※この記事には、映画『フッテージ』(2012年製作・2013年日本公開)の結末を含む重大なネタバレがあります。本編の出来事、制作者の発言、それらを踏まえた本記事の解釈を分けて考察します。
家族を守るために、不気味な家から逃げ出す。
ホラー映画では当然に思えるその行動が、『フッテージ』では恐ろしい意味を持ちます。主人公がようやく取材を諦め、家族と暮らしていた家へ戻ったあとで、事件の本当のつながりが明かされるからです。
なぜ、引っ越しても助からなかったのか。映像に現れるブグールとは何者なのか。そして、失踪した子どもたちは何をしていたのでしょうか。
物語の仕掛けを整理すると、本作にはもう一つの悲劇が見えてきます。他人の事件を本にして名声を取り戻そうとした作家が、最後には、自分自身の惨劇を記録される側へ回ってしまうのです。
ラストの結論|一家を殺したのは、ブグールに取り込まれた娘だった
終盤、エリソンは、過去の事件で消えた子どもたちが家族殺害の実行者だったと知ります。しかし、その時点で彼の娘アシュリーも、ブグールの影響下に入っていました。
アシュリーは家族に薬を飲ませ、身動きできなくした父エリソン、母トレイシー、兄トレヴァーを斧で殺害します。その惨劇も映像として記録され、アシュリー自身はブグールに連れ去られます。Wikipedia
一家のうち、子どもが一人だけ消える。
それまで誘拐事件のように見えていた共通点は、家族の中から実行者を生み、その子どもを奪っていく仕組みを示していたのです。
ただし、アシュリーを危険から逃れた生存者と考えることはできません。家族を失い、自身も人間の世界から連れ去られる彼女の結末まで含めて、一家はブグールの支配に取り込まれています。
『フッテージ』の作品情報とあらすじ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 原題 | Sinister |
| 製作年 | 2012年 |
| 日本公開日 | 2013年5月11日 |
| 監督 | スコット・デリクソン |
| 脚本 | スコット・デリクソン、C・ロバート・カーギル |
| 主演 | イーサン・ホーク |
| 主な共演 | ジュリエット・ライランス、ジェームズ・ランソン、クレア・フォーリー |
| 上映時間 | 110分 |
作品情報は映画.comの掲載内容を参照しています。映画.com
エリソン・オズワルトは、かつて成功を収めた犯罪ノンフィクションの作家です。再び注目される本を書くため、妻子には事情を隠したまま、一家殺害事件の現場となった家へ引っ越します。
屋根裏で見つけたのは、映写機と8ミリフィルム。家庭の思い出を収めたような映像には、複数の家族が殺される様子が記録されていました。エリソンは映像を調べ、各地の事件を結びつけようとします。WOWOWオンライン
取材のために入った家で、彼自身の家族にも異変が起こり始める。事件の調査と家庭の崩壊が、並行して進んでいく物語です。
ブグールの正体|映像を入口に、子どもを奪う存在
本編では、子どもの魂を食らう存在として説明される
ジョナス教授は、ブグールを子どもの魂を食らう存在として説明します。子どもたちが呼ぶ「ミスター・ブギー」も、このブグールを指しています。
さらに教授は、ブグールの姿を表した絵や画像が、その領域への入口になるという伝承を紹介します。物語の中では、見ることと、見られている世界へ取り込まれることが結びついているのです。SS
エリソンにとって、フィルムは事件の証拠でした。拡大し、止め、繰り返し見れば、犯人へ近づけると考えます。
しかし、映像がブグールとつながる入口なら、調査を進める行為そのものが危険との接触になります。知ろうとするほど安全になる、という取材者としての感覚が通用しません。
この仕掛けは、観客にも不安を与えます。エリソンと一緒に画面の隅を探し、怪しい姿を見つけようとしていた私たちも、映像から目を離せなくなっているからです。
エリソンは途中でフィルムを焼却しますが、転居先には壊したはずの機材やフィルムが再び現れます。物理的な破壊によってブグールの力を断てたとは示されていません。家を離れることに加え、映像を処分することも、彼が期待した安全をもたらさなかったのです。Wikipedia
現実の神話との関係|ブグールは映画のために作られた
作中の説明には古い宗教や伝承が登場しますが、ブグール自体は映画のために創作された存在です。
脚本家カーギルは、民間伝承や悪魔学の資料を参考にしながら、既存の何かをそのまま借りるのではなく、独自の存在を作ったと説明しています。goseetalk.com
教授が語る由来は、作品世界の中で怪異を理解するための情報です。その点を押さえておくと、現実の神話を調べれば映画の謎がすべて解ける、という読み違いを避けられます。
引っ越しが罠になる理由|過去の事件は住所でつながっていた
副保安官が終盤に突き止めるのは、被害者たちの過去の住所のつながりです。
事件は、一軒の家で繰り返されていたわけではありません。各家族には、前の事件が起きた家に住み、そこから別の家へ転居したあとで殺されている、という共通点がありました。SS
エリソン一家に当てはめると、流れは次のようになります。
- 直前の一家殺害事件が起きた家へ引っ越す。
- そこで不気味な映像や怪異に接触する。
- 家を出て以前の住居へ戻り、過去の被害者と同じ順序をたどってしまう。
エリソンは、危険を家の中にあるものとして考えていました。そこから離れれば、家族を元の生活へ戻せると思ったのでしょう。
ところが、被害の連鎖は住居の移動を含んでいます。帰り着いた家も、すでに物語の外側にある安全地帯ではなくなっていたのです。
この仕掛けが残酷なのは、彼が家族を優先しようと決めたあとで明らかになるところです。取材をやめる決断そのものは理解できる。それでも、事情を知らないまま選んだ避難先が、過去の事件と同じ構図を完成させてしまいます。
引っ越さなければ助かったのか
過去の事件から確認できるのは、転居後に殺害が起きているというパターンです。一方、その家に居続ければ永久に安全だった、とまでは示されません。
子どもへの影響や怪異は、転居する前から始まっています。引っ越しと殺害の関係は重要ですが、それだけで確実な回避方法まで分かったことにはならないでしょう。
本作が観客に与えるのは、正しい脱出手順を見つけた安心感よりも、自分が理解していた危険の範囲が狭すぎたという恐怖です。
8ミリフィルムの伏線|消えた子どもたちは、撮る側にいた
家族の映像を見るとき、私たちは自然に、画面に映っている人へ注意を向けます。
『フッテージ』では、その画面の外側が重要になります。誰がカメラを回しているのか。なぜ家族の一人が映っていないのか。
終盤に現れる追加の映像は、失踪した子どもたちを事件の実行者として示します。これによって、それまで見ていたフィルムの意味が変わります。Wikipedia
子どもが映っていなかったことは、逃げ延びた証拠ではなかった。撮影する側、家族を傷つける側にいたため、画面の中から姿を消していたのです。
ただし、その子どもたちもブグールに取り込まれた存在です。家族を殺害する行為を担わされ、さらに自分も奪われる。被害と加害が一人の子どもに重なるところに、本作の後味の悪さがあります。
息子の夜驚が目立つ一方で、娘の絵も手がかりになっている
トレヴァーの夜驚は、観客の注意を強く引く異変です。激しい様子を見せる彼に、危険の中心があるようにも感じられます。
一方、アシュリーは絵を通して、失踪した少女ステファニーとの接触を示していました。父親が映像を調べているあいだに、娘の側でも、別の形で事件とのつながりが生まれていたのです。SS
ここからは、本記事の解釈です。
大きく目立つ異変に気を取られると、静かに進んでいる変化を見落としてしまう。娘の絵は、一度目には不気味な落書きとして見え、結末を知ったあとには、家族の中へ脅威が入り込んでいた痕跡として見えてきます。
エリソンはなぜ逃げなかったのか|名声を失う恐怖が判断を鈍らせる
エリソンの行動には、観客がもどかしく感じるところがあります。
なぜフィルムを警察へ渡さないのか。なぜ家族の異変が続いても、取材をやめられないのか。
デリクソン監督は、彼には怪異以上に深い恐怖があり、それが地位を失うこと、かつての名声を取り戻せないことへの恐怖だと説明しています。Wrestling with Pop Culture
事件の解明は、エリソンにとって仕事であると同時に、自分の価値を取り戻す機会です。だから新しい手がかりを見つけるたびに、危険から離れる理由と、取材を続ける理由が一緒に増えてしまう。
怖い映像であるほど、誰も知らない重大な発見かもしれない。家族への負担が大きくなるほど、成功によって埋め合わせなければならない。
そう考えると、彼が引き返せなくなる心理が見えてきます。すでに払った犠牲を無駄にしたくないという気持ちが、さらに犠牲を重ねる理由になっているのです。
妻が求めているのは、日々を安心して暮らせる家です。エリソンは将来の成功によってそれをかなえようとしながら、現在の生活を危険にさらしていきます。
彼に家族への愛情がないとは思えません。しかし、家族のためだと信じている目標が、家族の声を聞かない理由へ変わっている。そのずれが、怪異の外側にもある家庭の危機を作っています。
過去のテレビ出演映像と、惨劇のフィルムが重なる
エリソンは、かつて脚光を浴びた自分のテレビ出演映像も見返しています。
監督は、この映像と事件のフィルムを重ねる見せ方が意図的だったと語っています。Wrestling with Pop Culture
本記事では、二つの映像を、彼が現在から離れていく入口として読みます。
過去の自分を見れば、もう一度そこへ戻りたくなる。事件の映像を見れば、それを可能にする本が書けると思ってしまう。
そのどちらに向き合っているときも、目の前の妻子との時間は後回しになります。エリソンを画面へ引き寄せる力には、超自然的なものと、彼自身の願望が重なっているのです。
アシュリーの絵とラストの意味|父親の願いが、最悪の形で返ってくる
アシュリーは絵を描くことを好み、父親もその才能を認めています。序盤には、彼女自身が絵で父のように有名になりたいと考えるやり取りもあります。SS
この何気ない場面を踏まえると、最後に彼女が父を再び有名にするという趣旨の言葉を口にすることは、痛ましい意味を持ちます。
父は犯罪の本を書き、娘は絵を描く。
本来なら、互いの創作を喜び合える関係です。ところが最後には、一家の殺害が撮影され、娘は血で壁を描くことになります。父娘の表現する行為が、ブグールの支配の中で惨劇へ結びついてしまうのです。
ここで読み取れるのは、親の成功願望が子どもにどう届いていたのか、という問題です。
エリソンが求めた再起は、娘にも大切なこととして伝わっていたのでしょう。その願いが、本人の望むはずのない形で実行される。家族のために成功したかった父親が、家族を失う事件によって知られるかもしれないという、恐ろしい反転が生まれます。
もちろん、娘の行動を父親の教育だけで説明することはできません。物語には、子どもを取り込むブグールの力が存在します。
そのうえで本作は、超自然的な支配に、人間の側の願いが利用される恐怖を描いていると考えられます。家族への愛情さえ、歪んだ形で使われてしまうのです。
なぜ8ミリ映像は怖いのか|家族の記録が、家族を奪う映像へ変わる
本作のフィルムは、家族で過ごす時間を撮ったホームムービーのように始まります。
そこには、記録したいほど大切な日常があったはずです。その映像が殺害の記録へ変わることで、失われるものの大きさまで感じさせます。
撮影監督クリス・ノアーによれば、劇中の映像には実際にスーパー8のカメラが使われています。また、本編の暗い画面作りでは、影の中の細部が見えない黒さを重視したと説明しています。slashfilm.com
この二つの質感は、異なる不安を生んでいるように思えます。
ざらついたフィルムには、昔の誰かが残した記録を見つけてしまった感触がある。本編の暗闇には、同じ部屋の中に何がいるか分からない不安がある。
過去の映像と現在の家。その両方が安心できなくなるため、エリソンは映写機を止めても恐怖から離れられません。
さらに、映像を確かめたい気持ちと、次の瞬間を見たくない気持ちがせめぎ合います。観客もまた、恐ろしいものを見る行為を途中でやめにくくなっているのです。
ラストに残る恐怖|事件を語ろうとした作家が、事件の一部になる
エリソンは、他人の惨劇から物語を作ろうとしていました。散らばった証拠を集め、事件を解き明かし、自分の言葉で本にまとめる。それが彼の仕事であり、再起の道でした。
結末では、その関係が逆転します。
自分の家族の死が、別の誰かに発見されるかもしれない映像として残る。彼が調べていた過去の犠牲者たちと同じ位置へ、エリソン自身が置かれてしまうのです。
本記事では、ここに『フッテージ』の最も苦い皮肉を感じます。
他人の悲劇を理解したと思うことと、その悲劇から安全な距離を保てることは別です。エリソンは事件へ近づくほど、自分がどこに立っているのかを見失っていきました。
最後まで残るのは、怪物の姿だけではありません。目の前の家族を守るために、何を手放す必要があったのか。その判断を先延ばしにした時間が、取り戻せないものになっていることへの恐怖です。
同じデリクソン監督の『ブラック・フォン』では、犠牲となった子どもたちの声が、生きている少年の反撃を支えます。子どもたちが惨劇の連鎖へ取り込まれる本作と読み比べると、両作における死者と子どもの役割の違いも見えてきます。
