2016年に公開されたポール・ヴァーホーヴェン監督のフランス映画『エル(ELLE)』は、性的暴力という重く繊細なテーマを扱いながらも、観客の予想を大きく裏切る異色のサスペンス作品です。
主演のイザベル・ユペールが演じるミシェルという女性は、強さと脆さ、冷酷さとユーモアを併せ持ち、単なる「被害者」の枠に収まらない複雑な存在です。
本記事では、映画『エル』の主要なテーマを軸に、キャラクター、演出、倫理的ジレンマに至るまで、多面的に考察・批評していきます。
ミシェルという女性—強さと脆さのはざまで描かれる複雑なキャラクター像
ミシェルは映画の冒頭、マスクを被った男にレイプされるという衝撃的な事件に遭遇します。しかし、彼女はそれを警察に通報せず、まるで日常の一部であったかのように振る舞います。この対応だけでも観客は強烈な違和感を覚え、ミシェルのキャラクターに深い興味を抱かされます。
彼女は一見、冷静で自立したキャリアウーマンですが、実は幼少期に父親が大量殺人犯であったという過去を抱えており、その記憶が人格形成に大きな影を落としています。暴力に対する異常な耐性や、他人との距離感の取り方にもその影響が見て取れます。
強く見せることでしか生き延びられなかった彼女の姿は、現代社会における「強い女性像」に対する皮肉とも取れます。
「被害者」を超えて—フェミニズム的視点から見る『エル ELLE』の女性像
『エル』が他の性的暴力を描いた映画と決定的に異なるのは、「被害者としての女性像」を再構築している点です。ミシェルは自らの体験を「トラウマ」として引きずらず、むしろ加害者を突き止め、彼との関係性を捻じ曲げたままコントロールしようとすらします。
この姿は、一部の観客には不快感を与えるかもしれませんが、他方で、「女性=弱者」「性的被害者=守られる存在」といった一面的な見方に一石を投じるものです。
彼女は弱さを見せることなく、時に冷酷に、時にユーモラスに、そして何よりも自分の意思で行動します。フェミニズム的に見るならば、ミシェルの姿は「主体的に生きる女性像」の一つの極端な表現であり、それが本作最大の魅力ともいえるでしょう。
原作との比較とヴァーホーヴェンの演出―どこが変わり、何が意図されているか
映画『エル』は、フィリップ・ジャンの小説『Oh…』を原作としていますが、映画化にあたりいくつかの改変がなされています。原作では登場人物たちがより内向的で、性的描写も暗く陰鬱なトーンですが、ヴァーホーヴェンはそれをブラックコメディの要素を取り入れて大胆に映像化しています。
特に顕著なのは、ミシェルが働くゲーム会社の描写。暴力的なゲームを制作している環境が、彼女の現実とリンクしており、「フィクションの暴力」と「現実の暴力」の境界を曖昧にしています。
監督のスタイルは一貫して「不快感」と「挑発」にあり、観客をただ消費者として座らせるのではなく、「その不快さとどう向き合うか」を突き付けてくるのです。
サスペンス × ブラックユーモア—緊張感と予測不能な展開がもたらす映画の味
本作は一見するとサスペンス映画の形式を取っていますが、物語が進むにつれ、そのジャンルに収まりきらない特異性が際立ちます。加害者の正体が早々に明かされることで、一般的なサスペンスの「犯人探し」の構造は崩壊し、代わりに「なぜ彼女はあのような対応を取るのか?」という心理劇が前景化します。
さらに、ミシェルと彼女を取り巻く人々の関係性にはユーモラスな皮肉が散りばめられており、深刻なテーマの中にも笑いや軽妙さが潜んでいます。
観客は「笑っていいのか?」と戸惑いつつも、ミシェルという人物の不可解さに惹き込まれていきます。
このジャンルの越境こそが、『エル』を唯一無二の映画にしている要因といえるでしょう。
倫理と観客の立場—ミシェルの選択は許されるか?そして私たちはどう見るべきか
最終的に問われるのは、ミシェルの行動を倫理的にどう捉えるべきか、という観客自身のスタンスです。彼女は明確な復讐を遂げるわけでもなく、警察の力も借りず、自分なりの方法で事件と決着をつけます。その過程で彼女の冷静さや駆け引きが際立ちますが、それが正義といえるのかは極めて曖昧です。
映画はミシェルをヒロインとも反ヒロインとも規定せず、観客に判断を委ねます。この開かれた構造こそが、『エル』が何度も議論される理由であり、「不快だが見ずにはいられない」という中毒性を生んでいます。
まとめ:『エル』は“観る者を試す”映画である
『エル ELLE』は、ただのレイプ被害の映画でも、ただのサスペンスでもありません。むしろ、ジャンルや価値観に揺さぶりをかけてくる挑戦的な作品です。
・ミシェルという女性をどう受け止めるか
・フェミニズム的にどう評価するか
・監督の演出をどう解釈するか
・物語の不安定性をどう楽しむか
・そして、倫理的にどう向き合うか
観る者の「思考」と「感情」を同時に試す、極めて知的で挑発的な一本。それが『エル』なのです。