映画『愛がなんだ』をネタバレありで徹底考察。テルコがマモルを諦められない理由、マモルが彼女を拒絶しきらない心理、ナカハラとの違い、ラストに登場する象の意味まで詳しく解説します。
※本記事は映画『愛がなんだ』の結末を含みます。
『愛がなんだ』は「片思いを卒業する映画」ではない
好きな相手から大切にされていない。
周囲から見れば、その関係を終わらせるべきなのは明らかである。それでも本人だけは離れようとしない。
映画『愛がなんだ』が描くのは、そんな一方通行の恋愛だ。
主人公の山田テルコは、田中マモルから電話がかかってくれば仕事を放り出し、深夜でも彼のもとへ駆けつける。料理を作り、部屋を掃除し、求められたことを先回りして行う。しかし、マモルはテルコを恋人として愛しているわけではない。
普通の恋愛映画なら、テルコがマモルの身勝手さに気づき、自分を取り戻す物語になるだろう。
ところが『愛がなんだ』は、そのような健全で分かりやすい成長物語を拒否する。
テルコは最後までマモルを忘れない。むしろ物語が進むほど、彼女の感情は「恋人になりたい」という一般的な願望から、より奇妙で説明しにくいものへと変化していく。
本作が問いかけるのは、恋が正しいか間違っているかではない。
他者を愛することと、自分を失うことの境界はどこにあるのか。
その答えのなさこそが、『愛がなんだ』という作品の核心である。
映画『愛がなんだ』の作品情報
『愛がなんだ』は、角田光代の同名小説を原作に、今泉力哉監督が映画化した2019年公開の日本映画である。主人公のテルコを岸井ゆきの、テルコが思いを寄せるマモルを成田凌が演じ、葉子役に深川麻衣、ナカハラ役に若葉竜也、すみれ役に江口のりこが出演している。上映時間は123分。第31回東京国際映画祭のコンペティション部門にも選出された。
監督:今泉力哉
原作:角田光代
脚本:澤井香織、今泉力哉
出演:岸井ゆきの、成田凌、深川麻衣、若葉竜也、江口のりこほか
公開日:2019年4月19日
あらすじ
28歳の会社員・山田テルコは、飲み会で出会った田中マモルに恋をして以来、生活のすべてを彼に捧げている。
仕事中にマモルから電話が来ればすぐに応じ、彼の部屋では料理や掃除を進んで引き受ける。テルコにとって、マモルから必要とされる時間だけが幸福だった。
しかし、マモルはテルコを恋人とは考えていない。
一度は親密になったように見えた二人だが、マモルは突然テルコへの連絡を絶つ。数カ月後、久しぶりに呼び出されたテルコは、マモルが憧れている年上の女性・すみれと出会う。
マモルに愛されたいテルコ。
すみれに認められたいマモル。
親友の葉子を思い続けるナカハラ。
誰かに愛されることを避けながら、他人の好意を手放さない葉子。
本作では複数の片思いが連鎖し、登場人物たちは「好きな人には好かれず、好きではない人から好かれる」という残酷な関係の中に置かれていく。
考察1:テルコは本当に「都合のいい女」なのか
テルコを一言で表すなら、「都合のいい女」という言葉が最も分かりやすい。
マモルに呼ばれればすぐに行き、食事を作り、家事をし、冷たくされても怒らない。自分の仕事や友人関係よりも、マモルの都合を優先する。
しかし、本作におけるテルコは、単純な被害者ではない。
彼女はマモルから大切にされていないことに、まったく気づいていないわけではない。マモルが自分を恋人として見ていないことも、連絡が来るのは彼が寂しいときや困ったときだけであることも、心のどこかでは理解している。
それでもテルコは、関係を続ける。
なぜなら、彼女が求めているのは平等な恋愛関係ではなく、マモルを好きでいられる自分の状態だからだ。
テルコにとって重要なのは、「マモルに愛されているか」ではない。
マモルを中心に生活し、彼のことを考え、彼のために行動している時間そのものが、テルコの自己証明になっている。
つまりテルコは、マモルの都合に利用されていると同時に、自分もまたマモルを利用している。
マモルを好きでいることで、自分の人生に強烈な目的を与えているのだ。
考察2:テルコがマモルを諦められない本当の理由
テルコは、マモルのどこが好きなのだろうか。
映画を見ても、マモルが特別に優しい人物として描かれているわけではない。会話は自己中心的で、テルコへの態度には気まぐれさがある。彼女の好意を受け取りながら、責任を負うことは避け続けている。
それでもテルコはマモルに執着する。
ここで重要なのは、テルコが愛しているのが「現実のマモル」だけではないという点だ。
彼女が愛しているのは、マモルとの間にいつか成立するかもしれない関係であり、彼と一緒にいる未来であり、マモルに選ばれる自分である。
恋がかなわない期間が長くなるほど、その想像は現実から離れていく。
しかし、想像が壊されない限り、テルコは希望を持ち続けられる。
マモルが完全に彼女を拒絶せず、時折連絡をしてくることも、テルコの執着を強める原因になっている。手に入らないのに、完全には失われない。近づいたと思えば離れ、諦めようとすれば再び呼ばれる。
この不規則な距離感が、テルコを関係から抜け出せなくしている。
テルコの恋は、マモルへの愛情だけでできているのではない。
期待、習慣、自己否定、空想、そして「これまで費やした時間を無駄にしたくない」という感覚が混ざり合っている。
だからこそ、周囲が正論を述べても彼女には届かない。
恋をやめることは、相手を諦めることだけではなく、それまでの自分自身を否定することにもなってしまうからだ。
考察3:マモルはクズなのか
マモルの行動は、明らかに誠実とは言い難い。
テルコの好意を知りながら、必要なときだけ彼女を呼び出す。テルコには冷淡でありながら、自分が憧れるすみれの前では態度を変える。拒絶するなら関係を切ればよいのに、寂しくなると再びテルコを求める。
その意味では、マモルを「クズ男」と評価するのは間違いではない。
ただし、本作はマモルを特別な悪人として断罪してはいない。
マモルもまた、自分を好いてくれるテルコではなく、自分を選ばないすみれに引かれている。
手に入る好意には価値を感じず、手に入らない相手を追いかける。その姿は、テルコと正反対に見えて、実はよく似ている。
テルコはマモルを理想化し、マモルはすみれを理想化する。
テルコがマモルに振り回されているように、マモルもまた、すみれの言葉や態度に一喜一憂している。
今泉監督は、好きな相手の行為なら許せたり、周囲を傷つけていることに気づけなくなったりする感情は、程度の差こそあれ多くの人に存在すると説明している。
マモルの残酷さは、異常な人間の残酷さではない。
自分が愛されることよりも、自分が愛したい相手を優先してしまうという、恋愛のありふれた身勝手さなのである。
考察4:すみれはテルコの「恋敵」ではない
すみれは、テルコとは対照的な女性として登場する。
テルコがマモルの言動に振り回される一方、すみれは他人に合わせようとしない。マモルに好かれていても、その好意に応える義務を感じていない。
そのため、テルコから見れば、すみれはマモルを奪う恋敵である。
しかし、映画の中のすみれは、単純な悪役として描かれていない。
むしろ彼女は、テルコとマモルの歪んだ関係を、少し離れた場所から観察している。テルコの好意に気づきながらも、それを笑ったり、正論で矯正したりしようとはしない。
すみれは、他人の感情を自分の理解できる形に整理しない。
だからこそ、テルコはすみれを完全には嫌いになれない。
テルコとすみれは正反対に見えるが、どちらも他人から期待される「普通の女性像」には収まっていない。テルコは自尊心より恋を優先し、すみれは愛されることを幸福の条件にしない。
二人が並んでマモルの寝顔を見る場面では、恋敵同士というより、同じ不可解な人間を見つめる共犯者のようにも映る。
ここでは、女性同士が一人の男性を奪い合うという、恋愛映画の典型的な構図が崩されている。
考察5:ナカハラはテルコの「もう一つの可能性」
本作で最も重要な人物の一人が、葉子に思いを寄せるナカハラである。
ナカハラと葉子の関係は、テルコとマモルの関係によく似ている。
ナカハラは葉子に呼ばれれば会いに行き、彼女の気分に付き合い、恋人として選ばれないままそばに居続ける。葉子もまた、ナカハラの好意を受け入れながら、彼と正式な関係を結ぼうとはしない。
ナカハラは、いわば男性版のテルコである。
今泉監督自身も、ナカハラをテルコの鏡のような存在でありながら、最後にはテルコとは異なる決断をする人物として位置づけている。
二人の違いは、片思いの苦しさではない。
自分を選ばない相手から離れる決断ができるかどうかである。
ナカハラは葉子への思いを捨てたわけではない。それでも、自分が傷つき続ける関係から距離を置こうとする。
一方のテルコは、マモルに愛されないことを受け入れたうえで、なお関係を続ける方法を探そうとする。
ナカハラが自分を守るために相手から離れる人物なら、テルコは自分を失ってでも相手との接点を残そうとする人物だ。
本作は、ナカハラの決断だけを正解として提示しない。
だからこそ、観客はテルコに共感することも、嫌悪することも、心配することもできる。
考察6:葉子はなぜナカハラを手放さないのか
葉子はテルコに対して、マモルとの関係を冷静に見るよう忠告する。
ところが、葉子自身もナカハラの好意を利用している。
恋人になる気はない。しかし、完全に離れていかれるのも寂しい。自分が必要としたときには近くにいてほしい。
葉子とマモルは、異なる性格を持ちながら、よく似た立場にいる。
二人とも、自分に向けられた好意に応えることはできない。それでも、その好意が与えてくれる安心感までは手放したくない。
ここに『愛がなんだ』の残酷さがある。
誰かを傷つける人間が、必ずしも明確な悪意を持っているとは限らない。
寂しさを埋めたい。
一人になりたくない。
好かれている自分を失いたくない。
そうした小さな欲望の積み重ねが、相手を長く傷つけることがある。
そしてテルコもナカハラも、その不平等な関係に自分から参加している。
本作では加害者と被害者の境界が固定されない。登場人物全員が誰かを求め、誰かの好意を軽視し、別の誰かによって傷つけられている。
考察7:テルコの「マモルになりたい」という願い
物語の後半、テルコの願望は「マモルの恋人になりたい」という段階を越えていく。
彼女が本当に望んでいるのは、マモルに愛されることではない。
マモルのそばに存在し続けることだ。
恋人という関係は、別れれば終わる。友人という関係も、疎遠になれば消える。しかし、家族や血縁であれば簡単には切れない。そして最終的にテルコは、マモル本人になれればよいという地点にまで到達する。
これはロマンチックな愛の完成ではない。
むしろ、恋愛関係そのものの放棄である。
テルコは「マモルに愛される自分」になることを諦め、「マモルという存在を自分の内部に取り込む」方向へ進んでいる。
相手と結ばれたいのではなく、相手との境界を消したい。
この願いには、純粋さと恐ろしさが同居している。
恋愛には通常、「私」と「あなた」という二人の主体が必要である。しかしテルコの感情は、相手との相互関係を必要としない。マモルが何を望んでいるかとは無関係に、彼女の中だけで完結できてしまう。
それはもはや恋愛というより、信仰に近い。
ラストの象は何を意味するのか
映画のラストでは、テルコが象の飼育員として象に餌を与える幻想的な映像が挿入される。
マモルは以前、将来は象の飼育員になりたいという趣旨の話をしていた。
そのため、象の飼育員になったテルコの姿は、彼女がマモルの夢を引き継いだ、あるいはマモルそのものになろうとしていることを示していると考えられる。
ただし、この場面をテルコの自立と解釈するか、執着の完成と解釈するかで、作品の印象は大きく変わる。
解釈1:テルコはマモルから自立した
一つ目は、テルコがマモルに依存するだけの自分を卒業し、自らの人生を歩き始めたという解釈である。
これまでのテルコは、マモルの行動を支えるだけだった。
しかしラストでは、マモルが口にしていた夢を、テルコ自身が実行している。
マモルに選ばれるのを待つのではなく、自分で行動する人間になったとも読める。
解釈2:テルコの執着はさらに深くなった
一方で、ラストは自立ではなく、テルコが完全にマモルへ同化したことを示す場面とも解釈できる。
彼女は自分の夢を見つけたのではない。
マモルの何気ない言葉を自分の人生に変え、彼の代わりになることで関係を永続させようとしている。
マモルに愛されなくても、マモルになれば離れる必要はない。
この解釈では、ラストは希望ではなく、テルコの自己消失を描いた恐ろしい場面になる。
今泉監督はこのラストについて、救いにも絶望にも見え、現実か夢かも曖昧な場面として、観客の解釈に委ねたと語っている。
おそらく重要なのは、どちらか一方に決めることではない。
テルコは少し前に進んだようにも見えるし、以前より深くマモルに取り込まれたようにも見える。
人が執着から抜け出す過程は、必ずしもきれいな直線ではない。
前進と後退、諦めと未練、自立と依存が同時に存在する。その矛盾を一枚の映像に閉じ込めたのが、ラストの象なのである。
タイトル『愛がなんだ』の意味
「愛がなんだ」というタイトルには、複数の意味が込められている。
一つは、「こんな感情を愛と呼べるのか」という疑問だ。
テルコの感情は一途だが、相手の意思を尊重した成熟した愛とは言い難い。マモルを好きでいることによって、自分の生活も周囲との関係も壊していく。
もう一つは、「愛だから何だというのか」という開き直りである。
愛が人を幸福にするとは限らない。
愛していれば報われるわけでも、正しい人間になれるわけでもない。誰かを愛することで身勝手になり、別の誰かを傷つけることもある。
それでも人は、簡単には好きになることをやめられない。
愛を美しいものとして神聖化するのでもなく、依存や執着として完全に否定するのでもない。
名前をつけても整理できない感情に対して、投げかけられる言葉が「愛がなんだ」なのだろう。
『愛がなんだ』が気持ち悪いと感じる理由
本作を見て、テルコを「気持ち悪い」と感じる観客は少なくないだろう。
その理由は、彼女が社会的な自尊心をあまりにも簡単に捨ててしまうからである。
冷たくされれば怒る。
大切にされなければ離れる。
自分の生活を守る。
私たちは通常、そのような態度を健全な人間関係の条件としている。
しかしテルコは、それらをほとんど必要としない。愛されなくても好きでいる。報われなくても相手を優先する。
観客がテルコに感じる不快感は、彼女の異常さだけから生まれるのではない。
多くの人が心の中に持ちながら、理性や自尊心によって隠している感情を、テルコが隠さず実行してしまうからだ。
好きな人からの連絡を待つ。
嫌われたくなくて無理をする。
都合よく扱われていると分かっていても、関係が切れるよりはましだと思う。
テルコの行動は極端だが、感情そのものは決して珍しくない。
彼女を完全に他人事として笑えないことが、『愛がなんだ』の居心地の悪さにつながっている。
『愛がなんだ』が描いたもの
『愛がなんだ』は、都合のいい女が悪い男から解放される映画ではない。
また、純粋な片思いの美しさを描いた作品でもない。
本作が描いたのは、人が他者を好きになるときに生まれる、矛盾と身勝手さである。
誰かを愛する気持ちは美しい。
しかしその愛は、自分を壊すことも、相手を縛ることも、無関係な人を傷つけることもある。
テルコは愚かで、滑稽で、危うい。
それでも彼女の感情には、正論だけでは処理できない切実さがある。
『愛がなんだ』が観客に残すのは、「テルコは間違っている」という明快な結論ではない。
自分は誰かを愛したとき、テルコにならずにいられるだろうか。
マモルや葉子のように、誰かの好意を都合よく受け取ったことはなかっただろうか。
ナカハラのように、好きなまま離れる決断ができるだろうか。
本作は、登場人物の恋愛を観察する映画でありながら、最終的には観客自身の身勝手さを映す鏡となる。
まとめ
映画『愛がなんだ』におけるテルコは、単にマモルに依存しているだけではない。
マモルを愛することを、自分が生きる目的にしている。
マモルはその好意を拒絶しきれず、葉子もナカハラを手放せない。登場人物たちは皆、愛されたい相手には愛されず、自分を愛する相手には応えられない。
そしてラストの象は、テルコが自立した証にも、マモルへの執着が完成した証にも見える。
愛は人を救うのか。
それとも、自分を失わせるのか。
『愛がなんだ』はその問いに答えない。
答えを出さないからこそ、観客は映画を見終えたあとも、テルコの人生と自分自身の恋愛について考え続けることになるのである。

