2022年に公開された川和田恵真監督の『マイスモールランド』は、在日クルド人の少女・サーリャの視点を通して、難民問題やアイデンティティの揺らぎを描いた作品です。日本映画としては珍しく、移民・難民の現状を真正面から取り上げた本作は、多くの観客にとって「見たことのないリアリティ」を突きつけました。
本記事では、この作品を深堀りし、テーマや構造、社会的意味までを多角的に分析していきます。
物語とキャラクター構造:サーリャの葛藤を中心に
『マイスモールランド』は、主人公サーリャの内面の揺れを丁寧に追う作品です。
- サーリャは、クルド人として日本に暮らしつつも、学校では「日本人」として振る舞おうとします。この“自己偽装”が彼女のアイデンティティの分裂を生みます。
- 彼女は家庭では長女として責任を担い、父の逮捕以降は「大人としての役割」も強いられます。自己と役割の間のギャップが、心理的重圧として描かれています。
- 恋愛相手・聡太との関係も、彼女の“仮面”を象徴する存在。聡太は彼女の真実に触れようとしますが、社会の壁に阻まれます。
このように、物語構造は極めてミニマルでありながら、サーリャという一人の少女の複雑な心情が軸となって全体を動かしているのが特徴です。
難民・移民制度と入管問題の描写:現実とのズレと説得力
作品内では、日本の入管制度の非人道性がリアルに描かれています。
- 難民申請が却下されたことで、サーリャ一家は「在留資格」を失い、父は収容されます。これは現実にも多く報告されているケースです。
- 映画はその事務的かつ冷酷な制度の対応を、淡々とした演出で強調します。抗議しても通らない理不尽さ、無力感が強く印象に残ります。
- 一方で、「制度の説明不足」や「背景知識がないと理解しにくい」といった批判も一部にあります。リアルさゆえに説明不足と感じる観客もいるかもしれません。
現実の日本社会における入管問題の深刻さを、サーリャ一家の運命に落とし込むことで、個人と国家の関係性が浮き彫りになります。
日本社会・日本人視点の描写:無関心、加害性、共感の限界
映画は、日本社会の“無関心さ”と“表面的な優しさ”を鋭く描き出しています。
- 友人や教師などは、サーリャに対して一見優しく接しますが、彼女の現実を深く知ろうとはしません。表面的な「いい人」の限界が見えてきます。
- 恋人・聡太の両親との対面シーンは、その象徴的な場面です。「かわいそうだけど…」という言葉の裏には、距離と恐れがあります。
- 差別が明示的に描かれることはありませんが、「見て見ぬふり」という“加害の構造”が静かに描かれています。
これはまさに、観客自身が問われる構造でもあり、映画を見終えた後、自身の無関心さや無知に気づかされる観客も多かったのではないでしょうか。
女性性・交差性の視点:クルド女性として、日本で生きるということ
本作には、フェミニズム的視点や交差性(インターセクショナリティ)も読み取れます。
- サーリャは“クルド人”であると同時に、“女性”でもあります。父親の文化的価値観との衝突や、社会の視線は、その二重の抑圧を浮き彫りにします。
- 母親の不在や弟妹の世話を任される構造は、日本的な“家父長制”ともリンクしており、民族とジェンダーが交差する複雑な立場が描かれます。
- 制服や髪型、言葉遣いなどを通じて「周囲に溶け込もう」とする彼女の振る舞いは、社会的規範への適応と自己否定の表れとも言えます。
これらの視点から見ると、本作は単なる難民映画にとどまらず、「誰もが持つ複数のアイデンティティ」が社会の中でどう扱われるかを考えさせられる作品です。
演出・表現スタイルと映像美:淡々さ・余白の力とその利点・欠点
川和田監督の演出は、静かで抑制的なスタイルが貫かれています。
- ドラマチックな展開は最小限に抑えられ、むしろ“余白”が感情を想像させる演出になっています。これがリアリティと余韻を生み出します。
- セリフは少なめで、サーリャの沈黙や表情が語る比重が大きく、観客に「読み取らせる」タイプの映画です。
- 埼玉の郊外風景や学校の空気感など、「ありふれた日常」の中に非日常を溶け込ませる画作りが巧みです。
ただし一部の観客には「淡々としすぎて感情移入しづらい」「テンポが遅い」と映る可能性もあり、受け手のスタンスによって評価が分かれる演出でもあります。
【まとめ】Key Takeaway
『マイスモールランド』は、難民や入管問題という“重いテーマ”を、あくまで一人の少女の視点から丁寧に描き出した作品です。サーリャの姿を通して、現代日本における「見えない排除」や「他者との距離感」、そして「無関心の加害性」に私たちは向き合うことになります。
単なる社会派映画にとどまらず、交差的視点や繊細な演出が絡み合い、見る者の倫理観や想像力を静かに試す——そんな作品でした。