もし、親族が犯罪を起こしたら。
その人が自分の仕事相手を傷つけていたら。
さらに、自分が事件のきっかけをつくったように見えてしまったら。
何もしていなくても、私たちは「無関係です」と言い切れるのでしょうか。
深田晃司監督の映画『よこがお』は、訪問看護師として働いていた女性が、甥の起こした誘拐事件をきっかけに、社会から「加害者の仲間」として扱われていく物語です。
しかし、この映画が描いているのは、無実の女性が一方的に傷つけられる悲劇だけではありません。
市子を裏切った基子にも、彼女自身の孤独があります。
市子が復讐のために近づく和道も、事情を知らないまま利用されます。
そして市子自身もまた、傷つけられた側でありながら、誰かを傷つける側へ足を踏み入れていきます。
では、市子はなぜ「リサ」と名乗ったのでしょうか。
基子はなぜ、あれほど慕っていた市子を裏切ったのでしょうか。
ラストの長いクラクションは、何を意味していたのでしょうか。
結論からいえば、『よこがお』とは、人は誰かの一面しか見ることができず、その見えない部分を勝手な物語で埋めたとき、容易に他人の人生を壊してしまうという映画です。
※この記事には、映画『よこがお』の結末を含む重大なネタバレがあります。
- 映画『よこがお』の作品情報
- 『よこがお』のあらすじと時系列を整理
- 市子とリサは同一人物なのか
- サキを誘拐した辰男の事件に、市子は関わっていたのか
- 基子はなぜ市子を裏切ったのか
- 動物園の会話が決定的だった理由
- 市子はなぜ「無実の加害者」になったのか
- 被害者支援団体の場面が示す社会の境界線
- 市子はなぜ和道に近づいたのか
- 市子の復讐はなぜ失敗したのか
- 公園に現れた基子は本物だったのか
- 市子が犬のようになる場面の意味
- 湖へ入っていく場面と緑色の髪の意味
- 4年後、市子はなぜ辰男を引き取ったのか
- ラストで市子は基子をひき殺したのか
- ラストのクラクションは何を意味するのか
- 横断歩道の音が過去とラストをつないでいる
- ラストのサイドミラーに映る市子の横顔
- タイトル『よこがお』の意味
- 英題『A Girl Missing』が示す、もう一人の「いなくなった人」
- 『よこがお』は実話? 原作小説との違いは?
- 『淵に立つ』との共通点
- まとめ|市子のクラクションは、誰にも届かなかった声
映画『よこがお』の作品情報
『よこがお』は、2019年7月26日に公開された日本・フランス合作映画です。
- 公開日:2019年7月26日
- 上映時間:111分
- 監督・脚本:深田晃司
- 原案:Kaz
- 音楽:小野川浩幸
- 配給:KADOKAWA
- 英題:A Girl Missing
- 白川市子/リサ:筒井真理子
- 大石基子:市川実日子
- 米田和道:池松壮亮
- 鈴木辰男:須藤蓮
- 大石サキ:小川未祐
- 戸塚健二:吹越満
監督は『淵に立つ』『LOVE LIFE』などの深田晃司。
日本映画データベースでは、本作を「無実の加害者」という主題に取り組んだ作品として紹介しています。また、第72回ロカルノ国際映画祭の国際コンペティション部門にも出品されました。JFDB『よこがお』作品情報
『よこがお』のあらすじと時系列を整理
本作は、市子の過去と現在を交互に描くため、最初は物語の順番が分かりにくくなっています。
大きく分けると、時間軸は三つです。
- 訪問看護師として働いていた事件前後の市子。
- 約半年後、リサと名乗って和道に接近する市子。
- さらに4年後、出所した辰男を迎える市子。
この「過去」「現在」「4年後」という構成は、作品のプロダクションノートでも確認できます。『よこがお』ロケ地・作品情報
事件前の市子は、訪問看護師として周囲から信頼されていました。
特に大石家との関係は深く、高齢の塔子を看護するだけでなく、長女の基子に介護福祉士になるための勉強も教えています。
基子の妹・サキとも親しく、医師の戸塚との結婚も控えていました。
しかし、ある日、サキが行方不明になります。
約1週間後にサキは保護されますが、逮捕された犯人は市子の甥・辰男でした。
さらに辰男は、事件直前に市子を通じてサキと接触していました。
基子は、市子が犯人の親族であることを家族に隠すよう勧めます。
ところが、市子に婚約者がいると知ったことで、基子の感情は次第に変化。二人だけの秘密だった情報が報道され、市子は事件に関与した人物のように扱われるようになります。
職場、住居、婚約者。
市子は、それまで築いてきた生活を次々に失います。
その後、彼女は「リサ」と名乗り、基子の恋人だった美容師・和道に接近します。
目的は、自分の人生を壊した基子への復讐でした。
市子とリサは同一人物なのか
結論からいえば、白川市子とリサは同一人物です。
リサは、市子が和道へ近づくために使った偽名です。
ただし、『よこがお』における「市子」と「リサ」の違いは、単なる名前や髪型の変化ではありません。
事件前の市子は、他人を助ける訪問看護師でした。
仕事に誇りを持ち、周囲から頼られ、婚約者との生活を思い描いていた女性です。
一方のリサは、他人に見られない場所から和道の部屋を観察し、偶然を装って近づき、相手の好意を利用します。
同じ人間でありながら、二人はほとんど別人のように見えます。
しかし、重要なのは、リサが突然生まれた異常な人格ではないことです。
彼女は、市子が失ったものの上に立っている存在です。
信頼されていた市子と、復讐を企てるリサ。
どちらかが本物で、どちらかが偽物なのではありません。
どちらも同じ人間の一面です。
東京国際映画祭で深田監督は、観客が一瞬別人かと思うほどの落差を意識しながらも、過去と現在の市子は地続きの存在として描いたと説明しています。東京国際映画祭『よこがお』上映後トーク
サキを誘拐した辰男の事件に、市子は関わっていたのか
サキを誘拐したのは、市子の甥である鈴木辰男です。
しかし、市子が誘拐を計画したり、辰男を手助けしたりした事実は示されていません。
市子は事件前、喫茶店で辰男とサキを偶然引き合わせています。
その出来事が結果として接点になった可能性はありますが、市子が辰男の犯行を予測していたわけではありません。
したがって、事件そのものについて、市子を共犯者とみなすことはできません。
それでも、市子には苦しい問題が残ります。
犯人が甥だと知ったあと、その事実を大石家へすぐには伝えなかったことです。
しかも、被害者家族のそばで看護を続けていました。
被害者の家族から見れば、「なぜ黙っていたのか」と問いたくなるのは自然でしょう。
ただし、説明しなかったことへの不信感と、誘拐への関与は別の問題です。
この二つが混同されたとき、市子は「隠していた人」から「事件に関わった人」へ変えられてしまいます。
『よこがお』が描く恐怖は、まさにその飛躍にあります。
事実は、犯人が市子の甥だったこと。
想像は、市子も事件を知っていたのではないかという疑い。
断罪は、市子が事件の共犯者だったに違いないという決めつけです。
この三段階がほとんど区別されないまま、彼女の人生は壊れていきます。
基子はなぜ市子を裏切ったのか
基子の裏切りを理解するためには、彼女が市子へ抱いていた感情を見る必要があります。
基子にとって市子は、単に勉強を教えてくれる親切な看護師ではありませんでした。
家族のなかで十分に理解されていないと感じていた基子にとって、市子は自分を気にかけ、話を聞き、将来を肯定してくれる特別な存在でした。
だからこそ、基子は市子を独占したいという感情を強めていきます。
サキの誘拐事件が起こったとき、基子が市子の秘密を守ろうとしたのも、その関係を失いたくなかったからです。
普通に考えれば、妹を誘拐した犯人の親族が家に出入りしていたと知れば、怒りや不信感を抱くでしょう。
しかし基子は、家族へ打ち明けないよう市子に勧めます。
二人だけが共有する秘密が、むしろ親密さの証明になっていたからです。
ところが、市子には婚約者がいました。
市子は自分の人生を歩み、戸塚と結婚しようとしています。
基子にとって、それは市子との特別な関係が一方的な思い込みだったと突きつけられる瞬間でした。
さらに同居を提案しても断られたことで、基子の中では「自分を選んでくれなかった」という痛みが膨らんでいきます。
その結果、守るはずだった秘密を、今度は市子を傷つける武器として使ってしまいます。
ただし、基子の行為を「同性への恋愛感情があったから危険だった」と読むべきではありません。
問題は感情の向き先ではなく、相手が自分の期待どおりに振る舞わなかったことを、裏切りとして扱ってしまった点にあります。
愛情があったから傷つけたのではありません。
愛情を理由に、相手の人生を自分のものとして考えてしまったのです。
動物園の会話が決定的だった理由
市子と基子が動物園を訪れる場面は、作品全体を理解するうえで重要です。
二人は、他人には話しにくい個人的な記憶を打ち明けます。
基子にとって、この時間は単なる外出ではありません。
自分と市子だけが共有する、親密な時間です。
しかし、市子は基子の感情の深さに気づいていません。
そのため、市子にとっては親しい相手との雑談でも、基子にとっては強い意味を持つ秘密の交換になります。
ここで市子が話した、幼い辰男の身体に関する過去の出来事は、後に別の意味へ変換されます。
もちろん、子どもの身体的な境界を軽く扱う行為には、倫理的な問題があり得ます。
一方、その話だけで市子が誘拐に関わったことや、辰男の犯罪を引き起こしたことまで証明されるわけではありません。
しかし、断片的な情報は、刺激的な物語に組み替えられやすい。
打ち明けた側にとっては説明を必要とする過去でも、受け取った側が別の文脈で切り取れば、まったく違う人物像ができあがります。
信頼して話したことが、後から自分を傷つける材料になる。
この動物園の場面には、『よこがお』の恐ろしさが凝縮されています。
市子はなぜ「無実の加害者」になったのか
市子は、辰男の事件について加害者ではありません。
しかし、事件と関係のない被害者としても扱われません。
彼女が置かれたのは、そのどちらにも収まりきらない場所です。
甥が事件を起こした。
事件前に、甥と被害者を引き合わせた。
その関係を、すぐには公表しなかった。
以上の事実だけを並べると、疑わしく見えるかもしれません。
けれども、その疑わしさと犯罪への関与は同じではありません。
市子が失ったのは、法的な無実だけで回復できるものではありませんでした。
職場の信頼。
結婚の予定。
住み慣れた家。
他人から普通に接してもらえる感覚。
誰も彼女に正式な刑罰を与えていないのに、社会はすでに彼女を処罰しています。
深田監督は、親しい人の犯罪に巻き込まれる状況を描いたのは、直接的な犯罪者よりも多くの人にとって身近な問題として考えられるからだと話しています。深田晃司監督インタビュー|nippon.com
『よこがお』の市子は、特別な人ではありません。
ある日突然、誰にでも起こり得る立場へ落とされた人物なのです。
被害者支援団体の場面が示す社会の境界線
追い詰められた市子は、被害者を支援する団体へ相談に向かいます。
しかし、彼女はそこで十分な支援を受けられません。
団体が扱うのは、犯罪被害者の支援だからです。
辰男の親族である市子は、制度上「加害者側」に分類されます。
この場面は、被害者支援そのものを否定するものではありません。
実際に被害を受けた人を守るための窓口が必要なのは当然です。
問題は、現実の人間が制度の区分どおりに分かれているとは限らないことです。
市子は辰男の親族ですが、報道や嫌がらせによって生活を壊された当事者でもあります。
サキの被害が本物であることと、市子の苦しみが存在することは両立します。
ところが、社会が「加害者側」と「被害者側」という二つの箱しか用意していなければ、そのあいだにいる人はどちらからも助けを得られません。
市子の孤独は、彼女の性格だけから生まれたものではありません。
その孤独を受け止める場所が、最初から用意されていなかったのです。
市子はなぜ和道に近づいたのか
市子がリサと名乗って近づいた米田和道は、基子と交際していた美容師です。
市子が彼を選んだ理由は、和道本人を憎んでいたからではありません。
基子が大切にしている相手を奪えば、基子に自分と同じ苦しみを味わわせられると考えたからです。
市子は和道の職場へ行き、彼を指名します。
偶然を装って再会し、距離を縮め、やがて肉体関係を結びます。
そして、和道の携帯電話を使って基子へ画像を送ります。
自分の恋人が、かつて自分が傷つけた女性と関係を持っている。
それを知った基子が絶望することを、市子は期待したのでしょう。
しかし、この行為によって、市子は自分を傷つけた人々と似た構図に入り込みます。
基子は、市子の秘密を切り取って他人へ渡しました。
市子は、和道との私的な場面を画像にして基子へ送りました。
どちらも、個人的な情報を他者への攻撃に使っています。
もちろん、二人が受けた被害や行為の重さを、単純に同列に並べることはできません。
それでも、傷つけられた人が傷つける方法を覚えてしまうという意味で、市子の復讐は悲劇の連鎖なのです。
市子の復讐はなぜ失敗したのか
市子の復讐が成立しなかった直接的な理由は、和道と基子が、すでに別れていたからです。
市子は、基子の大切な恋人を奪ったつもりでした。
ところが、その関係はすでに終わっていました。
つまり、市子は過去の基子を想像して、その過去に向けて復讐していたことになります。
ここにも『よこがお』という作品の皮肉があります。
市子は、報道によって自分の一面だけを見られ、人生を壊されました。
しかし、復讐するときの市子もまた、基子の現在を十分に見ていませんでした。
基子が何を考え、誰を求め、どのように生きているのか。
その見えない部分を、「恋人を奪われれば傷つくはずだ」という分かりやすい物語で埋めていたのです。
しかも、基子が本当に強い感情を向けていた相手は、和道ではなく、市子だった可能性があります。
だとすれば、市子が基子を傷つけようとする計画は、最初から相手の感情を見誤っていました。
深田監督は、市子にとって復讐そのものを成し遂げることが重要だったのではなく、すべてを失ったあとに人生を進めるため、復讐という形へ一時的にすがったのだと説明しています。そして、その試みは空回りするように作られています。深田晃司監督インタビュー|Fan’s Voice
この復讐は、市子を救いません。
それでも、彼女が立ち止まったままではいられなかったことを示しています。
公園に現れた基子は本物だったのか
復讐のあと、市子が公園で基子を見かける場面があります。
市子は感情を抑えきれず、基子へ近づいていきます。
ところが、その場にいたはずの基子は姿を消します。
この基子は、実際に公園へ来ていた本人ではありません。
深田監督はインタビューで、公園に現れた基子は市子の想像のなかの存在であり、現実にはその場にいないと説明しています。深田晃司監督インタビュー|cinefil
重要なのは、映画がこの想像を、分かりやすい夢として演出していないことです。
画面上では、現実の場面とほとんど同じように描かれます。
それは、市子にとって基子が、すでに外側の人間ではなくなっているからでしょう。
会っていなくても、基子は市子の生活に現れます。
何かを言われなくても、責められているように感じます。
復讐を終えても、心の中から消えてくれません。
市子が本当に戦っているのは、目の前の基子だけではありません。
自分の中に住みついてしまった基子の存在なのです。
市子が犬のようになる場面の意味
本作には、市子が犬のように四つんばいになる、強烈な場面があります。
現実的な人間ドラマの中に突然入り込むため、戸惑った人も多いでしょう。
この場面について深田監督は、夢の場面であることを明かしています。
監督の説明によれば、市子は事件によって仕事、立場、信用といった社会的な属性を次々にはぎ取られていきます。その結果、人間の社会性が失われ、動物的な部分がむき出しになる感覚が、この表現につながっています。東京国際映画祭『よこがお』イベントレポート
ここで描かれているのは、「市子が犬になった」という文字どおりの出来事ではありません。
看護師としての顔。
婚約者としての顔。
信頼される大人としての顔。
それらを奪われたあとに残る、言葉にならない衝動です。
怒りを説明することもできない。
悲しみを誰かに受け止めてもらうこともできない。
それでも、生きている身体だけは残る。
犬のような姿は、市子が理性を完全に失った証拠というより、社会から押し出された人間の極端な孤独を視覚化したものと考えられます。
湖へ入っていく場面と緑色の髪の意味
終盤には、市子が緑色の髪で水辺へ向かう印象的な場面があります。
この場所は海ではなく、湖です。ロケ地に関する作品資料では、山梨県の本栖湖で撮影されたと紹介されています。『よこがお』ロケ地・プロダクションノート
この場面について、市子がそのまま亡くなったと解釈する必要はありません。
その後、4年後の時間軸で、彼女は辰男を迎えに行き、車を運転しています。
したがって、入水の映像をそのまま「市子の死」と断定することはできません。
では、あの場面は何を示しているのでしょうか。
考えられるのは、事件前の市子にも、復讐に執着したリサにも戻れない状態です。
黒髪の訪問看護師だった市子。
髪色を変え、別人のように振る舞ったリサ。
そのどちらにも収まりきらない姿として、緑色の髪の市子が現れます。
湖は、社会的な役割や他人の視線が届かない場所にも見えます。
彼女はそこで一度、誰かに説明できる人物像から離れようとしたのかもしれません。
ただし、深田監督は、水というモチーフに決まった象徴的意味を与えているわけではなく、動き続ける被写体としての魅力を重視しているとも説明しています。深田晃司監督インタビュー|cinefil
そのため、「湖は再生の象徴」「緑は必ず希望を意味する」と断定するよりも、市子の感情を一つの言葉へ固定できない場面として受け取るほうが、本作にはふさわしいでしょう。
4年後、市子はなぜ辰男を引き取ったのか
物語の終盤、市子は刑務所を出た辰男を迎えに行きます。
辰男の事件がなければ、市子の人生は壊れなかったかもしれません。
それにもかかわらず、彼女は辰男を見捨てません。
ここには、『よこがお』が描く人間関係の複雑さがあります。
辰男は、サキを傷つけた加害者です。
その事実は消えません。
しかし、刑期を終えたあとも、社会の外へ追い出し続ければよいのかという問いも残ります。
市子は、犯人の親族というだけで、どこにも居場所を与えられませんでした。
その経験があるからこそ、辰男を再び完全な孤立へ放り出すことができなかったとも考えられます。
ただし、それは辰男の罪を許したという意味ではありません。
サキの受けた傷も、失われた時間も、謝罪だけで消えるものではありません。
市子自身も、そのことを理解しています。
だから彼女の選択は、「家族だから許す」という単純な和解ではありません。
取り返しのつかないことを起こした人間と、それでもこれから生きていかなければならない。
その厄介な現実を引き受ける行為なのです。
ラストで市子は基子をひき殺したのか
ラストで、市子は辰男を乗せて車を運転しています。
二人は、かつて大石家が暮らしていた家を訪れますが、すでに家は空になっています。
そして帰り道、交差点で市子は思いがけず基子を見つけます。
基子は介護の仕事に就き、高齢者に付き添っていました。
かつて市子に勉強を教わり、彼女のようになりたいと願っていた基子が、実際にその道へ進んでいたのです。
横断歩道で基子が立ち止まったとき、市子はアクセルを踏むように見えます。
この瞬間、観客は「市子が基子を車ではねるのではないか」と感じます。
しかし、実際には市子は基子をひき殺していません。
車が基子へ向かって進むように見える部分には、市子の衝動や想像が重ねられています。
現実の市子は踏みとどまり、基子は横断歩道を渡り切ります。
本作の結末は、市子が復讐を完成させる場面ではありません。
復讐を実行できる状況が訪れたとき、それでも実行しなかった場面です。
ラストのクラクションは何を意味するのか
基子が横断歩道を渡り終えたあと、市子は長いクラクションを鳴らします。
この音は、単なる警告ではありません。
市子が最後まで言葉にできなかった感情そのものです。
なぜ自分だけが、こんな目に遭ったのか。
なぜ基子は、何事もなかったように働いているのか。
なぜ自分は、傷つけられた過去を抱えたまま生きなければならないのか。
なぜ相手を許すことも、完全に憎みきることもできないのか。
そのどれも、きれいな文章にはできません。
もし市子が車をぶつければ、彼女は今度こそ明確な加害者になります。
反対に何もせず通り過ぎれば、抱えてきた怒りが存在しなかったことになるようにも感じられます。
クラクションは、その二つのあいだにある行為です。
相手を殺さない。
しかし、黙ってもいない。
市子は、言葉にも暴力にも置き換えきれない感情を、音として外へ出します。
深田監督は、映画のラストを決めた理由について、市子の感情を台詞ではなく「音」で表現する発想があったと説明しています。深田晃司監督インタビュー|Fan’s Voice
あのクラクションは、基子への抗議であり、自分自身への警告でもあります。
そして同時に、社会から発言の場所を奪われた市子が、ようやく出せた声でもあるのです。
横断歩道の音が過去とラストをつないでいる
ラストの交差点には、もう一つ重要な意味があります。
それは、市子と基子が動物園へ行った帰り道にも、横断歩道が登場していたことです。
あのとき、二人は同じ道を歩いていました。
しかし、信号が変わりそうになった瞬間、基子と市子は同じタイミングで渡れません。
二人の関係がずれていくことを示すように、横断歩道が境界線として置かれています。
そして最後には、再び横断歩道が二人のあいだに現れます。
以前は同じ方向を向いていた二人。
今度は車の内側と道路の外側に分かれています。
基子は、自分が市子に見られていることを十分には理解していません。
市子は、基子を見ています。
しかし、直接言葉を交わすことはありません。
過去の記憶と現在の怒りが、横断歩道の音によって結びつく。
その結果、市子は一瞬、過去を破壊するために現在の基子を傷つけようとします。
それでも、最後にはアクセルを踏まない。
二人の関係は修復されませんが、悲劇の連鎖だけは、その瞬間に止まります。
ラストのサイドミラーに映る市子の横顔
クラクションのあと、市子は車を走らせます。
最後に映し出されるのは、サイドミラーに映った彼女の横顔です。
市子は笑っていません。
怒りが消えたわけでもありません。
基子を許せたと確認できる場面もありません。
それでも車は進みます。
この結末を「市子はすべてを乗り越えた」と受け取るのは早いでしょう。
彼女は元の生活へ戻っていません。
失った仕事や人間関係も、取り戻せていません。
ただ、復讐のために立ち止まり続けることからは、わずかに離れています。
重要なのは、正面から彼女の表情を見せないことです。
サイドミラーに映る横顔からは、市子が何を考えているのか完全には分かりません。
観客にもまた、彼女のすべては見えないのです。
だからこそ、最後の横顔は問いかけます。
この人を「かわいそうな被害者」と決めつけるのか。
「危険な復讐者」と決めつけるのか。
それとも、そのどちらにも収まりきらない一人の人間として見ようとするのか。
映画の最後まで、市子の正体は一つに確定しません。
タイトル『よこがお』の意味
「よこがお」という言葉には、分かりやすい特徴があります。
片側は見えている。
しかし、反対側は見えない。
誰かの横顔を見ているとき、私たちはその人を確かに見ています。
それでも、見えているのは、その人の一部にすぎません。
深田監督は、タイトルの出発点が筒井真理子の横顔だったことに加え、一度には見られない人間の多面性を表現するために、この構成を選んだと語っています。深田晃司監督インタビュー|ムビコレ
市子は、優しい訪問看護師です。
同時に、秘密を抱え、相手の気持ちを見落とし、復讐のために人を利用する女性でもあります。
基子は、市子を大切に思っていました。
同時に、彼女の人生を壊す情報を外へ漏らしました。
和道は、事情を知らずに利用されます。
しかし、彼もまた、市子について何も知らないまま、目の前に見える一面だけを信じています。
誰もが、相手の全体を見ているつもりです。
しかし実際には、それぞれの立場から見える「よこがお」しか見ていません。
この映画のタイトルは、人間には裏の顔があるという単純な意味ではありません。
もっと根本的に、他人のすべてを見通すことはできないという事実を示しています。
英題『A Girl Missing』が示す、もう一人の「いなくなった人」
『よこがお』の英題は『A Girl Missing』です。
直訳すれば、「いなくなった少女」といった意味になります。
まず思い浮かぶのは、誘拐されたサキでしょう。
彼女の失踪が、物語全体のきっかけになっています。
しかし、サキは保護されます。
事件そのものは、少なくとも行方不明という状態からは終わります。
それでも、物語は終わりません。
なぜなら、本当に失われていくのは、事件前の市子だからです。
訪問看護師として信頼されていた市子。
婚約者と新しい家庭をつくろうとしていた市子。
他人を助けることに、自分の居場所を見いだしていた市子。
その女性は、事件のあとに少しずつ消えていきます。
基子にとっても、かつて自分を肯定してくれた市子は、もう戻ってきません。
日本語の『よこがお』は、見えているものの不完全さを示します。
英題の『A Girl Missing』は、事件をきっかけに失われていく人間の姿へ目を向けさせます。
両方を合わせて考えると、本作は「少女が消えた事件」だけでなく、誰かの一面だけを見続けた結果、一人の人間そのものが社会から消えていく物語として見えてきます。
『よこがお』は実話? 原作小説との違いは?
『よこがお』について、特定の実在事件を映画化したと示す公式情報は確認できません。
JFDBでは、深田晃司監督のオリジナル脚本による作品として紹介されています。JFDB『よこがお』
一方で、深田監督自身が執筆した同名の小説は存在します。
KADOKAWAによると、小説『よこがお』の発売日は2019年7月19日。映画公開の1週間前です。KADOKAWA『よこがお』書籍情報
書籍は「原作小説」として案内されていますが、一般的な「先に存在した他人の小説を映画化した作品」とは少し事情が異なります。
映画の脚本を手がけた深田監督が、自ら同じ物語を小説としても構築した作品です。
しかも、映画と小説の結末は同じではありません。
監督は、小説では市子と基子の心情を行き来しながら、映画とは異なるラストを描いたと説明しています。映画『よこがお』小説版に関する監督コメント
映画が音、視線、沈黙によって感情を残すのに対し、小説は人物の内面を別の形で描きます。
どちらかが正解なのではなく、同じ人物たちを違う方向から見るための、もう一つの「よこがお」だといえるでしょう。
『淵に立つ』との共通点
『よこがお』は、『淵に立つ』と同じ深田晃司監督が、再び筒井真理子を迎えて制作した作品です。
どちらにも共通するのは、平穏に見える日常が、ある出来事をきっかけに取り返しのつかない形へ変わることです。
『淵に立つ』では、家族の外から現れた男によって、家庭が隠していた過去や罪悪感が露出します。
『よこがお』では、甥の犯罪をきっかけに、市子と基子の関係、報道の暴力、支援制度の限界が露わになります。
また、どちらの作品でも、水辺や説明しきれないラストが重要な役割を担います。
ただし、『淵に立つ』が家族全体の崩壊を描く作品だとすれば、『よこがお』は、崩壊したあとも一人の人間が生き続けなければならない時間を追いかける作品です。
事件は終わっても、その人の生活は終わりません。
加害者と被害者を分類しただけでは、傷ついた人間のその後は説明できません。
『よこがお』は、その「事件後の人生」に視線を向けています。
関連記事:映画『淵に立つ』ネタバレ考察|八坂は蛍に何をした?ラストの生死とタイトルの意味
まとめ|市子のクラクションは、誰にも届かなかった声
『よこがお』の市子は、完全な被害者ではありません。
かといって、事件の加害者でもありません。
彼女は人を助けることができる一方で、相手の気持ちを見落とし、追い詰められれば誰かを利用してしまう、ごく普通の人間です。
基子もまた、最初から冷酷な人物だったわけではありません。
市子を大切に思いながら、その感情を適切に扱えず、結果として相手の人生を壊しました。
本作が描くのは、悪人が善人を傷つけるという単純な構図ではありません。
見えているものだけで相手を理解したつもりになった人々が、少しずつ誰かを追い詰めていく過程です。
市子は、基子をひき殺しません。
けれども、許したとも言いません。
ただ、長いクラクションを鳴らします。
それは、正しさを証明する言葉ではありません。
問題を解決する言葉でもありません。
それでも、自分の痛みがなかったことにはさせないという、精いっぱいの意思表示です。
人は他人のすべてを見ることができません。
見えるのは、いつも片側だけです。
だからこそ必要なのは、見えない部分まで知ったつもりにならないことなのかもしれません。
市子の横顔が映ったまま、車は前へ進んでいきます。
彼女が救われたかどうかは分かりません。
それでも、彼女の人生は、他人が勝手に決めた「加害者」の物語だけで終わるわけではないのです。
