映画『許された子どもたち』考察|絆星は本当に許された?実話・母の愛・ラストの意味

同級生をいじめ、殺してしまった少年がいる。

しかし少年は裁かれなかった。

母親は息子の無実を訴え、家庭裁判所は不処分を決定する。法律のうえでは事件に区切りがついたように見える。

それでも、亡くなった少年は帰ってこない。

遺族の悲しみも消えない。

そして加害者である少年もまた、自分がしたことから逃れられない。

映画『許された子どもたち』が突きつけるのは、「少年犯罪を厳しく罰するべきか」という単純な問題ではありません。

罪を犯した子どもが、自分の過ちと向き合えないまま大人になるとき、何が起きるのか。

親が子どもを守ることと、罪を見えなくすることは、どこで入れ替わってしまうのか。

この記事では、市川絆星が犯した事件、母・真理の行動、桃子や緑夢の役割、実話との関係、ラストの「再生」とたばこの意味を考察します。

※以下、映画『許された子どもたち』の結末を含む重大なネタバレがあります。

映画『許された子どもたち』の作品情報

『許された子どもたち』は、2020年6月1日に公開された日本映画です。

監督は『先生を流産させる会』『ミスミソウ』などを手がけた内藤瑛亮。

主な出演者は以下のとおりです。

  • 市川絆星:上村侑
  • 市川真理:黒岩よし
  • 櫻井桃子:名倉雪乃
  • 倉持樹:阿部匠晟
  • 井上緑夢:住川龍珠

上映時間は131分。実際に発生した複数の少年事件から着想を得たオリジナル作品です。JFDB作品情報

物語の中心にいるのは、中学一年生の市川絆星です。

絆星は仲間たちと同級生の倉持樹をいじめていました。

ある日、そのいじめが河川敷で取り返しのつかない事件へ発展します。

樹は死亡し、絆星たちは警察に事情を聞かれる。

しかし絆星は母親の説得によって、それまで認めていた犯行を否認。少年審判では不処分という決定が下されます。

問題は、そのあとです。

罪を問われなかったことで、絆星は自由を手にしたように見える。

けれども実際には、そこから別の地獄が始まっていきます。

『許された子どもたち』は実話なのか

結論からいえば、『許された子どもたち』は実話をそのまま映画化した作品ではありません。

映画公式サイトでは、実際に発生した複数の少年事件に着想を得たオリジナル作品として紹介されています。映画『許された子どもたち』公式サイト

内藤瑛亮監督は、作品の根幹に1993年の山形マット死事件があると説明しています。

さらに、河川敷を事件現場にした設定や、SNS上での情報拡散などには、その後に起きた複数の少年事件や現代の社会状況も反映されています。内藤瑛亮監督インタビュー

ただし、映画の登場人物や事件の具体的な展開を、そのまま実際の事件と結びつけるべきではありません。

市川絆星や母・真理は、現実の特定人物を直接再現した存在ではないからです。

本作が描こうとしているのは、一つの事件の真相を断定することではありません。

子どもが罪を犯したとき、家族や学校、司法、ネット上の人々がどのような反応をするのか。

そして、その反応が少年のその後をどう変えてしまうのか。

複数の出来事から見えてきた問題を、一つの物語に凝縮しているのです。

絆星はなぜ樹を殺したのか

絆星が樹を殺した理由は、金銭トラブルや明確な恨みではありません。

だからこそ、事件は不気味です。

樹は絆星たちのグループの中で、逆らいにくい立場に置かれていました。

呼び出され、からかわれ、仲間として扱われているようで、実際には一方的に支配されている。

表面上は「友達同士の遊び」に見える関係でも、力関係は対等ではありません。

事件当日、絆星が最初に矢を向けようとした相手は、グループ内で立場の弱かった緑夢でした。

そこで樹が緑夢をかばいます。

樹にとっては、目の前の相手を守ろうとする行動だったのでしょう。

しかし絆星にとっては、自分の支配に対する反抗として映った。

それまで従っていた相手が逆らう。

自分が決めていた上下関係が崩れる。

絆星は、その状況を受け止める言葉を持っていません。

その結果、暴力で支配を取り戻そうとし、樹を撃ってしまいます。

後に絆星は、樹を殺した理由について、もうよく覚えていないようなことを話します。

しかし、それは理由が存在しなかったという意味ではないでしょう。

自分が何に怒り、なぜ引き返せなかったのかを、本人が言葉にできていないのです。

絆星もかつてはいじめられる側だった

本作が単純な勧善懲悪にならないのは、絆星自身にもいじめを受けた過去があるからです。

かつて傷つけられた少年が、別の少年を傷つける側へ移っている。

ここで注意したいのは、過去の被害が現在の加害を正当化するわけではないということです。

いじめられた経験があるから、樹を殺しても仕方がない。

そんな話ではありません。

むしろ作品が描いているのは、傷ついた経験が、必ずしも他人への思いやりに変わるとは限らないことです。

自分が弱い立場だった。

だからこそ、二度と弱い側には戻りたくない。

その恐怖が、誰かを支配することで安心しようとする行動につながる場合もある。

絆星の父親は、いじめを経験した息子が他人を傷つけるはずはないと考えます。

しかしその見方は、「被害者だった人間は加害者にならない」という思い込みにすぎません。

本作では、被害者と加害者は永遠に固定された別々の種類の人間ではありません。

立場や環境によって、人はその境界を越えてしまう。

その現実を見ないことが、絆星の行動を理解する機会を失わせています。

なぜ絆星は犯行を否認したのか

絆星は当初、自分が樹を殺したことを認めています。

しかし母・真理が現れると、その態度は変化します。

真理は息子の無実を信じようとし、事件への関与を否定するよう働きかけます。

絆星にとって母親は、世界で最も強く自分を守ってくれる存在です。

その母親が「あなたはやっていない」という方向へ進む以上、真実を認めることは、母親を裏切ることにもなってしまう。

ここで絆星は二つの現実の間に挟まれます。

一つは、自分が樹を殺したという現実。

もう一つは、母親が望んでいる「息子は無実」という現実です。

本来であれば、親が子どもの罪を認め、これからどう償うべきかを一緒に考える必要があります。

しかし真理は、その前段階で立ち止まってしまう。

絆星を守るためには、絆星が加害者ではないことにしなければならない。

そう考えた瞬間、母親の愛は、子どもが真実を話すことを妨げる力に変わります。

「不処分」は現実の少年司法でも無罪を意味するのか

映画では、絆星に不処分という決定が下されます。

作品公式の説明でも、物語上は「無罪に相当する不処分」と紹介されています。

ただし、現実の少年司法について「不処分とは常に無罪」「家庭裁判所は何もしない」と理解するのは正確ではありません。

裁判所は、不処分や審判不開始について、保護処分を行わなくても再非行のおそれがないと判断される場合などがあり、その過程で裁判官や家庭裁判所調査官による指導、教育的な働きかけが実施されると説明しています。裁判所「処分の種類」

つまり、映画の設定と現実の制度全体を、そのまま同一視することはできません。

本作で重要なのは、制度の名称だけではありません。

絆星の場合、事件の事実を認めないまま手続きが終わり、自分の行為に向き合う入口を失ってしまったことです。

法律上の手続きが一区切りついたとしても、亡くなった樹の人生は戻らない。

遺族の苦しみも終わらない。

そして絆星自身の問題も、何一つ解決していないのです。

母・真理は息子の犯行に気づいていたのか

真理は一貫して、絆星の無実を主張します。

けれども本当に、何の疑いも抱いていなかったのでしょうか。

その答えを考えるうえで重要なのが、絆星の帰宅時間をめぐる出来事です。

真理は、息子に有利になるような説明をしています。

もし心の底から事件と無関係だと確信しているなら、事実を変える必要はありません。

そこに真理の矛盾があります。

息子がやった可能性を、どこかでは感じている。

しかし、それを認めた瞬間、自分が守ってきた「傷つけられた息子」のイメージが崩れてしまう。

絆星はかつて、いじめられる側でした。

真理の中では、そのときから「世界が息子を傷つける」という構図が続いています。

だから今回も、世界のほうが間違っていると考える。

周囲が息子を悪者にしようとしている。

警察が無理やり自白させた。

ネットの人間が無責任な噂を広めている。

そうやって外側の敵を見つけることで、真理は息子の加害と向き合わずに済むのです。

内藤監督も、真理の行動の根底には、かつていじめられた息子を何があっても守ろうとする意思があると説明しています。内藤瑛亮監督インタビュー・後編

真理に愛情がなかったとは言い切れません。

問題なのは、その愛が「本当の息子」ではなく、「無実でいてほしい息子」に向けられていたことです。

母親が奪ったのは「罪を認める機会」だった

真理は絆星を守っています。

少なくとも、彼女自身はそう信じています。

しかし守られている絆星の表情は、安心しているようには見えません。

母親の前では、自分が事件と関係ない人間であり続けなければならないからです。

苦しい。

怖い。

自分がしたことを思い出してしまう。

そうした感情を口にすれば、母親が作ってきた「無実の息子」という物語が崩れてしまう。

絆星は母親に、自分が本当に人を殺していたらどうするのかと問いかけます。

ここは、彼が真実を話すための最後の入口だったのかもしれません。

しかし真理は、その問いを正面から受け止めません。

息子の幸せを願うことを優先し、犯行の事実には踏み込まない。

その結果、絆星は母親に対して最後まで、自分が樹を殺したことを告白できないままです。

罪を認めさせないことは、短期的には子どもを苦痛から守るかもしれません。

けれども長い目で見れば、子どもが責任を引き受ける機会を奪ってしまう。

真理は絆星を守ろうとするほど、彼が自分自身と向き合う場所を狭めていくのです。

ネット私刑は、なぜいじめと同じ構造なのか

絆星が不処分になると、世間の怒りは一気に膨らみます。

名前が広まり、住所が特定され、家族まで攻撃される。

事件を面白がる動画配信者も現れ、正義を掲げながら絆星たちの生活を追い詰めていきます。

もちろん、樹の死に怒ることは自然です。

被害者遺族が真実を求めることも、加害の責任を問うことも否定できません。

しかし、事件と直接関係のない人々が、本人や家族を見せ物にして攻撃することは、責任追及とは別の問題です。

そこでは、ある人物を「絶対に悪い人間」と決め、その人間なら何をしても構わないという空気が生まれています。

この構造は、樹に向けられていたいじめとよく似ています。

一人の標的を作る。

周囲が同調する。

攻撃する側は、自分を正しいと考える。

標的が苦しむほど、集団の一体感が強くなる。

絆星を裁こうとする人々は、自分たちが樹をいじめていた少年たちと同じ振る舞いをしていることに気づきません。

ネット上の私刑は、樹の死を償わせるための行動ではなく、新しい暴力を生み出す装置になっているのです。

道徳の授業が最も残酷な場面である理由

転校先の学校では、いじめについて考える授業が行われます。

生徒たちは、いじめをなくすにはどうすればいいのかを話し合う。

表面上は、まじめで正しい授業です。

しかし、その場にいる桃子は、実際にいじめを受けています。

絆星は、かつていじめに加わり、人を殺した少年です。

にもかかわらず、教室で交わされる言葉は、目の前にいる二人の現実には届きません。

さらに、絆星の正体が明かされると、教室は一斉に彼を糾弾する場所へ変わります。

ついさっきまで「いじめをなくそう」と話していた生徒たちが、今度は一人の生徒を取り囲む。

しかも彼らは、自分たちがいじめをしているとは考えません。

相手が殺人事件の加害者だからです。

ここに本作の鋭さがあります。

いじめは、「悪い人間が特別な悪意を持って行うもの」とは限りません。

むしろ「自分たちは正しい」という確信の中で始まることもある。

道徳を学ぶ教室が、最も無自覚な暴力の場所になる。

この皮肉は、作品全体の縮図といえるでしょう。

桃子はなぜ絆星に寄り添ったのか

絆星が転校先で出会う桃子もまた、周囲から孤立しています。

教師との関係をめぐる噂によって、同級生からいじめを受けているからです。

桃子にとって絆星は、最初から「事件の加害者」ではありませんでした。

教室の中で周囲に溶け込めず、自分と同じように居場所を持たない少年です。

やがて絆星が、自分は樹を殺したと認めても、桃子はすぐに彼を拒絶しません。

それは、殺人を肯定したからではありません。

絆星を「無実の子ども」に作り替えるのでも、「救いようのない怪物」と決めつけるのでもなく、罪を犯した一人の人間として見たからです。

母・真理は、罪を犯していない絆星だけを守ろうとします。

一方の桃子は、罪を犯した事実を含めて絆星と向き合おうとする。

この違いは決定的です。

内藤監督自身も、桃子は絆星の過去や罪を否定せず、償いの道を歩むのであれば受け止めようとする人物だと説明しています。内藤瑛亮監督インタビュー・後編

桃子が遺族への謝罪を勧めるのは、絆星を罰したいからではありません。

彼がずっと苦しんでいることに気づいたからです。

本作の中で、絆星が自分の罪を言葉にできた相手は、警察でも親でもなく、同じように孤立していた桃子でした。

遺族はなぜ絆星の土下座を受け入れなかったのか

桃子に背中を押された絆星は、樹の家を訪れます。

ここで、謝罪によって遺族との和解が成立する展開を想像するかもしれません。

しかし本作は、そうした分かりやすい救いを用意しません。

樹の家族にとって、絆星は子どもの人生を奪った相手です。

一度頭を下げたからといって、失われた時間が戻るわけではありません。

絆星は樹の遺影と向き合いながらも、その目をまっすぐ見ることができない。

自分が何を奪ったのかを、まだ十分に受け止めきれていないからです。

さらに、樹の妹は絆星に土下座をさせません。

この場面について内藤監督は、加害者が土下座する姿が、場合によっては「反省している自分」に浸る行為にもなりうるという問題意識から生まれたと説明しています。内藤瑛亮監督インタビュー

土下座すれば許される。

謝罪の言葉を言えば終わる。

そうした形式的な清算を、遺族は受け入れません。

謝ることと、許されることは違います。

そして謝罪とは、許してもらうための手続きではなく、許されない可能性を抱えたまま責任と向き合い続けることなのかもしれません。

緑夢はなぜ河川敷に花を供えたのか

事件現場の河川敷で、絆星はかつての仲間だった緑夢と再会します。

緑夢は樹のために花を供えようとしていました。

事件当時、緑夢もグループの一員でした。

そのため、彼もまた完全に無関係な立場ではありません。

しかし彼は、絆星たちの中でも力の弱い側にいた人物です。

樹が事件の直前にかばおうとしたのも、緑夢でした。

もし自分がもっと早く止めていたら。

もし樹を助けていたら。

緑夢は、その後悔から逃れられずにいるのでしょう。

絆星は、そんな緑夢を偽善者のように扱い、供えられた花を乱暴に払いのけます。

表面的には、緑夢だけが善人の立場に立とうとしていることへの怒りです。

しかしそれだけではありません。

花は、樹が確かに存在し、ここで死んだという事実を示しています。

緑夢の後悔は、絆星が認めたくない罪を目の前に置く行為でもあります。

花を壊せば、過去が消えるわけではない。

それでも絆星は、罪を言葉にできないため、目に見えるものを破壊することでしか感情を処理できません。

絆星が仲間を殴ったのは更生の証拠なのか

終盤、絆星はかつての仲間たちが、再び別の相手をいじめている場面に出くわします。

そこには、樹が死んだ事件を思い出させるボーガンもあります。

絆星は激しく怒り、仲間たちに暴力を振るいます。

この場面だけを見れば、彼がいじめを止めようとしたようにも受け取れます。

樹の死を経験したことで、以前と同じ行動を繰り返す仲間たちを許せなくなった。

その意味では、絆星の中に何らかの変化が生まれた可能性はあります。

しかし、問題はその方法です。

彼は言葉で止めることができません。

再び暴力に訴え、ボーガンを手に取り、今度は桃子まで危険に巻き込んでしまいます。

樹を失った事件と同じ構図が、別の形で繰り返されているのです。

絆星は、暴力が取り返しのつかない事態を生むことを知っている。

それでも、怒りを処理する手段として暴力から離れられない。

つまりこの場面は、彼が完全に更生したことも、最初から変わらなかったことも示していません。

変わろうとする気持ちが一瞬生まれながら、それを支える言葉や関係が足りなかった。

その危うさを映しているのだと思います。

母・真理が襲われた場面の意味

絆星が事件現場で感情を爆発させたあと、帰宅すると、母・真理が血を流して倒れています。

彼女を襲ったのは、事件に便乗して加害者家族を攻撃していた動画配信者です。

この場面によって、作品は一つの事実を突きつけます。

「悪い人間を懲らしめる」という名目があれば、人は自分の暴力を正当化できてしまう。

真理の行動には、多くの問題があります。

息子の罪と向き合わず、遺族の苦しみを見ようとせず、事件の事実を否定し続けた。

しかし、それは彼女に暴力を振るってよい理由にはなりません。

樹を傷つけた絆星。

絆星を攻撃する世間。

真理に暴力を振るう配信者。

それぞれ立場は異なります。

けれども、相手を傷つけても構わない存在と見なした瞬間、同じ暴力の回路につながっていく。

この事件は、被害者と加害者を入れ替えながら終わりなく増殖しているのです。

ラストの「自分が死ぬ夢」と「再生」の意味

映画のラストでは、絆星と真理がカフェで過ごしています。

真理の頭には、襲撃されたときの傷を思わせる包帯があります。

一方の絆星は、それまでとは違う、どこか晴れやかな表情を見せます。

そして、自分が死ぬ夢を見たこと、その夢は「再生」を意味するらしいと話す。

この場面を単純に「絆星が生まれ変わった」と理解することはできません。

なぜなら、樹の死について、彼が責任を引き受けた描写はないからです。

遺族が彼を許したわけでもありません。

罪が消えたわけでもありません。

桃子とともに償いの道へ進んだことも示されていない。

それなのに「再生」という言葉だけが現れる。

この違和感が、ラストの怖さです。

絆星は本当に罪と向き合って、新しい人生へ進もうとしているのでしょうか。

それとも、苦しい過去を自分の中だけで終わらせ、何もなかったように生き直そうとしているのでしょうか。

後者だとすれば、この「再生」は更生ではありません。

樹を殺した自分を反省によって変えるのではなく、その記憶や罪悪感を切り離すことで、新しい自分になったと思い込むことです。

ただし、映画は絆星を完全に心のない怪物だと断定しているわけでもありません。

彼が赤ん坊に穏やかな表情を向ける場面には、人間らしさの名残も見えます。

だからこそ、観客は安心できないのです。

優しい表情を見せることと、過去の加害を引き受けることは同じではありません。

最後に母とたばこを分け合った意味

カフェを出た絆星と真理は、一緒に歩きながら一本のたばこを分け合います。

母親が未成年の息子とたばこを共有する、非常に印象的な場面です。

物語の前半で真理は、息子を純粋で無実な子どもとして守ろうとしていました。

ところが最後には、その息子の逸脱を目の前で否定しません。

この変化には、二つの読み方があります。

一つ目は、真理がようやく「理想の息子」ではなく、問題を抱えた現実の息子を受け入れ始めたという解釈です。

絆星は無垢な子どもではない。

いじめもする。

暴力も振るう。

大人が望むような「いい子」でもない。

それでも、その現実を認めなければ、本当の意味で向き合うことはできません。

一方で、もう一つの読み方もあります。

母と息子が社会のルールから距離を置き、二人だけの世界に閉じこもったという解釈です。

真理は息子の罪を認めず、絆星は罪悪感を手放し始めている。

その二人が同じたばこを吸う姿は、共依存の関係がさらに強くなったようにも見えます。

本作を扱った社会学研究でも、この場面は、母親が従来の「無垢な子ども」という息子像だけでは捉えきれない現実を受け入れ始めた可能性として分析されています。周筱「映画『許された子どもたち』からみる現代社会における非行少年に対するイメージ構築の複層性と流動的な子ども観」

ただし、受け入れることと、責任を引き受けることは別です。

母親が絆星の問題を認め始めたとしても、それだけで樹への加害が清算されるわけではありません。

ラストは希望と絶望のどちらか一つに決着する場面ではなく、向き合う入口が見えたようで、まだ何も始まっていないという不安を残しているのです。

タイトル『許された子どもたち』の意味

タイトルにある「許された」とは、誰に許されたことを意味しているのでしょうか。

家庭裁判所でしょうか。

母親でしょうか。

それとも絆星自身でしょうか。

少なくとも、樹の家族が絆星を許したわけではありません。

社会も彼を受け入れてはいません。

むしろ、名前や住所を晒し続けています。

その意味で、絆星は本当には許されていない。

にもかかわらず、母親は彼を無実の子どもとして扱い、本人も最後には「再生」という言葉を口にする。

ここには、「許されること」と「責任を問われないこと」を取り違えた社会への皮肉があります。

もう一つ重要なのは、タイトルが「子ども」ではなく「子どもたち」であることです。

樹をいじめていた仲間たち。

絆星を糾弾することで、自分たちの攻撃性を正当化した同級生たち。

そして、正義を理由に誰かを攻撃し、自分だけは悪くないと考える人々。

絆星だけを怪物として切り離せば、私たちは安心できます。

しかし本作が見せているのは、そうした切り離し自体が、新しい暴力を生みかねないという現実です。

「許された子どもたち」という言葉は、少年たちを守った大人だけでなく、責任を引き受けないまま他人を裁く社会全体にも向けられているのかもしれません。

まとめ|絆星は本当に許されたのか

絆星は、樹を殺しました。

その事実は、母親が否定しても、不処分の決定が下されても、なくなりません。

一方で、絆星を永遠に攻撃し続けても、樹が戻ってくることはありません。

必要なのは、罪を見えなくすることでも、終わりのない私刑でもない。

何が起きたのかを認め、その事実に向き合い続けるための関係です。

真理には息子を守りたい気持ちがありました。

桃子には絆星を一人の人間として受け止める視点がありました。

緑夢には、自分が止められなかったことへの後悔がありました。

しかし、それらは一つの場所に結びつかず、樹の死をめぐる責任は宙に浮いたまま残ります。

ラストで絆星が語る「再生」は、未来への希望にも見えます。

同時に、償いを経ないまま自分だけが楽になろうとする、危うい言葉にも聞こえます。

だからこそ、この映画の問いは最後まで消えません。

絆星は、本当に許されたのでしょうか。

あるいは、誰からもきちんと向き合ってもらえないまま、「許されたことにされた」だけだったのでしょうか。