映画「来る」は、ただの心霊ホラーではありません。怖いのは“見えない何か”よりも、家族の中に最初からあった嘘や歪みが、怪異を呼び込む「入口」になってしまうところ。中島哲也監督らしい過剰な演出と、現代的な生活の息苦しさがぶつかり合い、観終わったあとにじわじわ効いてくるタイプの作品です。
この記事では、ネタバレありで、物語の三部構成(視点の入れ替え)が仕掛けるトリック、“あれ”の正体を断定できない理由、虫や幼虫のモチーフが示すもの、そして終盤の大祓シーンが「祭り」として立ち上がる意味までを整理します。
さらに、原作との違いを踏まえつつ、ラストに残る不穏――「勝ったはずなのに、なぜ後味が悪いのか?」を、できるだけ噛み砕いて読み解いていきます。観た直後のモヤモヤを言語化したい人も、「結局あれ何だったの?」を整理したい人も、ここから一緒に深掘りしていきましょう。
映画の概要と原作情報
映画『来る』は、中島哲也監督が、澤村伊智の小説ぼぎわんが、来るを映像化したホラー・エンタメ作品。2018年12月7日公開で、物語は「名も呼べない何か=“あれ”」が一家に近づき、霊能者たちが対峙していく流れです。岡田准一、妻夫木聡、黒木華、松たか子、小松菜奈らが揃い、家族劇/社会劇の顔も強いのが特徴です。
原作は三部構成で視点人物が入れ替わりながら、“来るもの”の恐怖と「家族」という密室の歪みを濃くしていくタイプ。映画もこの骨格を活かしつつ、終盤でより「見世物=儀式」へ大きく舵を切ります。
ネタバレなしで押さえるあらすじと見どころ
本作の見どころは、ホラーの皮をかぶった“人間ドラマのえげつなさ”です。前半は「幸せそうな家庭」の映像が長く続き、観客が油断した頃に、説明不能な違和感がじわじわ侵食していく。この「幸福の押し付け」→「崩壊」の落差が、幽霊よりも現実的に怖い。
そして後半、霊能者サイドが前面に出てからは一転して“お祓いスペクタクル”へ。ホラーが苦手でも「祭りを観る」テンションで最後まで走り切れるのが、『来る』が“こわいけど面白い”と言われる理由です。
三部構成の視点トリックは何を隠しているのか
この作品、出来事そのものよりも「誰の目で見ているか」で、同じ現象の意味が変わります。原作が三部構成で視点人物を切り替えるのは、単なるミステリー的仕掛けではなく、家庭内の嘘・自己演出・被害者意識をあぶり出すため。
映画でも、序盤の“理想の家族”が別視点で崩れていくことで、恐怖の正体が「怪異」から「人の心の闇」へスライドします。つまり視点チェンジは、怪異を説明するためではなく、人間の見たいものしか見ない癖を暴く装置。だから観終わったあと、怖いのは“あれ”より「自分も同じ編集をしてない?」という点だったりします。
「あれ」とは何か 見えない怪異の正体を整理する
映画版の大きな特徴は、“あれ”の実体を最後まで掴ませないところです。原作では土着の因縁や風習を辿ることで輪郭が見えてくるのに対し、映画はより匿名的に「あれ」として扱い、曖昧さを保ちます。
ここが考察ポイントで、“あれ”は固定キャラというより、見る側(=人間側)の弱さ・罪悪感・嘘に寄生して形を借りる存在として機能しているように見える。だから同じ怪異でも、ある人には「過去」、ある人には「家族」、ある人には「孤独」が襲ってくる。正体を断定できない作り自体が、恐怖の増幅装置になっています。
イクメン神話が崩れるとき 家庭がホラーになる理由
前半で描かれるのは“理想の父”の自己演出です。家庭の幸福を外に向けて発信すればするほど、家の中の温度差が露骨になっていく。ここで怖いのは、幽霊ではなく「いい人」になろうとする努力が、家族を雑にしていく皮肉。
つまり『来る』の家庭は、怪異が壊したのではなく、怪異が来る前からヒビが入っていた。そこに“あれ”が触れた瞬間、綺麗に見せていたものが一気に剥がれる。この順番が巧いから、観客は「自分の家にも来るかも」と思ってしまうんですよね。
育児と孤立が怪異を呼ぶ 現代社会への目線
育児って、本来は“生活”の話なのに、作品内ではどんどん“戦場”になります。誰にも頼れない、周囲の視線が冷たい、正しさを求められる――そうした圧が、怪異の恐怖と同じ質感で描かれる。だから『来る』は「育児ホラー」と呼ばれやすい。
そして重要なのが、怪異が「超常現象」ではなく、社会のひずみを映す鏡にもなっている点。家庭内の嘘、育児の孤立、誰にも言えない本音――そこに“あれ”が入り込むことで、観客が見て見ぬふりをしてきた現実がホラーの形で可視化されます。
野崎和浩は何者か 善意とビジネスの境界線
物語を“外側”からつなぐのが野崎。ルポ/オカルトの嗅覚で情報を集め、霊能者と当事者を接続する存在です。
考察的に面白いのは、野崎が「正義の味方」ではなく、どこか胡散臭い温度を保っているところ。恐怖の現場って、善意だけじゃ回らないし、情報も金も動く。野崎はその現実を背負ったキャラで、だからこそ終盤の判断が“綺麗な感動”に着地しきらず、不穏さが残る。
比嘉真琴と比嘉琴子 霊媒師姉妹の力と代償
比嘉姉妹は、“あれ”に対抗するための物語エンジンです。特に姉の琴子が登場してから、作品は「家の中のホラー」から「儀式の映画」へ加速する。
ただし彼女たちは万能のヒーローではなく、力には代償がある。救済のプロであるほど、個人の幸福から離れていくという悲しさも背負う。だからラスト付近の“勝ったのか負けたのか分からない感触”が、霊能バトルを単なる爽快感で終わらせない効き方をしています。
虫と幼虫のモチーフが示すもの
『来る』の虫(特にうごめく幼虫)は、生理的な嫌悪だけじゃなく、「増殖」「侵食」「説明不能」を象徴します。気づいたら増えている、どこから来たかわからない、潰しても終わらない――まさに“あれ”の性質そのもの。
さらに幼虫って「変態=姿が変わる」存在でもある。つまり怪異は固定の顔を持たず、人間の恐怖や罪悪感に合わせて姿を変える。虫のモチーフは、“あれ”が実体よりも概念として強いことを示すサインとして読めます。
大祓シーンの宗教ミックスが熱い理由
終盤の大祓は、とにかく情報量が多い。沖縄のユタ、神道の神官・巫女、僧侶、さらに科学者や韓国の祈祷師まで集め、マンション前に舞台や導線を作って“あれ”を迎え撃つ準備をする。
この宗教ミックスが熱いのは、「信じる形は違っても、恐怖に対抗するために人が集まる」という“人間の儀式性”が最大限に可視化されるから。理屈で割り切れないものに対して、人は踊り、唱え、祈り、仕組みを組む。ホラーのクライマックスを“祭り”にしてしまうのが、この映画の発明だと思います。
子どもの言葉と歌が鍵になる仕掛け
ラストで印象的なのが、子どもの無邪気さがそのまま不穏に直結するところ。象徴が「オムライス」です。作中でオムライスは“好きな食べ物”としてだけでなく、「山(お山)」や「あちら側」への引力を匂わせるメタファーとして読める、といった解釈がよく語られます。
そして夢の中の歌――「オムライスのくに いってみた〜いな」という可愛いフレーズが、文脈次第で“死”の方向に読めてしまう。子どもは残酷なほど純粋で、大人の倫理を共有していない。そのズレが『来る』の後味の悪さを決定づけています。
ぼぎわんが、来るとの違い 映画版が変えた真相
原作との最大の差は、タイトルからも分かる通り「ぼぎわん」という固有名が後退している点。映画は“お化けの謎解き”よりも、“人間の闇/家庭の崩壊”へ焦点を寄せ、怪異をより匿名化して「来る」ものとして置いています。
また原作にある民俗学的背景が映画では大幅に整理・カットされている、という指摘も多いです。これは情報を削ったというより、「説明する怖さ」より「分からない怖さ」を選んだ改変。結果、考察の余白が大きくなり、観客の想像力で“あれ”が増殖する作りになっています。
ラストの解釈と残る不穏 続編は来るのか
ラストは“解決”というより、“決着をつけたはずなのに境界が曖昧なまま”で終わります。ここで効いているのが「生と死の境界」という感覚。鏡の扱い(境界の象徴)を強調する解釈もあり、鏡を壊すことで境界が崩れ、「誰が生きて誰が死んだのか」すら霧の中に置かれる――この読みは後味の悪さをうまく説明してくれます。
続編の可能性はさておき(原作はシリーズ化されていますが)、映画単体としては「勝った/負けた」より、「人は結局、見たいものを見て生きる」というテーマが残る終わり方。だから観終わったあとに来るのは、“あれ”の恐怖というより、自分の生活の中の嘘やほころびが、いつでも怪異の入口になりうるという静かな寒気なんですよね。

