映画『ソルトバーン』考察|オリヴァーは何を愛したのか?ラストの裸のダンス、浴槽、迷宮が示す「欲望の正体」【ネタバレ】

映画『ソルトバーン』をネタバレ考察。オリヴァーは本当にフィリックスを愛していたのか。浴槽の水、墓、迷宮、ミノタウロス、4:3の画面、ラストの裸のダンスが意味するものを読み解きます。

※本記事は映画『ソルトバーン』の結末を含む重大なネタバレがあります。

『ソルトバーン』は、貧者が富豪に復讐する映画ではない

美しい青年に近づき、その家族に取り入り、最後には豪邸も財産も奪い取る――。

『ソルトバーン』の物語だけを要約すれば、階級社会への復讐を描いた「富裕層を食らう物語」に見えるかもしれません。

しかし、主人公オリヴァー・クイックは、貧困に苦しむ労働者階級の青年ではありません。彼が語っていた家庭環境は嘘であり、実際には愛情のある両親と安定した家庭で育っています。

つまり、オリヴァーは「奪われた者」ではない。

それでも彼は、フィリックス・キャットンと、その家族が暮らす屋敷ソルトバーンを欲しがりました。

本作が描いているのは、富裕層への正義の復讐ではありません。

自分の人生よりも、他人の人生のほうが美しく見えてしまった人間が、その美しさを所有するまでの物語です。

そして映画は、そんなオリヴァーを異常者として遠ざけるだけでは終わりません。

美しいフィリックスを見つめ、豪華な屋敷に魅了され、醜悪な行動から目をそらせなくなっている観客もまた、オリヴァーと同じ欲望を抱えているのではないか。

『ソルトバーン』の本当の恐ろしさは、そこにあります。


映画『ソルトバーン』の作品情報

『ソルトバーン』は、『プロミシング・ヤング・ウーマン』で知られるエメラルド・フェネルが監督・脚本・製作を務めた長編監督第2作です。バリー・コーガンがオリヴァーを、ジェイコブ・エロルディがフィリックスを演じ、ロザムンド・パイク、リチャード・E・グラント、アリソン・オリヴァーらがキャットン家の人々を演じています。

  • 原題:Saltburn
  • 製作年:2023年
  • 監督・脚本:エメラルド・フェネル
  • 主演:バリー・コーガン
  • 出演:ジェイコブ・エロルディ、ロザムンド・パイク、リチャード・E・グラント、アリソン・オリヴァー、アーチー・マデクウィ
  • 撮影:リヌス・サンドグレン

物語の舞台は、2006年のオックスフォード大学です。

周囲になじめない学生オリヴァーは、裕福で容姿にも恵まれた人気者フィリックスと親しくなります。オリヴァーの不幸な家庭環境に同情したフィリックスは、彼を一族の屋敷ソルトバーンへ招待します。

しかし、オリヴァーが語る過去の大部分は、フィリックスの関心を引くために作られた物語でした。


オリヴァーはフィリックスを愛していたのか

映画の冒頭で、オリヴァーはフィリックスへの感情を振り返ります。

愛していた。しかし、恋をしていたのかは分からない。

この曖昧な言葉が、『ソルトバーン』全体を読み解く鍵です。

オリヴァーが抱いていたのは、単純な友情でも、純粋な恋愛感情でもありません。

彼が愛していたのは、フィリックスという一人の人間であると同時に、フィリックスを中心に成立している世界そのものでした。

フィリックスには、オリヴァーが欲しいものがすべてあります。

美しい肉体、他人を引きつける自然な魅力、苦労せず手に入る友人、巨大な屋敷、社会的地位、そして、自分が愛されていることを疑わずに済む人生です。

オリヴァーはフィリックスの隣に立ちたい。

しかし、それだけでは満足できません。

フィリックスに愛されたい。フィリックスの家族に受け入れられたい。フィリックスが見ている景色を見たい。

やがてその欲望は、より危険な方向へ変化します。

フィリックスのようになりたい。

そして最終的には、

フィリックスが持っているものを、フィリックス抜きで所有したい。

という欲望に到達するのです。


オリヴァーの嘘は「弱さを演じる」という武器だった

オリヴァーは、自分の家庭を不幸なものとして語ります。

父親は亡くなり、母親は依存症に苦しんでいる。自分には帰る場所がない――。

ところがフィリックスがオリヴァーの実家を訪れると、そこにいたのは穏やかな両親でした。家は貧しくなく、両親は息子を愛し、大学で活躍していると信じています。

この場面で明らかになるのは、オリヴァーが単なる虚言癖の持ち主だということだけではありません。

彼は、フィリックスがどんな人間に関心を持つのかを正確に理解していました。

フィリックスは親切です。しかし、その親切には「恵まれない人間を救う自分」という自己像が含まれています。

オリヴァーはそこにつけ込みました。

自分を小さく、傷つきやすく、救われるべき存在として演出することで、フィリックスの庇護欲を刺激したのです。

これは腕力や財力による支配ではありません。

他人が信じたがっている物語を提供することで、相手を動かす支配です。

オリヴァーは、ソルトバーンの住人たちが人間そのものよりも、「その人間について語れる面白い物語」を好むことを見抜いていました。

だからこそ、彼は自分を悲劇として差し出します。


キャットン家はオリヴァーに騙されたのではなく、物語を消費した

キャットン家は、冷酷な悪人の集団ではありません。

彼らはオリヴァーを屋敷に迎え、食事を与え、誕生日パーティーまで開きます。

一方で、彼らの親切は非常に気まぐれです。

母エルスペスは、友人パメラを屋敷に滞在させながら、彼女に飽きると簡単に追い出します。パメラが亡くなったと知っても、その死を深刻に受け止めません。

キャットン家にとって、屋敷を訪れる人間は家族ではなく、退屈を紛らわせるための客人です。

魅力的な間は愛される。

面倒になれば忘れられる。

彼らは人を所有物のように扱っています。

ただし、ここで重要なのは、映画がキャットン家の死を「当然の報い」として描いているわけではないことです。

彼らは無神経で、傲慢で、階級的な特権に守られています。しかし、その欠点が殺される理由になるわけではありません。

『ソルトバーン』は、富裕層を明快な悪役にすることで観客を安心させてはくれないのです。

キャットン家は人間を娯楽として消費する。

そしてオリヴァーは、彼らの欲望に合わせた物語を演じながら、最終的には家族そのものを消費します。

両者は正反対ではありません。

人間を人間として見ず、自分の欲望を満たす道具として扱う点で、オリヴァーとキャットン家はよく似ています。


浴槽の水を飲む場面が意味するもの

『ソルトバーン』を象徴する場面として最も知られているのが、フィリックスが入浴したあとの浴槽をオリヴァーがなめ、排水口へ流れていく水を飲むシーンです。

この行動は、一見するとフィリックスに対する抑えきれない性的欲望の表現です。

しかし、オリヴァーが求めているのは、フィリックスとの対等な関係ではありません。

浴槽にフィリックス本人はもういません。

そこに残っているのは、彼の体液や痕跡だけです。

オリヴァーは相手と向き合うのではなく、相手が去ったあとに残されたものを一人で摂取します。

つまり、この場面で示されているのは「愛」よりも「取り込み」です。

フィリックスに触れたいのではない。

フィリックスを自分の中に入れたい。

フィリックスの身体、魅力、階級、生活を飲み込み、自分のものにしたい。

後にオリヴァーがソルトバーンそのものを手に入れる展開を考えれば、この浴槽の場面は物語全体の縮図です。

彼は最初にフィリックスの痕跡を飲み、最後にはフィリックスの家を丸ごと飲み込むのです。


墓を抱く場面は愛なのか、征服なのか

フィリックスの死後、オリヴァーは彼の墓の上で衣服を脱ぎ、地面に身体を押しつけます。

監督のエメラルド・フェネルは、本作で欲望と嫌悪、さらにゴシック作品における性と死の結びつきを重視していたと説明しています。

この場面を、フィリックスへの純粋な愛が爆発した瞬間と捉えることもできます。

オリヴァーがフィリックスを失って悲しんでいること自体は、嘘ではないでしょう。

しかし、オリヴァー自身がフィリックスを死へ追いやっています。

生きているフィリックスは、オリヴァーの嘘を見破り、彼を拒絶しました。

死んだフィリックスは、もう拒絶しません。

反論もせず、逃げることもなく、オリヴァーの欲望を受け止めるだけです。

墓の場面は、愛する人との最後の結びつきであると同時に、相手から拒絶する力を奪ったうえで行われる一方的な所有でもあります。

オリヴァーはフィリックスを愛していた。

だからこそ、フィリックスの自由を許せなかった。

ここには、「愛しているから相手を支配したい」という本作の最も醜い矛盾が表れています。


迷宮とミノタウロスが示すオリヴァーの正体

フィリックスが死亡する場所は、屋敷の庭にある巨大な迷路です。

その中心には、ギリシャ神話の怪物ミノタウロスを思わせる像が置かれています。

一般的な迷宮神話では、英雄テセウスが迷宮に入り、怪物ミノタウロスを倒します。

しかし『ソルトバーン』では、誰が英雄で、誰が怪物なのでしょうか。

外から屋敷へ侵入したオリヴァーを、迷宮を攻略する英雄と考えることはできます。閉ざされた上流階級の世界へ入り込み、その中心を奪うからです。

一方で、彼こそが迷宮の内部に潜む怪物でもあります。

誕生日パーティーで角をつけたオリヴァーの姿は、人間と獣の境界にいる存在として演出されています。

彼はソルトバーンに迷い込んだ犠牲者ではありません。

最初から迷宮を利用し、住人たちを一人ずつ追い詰める捕食者です。

さらに言えば、迷宮とはソルトバーンの屋敷そのものだけではありません。

オリヴァーが作った嘘の物語もまた迷宮です。

フィリックスも、その家族も、観客も、彼の語る悲劇に入り込み、出口を見失います。


フィリックスの死と、オリヴァーの計画

オリヴァーの嘘を知ったフィリックスは、誕生日パーティーが終わったら屋敷から出ていくよう告げます。

この瞬間、オリヴァーは重大な選択を迫られます。

真実を認め、フィリックスを失うか。

それとも、フィリックスを永遠に自分の物語の中へ閉じ込めるか。

オリヴァーは後者を選びます。

終盤の映像によって、オリヴァーがフィリックスの飲み物に細工し、その死を引き起こしたことが示されます。また、ヴェネシアの近くに剃刀を置き、彼女の死を誘導したことも明らかになります。ファーリーにはフィリックスの死への疑いが向くよう仕向け、一族から排除しました。

ここで注目すべきなのは、オリヴァーの計画が最初から完全に決まっていたのかという点です。

自転車の故障を仕組み、フィリックスとの出会いを演出したことから、接近自体は計画的でした。

しかし、当初から一家を殺し、屋敷を相続するところまで考えていたとは限りません。

むしろオリヴァーの計画は、拒絶されるたびに拡大したと考えるほうが自然です。

フィリックスに愛されたい。

家族の一員になりたい。

屋敷から追い出されたくない。

フィリックスを失いたくない。

それらが失敗するたび、オリヴァーは「ならば排除すればいい」と欲望の形を変えていきます。

彼の恐ろしさは、完璧な天才犯罪者であることではありません。

欲しいものを諦めず、その都度、自分に都合のいい物語へ現実を書き換えられることです。


なぜオリヴァーはヴェネシアを殺したのか

フィリックスの妹ヴェネシアは、家族の中で最も早くオリヴァーの危険性を見抜きます。

彼女はオリヴァーを、他人の中へ入り込み、内側から食べ尽くす存在として非難します。

フィリックスの死後も、家族が悲しみを直視しようとしないなかで、ヴェネシアだけはオリヴァーを疑います。

だからこそ、オリヴァーにとって彼女は危険でした。

しかし、彼がヴェネシアを排除した理由は、秘密を知られたからだけではありません。

ヴェネシアは、オリヴァーの本質を言葉にしてしまったからです。

オリヴァーは、自分自身を怪物だとは考えていません。

彼は常に、拒絶された被害者、理解されない孤独な人間、愛する者を失った友人として振る舞います。

ヴェネシアは、その自己物語を破壊します。

彼女を生かしておけば、オリヴァーは自分が何者なのかを見せつけられ続ける。

そのため彼は、真実を語る者を消し、再び自分に都合のいい物語を成立させるのです。


4:3の画面は、屋敷を「のぞき見る」ための窓

『ソルトバーン』は、現代映画としては珍しい4:3に近い画面比率で撮影されています。

フェネル監督は、この画面によって、観客が人形の家を外からのぞき込んでいるような印象を作ろうとしました。撮影ではゴシック映画や古典絵画の美しさを参照しながら、そこへ汚れや不快さを混ぜています。

横に広い画面ではなく、縦長に近い窮屈なフレームを使うことで、人物は屋敷の壁、扉、窓、絵画に囲まれます。

ソルトバーンは広大な屋敷であるにもかかわらず、画面の中では逃げ場のない箱のように見えるのです。

また、この画面比率は人物の顔や肉体を強調します。

フィリックスの美しさ。

オリヴァーの視線。

エルスペスの無表情。

ヴェネシアの脆さ。

観客は物語を見るというより、彼らの私生活をのぞき込んでいる感覚に陥ります。

ここで映画は、観客を安全な批評家の位置に置きません。

オリヴァーがフィリックスを凝視するように、私たちも美しい俳優たちと豪華な屋敷を凝視する。

オリヴァーがソルトバーンに入りたがるように、私たちも画面の外からその生活を眺め、内部へ入りたいと願う。

オリヴァーの欲望は、観客の視線を誇張したものでもあるのです。


ソルトバーンという屋敷は、もう一人の「身体」である

本作における屋敷は、単なる舞台ではありません。

フェネル監督はソルトバーンを、欲望を向けられる対象として撮影しました。実際の撮影でも、一つの屋敷を中心に制作することで、登場人物と空間が密接に結びつくことが意識されています。

長い廊下、暗い寝室、巨大な庭園、浴室、迷路。

屋敷の内部は、まるで巨大な生物の体内のようです。

オリヴァーは最初、招待客としてその身体へ入ります。

やがて家族の秘密を知り、彼らの弱点を見つけ、少しずつ奥へ進んでいく。

最後には住人をすべて失った屋敷を、自分の身体のように自由に歩き回ります。

これは財産の相続である以上に、身体の乗っ取りです。

オリヴァーはフィリックス本人を所有できませんでした。

その代わりに、フィリックスが育ち、眠り、愛されてきた空間を所有します。

屋敷はフィリックスの代用品なのです。


ラストの裸のダンスが意味するもの

物語の最後、エルスペスの死によってソルトバーンを完全に手に入れたオリヴァーは、裸のまま屋敷を踊り歩きます。

楽曲は、ソフィー・エリス・ベクスターの「Murder on the Dancefloor」。

キャットン家が消えた屋敷を、オリヴァーは誰にも邪魔されずに進んでいきます。

バリー・コーガンや制作陣は、このダンスを、オリヴァーが屋敷を支配し、完全な自由を手に入れたことを示す場面として説明しています。一方で、監督やコーガンは、その勝利が満足や幸福に結びつくとは限らないとも示唆しています。

服は社会的な役割を示すものです。

大学生の服。

貧しい青年を装う服。

キャットン家の客人としての服。

喪に服す友人の服。

エルスペスに寄り添う理解者の服。

オリヴァーは物語の中で、何度も役柄を着替えてきました。

最後に裸になるのは、もう誰かを演じる必要がなくなったからです。

屋敷には、彼の嘘を疑う者も、拒絶する者もいません。

しかし、このダンスを「本当の自分を解放した場面」とだけ考えるのは不十分でしょう。

屋敷の住人はいなくなっても、カメラは残っています。

つまり、オリヴァーにはまだ観客がいるのです。

彼は一人きりになっても踊り、見せつけ、演じ続けています。

そこに彼の空虚さがあります。

オリヴァーはソルトバーンを手に入れました。

けれども、フィリックスにはなれません。

フィリックスが自然に人々を引きつけていたのに対し、オリヴァーは嘘と操作によって他人の視線を集めるしかありません。

裸になっても、彼は演技から自由になれないのです。


オリヴァーは勝ったのか

表面的には、オリヴァーの完全勝利です。

フィリックスも、ヴェネシアも、ジェームズも、エルスペスもいない。

ファーリーも屋敷から遠ざけられています。

オリヴァーはキャットン家の財産とソルトバーンを相続し、最後には屋敷の模型につけられた家族の人形を眺めます。

ただし、この結末は幸福ではありません。

彼が欲しかったものを改めて考える必要があります。

オリヴァーは、本当に大きな家が欲しかったのでしょうか。

金銭が欲しかったのでしょうか。

それだけなら、フィリックスの墓に身体を重ねる必要はありません。

彼が欲しかったのは、フィリックスから向けられる愛情と、フィリックスの世界に属しているという感覚でした。

しかし、そのフィリックスを殺したのはオリヴァー自身です。

屋敷を手に入れるために、屋敷を欲しいと思わせた人物を消してしまった。

そのためオリヴァーは、目的を達成した瞬間に、目的そのものを失っています。

彼の踊りは勝利のダンスであると同時に、二度と満たされることのない人間のダンスです。


ラストの種明かしは必要だったのか

終盤では、オリヴァーがどのようにフィリックスへ近づき、ファーリーを陥れ、エルスペスとの再会を仕組んだのかが、短い映像によって説明されます。

フェネル監督は、結末について、より説明を減らす選択肢もあったものの、最終的には「何が起きたか」よりも「どのように起きたか」を見せる構成にしたと語っています。

この種明かしには賛否があります。

オリヴァーの不気味さは、どこまでが計画で、どこからが衝動なのか分からない点にありました。

すべてを説明すると、複雑な欲望の物語が「天才的な犯罪者による完全犯罪」に縮小してしまう危険があります。

実際、本作の階級批判や結末を、派手ではあるものの空虚だと批判する見方もあります。

それでも、この過剰な説明には意味があります。

なぜなら、『ソルトバーン』は観客にオリヴァーの正体を推理させるミステリーではないからです。

重要なのは、彼が犯人かどうかではありません。

最初から彼の視線には危険なものが宿っています。

本当に問われているのは、

怪しいと感じながら、なぜ私たちは彼の物語を最後まで見届けてしまったのか

ということです。

種明かしは、観客を驚かせるためだけのものではありません。

オリヴァーの勝利を、言い逃れできないほど明確に見せるためのものです。

そして観客は、その悪意に満ちた勝利を、音楽とダンスによって爽快な映像として楽しんでしまいます。


『ソルトバーン』が観客に仕掛ける最大の罠

オリヴァーは、周囲の人間がどんな物語を好むかを理解しています。

フィリックスには、救われるべき不幸な青年の物語。

エルスペスには、息子を深く愛していた忠実な友人の物語。

観客には、階級社会へ復讐するアウトサイダーの物語。

しかし、オリヴァーは社会を変えようとしていません。

富を分配するつもりも、階級制度を壊すつもりもない。

彼は上流階級を憎んでいるのではなく、その席に座りたいだけです。

だから本作を「弱者が富裕層を倒す物語」として見ると、オリヴァーが仕掛けた罠にかかります。

彼は観客にも、応援しやすい物語を提供しているからです。

キャットン家は傲慢で、滑稽で、現実感覚に欠けている。

そのため私たちは、彼らが破滅していく展開に、わずかな快感を覚えてしまう。

しかし最後に残るのは、格差のない世界ではありません。

古い支配者が消え、新しい支配者が屋敷を所有するだけです。

『ソルトバーン』は階級革命の映画ではなく、階級への欲望が永遠に再生産される映画なのです。


よくある疑問を考察

オリヴァーは本当に貧しかった?

貧困家庭の出身ではありません。両親は健在で、家庭も比較的安定していました。オリヴァーはフィリックスの同情と関心を得るため、不幸な生い立ちを作り上げています。

オリヴァーはフィリックスを愛していた?

愛情はあったと考えられます。ただし、それは相手の自由を尊重する愛ではなく、憧れ、性的欲望、嫉妬、自己同一化、所有欲が混ざった感情です。

フィリックスを殺した理由は?

自分の嘘を知られ、ソルトバーンから追い出されることが決まったためです。拒絶を受け入れられないオリヴァーは、フィリックスを失う代わりに、彼を永遠に所有できる死へ追いやりました。

ヴェネシアは自殺した?

表面上は自殺ですが、終盤の映像ではオリヴァーが剃刀を用意したことが示されます。彼女の精神状態を利用し、死を誘導したと考えられます。

ファーリーは死亡した?

ファーリーが死亡した描写はありません。オリヴァーによってフィリックスの死への疑いを向けられ、キャットン家から追放されたと考えられます。

ラストで裸になった理由は?

すべての役柄や身分を脱ぎ捨て、屋敷の新たな所有者になったことを示しています。ただし、カメラに向けて踊り続けている点から、オリヴァーが演技と承認欲求から解放されたわけではありません。


まとめ|オリヴァーが奪ったのは屋敷ではなく、物語だった

『ソルトバーン』は、豪邸を奪う青年のサスペンスであると同時に、他人の人生を欲しがる人間の物語です。

オリヴァーが最も得意としていたのは、殺人ではありません。

自分を相手が望む人物に見せることです。

彼は不幸な青年を演じ、忠実な友人を演じ、悲しみに寄り添う理解者を演じました。

そして最後には、キャットン家の物語そのものを書き換えます。

彼らが代々暮らしたソルトバーンは、オリヴァーが勝利を踊る舞台となりました。

しかし、彼が本当に欲しかったフィリックスは戻ってきません。

どれほど大きな屋敷を所有しても、誰かに自然に愛される人間にはなれない。

だからオリヴァーは、一人になっても踊り続けます。

『ソルトバーン』のラストが不気味なのは、悪人が勝ったからだけではありません。

すべてを手に入れたはずの人間が、まだ誰かに見られることを必要としているからです。

そして、そのダンスを見つめる観客がいる限り、オリヴァーの欲望は完成します。