スタジオジブリの異色作として知られる『かぐや姫の物語』(2013年)は、日本最古の物語「竹取物語」を基にしつつも、その枠を大きく超えて、現代人の心に深く問いかける作品です。
高畑勲監督によるこのアニメーション映画は、その独特のビジュアルや音楽はもちろん、テーマの深さ、キャラクターの内面描写によって多くの観客に衝撃を与えました。本記事では、以下の観点から本作を多角的に考察・批評していきます。
生と死の狭間 ― 『かぐや姫の物語』における死生観と別れの意味
『かぐや姫の物語』の根底には、「生きるとは何か」「死とは何か」というテーマが流れています。
- 月から来たかぐや姫は、地上で生まれ育ち、人間の「生」を体験します。草花や自然との触れ合い、友情、恋、悲しみ、孤独——それらをすべて受け入れていきます。
- しかし、最終的には月に“連れ戻される”ことで、彼女の「地上の生」は強制終了します。この結末は、「死」とも取れる象徴的な別れとして描かれています。
- かぐや姫が涙ながらに地球に別れを告げる場面は、「この世で生きることの喜びと悲しみが混在している」という高畑監督のメッセージを体現しているといえるでしょう。
本作は「死を恐れるな」ということではなく、「いま、ここにある生の輝きを感じてほしい」と静かに訴えかけてきます。
自由と束縛 ― ジェンダー観と女性の視点から見るかぐや姫
かぐや姫の成長物語は、単なる昔話の枠を超え、「女性の自由」や「社会の期待」という現代的テーマを孕んでいます。
- 里で自由に育っていた少女が、都に連れていかれ、「姫」としての役割を押しつけられる過程は、まさにジェンダーによる制約の象徴。
- 男性からの求婚や、父親の期待に縛られ、かぐや姫は自分自身の「声」を失っていきます。
- 最も象徴的なのは、求婚者たちが「理想の姫」を一方的に投影し、それに応えるように迫る場面。ここには、現代社会における「女性像の押し付け」への批判が込められているように見えます。
この視点から見ると、『かぐや姫の物語』は女性の主体性や生き方の多様性についての問いを投げかけるフェミニズム的な作品とも捉えられます。
自然 vs 都市 ― 成長と環境の対比が描くもの
本作の大きなテーマの一つは、「自然の中でのびのびと生きること」と「社会の中で型にはめられて生きること」の対比です。
- 田舎での生活は、四季の移ろいや土の匂い、人々との関わりといった“本来的な人間の営み”に満ちています。
- 一方、都の生活は、美しく飾られた反面、抑圧と規律、虚飾に満ちた世界として描かれています。
- かぐや姫は都での生活に違和感を覚え、自然の中で走り回っていた自分を思い出し、「戻りたい」と叫びます。
この対比は、現代社会における「都市化」と「自然との乖離」にも通じるものがあり、私たちが本来の人間らしさをどこに見出すのかを問いかけています。
伝統神話から現代への再解釈 ― 竹取物語の「罪・罰・記憶」をどう読むか
高畑勲は「竹取物語」を単にアニメ化したのではなく、まったく新しい意味を与えて再構築しています。
- 原作にはない「罪」というキーワードが登場し、かぐや姫が月の世界に帰る理由として提示されます。
- この「罪」とは何か?——人間の喜びを知ってしまったことなのか、自ら望んで地上に来たことへの罰なのか。解釈は多様に広がります。
- また、月に戻る際にかぐや姫が「記憶を消される」ことも非常に象徴的です。これは「生きた意味」が失われることへの恐れを表しているともいえるでしょう。
神話的な物語を通して、人間の存在意義や、自分自身の人生を「覚えていること」の重みを深く考えさせる演出です。
映像・音楽・表現美 ― 高畑勲が紡ぐアニメーションの力
『かぐや姫の物語』のもう一つの魅力は、何といってもその“アニメーション表現”の革新性です。
- 水彩画のような淡いタッチで描かれる背景、鉛筆線が残るようなキャラクター描写は、ジブリ作品でも類を見ないスタイル。
- 特に、かぐや姫が都から逃げ出すシーンでの“筆の勢いそのままに描かれる爆発的な動き”は、観客の感情とシンクロするような力強さがあります。
- 音楽もまた重要で、久石譲の作曲に加え、わらべ唄の挿入など、音と視覚が一体化して世界観を形作っています。
こうした表現は、「アニメーションだからこそできること」に徹底的にこだわった高畑監督の集大成と言えるでしょう。
おわりに|『かぐや姫の物語』が私たちに問いかけるもの
『かぐや姫の物語』は、子ども向けアニメと思われがちな外見とは裏腹に、大人がこそ噛みしめるべき深遠なテーマを含んだ作品です。
- 「生きることの意味」「自由とはなにか」「人間らしくあるとは」——この映画は、観るたびに違う問いを投げかけてきます。
- 絵本のような美しさと、人間の本質をえぐるような鋭さを併せ持つこの作品は、まさに現代における“新たな神話”といえるでしょう。