人間には、できなかったことをできるようにしてきた歴史があります。
空を飛ぶ。
遠くの人と瞬時に会話する。
病気の原因を調べる。
膨大な情報を短時間で処理する。
技術の進歩によって、かつては不可能だったことが次々と現実になりました。
では、技術的に可能であることは、実行してもよいことを意味するのでしょうか。
映画『ジュラシック・パーク』で、数学者イアン・マルコムは、恐竜を現代によみがえらせたジョン・ハモンドたちを厳しく批判します。
“Your scientists were so preoccupied with whether or not they could that they didn’t stop to think if they should.”
日本語にすると、おおよそ次のような意味です。
「あなたたちの科学者は、できるかどうかに夢中になり、すべきかどうかを考えなかった」
科学者たちは、失われた恐竜のDNAを復元し、絶滅した生物を再生することに成功しました。
それは人類史に残る偉業です。
しかしマルコムが問題にしたのは、技術の完成度ではありません。
その技術を何のために使うのか。
失敗したとき、誰が危険を引き受けるのか。
新しく生み出した生命に対して、どのような責任を負うのか。
ハモンドたちは、成功する方法を考えることに集中し、成功した後に起きることを十分に考えていませんでした。
『ジュラシック・パーク』が描く本当の恐怖は、恐竜が人間を襲うことだけではありません。
優れた能力を持つ人間が、自分にはそれを使う資格もあると思い込むことなのです。
※この記事は映画の重要な展開と結末に触れています。
- 映画『ジュラシック・パーク』とは
- 名言「できるかではなく、すべきか」が登場する場面
- 「できる」という事実は「してよい」という許可ではない
- ハモンドがつくったのは自然ではなく「商品」
- 発見と発明の違いを飛び越えたハモンド
- パークの崩壊はネドリー一人のせいではない
- 「管理できる」という自信が最大の弱点になった
- カオス理論は「何も予測できない」という意味ではない
- 「生命は道を見つける」という言葉の意味
- 恐竜は本当に「悪者」なのか
- ハモンドの夢は悪意から始まったわけではない
- 専門家を招きながら、意見を求めていなかった
- エリーがハモンドへ突きつけた「現実」
- 子どもたちが危険を負う構図の意味
- アラン・グラントの役割は恐竜を倒すことではない
- 『ジュラシック・パーク』は科学技術を否定していない
- 技術は中立なのか
- 現代を生きる私たちにも同じ問いが向けられている
- 新しい技術を判断するときに必要な五つの視点
- 「すべきか」を考えることは、進歩を止めることではない
- ハモンドが最後に失ったもの
- まとめ――本当の責任は、成功した後から始まる
映画『ジュラシック・パーク』とは
『ジュラシック・パーク』は、マイケル・クライトンの小説を原作として、スティーヴン・スピルバーグが監督した1993年公開のSFアドベンチャー映画です。
大富豪ジョン・ハモンドは、コスタリカ沖の孤島イスラ・ヌブラルに、遺伝子技術によって再生した恐竜を展示するテーマパークを建設します。
正式な開園を前に安全性を確認するため、古生物学者アラン・グラント、古植物学者エリー・サトラー、カオス理論を専門とする数学者イアン・マルコムらが島へ招待されます。
ところが、システム担当者デニス・ネドリーの破壊工作によって電力と安全装置が停止し、恐竜たちが管理区域から脱出。島に残された人々は、生き延びるための戦いを強いられます。
本作は第66回アカデミー賞で、録音賞、音響効果編集賞、視覚効果賞の3部門を受賞しました。アカデミーは本作について、ストップモーションからCGアニメーションへ移行する映画史上の転換点となり、その映像技術が映画制作を変えた作品だと紹介しています。
つまり『ジュラシック・パーク』は、先端技術の危険を描きながら、映画表現そのものでは先端技術を大胆に活用した作品です。
だからこそ本作は、科学技術を否定する映画ではありません。
技術のすばらしさを知っているからこそ、それを扱う人間の責任を問いかけているのです。
名言「できるかではなく、すべきか」が登場する場面
マルコムの名言が登場するのは、ハモンドと招待客たちが昼食を取りながら、ジュラシック・パークの価値について議論する場面です。
ハモンドは、自分の科学者たちが誰にも成し遂げられなかったことを実現したと誇ります。
絶滅した恐竜を現代によみがえらせる。
その成果を世界中の人々に見せる。
子どもたちへ、本物の恐竜と出会う感動を与える。
ハモンドにとって、パークは長年の夢を形にした場所です。
一方、マルコムは、その偉業を手放しでは称賛しません。
科学者たちは恐竜をつくれるかどうかに集中し、それをつくるべきなのかを考えなかったと指摘します。
この対立は、科学を信じる者と科学を嫌う者の争いではありません。
マルコムも科学者です。
彼が批判しているのは科学そのものではなく、問いの順番です。
ハモンドたちは最初に、
「恐竜を再生できるだろうか」
と考えました。
しかし本来は、その前後に、
「再生してよいのか」
「再生した生命を管理できるのか」
「管理できなかった場合、誰が責任を取るのか」
という問いが必要でした。
方法が完成してから倫理を考えるのでは遅い場合があります。
成功した瞬間に、取り返しのつかない変化が始まる技術もあるからです。
「できる」という事実は「してよい」という許可ではない
人間は、能力を手に入れると、その能力を使いたくなります。
難しい問題を解決したい。
誰も成功していないことを達成したい。
自分の才能や研究成果を証明したい。
その好奇心が、科学や文化を発展させてきました。
しかし、能力と権利は同じではありません。
扉を開けられるからといって、入ってよいとは限らない。
情報を集められるからといって、本人の同意なく利用してよいとは限らない。
生命をつくれるからといって、目的も責任も曖昧なまま誕生させてよいとは限らない。
ハモンドは「つくることに成功した」という事実を、自分の判断が正しかった証拠として扱います。
しかし成功は、手段が機能したことを示すだけです。
目的が正しいことも、社会的に受け入れられることも、安全であることも証明しません。
恐竜が生まれた瞬間、科学的な実験は成功しています。
しかし同時に、倫理的な問題は始まっています。
ハモンドがつくったのは自然ではなく「商品」
ハモンドは、自分が失われた自然を復活させたと考えています。
しかし、ジュラシック・パークにいる恐竜は、太古の世界からそのまま連れてこられた存在ではありません。
琥珀の中の蚊から採取したDNAの欠損部分を、カエルのDNAなどで補い、現代の研究施設で生み出された生命です。
さらに繁殖を防ぐため、すべてメスになるよう設計されています。
彼らは自然の中で生まれた恐竜というより、人間の目的に合わせて再構成された生命です。
どの種類をつくるか。
何頭つくるか。
どの区域へ入れるか。
観客にどのように見せるか。
すべて人間が決めています。
ハモンドが望んでいるのは、生態系の復元ではありません。
人間が安全な場所から眺め、驚き、入場料を払うための恐竜です。
だからパークには、研究施設だけでなく、観光用の自動車、レストラン、土産物、映画による説明、キャラクター化された案内役が用意されています。
生命は、誕生した瞬間から商品として設計されているのです。
マルコムが違和感を抱くのは、科学者が恐竜をつくったことだけではありません。
何百万年もの進化の結果である生命を、テーマパークの目玉として所有できると考えたことです。
発見と発明の違いを飛び越えたハモンド
マルコムは、ハモンドたちが先人の研究成果を利用しながら、急速に結果へ到達したことも問題視しています。
長い年月をかけて自然を観察し、失敗を重ね、知識を積み上げたわけではない。
すでにある技術を組み合わせ、恐竜という目に見える成果を生み出しました。
ここで重要なのは、努力したかどうかではありません。
成果へ到達する過程で、その力に対する敬意や慎重さを身につける時間がなかったことです。
困難な技術を長く研究してきた人は、その技術の限界や危険性も知っています。
何が分かっていないのか。
どこで失敗しやすいのか。
どのような条件では使うべきでないのか。
しかし成果だけを短期間で手に入れると、自分にはすべてを理解し、制御できているという錯覚を抱きやすくなります。
ハモンドは恐竜を誕生させました。
けれど、恐竜が生きるということを理解してはいません。
パークの崩壊はネドリー一人のせいではない
ジュラシック・パークの安全システムを停止させた直接の人物は、コンピュータープログラマーのデニス・ネドリーです。
彼は恐竜の胚を盗み出すため、監視や電気柵を一時的に無効化します。
その結果、ティラノサウルスやヴェロキラプトルが管理区域から脱出します。
そのため、事件はネドリーという一人の裏切り者によって起こされたように見えます。
しかし、ネドリーがいなければパークは安全だったのでしょうか。
おそらく問題は、もっと深いところにあります。
一人の担当者が広大な施設の重要なシステムへ強い権限を持っている。
停電すると、危険な生物を閉じ込める仕組みまで機能しなくなる。
従業員と経営者の間に、待遇や信頼をめぐる不満がある。
想定外の事態が起きたとき、安全を保つための代替手段が不足している。
パークは、すべてが予定どおりに動くことを前提に設計されています。
それは安全なシステムではありません。
失敗しないことへ依存しているシステムです。
本当に安全な仕組みとは、誰も間違えない仕組みではありません。
誰かが間違えても、被害が広がらない仕組みです。
ネドリーの裏切りは事故の引き金でした。
しかし、たった一人の判断で壊滅する設計をつくった責任まで、彼だけに負わせることはできません。
「管理できる」という自信が最大の弱点になった
ハモンドたちは、恐竜を管理するためにいくつもの仕組みを用意しています。
高電圧の柵。
監視カメラ。
コンピューターによる個体管理。
自動運転車。
繁殖を防ぐための性別操作。
施設から離れて生きられないようにする仕掛け。
一つひとつを見ると、よく考えられているように見えます。
しかし、すべての仕組みには共通した前提があります。
恐竜は、人間が予測したとおりに行動する。
ところが生命は、設備の一部ではありません。
周囲の環境に反応します。
学習します。
繁殖します。
生き延びる方法を探します。
ハモンドたちは恐竜を生きた存在としてではなく、精密に設計されたアトラクションとして考えていました。
だから予想外の行動を、最初から設計の中へ入れられなかったのです。
完全な管理を目指した結果、管理から外れた瞬間への備えが弱くなっていました。
カオス理論は「何も予測できない」という意味ではない
イアン・マルコムは、カオス理論を専門とする数学者です。
彼は、複雑なシステムでは小さな変化が大きな結果へつながり、長期的な予測が極めて難しくなることを指摘します。
だからといって、マルコムが「どうせ何も分からないから、何もするな」と言っているわけではありません。
分からない部分があることを前提に行動しろ、と警告しているのです。
ハモンドの考え方では、十分なデータと設備があれば、パーク全体を制御できます。
マルコムの考え方では、生命、人間、天候、設備、組織といった要素が相互に影響する以上、完全な制御はできません。
この違いは大きいでしょう。
完全に制御できると思えば、効率を優先して安全の余白を削れます。
完全には制御できないと理解していれば、予想外の事態が起きても被害を抑えられるように設計します。
謙虚さは、科学を弱くするものではありません。
分からないことを認めることで、科学をより安全に使うための姿勢です。
「生命は道を見つける」という言葉の意味
マルコムを象徴するもう一つの考え方が、「生命は道を見つける」というものです。
ハモンドたちは、すべての恐竜をメスにしたため、自然繁殖は起こらないと考えていました。
しかしグラントは、島で恐竜の卵を発見します。
遺伝子配列の欠損を補うために使われた生物の性質が、予想外のかたちで繁殖を可能にしていたことが示唆されます。
人間は、生命を設計したつもりでした。
けれど実際には、生命がどのように環境へ適応するかまで決めることはできませんでした。
「生命は道を見つける」という言葉は、自然は神秘的だから人間には何もできないという意味ではありません。
生命を部品のように扱い、一つの性質を変えればすべてを制御できると考えることへの警告です。
生命は、設計図の上に静止しているものではありません。
変化し、適応し、周囲との関係によって新しい性質を見せます。
つくった瞬間に完成する製品とは違うのです。
恐竜は本当に「悪者」なのか
映画の中で、ティラノサウルスやヴェロキラプトルは人間を襲います。
観客にとって、彼らは恐怖の対象です。
しかし恐竜たちは、悪意によってパークを破壊しているわけではありません。
人間を困らせる計画を立てたわけでもない。
彼らは、知らない時代へ突然生み出され、人間が決めた狭い区域へ閉じ込められています。
そして柵がなくなれば、自分の本能に従って行動します。
危険な肉食動物が獲物を追うことは、その動物にとって自然な行動です。
本作の悲劇を生んだのは、恐竜が怪物だったことではありません。
危険な性質を持つ生命を、人間が娯楽施設の中で安全に管理できると考えたことです。
恐竜は、ハモンドの計画を失敗させる悪役ではない。
計画の前提そのものが間違っていたことを示す存在なのです。
ハモンドの夢は悪意から始まったわけではない
ハモンドは、世界を破壊しようとする悪人ではありません。
人々へ驚きと感動を与えたいと願っています。
子どもが本物の恐竜を見て目を輝かせる。
誰も体験したことのない世界をつくる。
科学の成果を、一部の研究者だけでなく多くの人に届ける。
その夢には、善意があります。
だからこそ『ジュラシック・パーク』は難しい問いを投げかけます。
悪い目的から生まれた技術だけが危険なのではありません。
善意や理想から始まった計画も、責任の仕組みがなければ人を傷つけます。
「喜ばせたかった」
「役に立つと思った」
「悪気はなかった」
それらは動機の説明にはなります。
しかし、起きた被害への責任を消すものではありません。
善意がある人ほど、自分の計画は正しいと思い込みやすいことがあります。
反対する人を、夢を理解しない悲観的な人間だと考えてしまう。
ハモンドに必要だったのは、夢を捨てることではありません。
夢を疑う人の声を、敵意ではなく安全装置として受け止めることでした。
専門家を招きながら、意見を求めていなかった
ハモンドは、グラント、エリー、マルコムといった専門家を島へ招きます。
表面的には、外部の意見を聞こうとする開かれた姿勢に見えます。
しかし彼が本当に望んでいたのは、計画の再検討ではありません。
パークの安全性と価値を認めてもらうことです。
専門家の役割が、問題を発見することではなく、すでに決まっている計画へ承認を与えることになっています。
専門家が危険性を指摘すると、ハモンドは失望します。
科学者たちがパークのすばらしさを理解していないと感じる。
しかし、外部の意見を聞く意味は、自分が聞きたい答えを言ってもらうことではありません。
内部の人間には見えなくなった問題を発見してもらうことです。
計画へ多くの時間と資金を投じた人ほど、中止や変更を受け入れにくくなります。
ここまで進めたのだから成功させたい。
自分の人生を懸けた夢を否定されたくない。
その感情は自然です。
だからこそ、自分とは違う立場から危険性を指摘できる人が必要になります。
エリーがハモンドへ突きつけた「現実」
パークの状況が崩壊した後、ハモンドはビジターセンターでアイスクリームを食べながら、次にパークをつくるなら何を改善するかを考えます。
彼の頭の中では、まだ問題が設計や設備の不備として処理されています。
もっと安全にする。
同じ間違いを繰り返さない。
次は成功させる。
しかしエリーは、必要なのは次の計画ではなく、今ここで苦しんでいる人々を助けることだと伝えます。
ハモンドが見ているのは未来の完成したパークです。
エリーが見ているのは、現在危険にさらされている孫たちや仲間です。
理想に夢中になると、目の前で起きている現実が、夢へ到達する途中の小さな障害に見えることがあります。
事故を起こした後も、
「次は改善できる」
と考えることは大切です。
しかしその前に、
「今、誰が傷ついているのか」
「自分が最初に果たすべき責任は何か」
を見なければなりません。
未来の改善案は、現在の責任から逃げるためにも使えてしまうのです。
子どもたちが危険を負う構図の意味
ハモンドは、自分の孫であるレックスとティムをパークへ招待します。
子どもたちに恐竜を見せ、夢のような体験をさせたいと考えたのでしょう。
しかし安全装置が停止すると、最も弱い立場の二人が、恐竜のいる区域に取り残されます。
ここには技術開発における重要な問題が表れています。
ある決定を下す人と、その決定による危険を負う人が同じとは限らない。
計画を承認する人は、安全な場所にいる。
利益を得る人と、事故の影響を受ける人が異なる。
危険性を十分に理解できない人が、実験や事業の影響を受ける。
ハモンドは、孫たちを危険にさらしたいとは思っていません。
むしろ深く愛しています。
それでも、自分のシステムは安全だという確信によって、二人を実質的な試験運用へ参加させてしまいました。
「自分の家族を連れてきたのだから、安全性を信じていた」
という事実は、誠実さを示すかもしれません。
しかし、安全だったことの証明にはなりません。
強く信じていることと、十分に確認されていることは違うからです。
アラン・グラントの役割は恐竜を倒すことではない
アラン・グラントは恐竜の専門家ですが、パーク内では武器や特殊能力によって恐竜を倒すわけではありません。
彼が行うのは、恐竜の行動を観察し、危険を避け、子どもたちを守ることです。
知識は、自然を支配するためではなく、自然の中で生き延びるために使われます。
ハモンドは知識を、生命をつくり、展示し、管理するために使いました。
グラントは知識を、人間の限界を理解し、相手の行動を予測するために使います。
二人の違いは、知識量ではありません。
知識によって自然より上へ立とうとするか、自然との距離を正しく測ろうとするかです。
本当に専門知識を持つ人ほど、「分かっていないこと」が見える場合があります。
ハモンドには、専門家の慎重さが臆病に見えました。
しかし、その慎重さこそが、危険な状況で子どもたちを守る力になったのです。
『ジュラシック・パーク』は科学技術を否定していない
本作を、科学の進歩は危険だから止めるべきだという映画として理解すると、その魅力を狭めてしまいます。
映画は、初めてブラキオサウルスを目撃するグラントたちの感動を、壮大な音楽と映像で描きます。
恐竜が現代に存在する光景は、純粋に美しく、心を動かすものとして表現されています。
さらに映画そのものも、CG、アニマトロニクス、音響技術を組み合わせ、当時の映画表現を大きく進歩させました。アカデミーも本作を、視覚効果の転換点となった作品と位置づけています。
技術は、人間へ驚きや感動を与えます。
不可能だった表現を可能にし、新しい知識や体験を生み出します。
問題は、技術が進歩することではありません。
技術の進歩に、倫理、制度、説明責任、安全性の検討が追いつかないことです。
恐れるべきなのは、できることが増えることではない。
できることが増えた自分たちは、すべてを理解していると思い込むことなのです。
技術は中立なのか
「技術そのものに善悪はなく、使う人間次第だ」と言われることがあります。
確かに、同じ技術でも使い方によって結果は変わります。
しかし技術は、完全に中立な道具とも限りません。
何を目的として設計されたのか。
誰が使えるようになっているのか。
どの行動を簡単にし、どの行動を難しくしているのか。
そこには開発者や運営者の価値観が反映されます。
ジュラシック・パークの設備は、恐竜を研究することより、効率よく観客へ見せることを中心に設計されています。
自動運転車は決められたコースを進み、観客が自由に行動しないことを前提にする。
恐竜の行動も、プログラムされた見世物のように扱われる。
そこには、自然は人間の計画へ従うという思想が組み込まれています。
技術を評価するときは、性能だけを見るべきではありません。
その技術が、どのような社会や人間関係を前提としているのかも考える必要があります。
現代を生きる私たちにも同じ問いが向けられている
現在の私たちも、次々と新しい技術に出会います。
人間の代わりに文章や画像を生成する技術。
個人の行動を大量に記録し、傾向を予測する仕組み。
生命の設計図へ直接働きかける技術。
人の注意を長時間引きつけるサービス。
こうした技術について、最初に話題になるのは、多くの場合「何ができるか」です。
どれほど速いのか。
どれほど正確なのか。
どれほど便利なのか。
どれほど利益を生むのか。
しかしマルコムの名言は、その次の問いを忘れるなと伝えています。
それを使うことで、誰が利益を得るのか。
誰が仕事や権利を失う可能性があるのか。
間違った結果が出たとき、誰が責任を取るのか。
一度広まった後に、元へ戻すことができるのか。
人間が判断すべきことまで、仕組みに任せようとしていないか。
「すべきか」という問いには、必ず一つの正解があるわけではありません。
だからこそ、面倒でも議論しなければならないのです。
新しい技術を判断するときに必要な五つの視点
『ジュラシック・パーク』の失敗から考えると、新しい技術や計画を評価するときには、少なくとも五つの視点が必要になります。
一つ目は、目的です。
その技術によって、本当は何を実現したいのか。
便利さや利益だけでなく、解決しようとしている問題を明確にする必要があります。
二つ目は、利益を得る人と危険を負う人です。
意思決定をする人だけが恩恵を受け、別の人が事故や損失を引き受ける構造になっていないかを確認しなければなりません。
三つ目は、失敗した場合の被害です。
成功する確率だけでなく、失敗したときにどこまで影響が広がるのかを考えます。
四つ目は、元へ戻せるかどうかです。
問題が分かった後に中止できる技術と、一度実行すれば取り消せない技術では、必要な慎重さが違います。
五つ目は、責任を負う主体です。
事故が起きたとき、開発者、経営者、利用者の誰が対応するのか。責任の所在が曖昧なまま、大きな力だけを社会へ広げてはいけません。
ハモンドのパークには、すばらしい技術がありました。
しかし、この五つの問いへ答える仕組みが不足していました。
「すべきか」を考えることは、進歩を止めることではない
慎重な意見を出すと、進歩に反対していると思われることがあります。
危険性ばかり話していては、新しいものは何も生まれない。
失敗を恐れていては、革新できない。
確かに、すべての危険をゼロにすることはできません。
未知のことへ挑戦する以上、予想できない失敗は起きます。
しかし「すべきか」を問うことは、何もするなという意味ではありません。
より良い方法で進むための問いです。
小規模な範囲から始める。
独立した専門家に検証してもらう。
異常が起きたとき、自動的に安全な状態へ戻るようにする。
影響を受ける人へ説明し、同意を得る。
利益より安全を優先できる権限を現場へ与える。
慎重さは、進歩の敵ではありません。
進歩が一度の事故によって失われないようにするための土台です。
ハモンドが最後に失ったもの
パークから脱出するヘリコプターの中で、ハモンドは自分の杖についた琥珀を見つめます。
その琥珀は、彼の夢の象徴でした。
古代の蚊に残されたDNAから、失われた生命を取り戻す。
誰も見たことのない世界をつくる。
しかし島を離れるハモンドは、以前のように夢を誇ることができません。
彼が失ったのは、テーマパークだけではないでしょう。
自分は善意と技術によって、すべてを正しく管理できるという確信です。
人は失敗によって、夢そのものを失うことがあります。
しかし、より重要なのは、夢の持ち方を変えることです。
夢を実現できるかだけを考えるのではなく、その夢によって誰が影響を受けるかを考える。
自分が正しいと証明するためではなく、必要なら途中でやめる勇気を持つ。
ハモンドに足りなかったのは、夢への情熱ではありません。
夢よりも現実を優先する覚悟だったのです。
まとめ――本当の責任は、成功した後から始まる
『ジュラシック・パーク』の名言、
「あなたたちの科学者は、できるかどうかに夢中になり、すべきかどうかを考えなかった」
この言葉は、科学者だけに向けられたものではありません。
新しいものをつくる人。
大きな計画を決定する人。
便利な仕組みを導入する人。
強い影響力を持つすべての人に向けられています。
ハモンドたちは、恐竜を再生できることを証明しました。
技術的には成功しています。
しかし、その成功によって新たに生まれた責任を理解していませんでした。
生命をつくったなら、その生命が生きる環境へ責任を持たなければならない。
危険な施設をつくったなら、事故が起きても人を守れる仕組みが必要になる。
他人を計画へ参加させるなら、危険性を説明し、拒否する権利を認めなければならない。
できなかったことをできるようにする瞬間は、達成感に満ちています。
しかし、その瞬間は物語の終わりではありません。
責任の始まりです。
私たちは、「できない」と言われたことへ挑戦する人を称賛します。
その勇気は、社会を前へ進めます。
同時に、できるようになった後で立ち止まり、
「本当に使うべきなのか」
「誰のために使うのか」
「失敗したとき、誰を守るのか」
と考える勇気も必要です。
能力があることは、許可ではありません。
善意があることは、安全の証明ではありません。
成功したことは、正しかったことと同じではありません。
マルコムが恐れていたのは、科学の力ではないでしょう。
力を手にした人間が、自分の判断だけで十分だと考えることです。
ジュラシック・パークを崩壊させたのは、恐竜の凶暴さだけではありません。
生命も自然も人間も、自分の計画どおりに動かせるという思い上がりでした。
だからこの名言は、技術が発展し続ける時代に、ますます重い意味を持ちます。
新しいことが可能になったとき、最初に聞こえてくるのは、
「何ができるのか」
という興奮です。
しかし社会の未来を決めるのは、その次の問いです。
「それを、私たちは本当にすべきなのか」
できることの大きさではなく、その力をどのように扱うか。
そこに、人間の知性だけでなく、倫理と責任が試されているのです。

