なぜ、彼は笑っているのに苦しそうなのでしょうか。
映画『ジョーカー』の主人公アーサー・フレックは、人を笑わせるコメディアンになることを夢見ています。しかし現実の彼は、街で暴行され、職場を追われ、福祉サービスを打ち切られ、憧れの人物からは笑いものにされます。
彼がジョーカーへ変貌していく過程は、社会から傷つけられた人間の悲劇に見えるでしょう。
しかし、アーサーが被害者だったことと、彼の暴力が正当化されることは同じではありません。
本作が恐ろしいのは、一人の善良な人間が悪へ変わる様子を描いているからではありません。被害者と加害者、現実と妄想、悲劇と喜劇の境界が、いつの間にか分からなくなってしまうからです。
アーサーとソフィの関係はどこまで妄想だったのか。
トーマス・ウェインは本当に父親ではないのか。
なぜアーサーは階段を踊りながら下りたのか。
ラストの病院は現実なのか。
そして最後に彼が思いついた「ジョーク」とは何だったのでしょうか。
本記事では、映画『ジョーカー』のあらすじを整理しながら、笑いの発作、鏡、ダンス、階段、血の笑顔、ゴッサムの暴動、ラストシーンまで詳しく考察します。
※以下、映画の結末を含むネタバレがあります。
- 映画『ジョーカー』の作品情報
- 映画『ジョーカー』のあらすじ
- 結論|『ジョーカー』は被害者が復讐して救われる映画ではない
- アーサーの笑いは「喜び」ではなく苦痛の表現
- なぜアーサーはコメディアンになりたかったのか
- アーサーは最初からジョーカーだったのか
- 地下鉄の殺人後にアーサーが踊る理由
- アーサーとソフィの恋愛はどこまで妄想だったのか
- ソフィはアーサーに殺されたのか
- トーマス・ウェインは本当にアーサーの父親ではないのか
- ペニーはアーサーを愛していたのか
- なぜアーサーはゲイリーを殺さなかったのか
- アーサーが階段を上る場面と下りる場面の違い
- ジョーカーの衣装が鮮やかな理由
- マレーはアーサーにとって父親だった
- アーサーはなぜ生放送でマレーを殺したのか
- アーサーは暴動の指導者なのか
- 血で笑顔を作る場面の意味
- ブルース・ウェインの両親が殺される意味
- ラストの病院は現実なのか
- ラストでアーサーが思いついたジョークとは何か
- 足跡の血は本物なのか
- タイトルが「アーサー」ではなく「ジョーカー」である意味
- 『ジョーカー』は社会が犯罪者を作る物語なのか
- 『ジョーカー』は暴力を美化しているのか
- 『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』との共通点
- アーサーは救われる可能性があったのか
- それでもアーサーの行動は正当化できない
- 映画『ジョーカー』が観客へ問いかけるもの
- まとめ|ジョーカーは笑えるようになったのではなく、悲しめなくなった
映画『ジョーカー』の作品情報
『ジョーカー』は、トッド・フィリップス監督がスコット・シルヴァーと共同で脚本を手がけた2019年の映画です。
DCコミックスを代表する悪役ジョーカーを基にしながら、既存のバットマン映画とは独立した物語として、孤独な道化師アーサー・フレックの変貌を描いています。主演はホアキン・フェニックス。ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ、フランセス・コンロイらが共演しています。ヴェネツィア国際映画祭の公式紹介でも、本作は社会の中で居場所を見つけられないアーサーを中心とした、独立したオリジナルストーリーと説明されています。
本作は第76回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞しました。第92回アカデミー賞では最多11部門にノミネートされ、ホアキン・フェニックスが主演男優賞、ヒドゥル・グーナドッティルが作曲賞を受賞しています。
映画『ジョーカー』のあらすじ
荒廃したゴッサム・シティで暮らすアーサー・フレックは、派遣道化師として働きながら、病気の母ペニーを介護しています。
彼の夢は、スタンダップコメディアンになることでした。
しかしアーサーには、緊張や苦痛を感じると、自分の意思に反して笑いが止まらなくなる症状があります。そのため周囲から奇異な目で見られ、他者との会話もうまく成立しません。
ある日、仕事帰りの地下鉄で、アーサーは大企業に勤める三人の男性から暴行を受けます。
彼は同僚から渡されていた拳銃を使い、二人を射殺。逃げるもう一人を追いかけ、とどめを刺します。
犯人がピエロ姿だったことから、事件は貧困層の怒りを象徴する出来事として広まり、街ではピエロの仮面を着けた抗議運動が拡大していきます。
その一方でアーサーは、自分の出生、母親の過去、憧れていた司会者マレー・フランクリンの本心を知り、これまで信じてきた人生が崩れていきます。
やがて彼は「アーサー」として生きることをやめ、自らをジョーカーと名乗るようになるのです。
結論|『ジョーカー』は被害者が復讐して救われる映画ではない
『ジョーカー』を、社会から虐げられた男が反撃する物語として見ることはできます。
アーサーは何度も理不尽な扱いを受けます。
街では少年たちに襲われ、仕事では同僚に責任を押しつけられ、公共サービスの縮小によって相談相手と薬を失います。母から聞かされていた出生の物語も、恋人との幸福な時間も、テレビ司会者からの承認も、次々と偽物だったことが分かります。
しかし、彼がジョーカーになったことで問題が解決したわけではありません。
貧困はなくなりません。
福祉制度も回復しません。
孤独な人々が救われるわけでもありません。
残されたのは、殺人と暴動、そして新しい犠牲者です。
ジョーカーへの変貌は、アーサーが社会から自由になる場面に見えます。
けれど実際には、苦しみを他者へ与える側へ回っただけです。
本作が描いているのは、暴力による解放ではありません。
自分の痛みだけを世界のすべてだと思った人間が、他者の痛みを想像できなくなっていく過程なのです。
アーサーの笑いは「喜び」ではなく苦痛の表現
アーサーは、楽しいから笑っているわけではありません。
地下鉄で男性たちに絡まれたときも、母親の過去を知ったときも、舞台で緊張したときも、本人の感情とは無関係に笑いが起こります。
通常、笑顔は幸福や友好の印として受け取られます。
しかしアーサーの場合、笑いは本心を誤解させるものです。
助けを求めたいのに、相手には馬鹿にしているように見える。
恐怖を感じているのに、楽しんでいるように見える。
謝ろうとしているのに、挑発しているように見える。
彼は人とつながるための表情によって、逆に社会から遠ざけられていきます。
映画の冒頭、アーサーは鏡の前で指を口元へ入れ、無理やり笑顔を作ります。その目からは涙が流れています。
この一枚の表情に、本作の中心が凝縮されています。
外側の笑顔と、内側の悲しみ。
他人から見えるアーサーと、本人だけが知っているアーサー。
悲劇と喜劇は正反対なのではありません。
見る位置が変われば、同じ出来事が悲劇にも喜劇にもなってしまうのです。
なぜアーサーはコメディアンになりたかったのか
アーサーは、人を笑わせることを人生の目的にしています。
母ペニーから、自分は人々へ喜びを与えるために生まれたと聞かされてきたからです。
しかし、彼は笑いの構造を十分に理解していません。
ノートには、コメディについての考えと、絶望的な言葉が同じページに並んでいます。舞台では観客が笑うタイミングとずれ、自分だけが笑い続けます。
コメディには、話し手と観客の間で「何がおかしいのか」を共有する必要があります。
アーサーには、その共有ができません。
彼が求めているのは、笑いそのものではなく、笑いによって得られる承認なのでしょう。
拍手を浴びたい。
誰かに見つけてもらいたい。
自分がこの世界に存在していると認めてほしい。
コメディアンという夢は、アーサーにとって他者とつながる最後の手段でした。
ところがマレーの番組は、彼の失敗を笑いものとして全国へ放送します。
アーサーが望んだ形ではないものの、彼はついに多くの人から見られます。
その瞬間、彼にとって「人を笑わせること」と「人に笑われること」の違いが決定的なものになるのです。
アーサーは最初からジョーカーだったのか
物語の前半のアーサーは、暴力的な人物ではあるものの、完全に他者への感情を失ってはいません。
母を入浴させ、食事を用意し、同僚のゲイリーには親切に接します。
子どもを笑わせようとし、病院では患者を楽しませようとします。
そのため、社会が善良なアーサーを悪人へ変えたと解釈したくなるでしょう。
しかしアーサーの中には、以前から怒りや承認欲求、現実を自分に都合よく作り替える傾向が存在していました。
彼が何もない状態から突然ジョーカーになったわけではありません。
抑えられていた感情が、地下鉄での殺人を境に外へ出るようになったのです。
最初の二人への発砲には、自己防衛の側面があります。
しかし、逃げる三人目を追いかけて殺した行為は防衛ではありません。
この瞬間、アーサーは危険を止めるのではなく、自分を侮辱した相手を処罰する側へ移っています。
ジョーカーは社会によって一方的に作られたのではありません。
社会から受けた傷と、アーサー自身が選んだ暴力が重なって生まれた存在なのです。
地下鉄の殺人後にアーサーが踊る理由
三人の男性を殺したアーサーは、公衆トイレへ逃げ込みます。
一般的な犯罪映画であれば、彼は震え、吐き、証拠を消そうとするでしょう。
ところがアーサーは、静かに踊り始めます。
その動きは喜びのダンスというより、自分の身体から初めて現れた感情を確かめているように見えます。
それまでのアーサーの身体は、常に他者によって支配されていました。
病的な笑いが勝手に起こる。
暴力を受け、地面へ倒される。
仕事では道化師として決められた動きを演じる。
痩せた身体を丸め、周囲から隠れるように歩く。
殺人後のダンスでは、初めてアーサーが自分の身体を自分で動かします。
ここで彼が得たのは安心ではありません。
暴力を使えば、自分も世界へ影響を与えられるという感覚です。
誰にも見られていなかった男が、三つの命を奪うことで、自分の存在を実感してしまったのです。
ヒドゥル・グーナドッティルによる低く重い音楽は、アーサーの内面に沈んでいたものが身体へ現れる感覚を強調します。同作の音楽はアカデミー賞と英国アカデミー賞で評価されました。
アーサーとソフィの恋愛はどこまで妄想だったのか
アーサーは同じアパートに住むソフィと親しくなります。
彼女はコメディクラブへ来てくれます。
母親が倒れたときには病院へ付き添い、アーサーの苦しみを理解してくれます。
しかし、アーサーがソフィの部屋へ入った場面で、その関係が妄想だったことが明らかになります。
ソフィは彼をほとんど知りません。
少なくとも、二人が恋人のように過ごした場面は現実ではなかったと考えられます。
重要なのは、アーサーの妄想が単なる願望ではないことです。
彼が想像したソフィは、いつもアーサーを肯定します。
失敗した舞台でも笑ってくれる。
悲しいときには寄り添ってくれる。
説明しなくても苦しみを理解してくれる。
つまりアーサーが求めていたのは、現実のソフィではありません。
決して自分を否定しない観客です。
彼はソフィを愛したというより、自分を無条件に受け入れてくれる役割を彼女へ与えました。
これはアーサーが、他者を一人の人間として見ることができていない証拠でもあります。
彼女の人生や感情ではなく、自分を慰めるために必要な姿だけを見ていたのです。
ソフィはアーサーに殺されたのか
アーサーがソフィの部屋へ入った後、彼女は怯えながら帰宅するよう促します。
映画はその後、ソフィがどうなったのかを直接描きません。
アーサーが彼女を殺したように感じる観客もいるでしょう。
しかし本編には、ソフィの死を確定する描写はありません。
大切なのは生死の答えよりも、アーサーの幻想が壊れたことです。
ソフィはアーサーを理解してくれる理想の恋人ではありませんでした。
彼女は子どもを育てながら生活する、隣人にすぎません。
アーサーはこの場面で、他者の心は自分の想像どおりにはならないと突きつけられます。
彼がジョーカーへ変わるとは、現実を正しく認識できるようになることではありません。
自分に都合の悪い現実を受け入れる代わりに、現実のほうを破壊するようになることなのです。
トーマス・ウェインは本当にアーサーの父親ではないのか
母ペニーが書いた手紙から、アーサーはトーマス・ウェインが自分の父親だと考えます。
彼にとってトーマスは、単なる実父候補ではありません。
自分を現在の生活から救い出してくれる存在です。
もし自分が大富豪ウェイン家の息子なら、これまで苦しんできた人生にも理由が生まれます。
貧しい道化師ではなく、本来は特別な人間だったと思えるからです。
しかしトーマスは父親であることを否定し、ペニーがアーサーを養子に迎えたのだと語ります。病院の記録にも、ペニーの妄想や、幼いアーサーが虐待を受けていたことが記されています。
それでも、トーマスが影響力を使って記録を作らせた可能性を完全には否定できません。
映画はDNA鑑定のような決定的証拠を示さないからです。
ただし物語上、本当の父親が誰かは最重要ではありません。
アーサーが欲しかったのは、血縁の事実よりも「自分は誰かに望まれて生まれた」という物語でした。
トーマスに拒絶されたことで、彼は父親だけでなく、自分が特別な存在かもしれないという希望まで失います。
ペニーはアーサーを愛していたのか
ペニーはアーサーを「ハッピー」と呼びます。
いつも笑顔で、人々へ喜びを与える子どもだったと語ります。
しかし記録によれば、幼いアーサーは虐待を受けており、ペニーはそれを止められませんでした。
彼女の愛情は、完全な嘘だったとは限りません。
ペニーは自分なりに息子を愛していた可能性があります。
しかし彼女が愛したのは、現実のアーサーよりも「いつも幸せな息子」という幻想だったのでしょう。
苦しんでいる息子。
怒っている息子。
助けを必要としている息子。
その姿を見ず、笑顔であることを求め続けた。
アーサーが母親を殺す場面は、自分を傷つけた親への復讐です。
同時に、「ハッピー」という役割から逃れようとする行為でもあります。
それでも母親を殺したことで、幼少期の傷が消えるわけではありません。
彼は過去を乗り越えたのではなく、過去について語れる唯一の人間を消しただけです。
なぜアーサーはゲイリーを殺さなかったのか
アーサーは、かつての同僚ランドルを残酷に殺します。
ランドルは拳銃を渡しておきながら、問題が起きるとアーサーが自分から購入したと嘘をついた人物でした。
一方、同時に部屋へ来ていたゲイリーは殺されません。
アーサーは、ゲイリーだけは自分に優しかったと告げて帰します。
この場面は、アーサーが無差別に人を殺しているわけではないことを示します。
彼の中には独自の基準があります。
自分を傷つけた者は罰する。
自分に優しかった者は助ける。
一見すると公平な規則に思えます。
しかしその判断を下すのは、アーサー一人です。
法も対話もなく、彼が相手をどう感じたかだけで生死が決まります。
ジョーカーの恐ろしさは、秩序がないことではありません。
自分の感情だけを絶対的な秩序としていることです。
アーサーが階段を上る場面と下りる場面の違い
映画前半のアーサーは、長い階段を重そうに上っています。
仕事を終え、身体を丸め、一段ずつ自宅へ戻る姿には疲労が表れています。
階段を上ることは、社会の中でアーサーとして生きようとする苦しさを象徴しています。
働く。
母を介護する。
薬を飲む。
人を笑わせようとする。
暴力を受けても仕事へ戻る。
彼は社会の規則に従おうとしながら、何度も上へ進もうとしています。
ところがジョーカーの衣装を着た後、同じ階段を踊りながら下ります。
鮮やかな服を着て、身体を大きく広げ、周囲の視線を恐れません。
この場面は解放的に見えます。
しかし彼が進んでいる方向は「上」ではなく「下」です。
アーサーは苦しみから抜け出したのではありません。
社会の中で生きる努力をやめ、暴力と混乱の側へ降りていきます。
階段のダンスが魅力的であればあるほど、観客は危険な快感を覚えます。
彼の転落を、自由の獲得として祝いたくなってしまうからです。
ジョーカーの衣装が鮮やかな理由
映画前半のゴッサムは、灰色や茶色、くすんだ緑色に覆われています。
街にはごみが積み上がり、アーサーの住居や職場も暗く、圧迫感があります。制作陣はニューヨークの街並みを基に、荒廃と不安を感じさせるゴッサムを設計しました。
その中でジョーカーの赤いスーツ、黄色いベスト、緑色のシャツは強烈に目立ちます。
アーサーとしての彼は、背景へ溶け込む人物でした。
人々は彼を見ない。
道で倒れていても助けない。
相談員でさえ、制度が終了すれば彼との関係を終えます。
ジョーカーになった彼は、誰にも無視できない色を身につけます。
服装は、内面の変化を示すだけではありません。
「自分を見ろ」という要求です。
アーサーは愛されることを諦めた代わりに、恐れられることで存在を認めさせようとします。
マレーはアーサーにとって父親だった
アーサーは、テレビ司会者マレー・フランクリンへ強い憧れを持っています。
番組を見ながら、自分が観客席から呼び出され、マレーに抱きしめられる場面を想像します。
マレーは、アーサーを息子のように受け入れ、優しい言葉をかけます。
この場面も現実ではありません。
アーサーが求める理想の父親像です。
トーマス・ウェインが経済的、社会的な父親候補だとすれば、マレーは精神的な父親候補でした。
自分の才能を見つけ、認めてくれる人物。
ところが現実のマレーは、アーサーの失敗した舞台映像を娯楽として使用します。
アーサーを番組へ招いたのも、才能を評価したからではなく、再び笑いものにするためです。
マレーにとってアーサーは、一晩の放送を盛り上げる素材でした。
アーサーにとってマレーは、人生を救ってくれるかもしれない父親でした。
この認識の差が、テレビスタジオでの殺人へつながります。
アーサーはなぜ生放送でマレーを殺したのか
アーサーは番組へ出演する前、自分が命を絶つ場面を想定していたように見えます。
しかし本番では、地下鉄での殺人を告白し、マレーを非難した末に撃ち殺します。
彼の目的が、自分の死から他者の死へ変わったのです。
アーサーはマレーへ、社会が自分のような人間をどう扱っているかを問いかけます。
そこには正当な怒りも含まれています。
福祉を縮小し、貧困を放置し、弱者を娯楽として消費する社会への批判です。
しかし、正しい問題提起が殺人を正しくするわけではありません。
アーサーは「誰も自分のことを考えなかった」と訴えながら、マレーの人生や家族について考えません。
自分が受けた無関心を、別の人間へ返しています。
この場面で彼は、被害者の代表として話しているように見えます。
けれど実際には、すべての苦しみを自分の物語へ回収しています。
社会問題を語りながら、最後に残るのは個人的な復讐なのです。
アーサーは暴動の指導者なのか
地下鉄での殺人をきっかけに、ゴッサムではピエロの仮面を着けた抗議者が増えていきます。
彼らは貧富の格差や、富裕層による侮蔑へ怒っています。
しかしアーサー自身は、政治運動を始めようとしたわけではありません。
三人の男性を殺したのも、貧困層を救うためではありませんでした。
個人的な恐怖と怒りから起きた事件です。
それでも市民は、正体の分からないピエロへ自分たちの怒りを重ねます。
アーサーは本人の意図とは無関係に、抵抗の象徴となります。
ここには「個人」と「アイコン」の分離があります。
群衆が求めているのは、アーサーという傷ついた人間ではありません。
富裕層を攻撃し、秩序を破壊するジョーカーという記号です。
アーサーは初めて多くの人々から歓迎されます。
しかし彼らが愛しているのも、現実のアーサーではないのです。
母親も、ソフィも、マレーも、群衆も、それぞれが都合のよい物語をアーサーへ重ねています。
そしてアーサー自身も、ジョーカーという物語の中へ逃げ込んでいきます。
血で笑顔を作る場面の意味
暴徒によって警察車両から救出されたアーサーは、群衆の前で立ち上がります。
口から流れた血を指で伸ばし、大きな笑顔を作ります。
映画冒頭では、鏡の前で無理に口角を上げても、表情は悲しみに戻ってしまいました。
終盤では、自分の血を使って笑顔を完成させます。
これは、アーサーが苦痛から自由になったことを意味しません。
苦痛そのものをジョーカーの顔へ変えたのです。
彼は傷つけられなくなったのではありません。
傷を見世物へ変える方法を覚えました。
涙を隠し、血を化粧にし、悲劇を喜劇として演じる。
群衆の歓声を浴びる姿は、コメディアンとして望んでいた舞台の完成にも見えます。
ただし彼を笑わせているのはジョークではありません。
暴力と混乱です。
アーサーはついに観客を手に入れましたが、それと引き換えに、人を喜ばせたいという最初の夢を失っています。
ブルース・ウェインの両親が殺される意味
暴動の中で、トーマスとマーサ・ウェインはピエロの仮面を着けた男に殺されます。
幼いブルースだけが生き残ります。
これはバットマン誕生へつながる有名な悲劇です。
本作では、アーサーが直接ウェイン夫妻を殺したわけではありません。
しかし彼の行動が象徴となり、街の暴力を加速させました。
アーサーは、自分を見捨てた社会への復讐を果たしたように見えます。
その結果、別の少年が両親を失います。
傷つけられた子どもだったアーサーが、新たな傷ついた子どもを生み出すのです。
ここで暴力は円環になります。
アーサーは自分の過去を変えられません。
その代わり、同じような喪失を他者へ与えます。
バットマンとジョーカーは、正義と悪の単純な対立ではありません。
どちらもゴッサムの暴力によって生まれた存在として結びついているのです。
ラストの病院は現実なのか
物語の最後、アーサーは白い病院の部屋でカウンセラーと話しています。
彼は突然笑い始め、「あるジョーク」を思いついたと語ります。
その直前には、両親の遺体の前に立つ幼いブルースの姿が挿入されます。
アーサーはジョークの内容を説明しません。
そして部屋を出た彼の足跡には血がついています。
この場面には複数の解釈があります。
一つは、暴動後にアーサーが再び収容され、カウンセラーを殺したという解釈です。
もう一つは、物語全体が病院にいるアーサーによって作られた話だったという解釈です。
アーサーが想像と現実を混同する人物である以上、観客が見てきた出来事のすべてを無条件には信用できません。
ただし、すべてが妄想だったと考えると、作品の社会的な要素まで消えてしまいます。
最も自然なのは、物語の大部分は現実だが、アーサーの視点によって誇張や省略、再構成が行われているという見方でしょう。
私たちは客観的なゴッサムを見ていたのではありません。
ジョーカーが自分の人生を「悲劇から喜劇へ変わった物語」として編集したものを見せられていたのかもしれません。
ラストでアーサーが思いついたジョークとは何か
アーサーが笑った直前、画面には幼いブルースが映ります。
そのため、彼が思いついたジョークは、自分とブルースの皮肉な関係だと考えられます。
父親の愛を求めてウェイン家へ近づいたアーサー。
そのアーサーの行動が暴動を生み、ブルースから父親を奪う。
父を欲しがった男が、別の少年を孤児にしてしまう。
さらにアーサーとブルースは、いずれジョーカーとバットマンとして向き合う存在です。
しかしアーサーは、カウンセラーには理解できないと言います。
なぜなら、そのジョークを成立させるのは彼の頭の中にある物語だからです。
他者と笑いを共有できなかったアーサーは、最後まで自分だけに分かるジョークを笑っています。
彼はコメディアンになったのではありません。
観客を必要としない、閉じた喜劇の中へ入ったのです。
足跡の血は本物なのか
病院の廊下を歩くアーサーの靴には血が付着しています。
彼が部屋のカウンセラーを殺したことが示唆されます。
しかし直後には、職員から逃げ回るコミカルな追跡が始まります。
残酷な殺人の直後とは思えない軽い演出です。
この落差によって、観客はアーサーの感覚へ引き込まれます。
誰かの死が、彼にとってはアニメのような追いかけっこへ変換されている。
悲劇を悲劇として感じる能力が失われているのです。
血の足跡が現実だったとしても、想像だったとしても、意味は変わりません。
ジョーカーにとって、他人の痛みはすでにコメディの小道具になっています。
タイトルが「アーサー」ではなく「ジョーカー」である意味
本作の大部分で、主人公はアーサー・フレックとして描かれます。
しかしタイトルは『アーサー』ではなく『ジョーカー』です。
観客は最初から、彼がどこへたどり着くかを知っています。
そのため、アーサーが傷つけられるたびに「これがジョーカーを生む原因なのだ」と意味づけてしまいます。
けれど、それは危険な見方でもあります。
過去に傷があれば、未来の暴力が必然になるわけではありません。
社会から拒絶された人が、必ず犯罪者になるわけでもありません。
タイトルはアーサーの運命を示すと同時に、観客が彼を最初から「悪役の誕生物語」として眺めてしまう仕掛けです。
私たちはアーサーの人生を心配しながら、同時にジョーカーへの変貌を待っています。
階段で踊る姿を期待し、マレーとの対決を待ち、血の笑顔が完成する瞬間に映画的な快感を覚える。
作品の観客も、アーサーの不幸を娯楽として利用するマレーの観客と、完全には無関係ではないのです。
『ジョーカー』は社会が犯罪者を作る物語なのか
映画では、福祉制度の縮小、貧富の格差、ごみ問題、失業、不安定な治安が描かれます。
アーサーの相談員は、行政による予算削減のため、彼との面談も薬の提供も終わると伝えます。
社会が十分な支援を続けていれば、事件は防げたかもしれません。
しかし本作を「社会が冷たいから犯罪者が生まれた」という単純な因果関係で読むことには注意が必要です。
精神的な困難を抱える人が暴力的であるとは限りません。
経済的に追い詰められた人の大多数が、殺人を選ぶわけでもありません。
アーサーは制度の被害者ですが、同時に自分の行動を選んだ人物です。
映画が批判しているのは、支援があれば誰も悪人にならないということではありません。
人を放置し続ければ、苦しみが安全な形で消えるとは限らないということです。
社会にはアーサーを救う責任がありました。
しかし社会の失敗は、彼が奪った命への責任まで消してはくれません。
『ジョーカー』は暴力を美化しているのか
本作は公開当時から、アーサーの暴力を魅力的に描きすぎているという批判を受けました。
特に階段のダンスや群衆に祝福される場面は、殺人者の誕生を勝利のように見せているとも受け取れます。一部の批評では、社会から排除された人物の怒りを描きながら、暴力と虚無を刺激的な映像へ変えている点が問題視されました。
確かに本作は、ジョーカーを醜いだけの人物にはしていません。
彼の動き、衣装、音楽、撮影は、変貌の瞬間を圧倒的に魅力あるものへ仕上げています。
しかし、映画が魅力的に撮っていることと、行動を正しいと主張していることは同じではありません。
むしろ観客がジョーカーへ魅了されること自体が、作品の罠なのでしょう。
私たちはアーサーへ同情します。
彼を傷つけた人物へ怒りを感じます。
そして暴力が起きた瞬間、一時的な爽快感さえ覚える。
その後で、殺された人間にも人生があったことを忘れていたと気づきます。
『ジョーカー』が不快なのは、暴力を肯定しているからだけではありません。
暴力を見て気持ちよくなり得る観客自身の感情を、否定できない形で見せるからです。
『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』との共通点
『ジョーカー』は、孤独な男が荒廃した都市で妄想を膨らませる『タクシードライバー』や、人気司会者へ執着する男を描いた『キング・オブ・コメディ』を思わせる作品です。
ロバート・デ・ニーロがマレー役を演じていることも、その関係を強く意識させます。
ただし両作品への影響は、単なる引用ではありません。
過去の映画では、社会と接続できない人物の孤独が描かれました。
『ジョーカー』は、その孤独が現代のメディアによって拡散され、政治的な象徴へ変わる過程を加えています。
アーサーの殺人はテレビで報道され、コメディの失敗は番組で再生され、最後の殺人も生放送されます。
彼はメディアに傷つけられると同時に、メディアを使ってジョーカーになります。
誰にも見られなかった男が、画面に映ることで社会現象へ変わる。
本作においてテレビは、現実を伝える窓ではなく、人間を物語や商品へ変換する装置なのです。
アーサーは救われる可能性があったのか
アーサーの人生には、いくつかの分岐点があります。
同僚から拳銃を受け取らなかったら。
地下鉄で暴行されなかったら。
福祉サービスが継続していたら。
マレーが彼を嘲笑しなかったら。
母親が真実を話していたら。
どこか一つが違えば、結末も変わっていたかもしれません。
しかし、誰か一人の優しさだけでアーサーを救えたと考えるのも危険です。
ゲイリーは彼に優しくしました。
相談員も限られた制度の中で話を聞いていました。
それでもアーサーの問題は、一人の善意では支えきれないほど複雑です。
本当に必要だったのは、家族、医療、福祉、雇用、地域社会が連携して、彼を孤立させない仕組みだったのでしょう。
アーサーの悲劇は、誰も優しくしなかったことだけではありません。
彼の人生全体を引き受ける場所が、どこにも存在しなかったことです。
それでもアーサーの行動は正当化できない
社会の責任を認めることと、アーサーを無罪にすることは別です。
彼は傷ついていました。
虐待を受け、貧困に苦しみ、必要な支援を失いました。
その苦痛を理解することは重要です。
しかし、理解することは正当化することではありません。
アーサーが殺したマレーやランドルにも、欠点はあっても生きる権利がありました。
地下鉄の男性たちが暴力を振るったとしても、逃げる相手を追いかけて殺す権利はありません。
アーサーは「誰も自分を見なかった」と訴えます。
けれどジョーカーになった彼も、他人を一人の人間として見なくなります。
社会に人間扱いされなかった人物が、他者を人間扱いしないことで力を得る。
その連鎖こそ、本作が描く最も深い悲劇です。
映画『ジョーカー』が観客へ問いかけるもの
私たちは、アーサーが道化師として路上で倒れていても、映画の登場人物でなければ足を止めるでしょうか。
不自然に笑う人を見たとき、その背景にある苦しみを想像できるでしょうか。
それとも、不気味な人物として距離を取るでしょうか。
人間は、すべての他者を救うことはできません。
危険を感じれば、自分や家族を守るために離れる必要もあります。
『ジョーカー』は、無条件に弱者へ近づけと命じる作品ではありません。
しかし、見えないことと、存在しないことは違います。
アーサーのような孤立は、本人だけの問題として社会の外へ捨てても消えません。
どこかで別の形になって戻ってくる可能性があります。
彼をジョーカーにした原因を一つに決めることはできません。
社会、家庭、偶然、病気、本人の選択。
それらが重なった結果です。
だからこそ、予防にも一つの答えはありません。
ただ、誰も聞かない状態を放置し続ければ、最後に残る声が暴力だけになる危険はあります。
まとめ|ジョーカーは笑えるようになったのではなく、悲しめなくなった
映画『ジョーカー』は、一人の孤独な男が自信を獲得する物語ではありません。
自分の痛みを他者への暴力へ変え、それを笑いとして演じるようになる物語です。
アーサーの笑いは、最初は自分の意思に反して起こっていました。
彼は笑いたくない場面で笑い、周囲から誤解されます。
しかしジョーカーになった後、彼は自分から笑います。
それは幸福を手に入れたからではありません。
これまで悲劇として耐えてきた人生を、他人を傷つける喜劇として見られるようになったからです。
階段を上っていたアーサーは、社会の中で生きようとしていました。
階段を踊りながら下りるジョーカーは、その努力をやめています。
彼は自由になったように見えます。
しかし実際には、怒りと妄想と観客の期待によって作られた、新しい役の中へ閉じ込められました。
血で作った笑顔は、苦しみを克服した証拠ではありません。
苦しみを他者へ渡す者になった証拠です。
ラストでアーサーは、自分だけに分かるジョークを笑います。
もう誰かと笑いを共有する必要さえありません。
『ジョーカー』が描いた本当の破滅とは、犯罪者になったことだけではないのでしょう。
誰かに理解してほしいと願っていた人間が、ついには他者を理解することを完全に諦めたことなのです。

