が残っているため異世界の記憶を保っていられるが、力はやがて消えるという趣旨の説明をする。
この石は、大伯父の世界を再建するための材料ではない。
眞人は後継者になることを拒んだが、塔で経験したことまで否定したわけではない。ヒミ、キリコ、青サギ、大伯父と出会った記憶の欠片を、現実へ持ち帰ったのである。
映画や物語も同じだ。
観客は映画の世界に住み続けることはできない。上映が終われば、問題の残る現実へ戻らなければならない。
それでも、作品から小さな欠片を持ち帰ることはできる。
その欠片が現実の見え方を少し変え、他者への向き合い方を変える。
眞人の石は、物語が現実へ残す記憶そのものだと考えられる。
ラストは夢だったのか
塔の世界を単なる夢と断定する必要はない。
眞人は異世界の石を持ち帰り、若いキリコと結びついた人形も現実へ戻る。夏子も塔で起きたことを経験しているため、すべてが眞人一人の夢だったとは考えにくい。
一方で、塔の世界を現実と同じ物理法則で説明することにも意味はない。
塔は異世界であると同時に、眞人の喪失、宮﨑駿の記憶、創作世界の継承といった複数の意味が重なる場所である。
現実か夢かを決めることより、その旅によって眞人がどう変わったかが重要だ。
塔へ入る前の眞人は、死んだ母の記憶に閉じ込められていた。
塔から戻った眞人は、ヒミを過去へ見送り、夏子を現在の母として受け入れ、未来へ生まれる弟とともに東京へ戻ろうとする。
異世界の記憶が薄れても、そこで選んだ生き方までは消えないのである。
宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫の物語として読む
本作には宮﨑駿自身の人生が反映されている。
岩波書店の連載では、眞人に宮﨑駿、大伯父に高畑勲、青サギに鈴木敏夫が重ねられていることが紹介されている。
この対応を踏まえると、塔の世界はスタジオジブリや宮﨑駿が築いてきたアニメーション世界とも読める。
大伯父=高畑勲は、宮﨑駿にとって師であり、仲間であり、簡単には超えられない存在だった。
青サギ=鈴木敏夫は、宮﨑駿を創作の世界へ導き、ときには挑発し、現実との間を取り持つプロデューサーである。
眞人=宮﨑駿は、先人の世界を受け継ぎながらも、同じ形では継がない。
ただし、登場人物を実在人物へ一対一で置き換えるだけでは、作品を狭くしてしまう。
眞人は宮﨑駿であると同時に、親や師から何かを受け継ぐすべての子どもでもある。
大伯父は高畑勲であると同時に、自分の理想を次世代へ託そうとするすべての創作者でもある。
個人的な記憶から出発しながら、観客自身の継承や別れの物語へ開かれている点に、本作の普遍性がある。
タイトル「君たちはどう生きるか」の意味
本作は、「このように生きなさい」という模範解答を提示しない。
眞人が最後に選んだ現実にも、戦争、嘘、暴力、家族の気まずさは残っている。
それでも、眞人は現実へ戻る。
世界を完璧にすることはできなくても、青サギと友人になることはできる。
母の死を消すことはできなくても、ヒミを一人の人間として見送ることはできる。
理想的な家族を与えてもらえなくても、夏子との関係を作り直すことはできる。
つまり本作の問いは、「正しく生きられるか」ではない。
悪意や矛盾を持つ自分を認めながら、それでも他者と同じ世界で生きられるか。
眞人は言葉ではなく、塔を継がず現実へ戻るという行動によって、その問いへ答えたのである。
『君たちはどう生きるか』の弱点と批評
本作の魅力である多義性は、同時に弱点でもある。
異世界へ入ってからは、キリコ、ワラワラ、ペリカン、ヒミ、インコの王国、大伯父、石の世界と、新しい要素が次々に現れる。しかし、それぞれの規則や関係は十分に説明されない。
特に夏子が塔へ入った理由や、大伯父と石の契約、青サギの出自は曖昧なままだ。
宮﨑駿、高畑勲、鈴木敏夫の関係を知る観客ほど読み取りやすい構造も、作品単体では内輪的に見える可能性がある。
眞人の感情表現が抑えられているため、夏子を母と呼ぶ場面が唐突に感じられる観客もいるだろう。
ただし、この分かりにくさを、すべて説明不足として切り捨てることもできない。
喪失の中にいる子どもにとって、大人の行動や世界の仕組みは、最初から筋道立てて理解できるものではない。
眞人が意味の分からない出来事へ次々と遭遇するように、観客も理解できないものを抱えたまま映画を進む。
本作は、謎をすべて解けば完成するパズルではない。
理解できない他者や世界を、それでも受け入れられるかを観客自身に体験させる映画なのである。
『君たちはどう生きるか』に関するよくある疑問
青サギの正体は何?
具体的な出自は明かされていない。現実と異世界、生と死、真実と嘘の境界を行き来し、眞人を変化へ導くトリックスターと考えられる。制作上は鈴木敏夫との関係も反映されている。
ヒミは眞人の母?
ヒミは若い頃のヒサコであり、眞人の実母である。眞人は母親になる前のヒサコと出会い、彼女を「母」という役割だけではない一人の人間として知る。
夏子はなぜ眞人へ拒絶の言葉をぶつけた?
亡き姉の代わりに母親になろうとする重圧、眞人に受け入れられない苦しさ、妊娠への不安など、抑えていた感情が産屋で表面化したと考えられる。
眞人はなぜ大伯父の後継者にならなかった?
自分にも悪意があると認め、完全な世界を一人で支配することより、不完全な他者と現実を生きることを選んだから。
13個の積み木は宮﨑駿の13作品を意味する?
そのような考察は存在するが、13個すべてが特定の作品へ対応するという公式説明は確認できない。確実なのは、積み木が世界創造と創作の継承を象徴している点である。
ワラワラは何者?
上の世界へ昇り、人間として生まれようとする命である。誕生前の魂や生命の可能性を表す存在と考えられる。
ペリカンは悪者?
単純な悪者ではない。魚のいない世界へ連れてこられ、生きるためにワラワラを食べている。悪意ではなく、過酷な環境によって加害者にされた存在である。
ラストで眞人は異世界の記憶を失った?
青サギは記憶が薄れる可能性を示すが、眞人が経験から得た成長まで消えたとは考えにくい。石の力ではなく、現実での選択として旅の経験が残ったと読める。
まとめ|「どう生きるか」とは、誰と生きるかを選ぶこと
『君たちはどう生きるか』は、母を生き返らせる物語ではない。
眞人はヒミと出会うが、彼女を死ぬ未来から引き止めない。
理想世界を手に入れる物語でもない。
大伯父から後継者に選ばれるが、悪意のない世界を作ることを拒否する。
眞人が手に入れたのは、もっと小さく、不完全なものだ。
嘘つきの青サギとの友情。
怒りを持つ夏子との新しい家族関係。
死者を忘れず、それでも生者と未来へ進む覚悟。
世界全体を正しく作り直すことはできない。
しかし、自分の悪意を認め、目の前の誰かとの関係を選び直すことはできる。
『君たちはどう生きるか』という問いに、映画は一つの正解を与えない。
ただし眞人の選択を通して、こう示している。
「どう生きるか」とは、完璧な自分になる方法ではない。
不完全な自分のまま、誰と同じ世界を生きるかを選ぶことなのである。
あわせて読みたい
異世界から現実へ戻る子どもの成長を比較するなら、『千と千尋の神隠し』考察もあわせて読むと、宮﨑駿作品における「記憶」「名前」「帰還」の違いが見えてくる。

