アリ・アスター監督による長編3作目『ボーはおそれている』は、鑑賞者を深い混乱と衝撃に誘う異色の映画です。ホラーとも、ブラックコメディとも、心理ドラマとも言える本作は、明確なジャンル分けを拒否し、「恐怖とは何か」「現実とは何か」という問いを突きつけます。主演ホアキン・フェニックスの怪演も話題となりつつ、観る者に「一体何を見せられたのか?」という強烈な印象を残します。
本記事では、そんな『ボーはおそれている』を、物語構造・親子関係・象徴・ラストの解釈・そして全体の評価という観点から掘り下げ、考察と批評を交えてご紹介します。
あらすじと構成の概観 ─ 現実/妄想の交錯する物語構造
本作は、引きこもり気味で極度の不安症を抱える中年男性・ボーが、母の死を知り実家へ向かう旅に出るという一見シンプルなプロットです。しかしその道中、現実ではあり得ないような出来事が次々と起こり、観客はボーの内面世界に迷い込むことになります。
物語は明確な三幕構成を取りながらも、時間や空間、登場人物の実在性が曖昧で、観客の認識を常に揺さぶります。ボーの視点で展開されるため、全編を通して「これは本当に起こっているのか?それとも彼の妄想か?」という不安定さが物語を支配します。
この構造は、ボーという人物の「不安に満ちた主観的な世界」を、観客に体験させるための意図的な演出であり、アリ・アスターの作家性が如実に表れています。
母性・支配・依存 ─ ボーとモナの関係性の考察
物語の核心にあるのは、ボーとその母モナとの関係性です。表面上は母を想う息子の物語のようでいて、実際には「支配する母と支配される息子」という毒親的関係が描かれています。
モナは過干渉でありながら感情的にも暴力的で、ボーの精神的成長を奪ってきた存在です。ボーの極端な不安や社会性の欠如は、モナによる長年の精神的支配の帰結と捉えることができます。
同時に、ボー自身もその支配から逃れられず、むしろ無意識にそれを求めるような共依存の関係が構築されています。母の死によってようやく自由を得られるはずが、その喪失こそが彼にさらなる混乱と恐怖をもたらします。
この親子関係は、母性信仰やファミリーロマンスといったテーマとも結びつき、物語に深い精神分析的層を与えています。
モチーフと象徴の読み解き ― “水”“劇”“記憶”など
本作には繰り返し登場するモチーフや象徴が数多く存在します。特に印象的なのは以下の要素です:
- 水(風呂・プール・雨):水はボーの「無意識」や「再生」を象徴するものとして描かれています。風呂での恐怖体験、雨の中での混乱など、水は常にボーの不安と直結して登場します。
- 演劇(劇中劇):中盤の野外劇のシーンは、ボーの「あり得たかもしれない人生」の追体験を象徴しています。観客と演者の境界が崩れる演出は、現実と幻想の断絶をさらに曖昧にします。
- 巨大なペニス怪物/エロスの異形化:セクシャリティに対する抑圧と恐怖の象徴。母親の性に対する知識の管理や、自慰に対する罪悪感が背景にあります。
これらの象徴を読み解くことは、本作のテーマやキャラクターの心理を理解する鍵となります。
ラストと解釈の分岐点 ─ 結末の意味とその余地
本作のラストは、ボーが“法廷”のような場所で裁かれ、最終的に死を迎えるという衝撃的な終わり方を迎えます。ここには様々な解釈が存在します。
- 一種の「最後の審判」であり、母による精神的裁きの集大成
- 自己の内面世界の崩壊、もしくは精神的自殺の象徴
- 観客=裁判官というメタ的構造(観る者の罪悪感を喚起)
ラストの無情な幕引きは、ボーという存在が最終的に誰にも理解されず、ただ「見捨てられる」ことを強調しています。映画全体が、現代における孤立や疎外のメタファーとも言えるでしょう。
批評的評価と落とし穴 ─ 鑑賞後の印象と論点整理
『ボーはおそれている』は賛否の分かれる作品です。ある者はアリ・アスターの野心的実験作と称賛し、ある者は混沌と冗長さに疲弊します。
評価ポイント:
- ホアキン・フェニックスの演技が圧巻で、終始ボーの精神状態を見事に表現
- 演出・構成における挑戦的手法と、ジャンルの再定義
- 精神分析的テーマを巧みに織り込んだ脚本
批判点:
- 長尺(約3時間)と冗長な展開により、集中力が削がれる
- 物語の明快さよりも混乱を重視したため、一般的な映画鑑賞の快楽とは乖離
- グロテスク表現・性的表現において、意図が伝わりにくい場面も
本作は「万人向け」ではなく、「映画という形式そのものを問い直す」作品と言えるかもしれません。精神的に疲れる反面、深く没入できる作品を求める人には強く訴えかけてくるでしょう。
🔑 Key Takeaway
『ボーはおそれている』は、アリ・アスター監督による極めて個人的かつ実験的な精神世界の旅です。明確な答えを拒むその構成、毒母との関係、そして幻想と現実が交錯する物語は、観る者を強く揺さぶります。映画を“体験”したい人には、唯一無二の鑑賞体験を提供することでしょう。