『そして僕は途方に暮れる』考察|ラスト結末は変わったのか?“逃げる裕一”の心理を解説(ネタバレ)

映画『そして僕は途方に暮れる』は、事件も陰謀も起きません。起きるのは、**「気まずい」「怒られる」「向き合うのが怖い」**みたいな、日常の延長線にあるしんどさだけ。
それなのに、主人公・裕一は話し合いを選ばず、ひたすら逃げて、逃げて、逃げ続けます。

本記事では、作品情報やあらすじを押さえたうえで、
**「裕一はなぜ逃げるのか?」「父との再会が意味するものは?」「ラストは“変わった”のか“何も変わってない”のか?」**を軸に、考察を深掘りしていきます。


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映画『そして僕は途方に暮れる』作品情報|公開日・監督・原作(舞台)

  • 公開日:2023年1月13日
  • 製作:2022年/122分
  • 監督・脚本:三浦大輔
  • 原作:三浦大輔が2018年にBunkamuraシアターコクーンで上演した舞台
  • 主演:藤ヶ谷太輔(菅原裕一)

本作は、舞台版でも主人公を演じた藤ヶ谷太輔と、作・演出(舞台)/監督・脚本(映画)を務める三浦大輔が、同じ役・同じ物語を“映画として再構築”した点が面白いポイント。
また公式サイトでも、「共感と反感が渦巻く」現実逃避型エンタメ
として打ち出されています。


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あらすじ(ネタバレなし)|“些細な一言”から始まる逃避劇

フリーターの菅原裕一は、同棲中の恋人・里美と「これからのこと」を話し合う場面で、うまく向き合えず家を飛び出します。
そこから先は、親友、先輩、後輩、姉、母…と“逃げ先”を転々としながら、関係がこじれそうになるたびに姿を消していく。そんな中で彼が出会うのが、かつて家族から逃げた父でした。

この映画の怖さは、逃げの理由が「命に関わる事情」ではなく、**“生活にあるレベルの気まずさ”**であること。だからこそ観ている側は、笑えないのに、どこか分かってしまうんですよね。


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登場人物・キャスト相関図|裕一が渡り歩く「逃げ先」一覧

裕一が逃げる先=裕一の“弱さ”を照らす鏡です。主要人物を整理します。

  • 菅原裕一(藤ヶ谷太輔):逃げ癖のあるフリーター
  • 鈴木里美(前田敦子):同棲5年の恋人。最初の「向き合いなよ」を突きつける存在
  • 今井伸二(中尾明慶):親友。甘えが通じると思った瞬間に破綻する
  • 田村修(毎熊克哉):バイト先の先輩。裕一の“中途半端な夢”を刺激する相手
  • 加藤勇(野村周平):映画業界で働く後輩。裕一の“逃げの物語”を観測する側
  • 菅原香(香里奈):姉。正論で裕一を追い詰める「家族の現実」
  • 菅原智子(原田美枝子):母。受け止めてくれるようで、別の形で裕一を揺さぶる
  • 菅原浩二(豊川悦司):父。“逃げた人間”の先輩。裕一の未来像

公式サイトでは、逃避劇を「彼女→親友→先輩→後輩…」と章立てのように整理していて、作品の構造自体が“逃げの履歴書”になっています。


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原作は舞台作品|映画版で変わった点・追加された魅力

本作の骨格は舞台にあり、映画化にあたって公式の制作ノートでも、舞台が“ロードムービー的手法を舞台上で表現する”ことを胆にしていた、と語られています。
そして映画版ではそれを**“ストレートにロードムービーとして画で転がす”**選択をした、と明言されています。

ここが重要で、映画版の面白さは「移動のリアルさ」で裕一の逃避がどんどん惨めに見えていく点。
舞台は言葉と間で追い詰められていくのに対して、映画は景色が変わるほど、逃げは加速する。移動は解放じゃなく、むしろ「誤魔化しの連続」に見えてくる。


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主人公・裕一はなぜ逃げるのか?|“クズ”では片付かない心理の正体

裕一は確かに不誠実です。けれど、この作品が刺さるのは、裕一の逃げが「悪意」よりも、怖さと恥の反射に近いから。

  • 怒られる未来を想像した瞬間、体が先に動く
  • うまい言い訳が見つからない=自分が壊れそう
  • 謝る=相手の怒りを真正面から受けることになる
  • だから“その場から消える”が最短ルートになる

noteの感想でも、逃げの原因が犯罪級の出来事ではなく、生活と地続きの小さなほつれである点が面白い、と言語化されています。
つまり裕一は「クズ」以前に、対話ができない人なんですよね。対話ができないから、人生の“修正”が一切効かない。


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父との再会が示すもの|「逃げの連鎖」と家族のテーマを読み解く

中盤以降、物語は「逃げる裕一」を、さらに大きい鏡=父にぶつけます。
公式のストーリーでも、裕一は逃げ続けた果てに北海道・苫小牧の実家へ辿り着き、行き場を失ったところで、かつて家族から逃げた父と再会する流れが示されています。

ここで作品が突きつけるのは、残酷な事実です。

  • 裕一の逃げは“個性”ではなく、家族のパターンかもしれない
  • 逃げた父を軽蔑していたはずなのに、同じ匂いがする
  • 「逃げた先の人生」を見せられることが、最大の恐怖になる

父は救いにも見えるし、沼にも見える。
裕一が父の家で“スマホの電源を切る”のは、自由の獲得というより、人間関係そのものを断線させる最終手段に見えてきます。


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ラスト結末をネタバレ考察|謝罪シーンが刺さる理由/変化の有無

※ここからネタバレあり

ラストで効いてくるのは、派手な改心ではなく、**「曖昧なままでも、とにかく言葉を出す」**という小さな変化です。
姉に促され、裕一は“曖昧にしてきたこと”を言語化し、謝罪をする。少なくとも「消えてやり過ごす」ではなく、そこに立つことを選びます。

一方で、観客がザワつくのはここから。
裕一は謝罪したのに、里美側の事情も明かされ、簡単に「やり直し」にはならない。結果として裕一はまた部屋を出ていく——この展開が、希望なのか、ループなのかで評価が割れます。

ただ、note感想が指摘するように、同じ“部屋を出る”でも、最初は恐怖反射の逃走で、最後は自分の意思で「ここから先を続ける」ための離脱にも見える。ここが本作の一番うまいところです。

結論として、この映画のラストは「変わった/変わってない」の二択ではなく、
**「変わりたいのに、変わり方が分からない人が、ようやく“変わり始めた瞬間”」**に置かれている——そんな地点だと思います。


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タイトルの意味|エンディング曲『そして僕は途方に暮れる』が残す余韻

タイトルは、大澤誉志幸の名曲を想起させますが、公式サイトでは、舞台台本の執筆段階では仮タイトルだったものの、内容にフィットしすぎて正式タイトルになった経緯が語られています。

そして映画版では、その同名曲を映画用に新アレンジし、大澤誉志幸本人が歌う“エンディング曲”として採用。歌詞・作曲・編曲などのクレジットも公式に掲載されています。

この曲が流れる瞬間、裕一の逃避劇は「ダメ男の話」から、もう少し普遍的な、
**“どうしようもない自分を抱えたまま、それでも明日をやるしかない話”**へと拡張されます。
だからラストの余韻が、妙に長く残る。


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共感と反感が割れるポイント|観る人の“地雷”と“救い”

本作は公式に「共感と反感が渦巻く」と打ち出している通り、受け止め方が極端になりやすいタイプの映画です。

  • 反感が出やすい人
    「話し合えばいいのに」が我慢できない/不誠実さが生理的に無理/被害者(里美側)に気持ちが強く乗る
  • 共感が出やすい人
    怒られるのが怖い/失敗を直視できない/“逃げたい自分”をどこか知っている

ここで大事なのは、どっちが正しいかではなく、自分の地雷がどこにあるかが露呈する映画だということ。観終わった後に残るのは、裕一への評価以上に「自分の価値観の輪郭」だったりします。


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評価・口コミまとめ|Filmarks等の声から分かる向き不向き

口コミをざっくりまとめると、感想はだいたい3タイプに分かれます。

  1. イライラする。でもリアルで目が離せない
  2. 共感してしまってしんどい(=自分にもあるから刺さる)
  3. 最後が“救い”に見えるか“繰り返し”に見えるかで評価が割れる

なのでおすすめはこう。

  • おすすめ:人間関係の生々しい気まずさ、家族のしんどさ、“対話できない人”のリアリティに興味がある人
  • 注意:不誠実な主人公が苦手/スカッと成長物語を期待している人