映画『RED ROOMS レッドルームズ』は、連続殺人事件の裁判を傍聴し続ける主人公ケリー=アンヌの姿を通して、観る者の心をじわじわと侵食してくる異色のサイコスリラーです。
本作の恐ろしさは、残酷な事件そのものだけではありません。むしろ「なぜ人はここまで惨劇に惹きつけられてしまうのか」という、観客自身の欲望をあぶり出してくる点にあります。
この記事では、『RED ROOMS レッドルームズ』のあらすじやタイトルの意味を整理しながら、ケリー=アンヌの正体、クレメンタインとの対比、そして衝撃的なラストシーンが何を意味していたのかをわかりやすく考察していきます。
“怖いのに目を離せない”この映画の本質を、一緒に読み解いていきましょう。
『RED ROOMS レッドルームズ』はどんな映画?あらすじと作品概要
『RED ROOMS レッドルームズ』は、パスカル・プラント監督による2023年製作のカナダ映画で、日本では2025年9月26日に公開されたサイコスリラーです。主人公はファッションモデルのケリー=アンヌ。彼女は、少女たちを拉致・監禁・拷問した映像をディープウェブ上の“RED ROOMS”で配信していたとされる被告ルドヴィク・シュヴァリエの裁判を、毎日のように傍聴しています。映画は犯人そのものよりも、「なぜ彼女はそこまで事件に惹かれるのか」という一点に重心を置いて進んでいきます。
本作が異様なのは、連続殺人犯を追う捜査側や遺族側ではなく、“見てしまう側”“惹かれてしまう側”を主役に据えていることです。監督自身も、コロナ禍に実録犯罪ドキュメンタリーを観る中で、犯罪者本人よりも法廷に現れる“犯罪者のファン”のほうに強く興味を持ったと語っています。つまりこの映画は、猟奇事件を扱うスリラーでありながら、同時に「それを消費する私たち」の物語でもあるのです。
『RED ROOMS レッドルームズ』のタイトルが示す“レッドルーム”の意味とは
作中の“RED ROOMS”は、事件の中核にあるディープウェブ上の違法配信空間を指しています。けれどもタイトルが本当に示しているのは、単なる犯罪インフラの名前だけではありません。赤い部屋とは、血の色を想起させる犯罪現場であると同時に、画面越しに暴力を見つめる者たちの欲望が閉じ込められた“覗きの空間”でもあります。
監督はインタビューで、この映画には“ガラスの檻”という発想があると述べています。被告は法廷のガラス越しに見られ、ケリー=アンヌはガラス張りの高層住宅に住み、そしてコンピューター画面もまた強力な“ガラス”だというのです。そう考えると、“レッドルーム”とはディープウェブ上の一室だけでなく、ディスプレイ越しに他者の苦痛を消費する現代人の精神空間そのものだと読めます。
さらに本作は、決定的な残虐映像をほとんど直接見せません。監督は「見せないことで観客自身の血に飢えた欲望に向き合わせたかった」と語っており、レビューでも、空白を観客の想像で埋めさせる演出がかえって強烈だと評されています。つまり“レッドルーム”とは、スクリーンの中にある部屋であると同時に、観客の頭の中に開いてしまう部屋でもあるのです。
主人公ケリー=アンヌの正体とは?無表情の奥にある執着を考察
ケリー=アンヌは、モデルであり、オンラインポーカーで金を稼ぎ、ハッキングにも通じた人物として描かれます。しかし彼女の本質は、その肩書きでは説明できません。彼女は感情をほとんど表に出さず、裁判を見つめる表情も、被告への関心も、善悪のどちらにも簡単に分類できない。だからこそ彼女は、普通の“シリアルキラーに魅了された女”という枠に収まらない不気味さを放っています。
重要なのは、監督が彼女を“説明されるキャラクター”にすることを意図的に避けている点です。過去のトラウマや心理分析で行動原理を単純化したくなかった、むしろ幽霊のような、現実離れした存在にしたかったと監督は語っています。つまりケリー=アンヌは「理解すべき人物」ではなく、「見続けるほど輪郭が崩れていく謎」として設計されているのです。
そのうえで考えるなら、彼女の執着は被告への恋愛感情だけではありません。むしろ彼女が求めているのは、殺人犯の“悪”の中心にどこまで近づけるかという危険な接近戦でしょう。監督は、クレマンティーヌのように無実を信じるタイプとは逆に、ケリー=アンヌは相手の邪悪さを理解したうえで惹かれる側にいるかもしれないと示唆しています。彼女は犯人を愛しているのではなく、悪そのものの深さに触れたいのです。
クレメンタインは何を象徴していたのか?ケリー=アンヌとの対比を読む
クレメンタインは、ケリー=アンヌの“対になる存在”として極めて重要です。監督は、犯罪者グルーピーのさまざまな動機を一人の人物にまとめきれなかったため、ケリー=アンヌとは正反対のキャラクターとしてクレメンタインを置いたと語っています。彼女は被告の無実を信じ、感情をあらわにし、メディアに向かって叫ぶ、いわば“分かりやすいファン”です。
一方でクレメンタインは、単なる愚かな信奉者ではありません。監督自身が「彼女には温かさがある」と述べているように、彼女は少なくとも人間的なショックや恐怖をまだ失っていない人物です。実際、作中で陰惨な映像に触れたとき、クレメンタインは涙目になって怯えるのに対し、ケリー=アンヌは冷たい反応を見せる。この差によって、観客は初めてケリー=アンヌの異常性を真正面から理解させられます。
つまりクレメンタインは、観客が最後まで手放したくない“普通の倫理”を象徴しています。彼女がいるからこそ、ケリー=アンヌはただクールな主人公ではなく、倫理の外側に片足を踏み出した存在として浮かび上がるのです。二人の対比は、善悪の対比というより、「まだ引き返せる人」と「もう戻れない人」の対比だと言えるでしょう。
なぜ観客は惹きつけられるのか?“犯罪を見る視線”を描いた構造
この映画が恐ろしいのに目を離せないのは、事件の残虐さ以上に、「見たい」という衝動そのものを暴いてくるからです。監督は、極端なホラー映画と違って、安価なトゥルークライム作品の多くは加害者ばかりに焦点を当て、被害者の痛みを置き去りにしがちだと指摘しています。本作はまさにその問題を正面から扱い、観客に「あなたは何を見たくてここにいるのか」と問い返してきます。
レビューでも、本作は殺人そのものより、執着、インターネットの閉じたコミュニティ、メディアの熱狂についての映画だと評されています。裁判の傍聴席、テレビ番組、SNS的な騒ぎ、ディープウェブ、オンラインポーカー。どの場面にも共通しているのは、“画面の向こうで起きることに熱中する視線”です。観客はケリー=アンヌを見つめながら、実は自分自身の視線のあり方を見せ返されているのです。
しかも本作は、決定的な場面を直接見せないことで、観客の想像力を暴走させます。その結果、私たちはスクリーンの外にいながら、作品に加担しているような居心地の悪さを覚える。『RED ROOMS』の巧さは、猟奇事件を“題材”にするだけでなく、観客の好奇心そのものを“主題”へと転化しているところにあります。
ラストシーンの意味を考察|ケリー=アンヌが最後に見せた本性とは
ラストを単純に「被害者側に正義をもたらした結末」と読むだけでは、この映画の不気味さは取り逃がされます。監督自身、あの結末は“正義”だけでは足りず、その直前に被害者の部屋で自撮りをする場面が必要だったと説明しています。しかもその行動は、被害者や遺族のためではなく、ケリー=アンヌ“自分自身のため”に行われるダークな行為だと明言しています。
ここから見えてくるのは、彼女が最後まで他者の痛みに寄り添う人物にはなりきれなかった、という事実です。彼女は事件を解決したいのでも、犯人を救いたいのでもなく、事件の中心に自分を食い込ませたい。被害者になりかわるように装い、被害者の部屋に侵入し、物語の外から眺める観客の位置では満足できなくなっていくのです。彼女は“見る側”から“物語の一部になる側”へ踏み込んでしまったのだと考えられます。
ただし、このラストに唯一の正解はありません。監督も「この映画には100通りの解釈がある」と語っており、ケリー=アンヌが復讐者なのか、犯人への倒錯した接近者なのか、その両方なのかは観客に委ねています。だからこそラストは説明ではなく、解釈の余白としていつまでも残るのです。
『RED ROOMS レッドルームズ』が怖いのに目を離せない理由
本作の怖さは、ジャンプスケアやゴア表現の強さではありません。むしろ冷え切った画面、無菌質な法廷、無表情な主人公、そして“見せない”演出によって、じわじわと観客の神経を削っていくタイプの恐怖です。レビューでも、映像を直接見せないからこそ観客が想像で空白を埋めることになり、そのほうがむしろきついと評されています。
さらに、監督は観客を甘やかさない姿勢を明確にしています。残酷なものを見たいという欲望そのものを突き返し、「あなたが求めたものは楽しいものではない」と体感させる。そのため本作は、恐怖映画というより“欲望の逆照射装置”のように機能します。観ているうちに怖くなるのは、犯人が怖いからというより、自分の中にも覗き見の欲望があると気づかされるからです。
『RED ROOMS レッドルームズ』は何を問いかけたのか?作品全体のテーマを整理
『RED ROOMS レッドルームズ』が最終的に問いかけているのは、「誰が犯人か」ではなく、「私たちはなぜ見たがるのか」ということです。監督はこの映画を、ほとんどのものが“見られる”時代についての作品として語っており、被告、被害者、モデルであるケリー=アンヌ、そしてコンピューター画面までもが“見られる対象”としてつながっています。ここで描かれるのは、現代社会そのものが巨大なガラスの檻になっているという感覚です。
その意味で本作は、猟奇事件を扱ったスリラーである以上に、鑑賞者の倫理を試す映画です。被害者を忘れ、加害者や異常さにばかり惹きつけられてしまう社会。画面の向こうの惨劇を“コンテンツ”として消費してしまう私たち。ケリー=アンヌはその極端な化身であり、彼女を見つめることは、そのまま現代の視線の病理を見つめることでもあります。『RED ROOMS』が後味の悪さと同時に強い余韻を残すのは、事件よりも先に、観客自身の内側を暴いてしまう映画だからでしょう。

